何故教師は、「我が子よりも教え子」の入学式を優先すべきなのか? 考えてみました。

埼玉県の県立高校に勤務しており、今年度新入生の担任でもある教諭4人が、自身の子供の入学式に出席するために、勤務先の高校の入学式を欠勤したことが、賛否両論をよんでおります。

4月23日の朝日新聞朝刊社会面でも、

担任が出席すべき入学式は、我が子か、教え子か


という見出しで、この問題について、珍しく、賛否両論を上手く配分してまとめていました。


その記事では、その4人の教諭は、勤務先の高校の入学式を欠席して、自分の子供の小中高校の入学式に出席したそうです。
4人のうち3人は女性教諭。残りの1人の男性教諭は、子供2人の入学式が重なり、妻と手分けをする必要が生じたための欠勤だそうです。


担任教諭の入学式欠席について、「問題である」という意見の方々も、「問題とは思わない」という意見の方々も、どちらも看過していることがあります。
3人の女性教諭の夫は、どうしていたのか?
1.夫は仕事を休まず、入学式にも出なかった。
2.夫も仕事を休み、妻と2人で入学式に出た。
3.女性教諭はシングルマザーであった。

入学式当日、夫が1か2の行動をとっていたとしたら、この問題についての見方は、また変わってくるのではないでしょうか?
1の場合。夫が仕事を休んで入学式に出てくれるのなら、妻である女性教諭は、新入生の担任である責任を放棄してまで、勤務先の入学式を欠勤したのかどうか?妻が責任ある仕事をしているのに、それに協力しない夫、今の時代にまるでそぐわない夫を非難するべきでは?
2の場合。夫婦揃って子供の入学式に出ること自体は、今は普通のことです。しかし、もし夫が別の学校の新入生の担任であったり、会社で重要な会議がある日であれば、妻に我が子の入学式出席を任せて、勤務先の学校の入学式や会社の会議に出るのではないでしょうか?夫は社会的責任を放棄してまで「夫婦揃っての入学式出席」にこだわるでしょうか?今回は公私の選択を迫られるのが妻だったわけですが、妻は「公」をとる選択はしなかった、夫婦の間で、公私の選択に違いがある、ということになります。加えて、自分たちは「夫婦揃って出席する」くらい、入学式を重要視しているのに、片方では、妻が担任する新入生の入学式は相対的に重要視していないことになります。
1であっても2であっても、単純に「我が子の入学式を優先すべきか否か」では論じることができないと、私は思います。

この最近、世間を騒がすトピックの全てについて思うのですが、今回も同様です。
「教師のモラルや倫理が欠如していることが原因だ。」とこの問題を捉えている方々、「新入生の担任が子供の入学式に有給休暇をとるのに何の問題もない。それができないのはブラック体質だ。」と捉えている方々、双方とも、元々のご自分の主義主張に、この問題を引き寄せているだけ、なのではないでしょうか。
面倒くさくはあっても、冷静に客観的に、臆見なく、公平に物事を判断すべきであって、日頃の自分の主義主張を反映させるための論であってはなりません。


では、今回の問題の詳細はどうであったのか?
最初に話題になった、江野幸一埼玉県議にFacebookで批判された女性教諭は、江野県議が来賓として出席した彼の母校である県立高校の入学式を欠席して(新入生の担任だった)、別の高校の我が子の入学式に出席したといいます。

その女性教諭が、担任であるのに入学式を欠席してまで駆けつけた我が子の入学式で、
もし、その女性教諭の子供の担任もまた、入学式当日欠席であったら?
やはり別の学校の我が子の入学式に出席するために。
その時にどう感じるのでしょうか?
「折角仕事を犠牲にして入学式に駆けつけたのに、担任が欠席だなんて。」
と落胆するのなら、では自分の担任クラスの生徒と保護者はどう思っているか、に思いを馳せるべきでしょう。
「私が我が子の入学式を優先したように、我が子の担任も同じことをしただけ。」
と思うのなら、女性教諭が我が子の入学式を優先し、我が子の担任もまた子供の入学式を優先し、その子供の担任もまたその担任の子供の入学式を優先し、というループになり、そもそも入学式というセレモニー自体が意味があるのか?ということになるでしょう。



以下は、我が子の入学式を優先した教諭を擁護する論調のものです。

担任が入学式を休んで我が子の入学式に出てはいけないのか?〜現代版「滅私奉公」はブラック企業の始まり 佐々木亮

教師は率先して「仕事よりプライベートを優先」する姿勢を見せるべき 脱社畜ブログ

入学式欠席問題は日本のブラック労働の実態を反映している ロンドン電波事情

これらの論調はどれも、この問題の本質を論じるよりも、「ブラック企業は悪だ」という、この問題とパラレルには論じられないことを言いたいがために為されているとしか思えません。
先ず、はっきりさせておくべきなのは、今回の問題は「学校」「入学式」「教師」「新入生の担任」という条件であることです。
その条件を無視して、「民間企業」「有給休暇の権利行使」「雇用契約」の話に持っていくというのは、正しい議論なのでしょうか?
では、諸姉諸兄がおっしゃるように、これが民間企業ならどうでしょう?
有給休暇をとって子供の入学式に出席するのは、労働者として当然の権利です。
それをしたことによって、会社からどんなハラスメントを受けることがあってもいけません。
しかし、例えば入学式の日が、取引先との重要な会議と重なり、また自分がそれの重要な役目を果たすべき職責にあれば、どうでしょう?
また社内の会議で、数週間準備したプレゼンを社長の前で自分が発表する日と、子供の入学式がかちあったら、どうでしょう?
それでも、「有給休暇は権利だから」と自分の責任やチャンスを放擲するでしょうか?
もし会社の命運がかかった取引先との重要な会議をブッチした社員を、減給や降格を含めた処分に処したら、「ブラック企業」なんでしょうか?
また社内でのプレゼンを有給休暇とって欠席しておいて、「次のチャンスを貰えないからブラック企業だ」とは言えないでしょう。
今回の問題を、民間企業に置き換えては考えられないのです。
民間企業は慈善事業ではありませんから、社員の生活と株主を守るために営利を追求するのがお仕事です。
そして、日本の場合、普通の民間企業であれば、「身内の不幸」だけは最優先されます。
身内の不幸であった場合は、商談を一つ逃そうが、社長を前にしてのプレゼンのドタキャンであれ、逆に「仕事は構わないから、とにかく早く行け!後は任せろ!」と言われるのが、日本の企業であり、社会であり、文化なのです。
まとめると、民間企業では、お葬式以外のプライベートを優先して仕事に迷惑をかけた場合は、社内のルールによってそれ相応の処分がある、ということです。
民間企業では、我が子の入学式の日にこれと言って仕事に差し支えが無いと判断して有給休暇をとることが当然であるのと同時に、どうしても抜けられない責任がある仕事と我が子の入学式が重なれば仕事を優先する、ということも当然あるわけで、今年の春、入学式を迎えた全国の小中高校の生徒の親御さんの中には、会社の仕事の責任を優先した人も大勢いることでしょう。
しかし、翻って今回のケースは、公務員である県立高校の教師でした。
教師としての立場は守られています。
余程のことがなければ、担任を外されたり、給与を減らされたり、首になることはありません。
今回も、我が子の入学式を優先して、担任する新入生が入学してくる勤務先の入学式を欠席しても、教師としての身分は保証されています。
せいぜい、「モンペ」と呼ばれる保護者からの苦情があったり、たまたま入学式に出席した県会議員にFacebookで批判されるくらいのことです。
これのどこが、「ブラック」なんでしょう?
寧ろ、教師という立場は手厚く守られていると言うべきなのです。

自分はちゃっかり子供の入学式に出席しておいて、それでいて自分と同じように子供の入学式に出る教師を罵倒するというのは、想像力が足りなすぎる。(上掲 脱社畜ブログ)

と、脱社畜ブログの日野瑛太郎氏は言いますが、子供の入学式に仕事を休んで出席する民間企業に勤める保護者は、「ちゃっかり」出席しているわけではなく、入学式当日の仕事上の自分の責任を見極めた上で判断して出席しているわけです。仕事上重要な日と入学式が重なれば、当然その判断が「欠席」になる場合も多々あるのです。だからこそ、立場が手厚く守られている教師である、勤務先の入学式を欠席した教諭は、本当に仕事上の責任を見極めた上で我が子の入学式の方を選んだのか?という疑問や批判になるのではないでしょうか?


数字には出てきませんが、今年の春の入学式シーズン、全国の教員の方々の中には、新入生担任であるので自分の子供の入学式よりも勤務先の入学式を優先させた人は大勢いることでしょう。
彼らは、教師という職業が「ブラック」だから仕方なく勤め先の入学式を優先したのでしょうか?
いえ、彼らの教師としての地位は守られているはずですから、そうではなく、彼らの教師としての責任感と使命感がそうさせたのだと、何故考えないのか?
彼らが渋々勤め先の高校の入学式を優先したと決めつけ、それは

現代版『滅私奉公』の論理であり、『ブラック企業』の論理なのです。(佐々木亮氏)

と、どうしてなってしまうのか?
それは逆に彼ら教師の、教師としての責任感や使命感を貶めることではないのでしょうか?

当事者の教諭だけでなく、全国の教師の皆様は、「入学式には担任の先生にいてほしい」という保護者の声に、素直に感動してほしいものです。
先生の不祥事やいじめ対策の不手際で、学校に対する信頼が失墜しているのかと思いきや、新しく入学する生徒の保護者は、まだまだ学校や教師に期待し、希望を託しているんじゃないでしょうか?
担任の先生とビジネスライクではない人間関係を築きたい、と思っているんじゃないでしょうか?
それこそ、「入学式に、担任がいようがいまいが関係ない」と言われるようになったら逆におしまい、ですよ。


高校なので入学式に担任がいなくても泣かないこと 発声練習

こういう ↑ 論もあったのですが、最初私は、相当な早とちりをして、「高校の入学式に親が付いてこなくても、高校生なのだから泣かないこと」という意味かと思ったら、まるで反対の論でした。
子供の入学式と勤務先の入学式が重なった場合、教師である親が、高校生の子供に、「あなたの高校の入学式に出たいけど、こういう理由で出られない」とちゃんと説明して、子供を一人で入学式に送り出すという選択肢もあるのではないかと、逆に気付かされましたけどね。
小学校1年生や中学校1年生ならともかく、義務教育を終え、同年齢では(高校進学率が97%に達する今はごく少数派ではあれ)社会人として働いている子供もいる高校1年生ならば、入学式に一人で出席するというのは、それほど大変な思いをすることではないと思いますし。
「発声練習」氏ご自身、高校の入学式は、お父様は欠席、休みがとれたお母様のみが出席だったと書かれているのですが、もしお母様が仕事を休めなかったとしても、「発声練習」氏は、納得され、「万単位の物品購入」も含めてご自分一人でちゃんとこなされたのではないでしょうか。

来賓した県議は…。たぶん、あなたの会派はこういうの好きでしょ?。

と、維新の会が大阪市に提出した、「家庭教育支援条例」のリンクを貼っていらっしゃいますが、私も「発声練習」氏と同様、この手の復古的教育観、今安倍政権が押し進めようとしている教育観には、大いに抵抗があるのですが、だからと言って、今回の問題で、入学式を欠席した教諭を擁護する側に立つというのは、違っていると思います。
そもそも、復古的な教育観に反対=教諭の入学式欠席を擁護、というのは、論理的に破綻しています。
子供の非行や障害までも家庭教育や親の責任に帰そうとする動きに反対するのならば、学校というもう一極の教育の力を重要視しなくてはなりません。
特に高校ならば、家庭環境と関係なく、学校の教育の中で豊かな人間関係を築いたり、将来の進路を教師との信頼関係の中で自主的に探していく、という、学校教育の機能に期待すべきであり、だとすると、論理的には、教師の役割には重きを置く論でなくてはならないのでは?
それなのに、

家庭での子育てを重要と考えている埼玉県教育局は「教員としての優先順位を考え行動するよう指導する」なんていうコメントをするべきではない。

と真逆のことを言ってはならないのでは?もっとも、埼玉県教育局もまた論理破綻しているのですが。


また、擁護論のリンクで貼った「ロンドン電波事情」中で、著者である、めいろまこと谷本氏は、

ところで、欧州って入学式ない国が大半なんですけど、いっそ入学式なんかやめちゃったらどうですかね?だってあれやるのに経費はかかるし、先生の労働時間も使うし、立ってるの疲れるし、来賓の挨拶とか意味わからないし、やってる間とか練習中は授業できませんから、付加価値がないでしょう。服だって高いし。あれ、やることに何の意味があるんですかね?

とおっしゃっています。
「来賓の挨拶や練習が退屈」、というのは私も大いに賛同しますが、「入学式がない」というのがどういうものなのか、を示さずに「やめちゃったらどうですかね?」と言うのもアレなので、谷本氏に代わって、書いてみます。
中学生と高校生の子供を、卒業式以外は、入学式も始業式も終業式もないインターナショナルスクールに海外で行かせたことがあります。
「入学式や始業式」がないまま、学校が始まるとは、どういう感じかというと。
初日登校すると、事務室で時間割を渡され、フツーに授業が始まるわけですが、実は、あちこちグダグダで、全く混乱状態です。
生徒もその日初めて顔を合わせるわけで、誰が誰かもわからないまま、科目ごとの教室移動も、あっちへ行ったりこっちへ行ったり滅茶苦茶です。
先生までもが、時間割や教室をきちんとは把握していないものですから、もうカオス状態。
日本人ならキレそうなその状態を、生徒も先生も楽しんでいる風さえあります。
高校になると、選択科目によって一人一人違う時間割が渡されるわけですが、或る年、息子に渡された時間割には、数学の授業が全く記載されていませんでした!
事務室が、きちんと生徒一人一人の時間割をチェックしていないことは明らかです。
事務室に行って、その旨を伝えると、「今年は間違いが沢山あってあなただけじゃない。調整に時間がかかるから2日後にまた来て。」と言われる始末。
極東の神秘の国、日本では、先ず考えられないことですよね。
日本では、入学式の日には、クラス名簿も時間割も完璧にできていて当然先生方もそれを把握、翌日からは整然と授業が始まります。
確かに、この欧米システム(とにかく動かして、それから修正する)というのも、まあ慣れればこんなもんか、と思いますが、これは「文化」の違いです。
そして、「文化」は良し悪しではなく、長い間に培われたものですから、これを変えるということは、大半の日本人が納得しないと変わらないものですし、だからこそ無責任に「やめちゃったらどうですかね?」とは言えないものだと、私は思います。
つい先日、JRの電車に乗って終点に着いたら、「電車の到着が2分遅れましたこと、ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありませんでした。」と車内アナウンスがありました、2分ですよ、2分!これが、日本クオリティなのです。
始業日だというのに生徒の時間割が滅茶苦茶で、「2日後に来てね」と言われるのがフツーの国とは、根本的に歴史的に文化的に(良し悪しではなく)違う、のです。
ですから、「入学式や始業式やめちゃったら」どうなるか、というと、日本人のメンタルが先ず一番先に崩壊してしまうと、私は思います。
しつこいようですが、それは「良し悪し」ではなく、日本人の身体に染み付いているものなのです。


入学式や始業式に区切りやけじめを見いだす日本、めいろまこと谷本氏のお住まいのイギリスとは違ってまだ(?)教師に対する期待や信頼が失われていない日本の文化や社会の中での、今回の問題なのであり、我が子の入学式を優先した教諭は、実は自家撞着に陥っています。

我が子の入学式が「けじめ」や「新しい門出」であるから何を措いても駆けつける、

という行動をとっているのに、

勤務先の高校での「けじめ」や「新しい門出」である入学式で担任として我が子と同い年の新入生を迎えることは二の次になっている、

という矛盾。
我が子の入学式を選んだ教諭自身が、プリンシプルというか、一貫した考え方がなかっただけなのだと思います。
それなのに、それを指摘、批判すると、「ブラック企業体質を擁護している」ということに何故なるのか?理解に苦しみます。
そういう論調で、この問題を論じている方々は、為にする論をなさっているのではないのでしょうか?


私は、例えば放課後や休日の部活動の顧問を、学校の先生方が半ば強制的にさせられていることこそ、「ブラック体質」であり、学校の部活のこういう仕組みを変えるべきだと思っていますが、それはそれ、これはこれ、で、今回の問題については、我が子よりも、教え子の入学式を、教師は優先すべきであると思います。

何故なら。

担任が入学式を欠席した、新入生のクラスには、きっと、両親共に仕事で、親の付き添いなしに入学式に出席した生徒、もいたでしょう。

教え子になる彼らの気持ちに一瞬でも思いを馳せることがあれば、「我が子の入学式を優先する」、という行動には至らなかったのではないか、と思うからであり、担任の先生に期待と信頼を寄せる生徒や保護者の気持ちに、教師の側も今一度真剣に応えるべきだと思うから、です。

小保方氏に対する、めいろま(May_roma)こと谷本氏の暴走&迷走があまりに酷いので

私もファンであった、めいろま(May_roma)こと谷本真由美氏が、暴走&迷走中です。


立て続けに、小保方氏のSTAP細胞論文と、彼女の会見を批判する発言をしています。
それをリストにしてみました。題して「めいろまリスト」

1 BLOGOSメルマガ 週刊めいろま Vol.028 英語圏で剽窃が大問題になる理由 3/21
2 同上 Vol.31 北米と欧州ではなぜ要人が記者会見で涙を流さないのか? 4/11
3 WirelessWire News ロンドン電波事情 STAP細胞会見のリアクションからわかる日本で成果主義がフツーにならない理由 4/14
4 Cakes 世界のどこでも生きられる 小保方晴子氏会見の「茶番」ぶりにみる、日本人の国民性 4/15
5 WirelessWire News ロンドン電波事情 STAP細胞会見がえぐり出した日本社会の二極化 4/16


本当にネットというのは怖いですね。
影響力がある人が事実でないことを事実として断言して発信すると、多くの読者は、自分で事実を確認することなくそれを信じてしまい、それどころか、その間違った事実を元にした自分の意見を発信してしまう。
今は誰もが「一言、言いたい」人たちばかりで(含む、私)、
お誂え向きなことに「一言、言いたくなる」トピックが世に溢れており、
また手軽に発信できる手段も数多あり、
影響力がある一人の人間の意見がみるみるうちに増幅されます。



小保方氏が弁護士を雇ったことや会見当日のヘアメイクに関して、言いがかりと偏見としか思えないめいろまこと谷本氏の発言については前のエントリーでも書きましたが、小保方氏が2時間半の会見で、「泣いた」というか、「ハンカチで涙を押さえた」のは僅か5秒ほどのことでした。
それでも「泣いたことに変わりはない」のかもしれませんが、それをめいろまこと谷本氏が「人前で泣く30歳の大人」(めいろまリスト1)「大人なのに公的な場で涙を流す」(めいろまリスト4)と何度も言い募ることは、公平ではありません。
実際に会見を見なかった人は、谷本氏の発言を読んで、まさか二時間半の会見の間で5秒だけ「ハンカチで涙を押さえた」とは思わないでしょう。

STAP細胞会見を拝見いたしました。とんでもない茶番であり、見ている途中で唖然とし、その場に倒れ込みそうになりました。(めいろまリスト3)

と、谷本氏はおっしゃっていますから、「会見を見た者」として発言なさっていることは明白です。
しかし、会見の一部始終をご覧になって、「5秒、ハンカチで涙を押さえた」ことを「泣く」と表現しているのならば、それは「誇大表現」であり「印象操作」であり、
もしかして、「倒れ込みそう」になった後、会見を最後まで見ることなく、即ち5秒のシーンを実際に見ることもなく、テレビが編集したものや、動画サイトのまとめを見て、「泣く」と表現されたのならば、それは、見ていないものを見たと言っているのと同じですから、「捏造」だと思います。
谷本氏は、「聴衆であるメデイアやメディアを消費する人々」(めいろまリスト2)は、「『こういう状況ならこういうカテゴリの人はこういう風に行動するはず』という型にはまることを期待しているわけです」(めいろまリスト2)と言いますが、まさに、谷本氏は小保方氏を「こういうカテゴリの人」という先入観に当てはめて、小保方氏が「泣いた」と言いたいがための、誇大表現OR捏造なのでしょうか?
谷本氏が批判している、日本のメディアと同じではありませんか。



私なりに、今回の問題に関して、争点をまとめてみました。

a) ネイチャーに投稿した論文に、剽窃、盗用という疑惑の声がネット上から上がり、理研が調査委員会で調査した結果、調査した項目の中の2点について不正を認めた。小保方氏が、これに対して不服申し立てをしなければ、理研は懲戒委員会を立ち上げ、彼女の処分(懲戒免職?)が決定されてしまうであろうことから、小保方氏は、正当な権利である、不服申し立てを行なった。

b) STAP細胞は存在するのか?

c) 小保方氏を含め、早稲田大学の一部の研究室の博論に、大量のコピペがあることがネット上で指摘され、早稲田大学は、2007年以降に先進理工学研究科に提出された博士論文280本を調査中


このa、b、c はそれぞれ、別個に考えなくてはならないと思います。
bなんて私が死ぬまで考えても理解できるとは思えませんし、 c は現在早稲田大学が調査中なので私などが考えても仕方ないのでさておいて。
っていうか、殆どの人々は、私と同様、生物学の知識もないし、早稲田大学のことなんて知ったことではない筈なのではないでしょうか。
ということで、唯一、議論についていけることは、a に関してなのですが、市井の一オバサンである私は、ここのところ立て続けに勇ましい小保方批判をしていらっしゃる谷本氏の発言に、疑問を持ちました。
谷本氏はこう言っています。

さて、STAP細胞の疑惑に関しては、いくつか論点があるわけですが、その論点の一つに、「STAP細胞のかなり重要なデータが民間企業と小保方氏の博士論文からのコピペだった」、さらに「小保方氏の博士論文には大規模なコピペがあった」というのがあります。(めいろまリスト1)

これは明らかに間違っています。
谷本氏がSTAP細胞の疑惑に関して、「民間企業」からのコピペと言っているのは、これは完全なる勘違いで、民間企業のコピペ疑惑があるのは、博士論文であって、ネイチャーに投稿したSTAP論文ではないのです。


これは、今回の疑惑の告発者である11jigen氏のサイトをちょっと見ればわかることです。

小保方晴子の博士論文の疑惑まとめ

もう一度言いますが、民間企業であるコスモ・バイオ株式会社のホームページからの盗用を疑われているのは、STAP細胞論文ではなく、博士論文なのです。
めいろまこと谷本氏のこの間違いが、悪意のある間違いなのか、未熟で自己流でやってきたが故のミスなのか、それは私にはわかりません。
こういう、自らの勘違いに基づく事実誤認を元にして、過激な発言をされるのは、どうかと思います。
そして、これはかなり印象を操作する事柄です、「権威あるネイチャー投稿論文に、事もあろうに、民間企業のホームページから剽窃するなんて、何て神経が太いヤツなんだ。」と誰もが思ってしまいますよ。
他の研究者の論文剽窃も十分悪いことでありますが、「民間企業のホームページ」という言葉とイメージの破壊力はありません。
この勘違いが、谷本氏の中だけのものであり、他の科学者コミュニティの方々には波及していないことを祈るだけです。


理研の調査委員会で、STAP論文における「他の論文からの剽窃(コピペ)」が疑われていたのは、最終報告書で「研究不正ではなかったと判断された」、Guo J 氏とJonathan Landry氏の論文からのコピペです。
理研の最終報告書のこれに関する部分を、文系の私が私なりに読み解くと、

「若山研で行なわれた実験について、小保方氏が執筆した。小保方氏は、この実験をやっておらず、また実験の手法を熟知していなかった。若山研で使用されていたプロトコルの記載が簡単であったので、小保方氏は、どこからか(本人も出典を記憶していない)詳細プロトコルを書いた文章を引っ張って来て、論文に記載した。小保方氏は、本文及びメソッドにおいて、合計41箇所引用しているが、そのうち40件は引用論文の出典をきちんと明らかにしており、この1件のみが引用論文の出典が行なわれていない箇所である。この1件が、一般的実験手順に関するものであったことからすれば、本人が「出典を記憶していない」ということにも合理性があり、敢えて出典を記さなかったとは言えず、不正とは判断できない。」

ということのようです。
だから「研究不正ではない」と判断されたというわけです。
理研の科学者の方々が、合理的判断に基づいて判断されただけあって、これは文系の私でも納得できる範囲でした。
最終報告書のこの部分を、めいろまこと谷本氏はお読みになっていないのでしょうか?

ちなみに、11jigen氏によると、Guo J氏の論文(2005年9〜10月発表)と、Jonathan Landry氏の論文(2012年12月6日発表)もまた、この部分は酷似しているのですね。

なぜ、Landry氏の博士論文がGuo氏の論文に類似しているかどうかについては不明です。

としか11jigen氏は書いていませんし、理研の調査委員会も小保方氏の論文のこの部分をdiffにかけた時に、Jonathan Landry氏の論文(博士論文のようです)とも酷似しているのに気がついたはずなのに、それには触れてはいません(触れる必要もないのですが)。
どうして、Guo J 氏(2005年発表)、Landry 氏(2012年発表)、小保方氏(2014年発表)の3つの論文に酷似した部分があるのでしょう?
それは、Jonathan Landry氏も、小保方氏と同様に、Guo J 氏の論文から、プロトコルの部分をコピペしているから、じゃないんですか?
Jonathan Landry 氏は、フランス人で、マルセイユ大学を卒業して、モンペリエ大学ケンブリッジ大学を経て今はドイツのハイデルベルクにある、EMBLというヨーロッパのの理研みたいなところにPHD Studentとして所属している人物です(33歳だと思われますが)。
小保方氏のこの「コピペ」(不正とは判断されませんでしたが)を糾弾するのなら、11jigen氏も、谷本氏も、是非EMBLにも通報すべきですね、「プロトコルを他の論文から剽窃している研究者がいる!」と。
めいろまリストの1で、谷本氏は、海外の大学では学部時代から大変こういうことに厳しいとおっしゃっているのですが、仏、英、独と三か国の大学を渡り歩いたJonathan Landry氏も、通報されれば研究者として一巻の終わりのはずですね。
それにしても、彼が教育を受けた、「北欧州」のその三か国の極めて優秀な教育機関では、谷本氏がおっしゃるようなPlagiarismに関する厳しい教育はなされなかったのでしょうか?
これはド素人のオバサンの推測ですが、もしかしたら、このプロトコルの部分は、Landry氏にとっても小保方氏と同様、「出典を書く」ことも意識しないレベルのものであったのかもしれません。
「盗用」「剽窃」と言葉で決めつけて終わりにすることは、実は事実をそれ以上考えないことではないでしょうか。


さて。
谷本氏は、誤解している民間企業からのコピペとは別に、STAP細胞論文には「博士論文からのコピペがある」と言っているのですが、これは正確にはまだ結論はでていません。

実は、理研の最終報告書で、不正と認定されたのは、
・Figure 1の電気泳動像においてレーン3が挿入されているように見える点
・Figure 2d.2eにおいて画像の取り違えがあった点。また、これらの画像が小保方氏の学位論文に掲載された画像と酷似する点
という2点でした。


調査委員会は報告書で、疑義が持たれる6点について調査したのですが、1点でも不正が科学的論理的に認定されれば、小保方氏はそれでアウト、です。
小保方氏が不服申し立てもできないほど、ぐうの音も出ないほどに、不正が証明されなければ、理研は次のステップ、懲戒委員会に進めません。
理研から見れば、騒動を起こして理研をかき回している小保方氏を、正当に解雇するためには、1点だけ確実に不正を証明すればよかったのです、1点手堅く取って勝ちを狙いに行くサッカーチームのように。
けれども、今はまだ、決定点を挙げられない状況なのです。
それは何故か?

一つは、電気泳動像については、再び文系の私の言葉で語るとこういうことのようです。

理研の主張:小保方氏が、レーン3を挿入したことを再現しようと、ゲル1を引き伸ばしゲル2から他のレーンをレーン3に挿入しようとしたがズレが生じて出来なかった、故に小保方氏の主張は裏付けが取れなかった、電気泳動されたサンプルは、実験ノートやラベルから、論文で示されたリンパ球であることは確認した
小保方氏の反論:ゲル1を引き伸ばしたのではなくゲル2を縮小して作った、2度回転もさせたのでズレは生じなかった、ゲル1のレーン3にゲル2の画像を挿入したのは、実験で得られた結果を限られた紙面の中できれいに見せようとしただけ

つまり、小保方氏の反論によって、この点に関しては理研側はもう一度検証をせざるを得ないでしょう、科学者ならば。「小保方氏のやり方で再現する」ことをやり直した上で、「レーンを挿入する」ことが不正なのかそうでないのか、という詰めた議論をして頂きたいところです(←この論点ならば文系でもわかります)。

次に、第二点目である、画像の取り違え、それも博士論文からの取り違えは捏造に当たる、という理研側の主張なのですが。

最初に疑いを告発した11jigen氏も、理研の調査委員会も、そして野次馬である私たちも、てっきり「早稲田大学の博士論文からコピペした」と思い込んでいた画像が、実は、小保方氏によると(確実性は100%ではない)

早稲田大学の博士論文から取ったものではない、ラボミーティングで使ったパワーポイントの中にあった画像である

と、小保方氏の弁護士によって説明されました!この展開は、誰も予想していなかったのでは?
そうは言っても、

そのパワポの画像が、元々博士論文の画像である可能性もあるんじゃないの?

とド素人文系の私でも思うわけです。
ところが、画像にはプロパティなるものがあり、それで由来がわかるそうなのです。
しかし、まだ疑問は残ります、

プロパティ自体を偽造することだって可能なんじゃないの?

↑ こういった私のようなド素人のために、来週早々に、小保方氏サイドから、追加資料が出てくるそうですが、それまでは判断保留ですね。

で、めいろまこと谷本氏のように影響力がある方は、ド素人の私などよりも遥かに慎重であってほしい、電気泳動像に関しては更なる検証待ち、早稲田大学の博論から取られたデータかどうかがわからない時点で、軽々に断じてはいけないと思うのです。
私の今までのファンとしての勝手な印象だと、こういうことに関して、めいろまという方は、理性的であると思っていたのですが、今回の件に限っては、決めつけ、思い込み、そして偏見と臆見に満ちた発言が多いのは、何故なのでしょうか?



そして、谷本氏の書いていることをよく読んでみると、彼女は会見の体裁や、メディアの反応や、ご自分のTLを中心としたtwitter、そして何故か「北欧州と北米」での反応、と言ったことは熱心に書いていらっしゃいますが、この問題の本質的検証、というか、
理研の報告書に書いてあることと11jigen氏のサイトを照らし合わせてみるとか、
小保方氏の不服申し立て書も合わせて読んで、矛盾点や齟齬を指摘するとか、
ということは一切なさらないのですね。
そういう姿勢を見ていると、今までは痛快に見えた谷本氏の物言いも、先ず立ち位置がありきなのかな?と思ってしまいます。


それでもファンとしては、立ち位置ありきでもいいんじゃないか、とも思ってしまいます、自分の立ち位置で発言する人ばかりですから、ネットでは。
しかし今回は、「めいろま」論理さえ破綻しています。
4月14日のWirelessWireの記事のタイトルには、「日本で成果主義がフツーにならない理由」(めいろまリスト3)とありますが、今回の騒動で私が初めて知ったのは、他でもない、理研とは、日本では稀に見る成果主義の組織なのだ」ということですよ。
国立大学の出身でもなく、女性で、30歳そこそこで、独身で、という小保方氏が理研のユニットリーダーになったのは、まさに理研成果主義だからなのでは?
旧帝大出身で、男性で、40歳前後で、養うべき妻子がいるから、という、学閥と情実で研究者を採用する組織じゃないのですね、理研は。
フツーの日本の会社で、30歳そこそこの女性を、中途採用してくれる会社があるでしょうか?
そんな女性を高給で採用するくらいなら、「学齢期の子供二人に専業主婦の奥さん」がいて住宅ローンも抱えている43歳旧帝大出身で実験能力はともかく管理能力はある男性を、フツーの日本の会社は採用するのではないでしょうか?
谷本氏は、今話題沸騰の理化学研究所は極めて成果主義を実践している組織である、ということには、スルーするのです。
逆に、小保方氏のことを「女性性や弱さ、幼稚さを前面に出して同情を買おうとする人」(めいろまリスト2)と言いますが、仮にそうであっても、谷本氏の論理でいくと、「成果さえだせばいい」のではありませんか?小保方氏は、早稲田や東京女子医大やハーバードの研究室でも、成果だけでやってきたのではないですか?そして、今まで理研に若くして採用された優秀な科学者同様、成果主義によって採用されたのではないでしょうか?


そして一番目を疑ってしまったのは、4月16日のやはりWirelessWireの記事(めいろまリスト5)ですが、

あの会見からワタクシは様々なことを考え、驚き、愕然とし、失望しました。
愕然としたことの一つは、あの会見のリアクションがえぐり出した日本社会の二極化であります。
事実を客観的に批判できる知性のある人々と、そうでない人々です。


「事実を客観的に」と言うのならば、それはブーメランのように、めいろま氏に返ってきます。
「人前で泣く30歳の大人」という表現は、2時間半の会見中「ハンカチで涙を押さえた5秒」という客観的事実を表すのに、適切な言葉なのでしょうか?
STAP細胞論文には「民間企業のホームページからの剽窃」はない、というのが客観的事実です。
電気泳動像のレーン挿入は、理研側の検証の仕方が間違っていたというのが、、客観的事実です。
画像の取り違えは、早稲田大学の博論から持ってきたものかどうかは更なる調査待ち、というのが、客観的事実です。
「片腹痛い」というのは、こういうことですが、谷本氏は更に、「主観的」に意見を述べています。

あの会見に関して、日本のみならず、海外にいるマトモな研究者や科学者の方、経験豊富なサイエンスライターの方は、厳しい批判を繰り返しています。科学界からの質問には答えず、証拠は出さず、謝罪ばかり繰り返しているという内容は、素人目に見てもオカシイわけですから、皆さんが厳しい批判を繰り返すのは当たり前です。しかも証拠もそろっているわけです。(めいろまリスト5)


ご自分が致命的勘違い、独断的決めつけをなさっていて、更に誰が認定したのかわかりませんが「証拠もそろっている」というのは、私には理解できません。
理研はまだ、1点のゴールを入れることが出来ていないのです。
それを、犯人や犯罪を語る時に遣う「証拠もそろっている」というボキャブラリーで語るのにさえ、私は抵抗がありますし、今月初めに再審請求が認められた元死刑囚の話などが頭をよぎると、そういう物言いに本当に危うさを感じます。
そして、めいろま氏いわくの、その「二極化」した日本の人々のうち(私は第三極です!)、めいろま認定の「事実を客観的に批判できる知性のある人」と「科学的非難のできない人」に分けられて、tweetが山ほど挙げられているのですが、その一種偏執狂的なやり方に、驚きを禁じ得ませんでした。
しかも、そのtweetの恣意的な選び方。
小保方氏を擁護する人たちは、まるで「放射脳」「陰謀論者」「ネトウヨ」であるかのような選別の仕方です。
twitterで検索すれば、「小保方 反日」でも「小保方 在日」でも、tweetは出てくるというのに。



私個人の意見は、残念ながら、「知性のある人」とめいろま認定してもらえるかどうかはわかりませんが、一つ一つの事象に、是々非々でありたい、格好よく言えば、めいろま氏のお株を奪ってしまいますが、「客観的に」物事を考えたいと思っています。
前のエントリーでも書きましたが、理研が小保方氏を処分するのなら、小保方氏が一言も反駁できないような、ぐうの音も出ないような論理で処分すべきですし、処分に値する不正がなければ、処分してはならないと思います。
博士論文の問題は、また別のことで、早稲田大学が論文取消・学位剥奪を行なうのならば、それを小保方氏は甘受すべきだと思います。
そして、STAP細胞があるかないか、は、実は私はあまり興味がありません。
そういった研究に日夜取り組んでいらっしゃる研究者の方々には、心からの敬意を払うものではありますが。
めいろま氏は、

身内が事故の後遺症やら病気やらガンやらで色々苦労しておりますので、STAP細胞の将来にはかなり期待していた(めいろまリスト1)

とおっしゃいますが、身内に色々苦労している者がいるのは同じですが、私は常識で考えて、年上の身内のみならず、私や夫の世代、子供の世代が生きているうちにSTAP細胞が実用化され誰もが恩恵を受ける、などとは全く思っていないので、そこまで興味もなければ期待もしていません。
ですから、「STAP細胞に希望を託していた人々を裏切った」という発言などには、失笑してしまいます。



めいろま(May_roma)こと谷本氏が、暴走&迷走から、通常運転に戻ってくださることを祈りつつ。

小保方氏の会見に対する、May_roma氏こと谷本真由美氏の批判は、公平でないと思うこと

May_romaこと谷本真由美氏のネット上の記事は愛読していて、ケチな私がメルマガ(BLOGOS)も講読しているし、twitterも時々読んでいるし、本も数冊は読んで、はてなダイアリー書評まで書いています。
どころか!
Amazonの注文履歴を見たら、私、谷本氏が出した本全部買っています!

「ショック!アタリ紀行」「中国商い要注意マニュアル」っていう、May_romaマニアじゃなければ買わない本まで買って読んでいます。
これは、世間一般的に見ると「谷本氏のファン」とも言えるのでしょう。

しかし、今回小保方氏問題について、彼女のtwitterでの発言、そして、メルマガでの主張を読んで、大きな違和感を感じました。
それは、谷本氏が小保方氏を批判している論点が、日頃公平で明晰な物言いで、ジェンダーのバイアスなしに世の中をぶった切っていらっしゃる氏の発言とは、大きくズレていたからです。
今回の会見は、理研が出した最終報告書に対して小保方氏が提出した不服申し立て書についてのものであったのですが、谷本氏はその不服申し立て書の内容については、一言も触れずに、小保方氏が会見で涙を見せたことや、弁護士を雇ったことや当日のヘアやメイクについて批判しています。


Vol.31北米と欧州ではなぜ要人が記者会見で涙を流さないのか?  谷本真由美(@May_roma)の「週刊めいろま」 BLOGOS(ブロゴス)メルマガ



谷本氏は、小保方氏が会見の場で泣いたことを、「人前で泣く30歳の大人」「こういう幼稚な人」と表現し、「北欧州や北米では感情を制御出来ない人はリーダーに相応しくないという考え方がある」と言います。

「人前で泣く30歳の大人」と言いますが、2時間半にわたる会見の中で、小保方氏が涙を見せたのはただの1回だけ。
その瞬間にもの凄い音と光りでフラッシュがたかれ(なにしろ、カメラマンはその瞬間を待ち構えていたのですから)、翌日の新聞もテレビもネットも、白いハンカチで涙を押さえるその瞬間の彼女の写真を、紙面や画面に出しました。
実際にハンカチで涙を押さえていたのはたったの5秒ほどであったのに。
これこそ、谷本氏が言うところの、

「こういう状況ならこういうカテゴリの人はこういう風に行動するはず」という型にはまることを期待しているわけです。型にはまったら何となく気分が良い。そう、決まりきった歌舞伎のお芝居を見たいのです。

であったのです。
しかし、物事を公平に見るとすると、小保方氏は2時間半の会見のうち、ハンカチで涙を押さえた5秒ほどの時間以外は極めて感情を抑制して臨んでいたと言えます。
特に、冒頭小保方氏が用意した文章を読み上げた時、会場の記者の誰もが「涙」を、「泣き」を期待していたはずなのですが、彼女は時折、言葉を止めて、感情を制御し、短くはないその文章を最後まで「人前で泣く」ことなどなく、読み終えました。
論文に疑義が起こって以来2ヶ月ほどの間、論文の訂正に追われつつ、調査委員会の調査を受け、自宅もマスコミに囲まれ、メデイアではSTAP細胞発見の時とは手のひら返しのような扱いを受けてきて、精神的に相当参っているはずの人間(←「女性」とも「若い女性」とも書きませんよ、私は)が、集まった記者全員が敵のような会見場の状況の中で、よくぞここまで感情を制御できたものだと、私は、谷本氏とは真逆の感想を抱きました。

しかも、会見の始終を見ていればわかることですが、小保方氏が涙を見せたこの時、質問をしたのは、かの「月刊ザ・リバティー」(幸福の科学出版社が発行する月刊誌)の記者でした。
会場の多くの記者が競って、小保方氏に厳しい口調で質問を浴びせかける中、この記者は、質問の冒頭、

このSTAP細胞、確立すれば人類に対する貢献が非常に高いものだと考えております。

と、それまでの他の記者とは異色の発言をし、更に理研の再現実験には小保方氏が加わらないことに関して、

いわゆる他の研究者がやったところで、当事者がいないところでこの重要な技術がこの世から無くなってしまうというのは、非常に勿体ないなっていうふうに感じますので、この研究、再現の研究に小保方さんが入られる意思・希望があるのかということをお聞かせ下さい。

という、小保方氏の虚を突き、一番琴線に触れる質問をしたのです。
小保方氏の理解者であるような、小保方氏を擁護するような、この質問は、記者個人の姿勢なのか、「月刊ザ・リバティー」に「大きな力が働いている」のか、私にはわかりませんが、とにかく、虚を突かれた小保方氏は、

私はこのSTAPの研究を前に進めたいという強い思いからこの論文を発表しました。それにもかかわらず、すべて私の不勉強、未熟さのせいで研究内容以外のところにばかり注目が集まってしまい、研究がどんどん遅れてしまっていることに本当に、本当に情けなく、本当にこれまで支えてくださった方に申し訳なく思っております。

再現性の実験に参加するかは、私は実は理化学研究所のほうからなんの連絡も受けておりません。なので、どういう体制で再現実験のほうが組まれるのかということも私は詳しくは存じ上げていないのですけれども。

未熟な私に研究者としての未来があるのでしたら、やはりこのSTAP細胞が・・・誰かの役に立つ技術まで発展させていくんだという想いを貫いて研究を続けていきたいと考えております。

と答えたのですが、この最後の部分「やはりこのSTAP細胞が・・・」の部分で、感情の制御が途切れ、涙をハンカチで押さえた、というのが、実際でした。
小保方氏が戦略的に「涙」で何かを訴えるとか、同情をひく、といったシチュエーションではなかったのです。
この「月刊ザ・リバティー」記者の、反則のような質問に対する場面以外では、ハンカチさえ使う場面はなかったのですが、それでも「泣いたことにかわりはないじゃないか」と鬼の首をとったかのように言い募るのは、2時間半の会見の中の5秒ほどの場面を、「涙の会見」「涙ながらに」「時折涙」「お涙頂戴」という言葉で報道したマスコミと同じような、公平でない印象操作になってしまうのではないでしょうか。

アメリカの鉄の女であるヒラリー・クリントンが、2008年の大統領予備選で見せた涙が話題になったことを思い出します。
これは、劣勢が伝えられていたニューハンプシャー州でまだ投票する候補を決めていない有権者の女性に、こう質問された時のことでした。

" My question is very personal. How do you do it? How do you keep up, and be so wonderful? "

予備選の候補者として、浴びせられる質問は厳しいものばかりだったところに、「あなたはどうして志を持ち続けられるのか、そんなに素晴らしいのか?」という、フェイントのような質問をされて、自分の政治への思いを語っている時に、涙ぐんで言葉に詰まってしまったのです。小保方氏の場合とよく似ています。

この時、ヒラリー・クリントン60歳。
小保方氏より倍の人生を生きて酸いも甘いも噛み分けてきた女性、弁護士事務所のパートナーもファーストレディも経験した女性でさえ、長いキャンペーンの中でこういう一瞬があったのです。
彼女が涙ぐんだのはほんの数秒、勿論、彼女もすぐに、感情の制御を取り戻し、冷静に回答を終えています。
私は別に、小保方氏擁護というわけではないのですが、この件に関しては、公平に見て、小保方氏は感情を制御していた、と言わざるをえません。


そして、谷本氏は、同じメルマガ(BLOGOS)で、北欧州と北米の、裁判官、政治家、CEOである女性の、謝罪会見の動画を7本紹介して、

イギリスやアメリカのプロフェッショナルの女性達は色仕掛けも情に訴えかける謝罪もしないのです。声は低く、常に冷静沈着で、淡々と事実を述べます。

情に訴えたり、女性らしさを武器する話し方はしていません。彼女はメディアのプロですが、メイクや服装は極めて地味なものです。

自分の年齢や情に訴えることは一切なく、淡々と事実を述べています。

激しい質問が投げかけられますが、情に訴えたり、CEOが人前で泣くということはありません。


とコメントを付けています。
この谷本氏のコメントに関して違和感を感じるのは、

・今回の小保方氏の会見は、彼女個人の問題であり、組織や会社を率いる「リーダーシップ」とは関係がないこと
・谷本氏自身が律儀に「北欧州や北米」と断り、アメリカとイギリスの女性のみを例に出しているように、これが世界標準だとは思えないこと(南欧州や中米・南米ではどうなんでしょう?)
・谷本氏は、「何でも北欧州や北米式にあわせる必要はないだろう、という人がいるかもしれませんが、なんだかんだ言って、世界の政治やビジネスを牛耳っているのは彼らです。」と言っていますが、今回の小保方氏の会見は、理研の調査委員会が下した結論に対する不服申し立てに関する会見であり、この会見を「北欧州や北米」基準でやる必要は全くないこと、そして小保方氏は、公平に言って、感情を制御していたと言えること

ですね。

また、谷本氏は

ワタクシは小保方氏の記者会見に関しては、見事なプロの仕事という感想を持ちました。

さらに記者会見はお話を消費する人々の期待に見事に応える筋書きになっており、プロの仕事だなと感じました。

と、二度も「プロの仕事」という言葉を使っています。
「プロの仕事」というのが、会見に同席した弁護士に対するものならば、当たり前ではありませんか、彼らは訴訟の「プロ」です。
プロである以上、プロの仕事をするのは当然のことです。
それは、谷本氏の書きぶりでは悪いことのようですが、プロがプロであるのは称賛されこそすれ、悪いことでは全くないでしょう。
私が「プロの仕事」を感じたのは、質疑応答になった時、三木秀夫弁護士は、「先ずは、不服申し立て書に関連すること質問について絞らせて頂いて、それが一通り回ってからその他の質問を受ける」と言ったのですが、例によって記者は事前の準備すらしていないのか、元々そういう質問をする能力がないのか、直に、理研の会見でもさんざんされた同じ質問「STAP細胞は存在するんですか?」というバカの一つ覚えの質問に移ったのですが、三木弁護士が、それを軌道修正をしなかった点です。
結局、質疑応答の途中から、質問の殆どは、「不服申し立て書」とは全く関連しない質問が占めてしまうことになったのですが、それは、弁護士である三木氏から見れば、「狙い通り」のことであったのだと思いました。
何故なら、結果として、小保方氏側からはわざわざ逐一弁明を発信できないようなことで今まで誤解されていたこと(割烹着やらピンクの壁やらノートの数とか)を、彼女の口から答える場を自然に作ることができたから、です。
このマスコミを逆に利用する術は、流石に「プロの仕事」だと思いました。
しかし、それは悪いことではありあせん、当然の仕事であり、それに対してバイアスがかかった見方をしている谷本氏は、どうだったら良かったと言うのでしょうか?


私は今まで、谷本氏のtwitterや著書やメルマガにおける、いわゆる「お下品」とも言える物言いも、それは彼女の「敢えて」の芸風のようなものと勝手に解釈していて、心性は心優しい高潔な人物(メタラーだと思っていたのですが、今回、初めて、「May_roma氏、お前もか!」と言いたくなるような、臆見のみで書いていらっしゃることに、正直驚きました。
谷本氏は、小保方氏が弁護士を雇ったことに関して、こう書いています。

随分素早い調子で食品偽装や不祥事のプロである弁護士が4人も雇われました。研究一筋の研究者であれば、そもそも弁護士など知りませんし、メディア対策などできるわけありません。

谷本氏が言うところの、「30歳のいい歳した大人」ならば、こういう一大事に素早く弁護士を雇うのは当然なのではないでしょうか?
そしてそれが高額の報酬が必要であっても、ここは人生かかっていますから、どうせ雇うのなら実力のある弁護士を選ぶのも当然でしょう。
「研究一筋の研究者であれば、そもそも弁護士など知りませんし」というのは、谷本氏の偏見ではないでしょうか。
谷本氏が小保方氏に「期待していた型」というのが、「30歳を越すのに、弁護士の雇い方もわからずうろうろするような、研究馬鹿」であったとしたら、これは小保方氏に対してだけではなく、男女問わず若い研究者に対する重大な侮辱です。
理研には、小保方氏よりも更に若い年齢でチームリーダーに採用された大変有名で優秀な男性の研究者の方もいますが、彼が同じシチュエーションで弁護士を雇ったとしても、谷本氏は「研究一筋の研究者であれば、そもそも弁護士など知りません」と揶揄するのでしょうか。
まさか、谷本氏に限って、ジェンダーバイアスがかかっているとは思えませんが。
今まで谷本氏の著作を全て読んだ私としては、例えば知人が労働契約で会社と揉めることになったとしたら、そういう場合、May_roma氏なら、その知人に、「借金してでも、弁護士雇え!相手はプロなんだから、こちらも最強のプロを雇え!」とアドバイスする方が自然なのでは、と思ってしまうのです。

で、大金を出して雇った弁護士、大金を貰って働く弁護士なんですから、「メディア対策」して当たり前でしょう。

この短期間に大手企業の社長がメディア対応するレベルでの準備が施され、小保方氏は完璧なメイクと髪型で会見に登場しました。この4人の弁護士により、相当用意周到なメディアプランが練られ、何度もリハーサルが繰り返されたことでしょう。

私が読んでいて、とても残念だった上の文章なのですが。
3月31日に、小保方氏が理研から最終報告書を渡されてからたった10日後の会見。
最終報告書を小保方氏が受け取ったその時にも弁護士は同席していたそうですから、それ以前から会見の準備をしていたかもしれませんが、ベテラン敏腕弁護士であっても、対応すべき最終報告書を実際に手にして検討しなければ「対策」も何もできなかったでしょうから、本当に短い期間しかなかったと思います。
しかもその期間、小保方氏の自宅は、マスコミに包囲された状況であり、「大手企業の社長」がするように会見場を模した場所でのリハーサルなどできなかったのは明白です。
「何度もリハーサルが繰り返されたことでしょう」というのは、事実からは遠いのではないかと思います。
そして、谷本氏は小保方会見批判一色なので、メルマガでは触れていませんが、謝罪会見におけるリーダーシップ論をあれだけ主張する彼女が気がついていないはずはないと思うのですが、私があの会見で、舌を巻いたこと、最も驚嘆したことは、小保方氏の頭の回転の早さ、質問に対する集中力と的確な回答もさることながら、小保方氏にはあらゆる意味で「失言」「失敗」がなかったことですね。
これは「泣いた/泣かない」なことより余程重要なポイントであり、ジェンダーや年齢と関係なく、小保方氏の高い知性が為せる技だと、アンチであっても認めてしまうことでしょう・・・と思いきや、これを「演技」と言っている人が多いのですね。
2時間半の会見で綻びを見せない「演技」ねえ。
「懲りない万年失言政治家」麻生太郎氏を筆頭に、我が国の政治家は、「発する言葉に障害がある方々」がとても多いです。
また弁護士を雇って日々メディア対応に励んでいる大企業のトップの方々にしても、最近ではNHKの籾井会長が好例ですが、同様に悲惨です。
政治家や大企業のトップであっても、敬語レベルからめちゃくちゃ、Political Correctnessという概念さえなく、また表面は取り繕っても本心が言葉尻に滲み出てしまう、という例は枚挙に暇がありません。
彼らは、知性もなく、演技もできない、ということになりますね。
翻って、今回の2時間半にわたる会見の中で、小保方氏には「失言」が全くありませんでした、これは見事というしかありません。
彼女は、言質を取られるような発言は回避し、関係者に迷惑がかかるような個人名やまだ未発表の事に関して口を滑らせることもなく、そして終始、理化学研究所及び論文共著者に対しては敬意を持って話していました。
これは、「30歳のいい歳した大人」であっても、かなり難しいことです。
また、短期間にベテラン弁護士に訓練されて一朝一夕に身につくものでもありません。
では、何故彼女が、これを出来たのか?
それは、理研や共著者に対する敬意は本心であるので取り繕ったり演技する必要がなかったことと、大人としての言葉遣いや振る舞いを、彼女、小保方氏が既に身につけていたから、以外にありません。
1月末の「STAP細胞発見」のニュース以来、「いい歳した大人の研究者」である小保方氏のご両親や家族の詳細までがマスコミによって報道されていましたが、小保方氏は、そういうご家族に囲まれて育った環境の中で、自然に「大人としての発言の有り様」というのを身につけたのでしょう。
昨今、これは子どもを東大に入れることよりも難しいことかもしれませんが。
いわゆる、「ご家庭の教育がしのばれる」というヤツですね。
そういう小保方氏であったから、弁護士の先生方も会見の準備が楽だったと思います。
会見における一般的注意事項を、Skypeなどで伝えるくらいで済んだから、短期間で準備もできたのではないでしょうか。
とにかく、小保方氏が、個人が組織に対して職を賭して不服申し立てをするにあたって、雇われた弁護士はプロの仕事をしたわけです(結果はまだわかりませんが)。
これは、きっと谷本氏曰くの、北欧州や北米レベルを十分満たす、在るべき大人の対応であり、望ましい社会の在り方ではないのでしょうか。


さて、谷本氏はメルマガでこうも言っています。

小保方氏は完璧なメイクと髪型で会見に登場しました。


という、前掲の谷本氏のメルマガ上での発言やTwitterにも、私は驚きと残念な気持ちを抱かずにはいられません。
以前他のブログ(WirelessWire News)で、STAP細胞発見という1月の会見時の報道(割烹着やらリケジョやらムーミンなどに注目したもの)を批判して、

この様な画期的な発見があった場合、北欧州や北米のメディアでは、詳しく報道されるのは発見の事であって、発見者の私生活や趣味の事ではありません。(中略)また、性を強調した報道だった場合は、大変な反論が起きるでしょう。一晩泣き明かした30歳若手女性研究者と書く我が国にはゴシップ新聞しかないらしい WirelessWire News

と書いていらっしゃるのですが、これは大手メディアに限ったことなのでしょうか。個人とはいえネット上では大きな影響力を持つ谷本氏のメルマガでは、メイクや髪型について言及するのは許され、twitterなら、ファンデやシャドーやヘアセットに関して憶測で発言しても許されるのでしょうか?

「30歳のいい歳した大人」が、会見場の記者軍団のみならず、テレビカメラの向こうにいる何百万人の人々に向かって会見をするに当たって、素っぴんでボサボサ髪で臨むことが、谷本氏が言うところの「北欧州や北米」レベルの会見の作法なんですかね?
谷本氏が「謝罪会見の見本」として挙げた、女性裁判官や政治家、CEOの会見は、アメリカ人とイギリス人のものです。
確かに、皆、服装音痴もいいとこ、髪の毛ボサボサ(元CEO)、変な紫の花柄ブラウス(イギリス人、花柄好きですよね)にオフィシャルな場に相応しいとは言えないカーディガン(元裁判官)、トップスがあろうことか何とカットソーにカジュアルなネックレス(議員)、スーツは着ているけどインナーのシャツのボタンがどうみても2つほど開け過ぎ(政治家)、といった風なのですが、確かに、北欧州と北米は、社会的ポジションに関係なく、元からそういう服装音痴の女性が多いのです、リーダーシップとは関係なく。
つまり、元々お洒落な国ではないのです、申し訳ありませんが。
いみじくも谷本氏自身が「北欧州と北米」と限定しているように、イギリス、アメリカ、そしてドイツを加えて、この三か国の女性は、お世辞にも、ファッションセンスの偏差値が高いとは言えません。
谷本氏の「北欧州」には、フランスは入っていないようですが、例えばフランスの女性閣僚や、IMF専務理事のラガルド氏などは、メイクも髪型も服装も、気合い入ってますよ。
谷本氏は前掲のようにTwitterで、

シャドーもファンでも多分スポーツ用か舞台用の奴ね。あれ泣いても平気なの。

女は化粧するから、ファンデの厚さがどのぐらいかとか、みればわかんだよね。すぐに。

とツイートしていますが、このツイートは、小保方氏が自分自身でファンデーションやシャドーを選んで、自分自身で厚塗りメイクしていること前提ですよね。
小保方氏は記者会見の会場であったホテルの美容室でメイクとヘアをやってもらったようですが、そうならば、「シャドーもファンデも多分スポーツ用か舞台用の奴」というのは、まさに見当違いであり、小保方氏自身はメイクしていないのなら、シャドーやファンデの選びようがありませんし、美容師さんからパフを奪い取って自分で厚塗りできるはずもありません。
ホテルの美容室って、元々結婚式やら成人式やらパーティーやらのためにヘアとメイクをしてもらう人が多いので、まさにヘア・メイクのプロである美容師さんが専用の化粧品使うんですよ、ただし「スポーツ用か舞台用」ではないと思いますが。
プロの美容師さんですから、小保方氏の顔色の悪さをカバーするためにファンデは濃いめにしたんでしょう、プロとして。
1月末の会見の時も、同様にヘアメイクは美容室だったのでしょう、それこそ「みればわかんだよね」レベルでわかりますが。
谷本氏は、「頬こけシャドー」だの「泣くのを前提にウォータープルーフのマスカラ」などと書いているしたり顔のツイートをリツイートしていますが、シャドーやファンデーションはプロである美容師がプロとして勝手に選ぶわけですし、そもそもプロのメークですからマスカラが万が一にもはげ落ちることがあってはならないのでウォータープルーフどころかお湯でもなかなか落ちないマスカラを、小保方氏の意志に関係なく黙っていてもされちゃいますよ。
そうやってプロの手にかかった作品である「結婚式の間中感激で泣き続けていても、マスカラもファンデも決して流れない花嫁」を、見たことがないのでしょうか。
美容師さんも、小保方氏のメイクに関して、プロとしてプロの仕事をしたのです。
ヘアスタイルについても、1月も今回も、あれは本人が「巻いた」わけではないんでしょう、美容室なら。
女性なら、既に1月の会見の小保方氏のヘアスタイルを見て、あれは美容室でセットしたものだと気付きますよね。
今回だって、頭頂部を膨らましてそれを不自然でなくサイドから回した毛と一緒にした、一糸乱れぬハーフアップ。そしてあの艶と、あの巻きは、プロの美容師さんのお仕事です、小保方氏が自分で髪の毛巻いたわけではないのです。

ハーバードへ留学していた頃の小保方氏は、他の大勢のアジア系の留学生と変わらず、素っぴんノーメイクで、髪もストレートだったようです。
谷本氏自身もそういう留学生の中の一人であった時代があるのですから、お分かりになるはずなんですが。




繰り返しますが、今回の小保方氏の会見は、理研の調査委員会の最終報告書に対する不服申立書に関するそれ、でありました。
何故、小保方氏が、弁護士を雇って、体調不良を押してまで会見を開いたか?
それは、不服申し立てをしないということは、最終報告書を認めたことになり、それで先ず起こることは、懲戒免職です。
これに関しては谷本氏も別のメルマガ(STAP細胞問題、ほんとにそれでいいの?|世界のどこでも生きられる|May_roma|cakes(ケイクス) )で、

こっちの研究者や学者がコピペしちゃダメと書いてあるのにやったら、ルールをそのまま適用されてジ・エンドですよ。若い、女だ、ガイジンだ、おっさんだ、家族が病気だは関係がない。そういう公正さがあるから、外国から優秀な人々がやってくる。国内の人だって安心して頑張れるわけです。少なくとも制度上は公平だから。

と書いていらっしゃって、これには私も100%同意しますが、まさに今回の会見は、この「ルール」を定義するための不服申し立てではなかったのでしょうか。
会見で、室谷弁護士が示した小保方氏側の「ルール」の定義について、解説・報道したものを殆ど見ません。
本来はこれが会見のキモであるはずで、不服申し立てをして、それを説明する場であったわけです。
それは、「若い、女だ、ガイジンだ、おっさんだ、家族が病気だ」と関係なく、不服の申し立ては権利として「制度上は公平」で誰にでもあり、谷本氏から見れば、いけすかない女かもしれませんが、小保方氏にも許されていることなのではないでしょうか?
こういう正当な不服申し立てを、自分の権利を主張することにかけては一歩も引かない国に暮らす谷本氏はまさか否定されるわけではないと思います。
谷本氏が、May_romaとして怒るとしたら、理研が、不服申し立てを科学的に論破するのではなく、「世間をお騒がせしているから」「これ以上騒動を長引かせたくないから」という、「空気」だけで(「ルール」ではなく)、一人の研究者の首を切った時、ではないんでしょうか。

そして、役所が作った法律には「契約書に書いてあることを破った会社にはこうこうこういう制裁があります」と書いてあるから。

と同じくcakesでおっしゃっているわけですから。理研は契約書に書いてあることを破ってはいけませんね。
谷本氏は寧ろ、「理研は、世間の『空気』で、科学者を首にしてはいけない」と言うべきなのではないでしょうか?
私も、小保方氏が理研を首になるとしたら、それは小保方氏がぐうの音も出ないような「ルール」に則ったものでなくては、逆に禍根を残すことになると思っています。
小保方氏が、彼女に許された「不服申し立て」という手段を使い、弁護士を雇って会見の準備をして全力で自らの主張をしたことだけは、公平に評価すべきなのです。
その上で、今度は理研がどう対処するかを評価する、ということになるのではないでしょうか、冷静な傍観者としては。


また、谷本氏がリツイートしている下の発言ですが、

これとよく似た発言をされる方が多いのですが、今回の会見は、「STAP細胞が存在するか否か」を説明する場ではなかったわけです。
もっとも、多くのマスコミの記者が、理研の会見の時と同様にバカの一つ覚えで何度も「STAP細胞はあるんですか?」と質問したので、小保方氏がそれに大真面目に「STAP細胞はあります。」答えただけのことです。
このツイートをされている内田麻理香氏は、「理研で行なわれた実験ノートを会見の場に持参して、小保方氏の一存だけで公開してはいけない理研での実験内容を報道陣に晒すべきであった。」「本人の了解もとっていないのに、実験に成功した人物の名前を晒すべきであった。」と言うのでしょうか?
もし、内田氏がお気に召すような行動を小保方氏がとっていたら、それこそ、その場で小保方氏は、研究者としても組織人としても社会人としても一発でアウト、ですよね。
同様に、はてなのホットエントリーに入っていたkagura_may氏の「芸能人」小保方晴子に科学者の姿はもう求めない件についてというタイトル(酷いですね、このタイトル)の、下の文章

明確なデータや物証を示すことなく、情緒的な表現や泣きの一手に終始した姿は、科学者のそれに非ず。

「明確なデータや物証」は理研の研究室内にあって、そこには小保方氏は現在入室できないのでしょう?どうやってデータや物証を示せというのでしょう?
しかも、理研内の実験のデータを公開するには理研の許可も共同研究者の許可も必要なのではないでしょうかね、ド素人が考えても。
また、「情緒的な表現」が何を指すのかは不明ですが、「泣きの一手に終始した姿」というのは、2時間半の会見のうちの5秒の場面のことを言うのならば、随分公平性に欠ける発言だと私は思いますが、だからこその突拍子もないタイトルになるのでしょうね。


谷本氏には、内田麻理香氏やkagura_may氏に代表される、常識がないというか、一般的想像力に欠ける発言を諌める発言を是非ともして頂きたいのです、ツイッター上でかくも大きな影響力をお持ちなのですから。


最後に、ファンとして。
私もつい先日Kindleで読み終えた、谷本氏の近著「日本の女性がグローバル社会で戦う方法」

日本の女性がグローバル社会で戦う方法

日本の女性がグローバル社会で戦う方法

(ちゃんと宣伝もしておきます)
ですが、谷本氏が勧めている生き方に、小保方氏はかなりの部分で当てはまってはいませんか?
小保方氏は、谷本氏が忌み嫌う「日本女性の同調圧力」から飛び出している稀有な例であり、谷本氏の主張「年齢、経歴、失敗を気にして挑戦しないのは人生の大損」「海外に逃亡せよ」「結果を出しまくって黙らせろ」「稼げるスキルを身につけなさい」(目次より)をことごとく実践しています。
ネット民みんなが頼りにするコワモテ「May_roma姐さん」である谷本氏には、物事を是々非々でぶった切って頂きたいのと同時に、不遇な日本の不遇な若者、特に女性の芽を摘まないで頂きたいです、「出る杭を打つ」人に、「May_roma姐さん」だけにはなって頂きたくありません。

そして、最後の最後にもう一点、谷本氏に伺いたいことが。
BLOGOSのメルマガ有料版の「Q&Aコーナー」にあった一文に、ミーハーなファンである私は目が釘付けになってしまいました!
それは、

ワタクシは最近イギリスの幼稚園と小中高の見学にいったりしているのですが(子供の将来の学校を選ぶため)随分面白いことをやっているな、少人数でいいな、自由でいいなと思うことがあります。


↑ 言わずともわかる黄色の箇所ですが、早とちりした私は、すぐさまGoogle様の検索ボックスに、「may_roma 妊娠」と入れてみたのですが、めぼしい噂は何もヒットしませんでした。
海千山千のネット民が騒いでいないということは、「子供の将来」の「将来」は、「近未来」という意味ではなく「いつか」という意味なのだと、逸る心を押さえて納得しようとしているところです。



続いて書きました。

小保方氏に対する、めいろま(May_roma)こと谷本氏の暴走&迷走があまりに酷いので

「世界最高水準の安全性」と言う、「世界最低水準の感受性と想像力」しかない安倍首相


いつからだったか、安倍首相が口にする「世界最高水準」という言葉が、私は引っかかって仕方ありません。

世界最高水準のIT社会を実現
(2013年3月28日 政府IT戦略会議)

福島の事故を乗り越えて、世界最高水準の安全性で世界に貢献していく
(2013年9月25日 ニューヨーク証券取引所

原子力委員会によって、世界最高水準の安全基準が策定された
(2014年1月6日 年頭会見質疑応答)


これ以外でも、国会の安倍首相の答弁で頻繁に使われているような(気がする)。


「世界最高水準」って、ビミョーな語感です。
「世界一」ではないんですよね、意味的には。
「水準」には達している、ということ?
「本当に世界一?」と突っ込まれたら困るから、「世界一」とは断言しないけれど、スゴいんだぞ!的な。
「世界一」のグループに入っているけど、その中でナンバーワンであるわけではない、っていう感じ?
その癖、「最高水準」なんていう風に、漢字を4文字も使って、こけ脅しの権威付けをしているところが、既に微笑ましいですね。



さて。
3年前のこの時期は、桜などそっちのけで、毎日食い入るように、原発関係のニュースを見ていました。
マスコミから報道されるニュースには飽き足らず、東電の会見の動画サイトや、東電のホームページを絶えず見ていたのですが、事故から3年経った今、気がついたら、そういう切迫感はいつの間にか失われてしまって、今回以下のニュースを見た時も、正直「またか」という言葉が頭に浮かんでしまうほどです。

東京電力は4日、福島第1原発放射性物質を含む汚染水を貯蔵するタンクを囲むせきから水があふれたと発表した。あふれた水には東電が定めた暫定排出濃度基準値を超える放射性物質が含まれていた。
 東電によると、高濃度汚染水を貯蔵しているタンクを囲むせき内の水位が3日からの大雨により上昇。せき内の水は別のタンクに移送していたが、間に合わずあふれたという。(2014/04/04-10:55)時事ドットコム

今回の原因は、想定を越える「津波」ではありません、単なる「雨」です。

3日夜から雨が降り続いた福島県内では、各地で24時間雨量が100ミリを超え、東京電力によりますと福島第一原発の観測点では、4日朝までの6時間に70ミリを観測したということです。(4月4日 14時24分)NHKニュース

一日の降雨量が100ミリを越えるというのは、かなりの本降りが何時間も続く状態だと思いますが、それでも日本ではそんなに珍しいことではないと思います。
台風や、梅雨末期の集中豪雨はこんなものではありません。
つまり、堰から水が溢れた原因は、雨などでは全くなく、単に、堰に溜まる水量を計算できなかった、ということではないのでしょうか、それも100ミリ/日程度の雨の。


これまでも同様のことはありました。
今回同様に、タンクから汚染水が漏れた時の原因は、私が記憶しているのは、

汚染水タンクのボルトが緩んでいた
作業員による人為的ミスで「弁」が開いたままになっていた

というものだったと思います。

そして、今までの汚染水が堰を越えた事故も、今回の件も共に、

土嚢を積む

ことで対処しているそうです。
土嚢、ですよ。
世界最高水準の土嚢、なんでしょうか。

(世界最高水準の土嚢)


他にも、福島原発では過酷事故の後も、数限りない小さな「事故」が絶える事なく起きています。
ただ、その報道を目にする私たちの方が、3年前に比べて感受性が鈍化したのか、「景気回復」やら「オリンピック」に目を向けて見たくないものは見ないようにしているせいなのか、関心が薄れていることは確かです。
そして、政府は、総理大臣は、国民の目を「原発事故」から逸らせるように、まさに「パン」と「サーカス」を振る舞い続けているのですから、そうなってしまうのも当たり前です。


昨年の9月に、安倍首相は、福島原発を視察しました。
防護服に身を包んだ視察でした。
安倍首相は、その防護服に袖を通した時、線量計に先導されて構内に足を踏み入れた時、ご自分の目で「世界最高水準」の技術を以て作られた原発の無様な惨状を見た時、何も感じなかったのでしょうか。

防護服の胸に名前を書くのは、万が一原発構内で事故が起こった場合に備えてなのでしょうか、ヘルメットに防護マスクで誰なのか区別がつかないからでしょうか、それはわかりませんが、安倍首相の防護服の名札の漢字が間違っていた、ということは、当時話題になりました。
本来は「安倍」であるべきところが「安部」になっていました。
些細なミスです、名前の漢字を間違うことなんて、同じ読みでも当てる漢字が幾つもある日本では、そんなことは日常茶飯事です。
これは東電が用意したものなのでしょうが、何と言っても一国の総理大臣を過酷事故の現場視察に迎えるのですから、それは周到な準備がなされたことと思います。
それでも、総理大臣の名前の漢字を間違えてしまう。
一人の東電社員が単独で準備したものではなく、複数の社員が出来上がった名札を目にしていたであろうに。
これは単に「漢字の間違い」ということではなく、優秀な東電社員が緊張して臨んだ場でもミスはある、ということをわかりやすく示しているんじゃないかと思います。
3.11の事故も、今回の名札の漢字取り違いも、東電社員が怠慢だったり無能だから起こったわけではなく、真面目で有能な東電社員であっても、重大な判断ミスも些細な作業ミスもどちらも、免れ得ない、のではないでしょうか?

そして、東電の福島原発で、原発事故後もこれだけの人為ミス、事故が起こっているのだとすると、全国の他の電力会社の他の原発でも起こっているのではないか?そして、万が一地震津波によって、過酷事故が起こった場合は、事故後も同じように、判断ミス作業ミスが起こるであろうことは、今福島原発を見ていればわかります。


国民の中でも、もう「原発事故」が「過去のもの」になっていて、4号機の使用済み核燃料の取り出しも、中間貯蔵施設をどこに作るかということも他人事で、放射能に関しても、食品や海や土地の汚染にも、関心がなく、「原発再稼働」に賛成する人も大勢います。
放射能の影響を心配している母親たちのことを、「放射脳」とあざ笑う人もいます。
かたや、今も尚、日々子どもに食べさせるものに気を遣い、心ならずも外遊びを制限している母親たち、自主的避難を続けている人もいます。
福島でない原発の近くに住まいがあって、同じような事故が起きることを日々心配している人もいます。
日本人は、程度の差こそあれ、3年前の3月11日に、大地震とそれに伴う津波と更に原発事故を、同じように体験したのです。
それなのに、たった3年で、どうしてこんなに人々の心が分かれてしまったのか。


感受性想像力の問題ではないか、と最近つくづく思います。

例えば、安倍首相の場合。
過酷事故後も次々と起こる福島原発の状況を、「under control」とオリンピック招致の場で言いきってしまう感受性(の欠如)。
同様に、福島原発で日々、次々と起こるそれらの問題を、「未来からの警告」とは考えない感受性(の欠如)。
核物質の最終処分場が影も形もないどころか、全国の原発使用済み核燃料プールが満杯になっているというのに、「トイレなきマンション」であるところの「原発」を再稼働・新設、と言う感受性(の欠如)。


安倍首相のFacebookのカバー写真。
それを見て、いつも思うのです。
山あいののどかな田んぼの畦道で、安倍首相と女性がお辞儀をし合っている写真なのですが、これって、よく安倍首相が口にする

日本は古来より、朝早く起きて田を耕し、水を分かち合い、秋になればご皇室とともに五穀豊穣を祈った瑞穂の国であります。
第81回党大会演説 2014年1月19日

古来、「瑞穂の国」と呼ばれてきたように、私達日本人には、田畑をともに耕し、水を分かち合い、乏しきは補いあって、五穀豊穣を祈り、美しい田園と麗しい社会を築いてきた豊かな伝統があります。
[http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/discource/20140211message.html:title=建国記念日」を迎えるに当たってのメッセージ 2014年2月10日}

他のところでも、似たようなフレーズを出していらっしゃるのですが、元は、2012年暮に発売された月刊誌「文藝春秋」に寄稿したもの(後に、「新しい国へ、美しい国へ、完全版」として出版)の中にあったようです。

日本という国は古来、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かち合いながら、秋になれば天皇家を中心に五穀豊穣を祈ってきた、「瑞穂の国」であります。

これらの言葉をイメージ化したような、カバー写真ですよね。
テンプレのように出てくるフレーズですから、今流行りのゴーストライターの筆によるものではなく、ご自身の中から紡がれた言葉だと信じたいのですが、このお決まりのフレーズと、Facebookのカバー写真が、これ以上は望めないほどよくマッチしているのですよね。
この写真は、「瑞穂の国」のテンプレ通りのイメージですが、写真の中では、安倍氏の周囲にお付きの人も秘書もいないという稀有な状態で、安倍氏堅苦しいネクタイ・スーツ姿ではなく「真面目な青年」チックな白ワイシャツにノーネクタイ、対する女性はモンペに長靴で如何にも「農家のおばさん」という感じ、田んぼの真ん中で出会い、安倍氏の方が頭を低く垂れてお辞儀していて、それを丁度いい距離から撮影したカメラマンがいた、ってことですものね。
いや、これ以上のショットはないでしょう。

安倍氏が目指す、新しくも美しい「瑞穂の国」のイメージがこの写真であるならば、少しの想像力を働かせて頂きたいのです。


嘗てはこのカバー写真とよく似た風景が見られた飯館村では、この先何十年もこの風景は望めないであろうこと。
柏崎原発で事故が起これば、米どころ新潟平野の殆どが、この風景を諦めなくてはならないであろうこと。
福井の原発銀座で事故が起これば、福井平野のみならず、琵琶湖周辺の「瑞穂の国」の風景も失われてしまうであろうこと。
勿論、玄海原発伊方原発、島根原発で事故が起これば、風向き次第では、安倍首相の選挙区である山口4区でも、このカバー写真の風景は消えてしまうであろうこと、上関に原発ができなくても。

ということにこそ、「世界最高水準」の想像力を働かせて頂きたいところです。


トルコとUAE原発を輸出できる原子力協定が衆議院の本会議で賛成多数で可決されました。
恥ずべきことだと思います。

ド素人が考えても、トルコって地震国なんでしょう?
UAEってアラブ首長国連邦のことで、極一握りの王族たちが世襲で統治していて一般国民との格差が凄まじく、確かまだ国民全部に選挙権が与えられていなくて、政情不透明な国なのでは?


「いや、日本が輸出しなければ、アメリカやロシア、イギリスやフランスが日本に替わって輸出するであろう。『世界最高水準』の技術力を持つ日本こそが、輸出すべき。」

という理屈なのでしょうか?
では、日本が原発を輸出したトルコで大地震が起こって原発に過酷事故が起こったら?
UAEに輸出した原発が、テロの標的になったとしたら?
という想像力は働かないのでしょうか?
その時に、今回原子力協定に賛成した議員の方々は、「想定外の状況で起こった事故」と、片付けてしまうのでしょうか?
「世界最高水準」の技術力で作った原発でも起こった事故だから仕方がない、原発輸出に賛成した自分たちには責任はない、と言うのでしょうか?
そうだとしたら、彼らの倫理観と責任感は、世界最低水準としか言えません。
まあ、3.11以前原発政策を推進してきた彼らは、あの福島の事故を目の当たりにしても、同じ決断をしているわけですから、感受性や想像力だけではなく、倫理観と責任感を彼らに求める方が間違っているのかもしれませんが。

想像力が機能していないのは、原発輸出に賛成した彼ら国会議員だけではありません。
都会に住んで電気をじゃぶじゃぶ使っている私たちも、その電気はどこから来ているのか、ということを想像する力はなくしてしまってたようです。
そうでもしないと、今の生活を正当化することはできませんからね。
3年前、「首都圏で使う電気は遠く福島から来ていたのだ」ということに初めて気がついたはずだったのに。


一方で、今まで政府が唱える「安全神話」を信じて封印していた想像力を解き放って、真っ当な行動を起こした方々もいます。

青森県で建設中の大間原子力発電所について、津軽海峡を挟んで半径30キロの範囲内にある北海道函館市が「事故になれば大きな被害を受ける」と主張し、国と事業者に原発の建設中止を求める訴えを東京地方裁判所に起こしました。(4月3日17時46分)NHKニュース

また、全国の原発から30キロ圏内にある自治体が、原発事故を想定した防災避難計画を作成するにあたって、今まではまさに「机上の空論」で現実には不可能な避難計画だったものが見直されつつあります。
迅速には避難しにくい地形だとか、一本道しかない避難道路の渋滞だとか、入院患者や高齢者の問題だとか、どれも本物の避難計画を作るには、「実際に事故が起こったらどういう状況になるか」想像力を働かさねばなりません。
実際に問題に対峙している自治体の長や職員の方々には、感受性の感度を落とさず、想像力を最大限働かせて、もしもの時に実際に役立つ計画を作り上げて頂きたいものです、住民の命がかかっているのですから。
都会の住民が心配している「帰宅難民」とはレベルが違う、命がかかっている問題ですから。
そして、仮に「世界最高水準」の安全性を唱う日本の原発で再び事故が起こった時、そして、苦労して作成した避難計画が大いに役立って住民の命を守ったとしても、それで終わりではないことにも、また想像力を働かせて頂きたいのです。
想像力と言うのもおこがましい、今の福島県双葉郡自治体、双葉町大熊町富岡町楢葉町がどうなっているか、という現実にも目を向けて頂きたい。
事故後に「原発事故で誰も死んでいない」と発言して炎上した有名人がいましたが、事実双葉郡の住民は何とか避難できたのです、しかしそれで終わりではなかったのですよね。
避難計画によって無事に避難できればよいというものではない、というところに思いが至った時に、どうすればよいのか。
その先を想像しなければならないのは、都会に住む私たちにも同じく課せられていることだと思います。


避難計画は自治体に丸投げで、再稼働や新設を叫ぶ、政府や安倍首相や国会議員には、世界最低水準の想像力も感受性も期待できないようなので。

*忘れられかけている頃に考える、「佐村河内」問題

3月7日に行なわれた、佐村河内氏の謝罪記者会見、ネット上の動画で全部を見ました。
2時間半を越える長い会見でした。

会見後の報道やネット上の意見では、佐村河内氏への批判や非難は、会見前よりも寧ろ厳しく激しいものになっています。

私は、少し違う感想を抱きました。

一ヶ月程前の新垣氏の会見の時には、新垣氏がゴーストライターをしていた事実を自ら告白し謝罪した勇気に一種の感動を覚えましたし、その後新垣氏を擁護する、音楽関係の識者の方々の書いたものを読んで、新垣氏が、素晴らしい才能と人望を持つ人物であることも理解しました。

しかし、今回、佐村河内氏の会見を見て、どんなことに関しても片方だけの意見を聞いて判断を下すのは慎まなければならない、と深く感じた次第です。

今回の問題は、単に「ゴーストライターが存在していた」というだけでなく、佐村河内氏が、「現代のベートーベン」として「全聾の作曲家」を装っていたことが絡んで、複雑になっています。
複雑に絡んだ問題を、時間と手間をかけて解きほぐして考えるのは、はっきり言って面倒くさいことです。
私達は忙しい。プライベートな問題だけでなく、世の中どんどん新しい社会問題、政治問題、国際問題が打ち寄せてきます。
佐村河内氏の謝罪会見の後も、震災から3周年、小保方氏問題、消費税増税はもう目の前、国会では集団的自衛権が問題になっていますし、気がついたらロシアの領土が増えてしまっています。
佐村河内氏の問題は、もう私達の目の前を右から左へと流れて行ってしまって、既に「過去の問題」になりつつあります。
もうブログのトピック的には、「旬を過ぎた」ものかもしれませんが、今回のことは「旬が過ぎた」で済ませてはならない要素があると感じ、長文にて書き記しておきます。

「ゴーストライト」をどう考えるか?

問題を整理するために、佐村河内氏が

という風貌ではなく、最初から

という姿形であったとイメージしてください。

いかにも「現代のベートーベン」風の風貌は、佐村河内氏が偽装している時は偽装を助ける有効な小道具であったのですが、偽装が発覚した今は逆に胡散臭さを増幅させるものになっています。
「ゴーストライト」の問題だけにフォーカスして考えるには、「素」である、小太りのおじさんであるところの「佐村河内氏」をイメージして頂きたいのです。

さて、佐村河内氏と新垣氏と両方の会見を突き合わせて、真実と思われることは、

ゲーム音楽鬼武者」、交響曲「HIROSHIMA」、ソナチネなど、世間では今まで佐村河内氏が作曲していたとされたものは、全て、佐村河内氏による「設計図」に基づき、実は新垣氏が作曲していたものである

・佐村河内氏は、専門的音楽教育を受けていないどころか、ピアノは弾けず(赤バイエル・黄バイエルのレベル)、譜面も書けない

・新垣氏は、現代音楽の分野では、第一人者としての実力を持ち、高く評価されている

・曲は全て、佐村河内氏から、金銭の提示と共に「発注」され、新垣氏がそれを請け負って作曲された

以上ですが、ここまでの真実に対して、私はどう思ったかと言うと、「何を今更?」というものでした。
こういう感じ方は、倫理観に欠けるでしょうか?
アイドル歌手がノートにメモした幾つかの単語を元に他人が構成したものを本人の「作詞」と称しているとか、楽器が弾けず譜面も書けない歌手が鼻歌で歌ったものを録音して他人が譜面に起こして大幅に「編曲」したものを「自作の曲」として売り出している、ということを、今までただの一度も耳にしたことがない方は、さぞ、この佐村河内氏と新垣氏がやってきたことに憤りを感じることでしょうが、この現代の世の中で普通にメディアに接している大概の方にとっては、よく考えるとそんなに驚くべき事であったでしょうか?実のところ。
これに関して「だまされた」と言っている方は、あまりにもナイーブすぎるのでは?、と思います。
寧ろ、私の驚きポイントは、現代音楽作曲家の俊英である新垣氏のような方が、たとえロマン派的な音楽を素晴らしく作曲できる能力があったとしても、本名を出しては発表できない風土になっている、という点です。
聞き手である多くの人々は、交響曲「HIROSHIMA」やら、彼のヴァイオリン・ソナチネのような音楽を求めているというのに、この時代に最も才能があるとされる作曲家が、それを提供することができないなんて!
新垣氏を擁護している音楽界の人々が書いていらっしゃるものでも、この点について触れられていないのがとても不思議でした。
新垣氏の才能を評価しているのだったら、音楽界を挙げて彼に調性音楽をばんばん作曲させて、人々を感動させ、後世に名を残す作曲家にすべきではないのでしょうか。
それが出来ない日本の風土こそが問題にされるべきでは?
クラシック音楽では空前のヒットと言われた「交響曲 HIROSHIMA」、そのような音楽を長年求めていたクラシック・ファンは、クラシック音楽界のこの風土故に、求めている音楽を聞く機会を奪われていたのですから、怒りを向けるべきなのは、クラシック音楽界の体質なのでは?
新垣氏が、氏の本業でないほんの手すさびの余技であったとしても、本名で調性音楽を発表できれば、発表できる風土ならば、佐村河内氏のような人物が出る幕もなかったでしょう。
佐村河内氏が会見の中で、新垣氏の突然の暴露の理由は「音楽の師であり大御所の三善晃氏が昨年末亡くなって、師に叱責される恐怖が無くなったからではないか」と言っていましたが、これは一面の真実かもしれません。

そもそも、いつの頃からか定かではありませんが、作品に作者として書かれている名前と、実際に作品を作った人物とは違うであろう作品を、私達は許容し消費しててきたのではないでしょうか?それが良い作品であり求めていた作品ならば?
古くは(?)山口百恵氏の自伝とされる「蒼い時」というのは、メディア・プロデューサー残間絵里子氏の手によるものだということは大概の人(?)は知っているわけですし、解剖学者の養老孟司氏が書いたとされる大ベストセラー「バカの壁」は、後藤氏という編集者が書いたものだということは、「著者」養老氏自身がおおっぴらにしていることですが、それらを私達は当然のこととして許容し消費してきたわけです。
その他、芸能人やスポーツ選手や経営者が書いた半生記にしたって、多忙を極める本人が書いたものではないことを薄々はわかっていても、それは許容されており、私達は受け容れて読んでいます。
「出版界と音楽界では慣習が違う」というのなら、前述のように、アイドル歌手の「作詞」や、楽器が弾けない歌手の「作曲」は?
謡曲やポップスと、クラシックとでは倫理のラインが違うのでしょうか?
そうではなくて、消費する私達の側が、「パッケージ」で受け容れることに、(良し悪しは別にして)慣れてしまっているだけであって、ですから、私達は、「ゴーストライター」が書いた書籍や音楽を、大抵の場合、疑義も挟まず批判もせずに消費しているのです。
佐村河内氏の風貌や聴力障害の問題と、このゴーストライターの問題をはっきり分けて考えると、この問題は、世の中全体が憤慨して非難するほどのことであったか?
佐村河内氏がずっと一貫して、前掲の写真の2枚目のような姿形、どこにでもいる小太りのおじさん的風貌で活動していて、今回「実は、自分では作曲していませんでした、すみません。」と謝罪したとしたら、どうだったでしょう?
世論の怒りはここまでに至ったでしょうか?

出版物も、音楽も、今は全てパッケージで売られています。
本の表紙には、有名な「著者」(ゴーストライターの作であったとしても)のベストショット。着ている服、ポーズも、本の内容を最大限良くみせる演出になっています、それは当然のことです。
音楽も、CDのジャケットは勿論、アーティストの衣装もキャラもSNSでの発言も、全てパッケージになった状態で、売られています。
それは良い悪いではなく、いつの頃からか、そうやって「パッケージ」で作品の魅力を最大化して売ることが普通になっており、私達も、いつの頃からか、それを当然と受け容れてきたんじゃなかったのでしょうか?
長髪に髭にサングラス、杖をついて、という風貌もまた、彼にとっては「パッケージ」の一部だったのだと思います。
冷静に考えると、長髪も髭もサングラスも、実は「難聴」を装うこととは無関係なのですよ。
これらの小道具を装っているだけでは、「全聾」の演出にはなりません。
小太りのおじさんが狙ったのは、「クラシック音楽の作曲家」を装うことです。
杖は、「聴覚障害から来る、バランス感覚の喪失を補うため」とのことですが、「長髪・髭・サングラス」は「難聴」を装うものではなく、「クラシック音楽の作曲家」としての装いなのだとしたら、それは、ハイヒールとスーツを着こなして「知的なキャスター」を装ったり、作務衣を着て「こだわりのラーメン屋」を装ったりするのと、どこが違うのか?
つまり、佐村河内氏、新垣氏、そしてレコード会社も含めて彼ら関わった人間全員が「佐村河内守という作曲家」を、ゴーストライト、長髪・髭・サングラス、CDジャケットの演出など全てを「パッケージ」して世の中に提供し、消費する側も「パッケージ」で受け容れていただけであり、「だまされた」という怒りは、それらを踏まえて冷静に量られるべきでは?と思いました。
私達が、「素晴らしい交響曲を作曲した、被曝2世の全聾の作曲家」という設定を、何故やすやすと信じてしまったのか?を自問すると同様に。




聴覚障害についての、余りに酷いマスコミの無知

さて、今回の件で佐村河内氏が叩かれているのは、ゴーストライター問題よりも、「全聾」を装っていたことではないか、と記者会見の動画を見て、私は思いました。
結局マスコミも含めて人々は、そちらに対しての「騙された」という怒りの方が強いのでしょう。
当たり前です、どんな形であれ障害を偽装していたのならば、どれだけ断罪されても足りません。
しかし、今回「聴覚障害」ということに関しては、彼の発言は真実かもしれない、と私は感じました。
私の身近に、突発性難聴による聴覚障害を持つ人間がいるので、私は記者会見での記者の不勉強ぶりがよくわかりました。
否、「不勉強」では済まされない、マスコミとして正義の味方を気取っていながら実は「聴覚障害」については何も知らない偽善さえ感じました。
彼は、確かに「全聾」ではありませんが、極めて重い難聴であることは確かです。
佐村河内氏は、「聴性脳幹反応検査(ABR)で、『右が40デシベル、左が60デシベルで感知する(普通に聞こえる人は、10デシベルで感知する)』感音性難聴である」と、診断書を示して会見で言っていました。
このABRという検査は大雑把に言ってしまうと、いわゆる本人が「聞こえる/聞こえない」を申告する普通の聴力検査とは違って、本人が誤摩化しようがない聴力検査です。
「本当は耳が聞こえるに違いない、それを暴いてやろう」と記者たちが会見に臨むのならば、会見中にわざと携帯を鳴らしたりして佐村河内氏の反応を見る、というような、幼稚で姑息な手段をとる前に、「ABR」と「感音性難聴」という言葉の意味くらい、手持ちのスマホでさくっと調べてほしいものです。
ほんのちょっとそれらの言葉の意味を調べれば、「何故、補聴器をつけて聞こえるようにしないんですか?耳が悪い自分の方が都合がいいからでしょうか?」と、まるで佐村河内氏がわざと「聞こえない」状態でいるかのような質問はしないはずなんですが。
極悪人であっても聴覚障害者の一人である佐村河内氏に、検査の意味を理解していれば到底できないであろう、障がい者を愚弄するようなそのような質問をすることは、倫理にかなっているのか?
高齢者が補聴器によって「聞こえ」を改善させているのは、それは「伝音性難聴」だからであって、「感音性難聴」の場合は、補聴器を使っても「聞こえ」が改善しない場合が殆どなのです、これもちょっとググればわかることですけどね。
突発性難聴」という言葉は、近年よく聞かれます。
歌手や芸能人、歌舞伎役者でも、この病気に罹ったと言われている人が多いので、知られるようになったのだと思いますが、この病気は、原因不明、「或る日突然耳が聞こえなくなる」という点だけは罹った人全てに共通しているのですが、何もしなくても2〜3日で回復する人、入院してステロイドの点滴をして回復する人、同じように入院治療しても全く回復しない人、2ヶ月くらい経ってから回復する人、様々です。
また、体調や環境によっても「聞こえ」が変わることは、一人の患者の中でも多々あります、例えば、難聴の症状が安定してからでも、何故か今日は耳鳴りが酷くていつもより「聞こえ」が悪いとか、逆に今日は嘘のように耳鳴りが治まって「聞こえ」がよいとか。
「原因不明」と書きましたが、ウイルス説あり、また、睡眠不足や慢性疲労、ストレスなどが原因とも言われています。
時間が不規則な仕事で、ストレスも多いであろうマスコミで働く方々の中にも、この突発性難聴を患う方は少なくないのでは?と思うのですが、それにしては、「難聴」に関する知識が乏しい、いや、会見に臨むにあたって下調べすらしていないのではないか、と、会見を見ていて思いました。
結局マスコミは、佐村河内氏を「現代のベートーベン」と大々的に持ち上げた時と同じで、今回は「本当は聞こえているんじゃないの?」という固い固い臆見に凝り固まっているだけです。
前述のように、回復の仕方は人それぞれで、全く回復しない人もいれば、静かな部屋で一対一だと話は聞き取れるくらいに回復する人もいます。
しかし、そこまで回復した場合でも、大勢ががやがや喋っている場所では、佐村河内氏が何度も会見で言っていた言葉通り、「音としては聞こえるけれど、割れてしまって言葉としては意味をなさない」状態なんだそうです。
これは、片方の耳だけが難聴になった場合も同様だそうです。
もし、あなたの知り合いが、そういう状態の聴力障がい者だった場合、あなたはしばしば誤解するかもしれません。
彼/彼女が、皆が談笑している時に、普通に一緒に笑っているのを見て、「本当は聞こえてるんじゃないの?」と。
カフェで数時間も彼/彼女と一緒にお喋りできたから、「本当は聞こえてるんじゃないの?」と。
かなりうるさい場所で、彼/彼女に話しかけたら、すぐに返答されたから、「本当は聞こえてるんじゃないの?」と。
実際は違うと思います、一緒に笑っているのは、「話は聞き取れてないけど、『空気』を読んで、訳もわからず笑っている」だけかも?
カフェで「お喋りした」とはいっても、彼/彼女が一方的に喋っていただけで、それは「質問されると、聞こえなくて何度も聞き返したら相手に嫌な思いをさせるから、一方的にこちらから喋って雰囲気を壊さないようにしている」だけかも?
難聴で聞こえない状態だと逆に、聴力以外の感覚全てを動員して、相手が何を言おうとしているかを感じることに神経を使うそうで(だから、とても疲れやすいらしいのですが)、言わば、常に全身の全感覚で「予測変換」をしていて、それがたまたま当たっただけなのかも?
例えて言うなら、英語圏に行った時、相手が喋る英語が50%しか聞き取れなくても残りの50%はあらゆる想像、予想を動員して意味をとろうとしたりすることやら、皆が誰かが早口で言ったジョークに笑い転げている時に、聞き取れていなくても一緒に笑う振りをすること、と同様です。
佐村河内氏が、ゴーストライターに書かせた曲を自作の曲だと偽り、震災の被災地の少女や義手の少女をだましていた極悪人であることは事実だとしても、彼に「聴覚障害」があることもまた、同じく事実なのではないかと、私は会見を見ていて思いました。
新垣氏が、自身の会見で、「佐村河内氏の耳が聞こえないと思ったことは一度もない」と発言していました。
新垣氏がそう「感じた」ことは事実でしょうが、相手が佐村河内氏ではなく、同じ程度の感音性難聴を患っている人が相手でも、新垣氏は同じように感じると思います。
例えば、私が知っている「難聴」を持つ人物(ABRの検査結果が佐村河内氏と同じ程度)が、新垣氏と静かな喫茶店で一時間話したとしたら、新垣氏は「相手の耳が聞こえないと思ったことは一度もない」と言うと思います。
新垣氏は自分が感じた通りに発言しているので、「嘘をついている」とは思いませんが、彼もまた、「難聴」という障害に対する理解がない状態での発言であると感じました。
更に、佐村河内氏の「聴覚障害」が重い、否、重かったことを確信させるのは、彼が手話を学んでいることです。
想像してみてください。あなたが突然難聴になったとして、生まれついての難聴ではないので「話す」ことに関しては普通に話せる状態で、また「空気を読む」ことや、全感覚での「予測変換」やらで、失敗はあっても、「難聴」と知られずに他人とコミュニケーションを辛うじてとれている場合、「手話を学ぶ」という方向に踏み出せるかどうか?
友達が誰かのジョークで大笑いしている輪の中で訳もわからず一緒に笑う、という孤独が筆舌に尽くせぬものであっても、それでもなかなか「手話を学ぶ」こと、即ち自分の「難聴」を認めることは難しいのです。
佐村河内氏が、手話を学んでいるということは、それは取りも直さず、「難聴」である自分を認めたところから始まっているのであり、また現実生活の中で、少なくとも或る一時期には「空気を読む」やら「予測変換」ではやっていけないレベルの難聴であったからだとしか思えません。
彼の会見では、数年前から「聞こえ」が回復しているとのことですが、それは普通に聞こえる人が想像する「回復」ではなく、「ほとんど聞こえない」状態から、「空気を読む」「予測変換」が使える状態くらいまでの「回復」、それも極めて低いレベルで、ではないのか、と想像します。
勿論、障がい者手帳を受け取る資格がなくなっているのに返納しなかったことは厳しく糾弾されるべきです。
ただ、佐村河内氏に限らず、この「聴覚障害」というのは極めてデリケートな症状で、人により千差万別、外見からは障害のレベルがわかりにくい(ABRでは確実にわかります)、そもそも医学的にも治療法もなければ薬もない、というものです。
謝罪会見で、彼がABRの結果を出して「難聴」のレベルを示しているというのに(どうも、彼はそれによって、記者を納得させられたと思っている節があります)、会見の間も、「本当は聞こえるんでしょう?」的質問に多くの記者が終始し、会見後には、実際は長時間であった会見を「切り貼り」して、さも佐村河内氏が「本当は聞こえている」ように見える場面だけを動画にしたものが、ネット上に出回っているのは、実は、聴覚障害を持つ方々全員(佐村河内氏を含む)に対する重大な非礼ではないでしょうか?
歌手や歌舞伎役者で、突発性難聴から聴覚障害を患った人には、「本当は聞こえるんでしょう?」などという暴言は浴びせなかったのに。
多忙を極めるマスコミの記者である彼らの中で今後何人かが、突発性難聴という形で同じ状態になった時に、自らの酷い行い、暴言に気付くのでしょうか?
また、会見後に、当然のように佐村河内氏を批判、非難、糾弾する文章が、ネット上に数多溢れたわけですが、その中で、冷静に「ABR検査の意味」を少しでも調べて書いたものがどれだけあったでしょうか?
少なくとも、私は一つも目にしていません。
以下の実際に聴覚障害を持つ方々の発言を、是非知って頂きたいですし、あの記者会見で無礼な行いをしていた全ての記者の方々(特に、ABRの意味もわからず、彼の障害を笑い者にした「遠山」という記者の方)にも、是非読んで頂きたいと思います。


「聞こえないこと」の意味を理解するために (←長いコメント欄も是非)

佐村河内守を嫌いになっても、聴覚障害で遊ぶことはやめてください! 


親を亡くした被災地の少女や、身体障害者の少女との関わり

これは、佐村河内氏の所業の中で、最も許せないことだと思います。
多感な時期、しかもそれぞれその年齢の少女としては背負いきれないようなものを背負っている二人の少女を、かくもショッキングな事件に巻き込んでしまった罪は、断罪してもしきれないほどのことです。
謝って済むものでは到底ないことですが、会見で、何故彼女たちを関わったのかを聞かれて、彼はこう答えました。

あの子やおばあちゃまは本当に大好きで、この子に小さな光が届けば良いと思って、やったことは真摯な気持ちでやっておりました。

僕はみくちゃんがそういうハンディを乗り越えて、ああいう大きな舞台に立った時にとても温かい拍手を頂いたと聞いているので、それでよかったと思ってますけど。


この脳天気なまでの無神経さ!
佐村河内氏は、自分が犯してしまった罪の重さをまるでわかっていないと思います。
私は、動画が流れるPC画面のこちら側で、一人で激しく憤っていたのですが、会見場では、この件について質問したのは、2人の記者のみ。
その2人の記者が問題にしたのは、「『パパ』と呼ぶように強要したのか?」「何故舞台の上で義手をとるように言ったのか?」という、言わば、問題の枝葉にあたることであり、しかも追求が中途半端。
この問題こそ、佐村河内氏からの、心からの反省と謝罪がなされるべきことなのですが、上記の彼の発言からわかるように、彼は全く反省していないどころか、それを正当化しています。
嘘で偽装した上であっても、一時期彼は、一般人が持ち得ないパワー、即ち「影響力」というものを手にしたわけで、その快感を忘れられないようなのです、言語道断なことに。
この期に及んで、「真摯な気持ちでやっていた」「それでよかった」と発言する非常識ぶり。
それほど、「影響力」というパワーは、甘い蜜の味なのでしょう。
前述のように、楽曲の「ゴーストライト」ということやら、「難聴の程度」を偽っていた、ということよりも、「影響力」を使って二人の少女を巻き込んでしまったことこそ、今回の「謝罪会見」という場で、マスコミが最も激しく糾弾すべきことでした。
しかし、実際はなされませんでした。
今回の事件で、本当に深刻な被害を蒙ったのは、前述の二人の少女です。
コンサートがキャンセルになった企画会社でもなく、レコード会社でもなく、音楽出版社でもなく。
ゴーストライターを使っていた作曲家に「市民賞」を与えてしまった自治体でもなく。
ゴーストライターが書いていたとは知らずに、「現代のベートーベン」の一連の曲を聞いて感動していた消費者でもなく。
勿論、ついこの間まで「現代のベートーベン」と持ち上げていたマスコミでもありません。
そもそも、この二人の少女がこの「佐村河内問題」に巻き込まれてしまったのには、マスコミも手を貸しているのです。
被災地の少女ですが、NHKスペシャルの番組において、あそこまであの少女をエピソードの中に組み込むことは必要であったのでしょうか、適切だったのでしょうか?
あのNHKの番組を見ていて、佐村河内氏の胡散臭さを一番感じたのは、あの少女との関わりの場面でした、番組中結構長い時間を割いていましたしね。
制作側のNHKとしては、「被災地の少女」というファクターをどうしても詰め込みたかったのでしょうが、あの少女のこれからの生活やら人生に関して、仮に「佐村河内問題」が起こらなかったとしても、配慮や気配りはなかったのでしょうか?
当時「全聾の作曲家」と信じられていた佐村河内氏の、作品にのみフォーカスした番組であっても良かったのでは?
被災者、被爆者、障がい者、少女。そういう人々を番組に登場させることが、「演出」にならないように細心の注意を払うべきなのに、NHKが最近出した番組検証の文書では、それには触れられていません。
また、実際には新垣氏が作曲し、佐村河内氏の名前でソナチネを献呈された「義手のバイオリニスト」である少女ですが、この少女もまさに大人たちに翻弄されています。
元々、新垣氏はこの少女が幼稚園の頃から、バイオリンのピアノ伴奏をしていたそうです。
そういう極めて親しい間柄であっても、新垣氏は自分の名前で、調性音楽の楽曲を彼女のために作曲することはできなかった、というのですからね。
自分が作曲したソナチネを、佐村河内氏の名前でこの少女に捧げている、というこの何とも大人の事情の捩じれた事実もまた、少女を傷つけていることには変わりありません。
一方、今回の告発の端緒となった文春の記事を書いたのは、この少女を題材にしたノンフィクションの児童書を出版(2013年1月刊)している、ジャーナリストの神山典士氏という方です。
今現在この本は出版停止になっているようですが、それはまだバレる前の佐村河内氏と彼女の出会いのことがこの本にエピソードとして入っているからのようですが、神山氏も本を執筆した当時は、佐村河内氏の偽装の数々には全く気付かなかったのでしょう、しかし、それは「気づかなかった」」と済ますことができるものなのか、ジャーナリストとして?
1年前に出版されたということは、「佐村河内人気」にも乗っかったはずなのに。
この少女に関しては、佐村河内氏に騙されていただけでなく、旧知の新垣氏にも或る意味ずっと騙されていたわけであり、NHKの例の番組でも「佐村河内氏に曲を献呈された少女」として取り上げられ、自分を題材にしたノンフィクションを書いた神山氏が文春で告発した記事によって、渦中の人になってしまった、という、大人たちに翻弄され続けた酷い話であり、本当に怒りを禁じ得ません。
結局のところ、NHKも他のマスコミも、この記者会見で、佐村河内氏に猛省させ謝罪させるべき一番のポイントを糾弾する資格はなかったわけです。







物事がもっと単純だと、トピックを消費していく側もラクなのですが。
佐村河内氏が「聴覚障害を偽装している」100%の極悪人で、ゴーストライターだったことを勇気を出して告白した新垣氏は100%良い人で、記者会見でこの問題を厳しく追及するマスコミは100%正義の味方、ならば、話は簡単だったのでしょうが、現実は複雑です。

会見から2週間以上過ぎてからのエントリーになってしまって、このまま下書きに入れておこうかとも思ったのですが、敢えてアップさせて頂きます。

「帰ってきたヒトラー」を読んで 雑感 この本がドイツでベストセラーとなった意味


帰ってきたヒトラー 上

帰ってきたヒトラー 上

帰ってきたヒトラー 下

帰ってきたヒトラー 下



帰ってきたヒトラー Er ist wieder da.」
ストーリーは、単純です。

第二次世界大戦末期、ピストル自殺をして遺体はガソリンで焼かれたはずのヒトラーが、2011年の8月、ベルリンの空き地で目覚めます。
彼自身、何故そこにいるのかはわからないものの、戦前の記憶はそのまま。
現代に甦ったヒトラーは、生前のままに意見を言い、行動しているだけなのに、人々はそれをコメディアンが風刺としてやっている「芸」だと思い込んで、もてはやす。
最初は人気番組のキワものゲストであったが、徐々に人気と影響力を得ていき、あれよあれよと言う間に、何と国家権力に手が届くところまで状況が進んでしまう。


・・・という話なんですが。
この物語は、最初の設定(=ヒトラーが何故か現代に甦る)こそファンタジーですが、それ以外は一切ファンタジーはない状況設定で、徹頭徹尾、現実に即して描かれています。
そして、「いつ化けの皮がはがれるのだろう?」「いつ『ヒトラー』が自らの過去の過ちに気付くのだろう?」と思いながら読み進めると、全く裏切られてしまいます。
化けの皮は剥がれません、何故なら、彼は本物の「ヒトラーであり、彼自身、常に自分自身でいるから、です。
自らが犯した過去の重大な過ちについても、彼自身が現代の思想に触れて反省するどころか、第二次世界大戦についての清算を絶えずしてきたと言われているドイツ人の心にさえもまだ残っている未清算の事柄を、彼は、悪魔的なまでな巧みさで、白日の下に晒していくのです。


で、ここからは、長文、ネタバレになりますが、私の感想を綴ってみます。


コミュニケーションとは何?

前述したように、「ヒトラーが現代に甦っている」ということは、誰一人として気付きません。
何故なら、「お前は誰か?」「お前の本名は?」と聞かれて、彼が常に真実、「私は、アドルフ・ヒトラーだ。」と答えているから、なのです、この皮肉で、恐ろしいコミュニケーション。
彼が、「私は、アドルフ・ヒトラーだ。」と真実を言えば言うほど、受け取る側の方が勝手に、「これは、『芸』に徹しているのだ。」と誤解するのです。真実を述べている彼の責任ではありません。
滑稽なほど(実際、笑ってしまうほど滑稽な場面が盛りだくさん)、コミュニケーションが成立していないのです。
これは彼と周囲の人々、出会った人々との間の、直接のコミュニケーションだけではありません。
彼が出演するテレビ番組の視聴者も、番組内の彼の昔のままの演説を聞いて、それが彼の本物の主張であるのに、「これは、手の込んだ『風刺』である。」と勝手に受け取り、喝采を送ります。
更に、それがYouTubeに動画として流されると瞬く間に70万回(!)も再生されるのですが、動画を見ているユーザーも、勝手に「これは、政治批判のコンテンツである。」と受け取っているわけです。
彼が、「私は、アドルフ・ヒトラーである。」と言っているのに、誰も危険視しないのです。
ドイツは、基本法という憲法によって、ナチスに関連するものは全て禁止されているのことはよく知られていますが、物語の中では、この本物のヒトラーによる危険な動きに関して検察に告発しようとする動きがあったものの、それは打ち切られたということになっています。
その理由は、

アドルフ・ヒトラーが本当にヒトラーである可能性はなく、芸術家としてならばまったくの自由が与えられるべき


検察さえも、勝手に解釈しているわけです。
最初は、「ビルト紙」という実在のタブロイド紙が彼の真実を暴こうとするのですが、却ってヒトラーの術中にはまって、

才気あふれる意見をつぎつぎ発表する国民の真の代表者

と記事に書かざるをえない状況になり、やがて、同じく実在の「南ドイツ新聞」やら「フランクフルター・アルゲマイネ紙」やらもそれぞれ、

その情熱的な弁論は、一見ネオファシストそのままの単一的構造をよそおいながら、同時に、多元的もしくは直接的な民主主義的プロセスを激しく訴えるものである

国粋主義の狼が羊の毛皮をかぶるという本質的矛盾を見事に操っている

と、彼の「芸」を称賛することになるのです。
加えて、彼が出演した番組が、テレビ番組に送られる、ドイツで最も権威ある賞であるグリメ賞(実在)を受賞するに至り、誤解が誤解を生んで、立派な箔もつきました。
更に更に、彼がネオナチの若者に襲撃され怪我を負い入院するに至っては、

極右ナチの暴力の犠牲者

正当防衛をあえて行なわず、非暴力を貫いた

と、美しく誤解するのです。ここまで来ると最早お笑いですが、それだけでなく、そういう美談が完成した途端、怪我で入院中の彼のもとに、ドイツの実在の政党の実在の幹部がそれぞれ電話をかけてきて、彼を自らの党に引き入れて政治的に利用しようとするのです!
さすがに、「陰気くさいオーラを自信満々に放っている不格好な」「東独育ちの」女首相の党からは、まだ電話がかかってきていない設定なのですが。

(この方のことだと思われます、失礼な!)

発信側が「真実」を述べているのに、受信側が勝手にねじまげて解釈しているが故に成立しない、コミュニケーション。
しかも、その危ういコミュニケーションは、ヒトラーの時代にはなかった、テレビやYouTubeやネットで更に増幅してしまう危険があるということ。
それを、著者であるティムール・ヴェルメシュ(←ヒトラーなら、「非アーリア人種の名前」というはず)は、現代ドイツ「あるある」(←ドイツに住んだことがある人にとっては、膝を打つことばかりでしょう)を絡めて、丁寧に描いているのです。
この丹念な描写が、荒唐無稽な最初のファンタジー設定を乗り越えて、読者に対して説得力を得ているのだと思いました。


ヒトラーが、ボロを出さない理由、人々が彼を危険視しない理由は、このコミュニケーションの不成立に加えて、彼が過激な政治批判をしても、ユダヤ人問題については、テレビ番組では言及しないことにあります。
ドイツでは、ユダヤ人問題は絶対にジョークにはできないトピックです。
現代に甦ったヒトラーを、「政治風刺の芸人」と思って雇うことにしたテレビプロダクションの女性幹部は、彼を採用するにあたって、釘をさします、

ユダヤ人〉を決してネタにしないこと。これは、ここにいるみんなの総意よ。


と。
この場面だけは、ヒトラーの方が、勝手に解釈した結果、彼と、現代ドイツの常識人である女性幹部の意向は見事に一致してしまうのです。
というのは、ヒトラーにとっては、〈ユダヤ人〉問題は、「ジョーク」ではなく「マジ」な問題なので、「ネタ」などにはできないから、なのです。
それが、「ユダヤ人問題をネタにしないから、彼はちゃんと『常識をわきまえた』コメディアン、芸人なのだ」という視聴者の誤解を更に助長することになるのですが。

これだけ情報が溢れており、テレビにネットにメディアには事欠かないのに、人々は「見たいものしか見ない」。
本当の意味でのコミュニケーションが成立していない、のです。
その滑稽さを笑っていられるのは僅かな間で、すぐにそれは危険な状況になり得る、ということ。
コミュニケーションとはそもそも何なのか?ということを考えさせられました。


多くの支持者を集めることが簡単だというからくり

物語の中では、現代ドイツの社会問題が、甦ったヒトラーの目を通して、戦前と比較する形で、政治体制から人々の服装までさまざまに描かれます。同様に、ドイツに住んだことがある方なら、「あるある」と思われることでしょう。
・多くのトルコ人が移民として、ドイツ社会に根をはっていること
・政治家が、マスコミ受けを気にして軟弱になっていること
・1991年に「ドイツ再統一」がなされたというけれど、それには、アルザスやロレーヌ、シュレジエンなど戦前ドイツ領であったところが含まれていないこと
・ドイツ女性、とりわけ若い女性がスカートを履かず、ファッションが黒ずくめであること
・携帯をいじりながら道を歩く人が多いこと
・ゴミの分別が面倒くさいということ
スターバックスが街中にあふれ、店主が責任を持って客に接していた個人商店が減ってぎりぎりまで店員の数を減らしたセルフサービスのチェーン店ばかりになっていること
・シンプルで丈夫な製品がなくなって、複雑で不要な性能がついた製品ばかりになっていること
・中年を過ぎても、胸を強調する若作りのファッションに身を包む女性が多いこと
・結婚、離婚を繰り返し、自分の娘ほどの女性と結婚する男性がいること

・・・移民問題以外は、日本や他の先進国にも当てはまりそうなことばかりですが。
政治活動において支持者を獲得することは、実はすこぶる簡単だということがわかります。
自分の主張全てに賛成な人を集める必要はないのです。
国民が現状に対して持っている数多の不満を並べ立てれば、どれか一つでもそれがヒットすればその人は支持者になるのです。
多くの社会問題のうちの一つ一つに不満を持つ人々が、その一つの不満を解消してもらうべく甦ったヒトラーを支持すれば、甦ったヒトラーはそれらの人々の全体集合を味方につけることに成功するのです。
そして支持された側は、全ての論点に関して自らの思う通りに実行できるのです、何故って、かくも多くの支持を得ているから。
あれ?何だか似たようなことが身近になかったでしょうか?
経済政策に賛成したはずだったのに、いつの間にか、原発再稼働、憲法改正、道徳の教科化、靖国参拝にも賛成したことになっているどこかの国民が・・・。
経済問題、少子高齢化問題、失業問題、貧困・格差問題、教育問題、原発問題、環境問題、etc。
日本に限ったことではないかもしれませんが、本当に、現代は政治課題が多すぎて、政策を掲げての選挙がもう限界になっているのではないでしょうか?
物語の中では、甦ったヒトラーはまだ政治家にはなっていませんが、彼がいとも簡単に人々の心を捉え、支持者を増やしていく過程を、著者ヴェルメシュ氏は、恐ろしくも現実に即して示しているのです。



結果が全てであり、それを達成するための過程や手続きは二義的なものなのか?

これを言い換えると、「政策を実現させるためならば、主義主張が違っても、手を組むべきなのか?」ということです。
この物語の下巻、即ち後半部分で、或る程度「政治風刺のコメディアン」としての名声を得た、現代に甦ったヒトラーは、自らの番組を立ち上げますが、その番組のゲストに、何と、ドイツ緑の党の元党首、レナーテ・キュナスト女史(実在)を招きます。
ちなみに、緑の党は、ドイツでは4番目(事実上は3番目)の規模を持つ政党で、1998年から2005年までは、SPDと組んで連立与党の座にありました。
言うまでもなく、環境に配慮した政策(脱原発自然エネルギー促進、二酸化炭素削減)に加えて、女性の社会進出、人権の擁護、多民族多文化社会の実現を標榜しています。
そのキュナスト女史に、甦ったヒトラーは、お互いに手を結ぶことを提案して彼女を驚かせ、当惑させます。
ナチス緑の党が連携するなんて、現実社会でも仮定ですら想像できないことです。
甦ったヒトラーはこう言います。

エネルギーの輸入は極力ゼロに近づけ、水力や風力など再生可能な資源をもとに、エネルギーの自給自足をめざすこと。これが百年、二百年、あるいは千年後のエネルギー上の安全保障というものだ。あなたも、この点では多少なりとも未来に目を向けておられるはずだ。そして私が言いたいのは、あなたがめざしているのと同じものを、私もこれまでつねにめざしてきたということだ。

当然、キュナスト女史は反論しますよね。

ちょっと待って!あなたの場合は、理由がぜんぜん別でしょう?

至極もっともなこの問いこそ、甦ったヒトラーが待っていたもので、彼はこう続けます。

持続可能なエネルギー経済を推進するのに、理由が良いか悪いかが関係あるのか?風車に正邪の区別があるというのか?

この甦ったヒトラーの問いに、この物語の読者である現実の緑の党員、及び支持者の人々は、どう答えるのか?
これは、議会制民主主義のジレンマですよね。甦ったヒトラーいわく、「権力を掌握するためには国会で過半数をとる必要がある」のですから。
主義主張は一致しないけれど、政策が一致するから、目的のために手を組むべきなのか?
日本においても、この悩ましさは見られます。ここまで(極右とエコ政党が連携する)極端ではなかったですが、「脱原発」で元首相候補と、共産党推薦の候補が連携できるか否か、は、先日の都知事選においても提起された問題でした。
また現政権で自民党と連立を組む公明党も、憲法改正やら原発再稼働で悩めるハムレット状態です。
逆にみんなの党は「政策が実現できるのならば」と自民党との連携に動き始めています。
最近では、都知事選に出馬した田母神俊雄氏が、宗教法人「幸福の科学」が設立した大学の教授に招聘されるという報道がありました。
政治家にとっては、権力を取らないことには、どんな政策も実現できないわけです。
一方、有権者にとっても、自分の意見が政策として反映されることが一番大事なのですし、大体、日々の生活が忙しくて、政党間の駆け引きを注視したりするヒマなどなく、結果さえ良ければいいのだ、という気持ちになりがちです。
しかし、本当に、政党や個人は、「結果」だけを見て、目的の実現のためには過程をなおざりにしていいのか?
著者ヴェルメシュ氏のこの問いに、今、私達は答えられるのでしょうか?


歴史を直視することに関して、タフであるということとは?

この物語の山場は、下巻の29章です。
日本よりは遥かに真摯に戦争責任について向かい合ってきたと言われているドイツですが、そんなドイツのそんなドイツ人であっても、相当タフでないと読み通せないような問題が、この章にはてんこ盛りです。
ドイツでは130万部売れたという、この本ですが、この本を手に取った全てのドイツ人にとって、28章まではげらげら笑い飛ばして読んでいたとしてもこの29章は一番厳しい章であったことと思います。

先ず、この章では、甦ったヒトラーにプロダクションが付けた女性秘書、クレマイヤー嬢が、実はユダヤ人であり、祖母の一家は密告されガス室送りになり、祖母以外は亡くなっているという衝撃の事実が明かされます。
このクレマイヤー嬢は、現代に甦ったヒトラーが有名になる前から、彼にパソコンや携帯の扱い方を教え、メールアドレスを取得してやり、言わば、彼が現代に順応するのを大きく手助けした人物です。
クレマイヤー嬢は、祖母の家を訪れた時、「政治風刺のコメディアン」である(と彼女は思い込んでいる)甦ったヒトラーのもとで働いていることを祖母に告げた途端、祖母はもの凄い剣幕で怒り始め、涙ながらに孫娘であるクレマイヤー嬢に訴えるのです。

(おばあちゃんは)こう言った。あの男がやっているのは、笑いごとではすまない。笑ったりなんかできないことなんだ。あんな人間が大手を振って歩くなんてとんでもないことだって。
 だから、私は説明してあげた。あれは、ぜんぶ風刺なんだよ。もう二度とあんなことが起きたりしないように、そのためにやっている風刺なんだよって。でも、おばあちゃんは言った。あれは風刺なんかじゃない。ヒトラーが昔に言ったことを、そのまま繰り返しているだけだ。人々がそれを聞いて笑っているのも、昔とおんなじだって。

この物語の中で初めて、甦ったヒトラーは揺らぎます、いえ、罪悪感で揺らぐのでは全くありません。
先ず彼の頭に浮かぶのは、「(外見はとてもユダヤ人に見えない彼女の家族が殺されたのは)人違いであったのでは?」という脳天気なことです。次に、クレマイヤー嬢がユダヤ人であることが事実だとわかってからも、今回は、彼の方が、自分に都合が良いように解釈します、優秀である秘書を辞めさせないために、

そう、ユダヤの血が混じっていたらそれで終わりというわけではないのだ。ほかの遺伝的資質が十分に優れていれば、たとえユダヤ的な資質があっても、それを乗り越えることは可能だ。

こう考えて、彼は全力で彼女を引き止めに入るのです。そして、何と自分から祖母を説得すると言い出します。自分のオーラに絶対的自信があるからなのですが。

私の仕事にとってクレマイヤー嬢がいかに欠かせない存在かを話せば、おそらくばあさんは目を輝かせ、孫娘の代わりを探す必要などないと言ってくれるだろう。イデオロギー的にたとえ疑念があっても、ばあさんはきっと、自分の聞きたい話だけを耳に入れるはずだ。

30章以降もクレマイヤー嬢が甦ったヒトラーの秘書を続けているところを見ると、彼の説得は成功したのでしょう・・・何という、苦く恐ろしい成り行き!


次に、この章の中では、去年麻生財務大臣兼副首相が失言したのと同様のことが、提示されています。
「あの手口、学んだらどうかね。」というあの失言です。
この失言の前には、

ドイツは、ヒットラーは、あれは民主主義によって、きちんとした議会で多数を握ってヒトラーは出てきたんですよ?ヒトラーと言えば、いかにも軍事力で(政権を)取ったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから!ドイツ国民は、「ヒットラーを選んだ」んですよ?間違えんで下さいね、これ。

と麻生氏は発言されていますが、この29章の中でも、甦ったヒトラーの口から同様のことが言われます。

そして総統は、今日的な意味で、〈民主的〉と呼ぶしかない方法で、選ばれたのだ。自らのヴィジョンを非の打ちどころがないほど明確に打ち出したからこそ、彼を、人々は総統に選んだ。ドイツ人が彼を総統に選び、そしてユダヤ人も彼を総統に選んだ。もしかしたらあなたの祖母殿の両親も、彼に票を投じていたかもしれない。

そして、ドイツ人にとって最も琴線に触れることを彼は口にします。

真実は、次の二つのうちのひとつだ。ひとつは、国民全体がブタだったということ。もうひとつは、国民はブタなどではなく、すべては民族の意志だったということだ。

これを聞いて取り乱したクレマイヤー嬢は、

おばあちゃんの一家が死んだのが、人々の意志であるわけがないじゃないの!あれは、あそこでーーーニュルンベルクで裁判にかけられた人たちが考え出したことよ

と反論するのですが・・・。
身も蓋もなく言ってしまうと、ヒトラーが言っているのは、民主的選挙を経てナチスが政権をとったことを前提として、

・国民全体がブタ→ドイツ人全体が、ホロコーストという非人道的な政策を実行した愚かにして低劣なブタであった。
・国民はブタなどではなく、すべては民族の意志だった→ドイツ人は愚かでも低劣でもなく、ホロコーストはドイツ人の総意で採った政策だった。

それに対してクレマイヤー嬢は、

ホロコーストは、ニュルンベルク裁判で戦犯として裁かれたナチスの人々が国民を欺いて考え出したことであり、ドイツ国民に責任はない

と、言っているわけです、このクレマイヤー嬢の見解が、ドイツでも一般的だと思いますが。

「ドイツ人全体がブタだった」というのは、いわゆる自虐史観ですね。
大多数のドイツ人は、戦後から現在に至るまで、ナチスが悪い。ドイツ国民に責任はない」という論理を受け容れてきたのですが、著者ヴェルメシュ氏は、それに対して「それで十分なのか?」と厳しく迫っているのです。
誰しも自分の国を誇りたいですし、自分の国がブタだったとは思いたくないですから、自虐史観から逃れようと思うならば、甦ったヒトラーが示した「ドイツ人全体がブタだったか?/民族の意志だったか?」という二者択一のうちの、「民族の意志だった」という選択肢を採りそうになってしまう、という落とし穴になっています。
この29章では、読者であるドイツ人が、これまでの「悪いのはナチス。ドイツ人には責任はない。」という立場から更に進んで、「ドイツ人全体がブタだった」という苦い選択肢を採れるかどうか、が試されているのです。
私の個人的意見ですが、合理主義者にして堅実なドイツ人は、この苦い選択肢を選べるに足るタフさを持っていると思います。
それは、第二次世界大戦後、国全体として、そして国民一人一人が積み重ねてきた全てのものに自信を持っていると思うから、です。
歴史上何度も戦ったフランスと手を取り合ってEUを支え、幾多の困難を乗り越えて東西ドイツを統一し、国民レベルでも和解と協力がなされた結果、独仏が再び戦火を交えることは、今日極めて非現実的になっているから、です。
甦ったヒトラーは、第二次世界大戦後の独仏の宥和を「知識」として知ってはいますが、彼が彼の弁論術の全てを尽くしたとしても、過去70年という年月をかけて築き上げられたものをなし崩しにすることはできない、という自信が、現代のドイツ人にはあるのだと思います。
その自信がなければ、つまり、この本によって「ヒトラーと戦前のドイツ礼讃」にドイツ国民が傾く危険性が僅かでもあれば、逆にこの本は発禁処分にされていたでしょう。
この本が出版され、しかも130万部を売り上げるベストセラーになったということは、ドイツ人の自信の表れなのです。

この物語を傍観者のように読んできた私は、ここでハタと自問してしまいました、「日本人は、これだけのタフさがあるのだろうか?」と。
東京裁判で戦犯とされた戦争指導者が悪かった。日本人には責任はない。」という見方さえ否定する(「戦勝国の裁判であって、戦犯にも責任はない」)人々がいる日本で、「日本人全体が、ブタだった。」と認める「自虐史観」に耐え得るタフさが、日本人にあるでしょうか?
自虐史観」という言葉には、私も反応してしまいます、誰だって、自分の国の不名誉な部分は認めたくない気持ちはありますから。
しかし、現代ドイツ人は「自虐史観」でさえ飲み込めるタフさを持つことを、この物語によって求められていることを思うと、いかにも自分のひ弱さを感じてしまいます。
日本人は、戦後70年という短くはない年月の中で、果たして歴史を直視するタフさを得たのでしょうか?



この物語がベストセラーになった意味

物語の最後で、この現代に甦ったヒトラーは、

悪いことばかりじゃなかった。Es war nicht alles schlecht.

というスローガンで、更に活動を続けることになるのですが、このスローガン、またしてもどこかで聞いたことがありませんか?
「日本が戦争中、それまで欧米の植民地だったアジアの国々を解放し、善政を敷いた。」
とか、
「日本は韓国を併合して、教育やインフラの整備をした。」
とか、です。
それはさて置いて、この物語は、このスローガンを掲げて、甦ったヒトラーが今度は本格的政治活動に乗り出すところで終わります。
さて、物語の先、ドイツはドイツ人は、どの方向に進むのか?

「悪いことばかりじゃなかった」とは、何とも巧妙なスローガンです。
一つでも「良いこと」があれば、正当化されてしまうかの如きです。
美化された過去として補正もされた「良いこと」を懐かしむのは、誰にとっても心地よいことです、現実に対する不満を暫し忘れることもできますし。
反対に、誰にとっても、忘れたい過去の「悪いこと」を突きつけられ、見たくないものを見る作業は辛く苦痛を伴うものであり、出来れば逃げ出したいことです。
政治家にとっても、選挙の票にもならない、有権者の耳が痛くなるようなことを主張するのは、やりたくないことでしょう。
寧ろ政治家がナショナリズムを煽って、「ドイツ人はブタではなかった」と信じ込ませ、国民はそれを信じるフリをする方が、どれだけ簡単なことか。
しかし、その困難な作業をやり抜く事こそが、現代を生きる国民だけでなく次の世代の国民にも、真の誇りを与える方法だと合理的に結論を出し、戦後70年間に渡ってやり続けた国があります。
それが、ドイツという国であり、だからこそ、この「帰ってきたヒトラー」がドイツで出版を許され、ベストセラーとなっているのだと思いました。

田母神氏と宇都宮氏は、実はよく似ている


今回、共に東京都知事選挙に出馬した、田母神俊雄宇都宮健児は、実はよく似ているのではないでしょうか?

いえ、どこにでもいるような小柄な昭和のおじさん、という外見の話ではありません。
ネアカでサービス精神たっぷりの話し好きのおじさん、というキャラの話でもありません。
勿論、共に固定ファンプラス新規のファンを集めたものの落選、という都知事選の選挙結果についてでもありません。



生年 出身地 出身高校 出身大学 大学卒業後のキャリア
田母神俊雄 1948年 福島県郡山市 県立安積高校 防衛大学校 航空自衛官航空幕僚長
宇都宮健児 1946年 愛媛県東宇和郡高山村 県立熊本高校 東京大学 弁護士→日本弁護士連合会会長

以下の記述は、下のリンク、著書に基づいています。

宇都宮けんじってどんな人?:希望のまち東京をつくる会 宇都宮健児さん|魂の仕事人|人材バンクネット
「田母神流ブレない生き方」(Kindle版)田母神俊雄



お二人とも、戦後間もない頃のお生まれの団塊の世代(「団塊の世代」とは1947〜1949年生まれの人を指すそうなので、正確には1946年生まれの宇都宮氏は、1年だけ早くお生まれです)で、厳しくも優しいご両親のもとで育ち、大学入学までは地方で暮らしています。
大学卒業後は、それぞれの道でトップにまで登り詰め、まだ選挙では当選はしていませんが、政治家としての道は「第二の人生」です。


宇都宮氏の父上は、何と復員軍人です、爆撃機の操縦士だったそうです。
特攻隊で命を落とす同僚もいた中、負傷して野戦病院に入っている時に終戦を迎えたそうです。
父親が元軍人で、というと、息子である宇都宮氏もまた、防衛大学校に入って軍人を目指す、というストーリーがあってもおかしくなかったですし、そうだったら防衛大学校で田母神氏の2年先輩だったわけですが。
その父上が復員した故郷が段々畑が連なり殆ど畑がない愛媛県の漁村、しかも父上自身が7人兄弟の6人目。
宇都宮氏と妹2人の3人の子供を抱えて食べられるはずもなく、一家は豊後水道を渡り、対岸の国東半島に入植します。
荒れ地の開墾に苦労する父親の後ろ姿を見て育った宇都宮氏は、当時の日本の少年のヒーロー長嶋茂雄氏に憧れて一時はプロ野球選手になって家族に楽をさせたいと野球に熱中。
しかし、身長が伸びず、体格的ハンディを感じて、県立熊本高校を経て、東大合格へと目標を変更し、そして合格。
そして寮費が安いということで入寮したのが、かの有名な「駒場寮」(←何が有名なのかは、ググってみてください)。
当時のトレンドの学生運動には参加しなかったものの、社会運動に目覚める。
その後は東大在学中に司法試験に一発合格し、東大を中退して弁護士の道へ。


田母神氏の教育観は、福島県郡山市農協に勤める厳しい父上に受けた教育に影響を受けたようです。
と言っても、当時は「子供が悪さをしたら、ぶん殴ってわからせる」というのは普通であったのでしょうが、自称「悪ガキ」であった田母神氏はいたずらをしては、父上に叱られて成長したとのこと。
ちなみに田母神氏にも宇都宮氏同様妹さんが2人いらっしゃるようです。
農村で食べ物には困らなかったとはいえ、決して裕福な暮らしではなかったようです。
小学校時代には、長嶋茂雄選手に憧れて、ソフトボールに熱中して、そこでも「リーダー的な存在」(本人による)であったそうです。
小学校の頃から、身長が低いことがコンプレックスであったと、氏自ら告白していますが、成績は中学では一番(本人による)、県立安積高校に進みます。
親戚に陸上自衛隊の三佐がいたそうですが、田母神氏自身は、父上から「防衛大学に行け!」と言われるまで、何と防衛大学の存在さえ知らなかったそうです。
当時毎年東大に5〜10人合格する進学校安積高校で、田母神氏は毎回学年で10番くらいの成績だったそうですから、「防衛大学へ」という父上の強い希望がなければ、田母神氏は東京大学に進学していたかもしれません。
防衛大学校に進学した理由の一つが「家計に貢献する」というものであったことを考えると、今度は逆に、寮費の安い「駒場寮」に入寮した田母神氏がそこで2年先輩の宇都宮氏と出会っていた可能性は十分あります。
そして、血気盛んな田母神氏のことですから、入学の翌年、安田講堂を占拠する学生の先頭に立っていたかもしれません。
↑ これは決して私の暴言ではなく、氏の父上が「気性が激しく負けん気の強い息子を一般の大学に入学させると、学生運動にのめり込むのではないかと心配」なさった故の、防衛大学だったそうですから。
田母神氏は全寮制で休みも殆どない厳しい大学生活を経て、防衛大学を卒業し、幹部候補生学校に入学。



幼少期を語るお二人に共通するのは、「貧しかった」「父親の影響」ということです。
終戦の翌年と3年後に生まれているお二人ですから、地方といえども食糧事情は良くなかったでしょうから栄養が行き渡らなかったのも当然ですし、世の中全体がまだまだ「終戦直後」の時代でした。
宇都宮氏の父上は、見知らぬ土地で一から開墾する姿を息子に見せ、田母神氏の父上は、中学を出て農協に勤めつつ本を読むのを欠かしたことがなく、幼い田母神氏もその影響で本を沢山読んだそうです。
田母神氏が防衛大学校に入学したのは、上述のように父上の希望に沿ったからでしたが、宇都宮氏の父上も氏の東大入学を殊の外喜ばれて入学式にはわざわざ九州から上京されたそうです。
体罰をも辞さない厳格な躾と同時に、強い父親としての後ろ姿を息子に見せ、息子の進路決定の主導権を持つ父親。
このような「古き良き時代の強い父親」は今では日本のどこを探してもいないと思います。
つまり、現代の日本で、宇都宮氏や田母神氏のような子どもを育てようにも、先ず「古き良き時代の強い父親が絶滅している」ところから話を始めないといけないのですが、強い父親が絶滅したのは、まさに宇都宮氏や田母神氏も属する団塊の世代・・・親子が友達のような関係になり、親といえども子供の進学先を強制でいない親子関係・・・であることを考えると、何とも皮肉なことです。



またお二人が示し合わせて言っているのではないか、と思ってしまうくらい似ているのは、ご自分でご自分のことを臆することなく、
「成績は良かった」
とおっしゃっていることです。
宇都宮氏も田母神氏も、きっと小学校では神童であり、中学校でも勿論学年で一番の秀才、地方の名門県立高校に進学した後も優等生であったのでしょう。
幼年期から高校卒業まで、常に「自分は同級生の誰よりも頭がよい」「自分はリーダーである」という意識を持ち続けると、その後の物の考え方がどうなるのか、とても興味深いところです。



そして大学卒業後、宇都宮氏は弁護士としてスタートし、田母神氏は幹部候補生として更に階段を上りますが、お二人共にここで「挫折」を経験しています。
宇都宮氏は、大手弁護士事務所にイソ弁として入所したのですが、口下手で押しも弱くて依頼人を開拓できず、二つの事務所を首になり、仕方なくサラ金問題を専門とする事務所として独立したそうです。
田母神氏は、防衛大学校卒業後に入った幹部候補生学校で、パイロット志望であったのに希望者100人の中からパイロットコースに進める35人の中には入れなかったのです。結果、田母神氏は「高射運用」の道に進むことになったのだそうです。
しかし又してもお二人に共通するのは、「挫折」を経て進んだ道で将来が開けて、結果的に日本弁護士連合会の会長やら航空幕僚長に登り詰めるところです。
そして、同世代ながら、日本の戦後、全く異なる道を歩んで来たお二人が、共に都知事候補として、先日の都知事選で相まみえたわけです。



日本にジェフリー・アーチャーがいたなら、彼の名作カインとアベル「運命の息子」のように、この二人の人生を日本の戦後史と絡めて長編小説で描いてほしいものですが。



人生が入れ替わっていても不思議はない、このお二人のこれまでの歩みですが、私には、このお二人は、戦後日本がなおざりにしていたもの、置き去りにしていたものを象徴しているのではないか、と思います。
何故このお二人が?
それは、お一人は、当時の「政治の季節」から全く隔絶した世界であった「自衛隊」で青年期から定年間近までを過ごし、お一人は、同級生が企業や官庁で高度成長やらバブルやらを牽引していたのとは無縁の法曹界で長年お仕事をしていらっしゃったからです。
60年代に地方の高校からダイレクトに防衛大学校へ入学するということは、当時程度の差こそあれ、同世代の若者が体制に反抗したり、少なくともそのような環境で自らも考えずにはいられなかった、というような経験が空白である、ということです。
在学中に司法試験に合格し大学を中退して法曹界に入るということは、東大の同級生が、大企業に入って日本国内にとどまらずどんどん世界に出て行ってメイドインジャパンの商品を売りまくったり、大規模プロジェクトを手がけたり、また官庁に入って政策で国を動かすという醍醐味を味わっていたり、というのとは無縁であったわけです。
団塊の世代の他の人々とは違って、反抗期もなければ、国際社会の中で経済成長を達成したという実感もない、稀有なほどピュアなお二人なのです。
ピュアだからこそ、このお二人は、タイムカプセルの中の小学校の卒業文集のように、セピア色の立ち位置なんだと思います、懐かしいけど、アレ、みたいな。


首都東京の知事選挙で、「共産党の推薦を受けて立候補する」というのは、本当に当選して都政を担う気があるのか?と、真意を疑ってしまうのです。
本気で当選を信じていたのでしょうか?
定数5の東京選挙区で共産党公認の候補者が当選した昨年の参議院選挙とかなら話は別ですが、現代の東京都のトップを選ぶ選挙で、共産党の支援を受けている候補者が当選するわけがない、というのは、私でもわかります。
まさか、1970年代の美濃部都知事時代が再来するとでも?
その後のバブルとその崩壊を経て、東京は資本主義で手に入れることが出来る最上のものが集まった都市なのです。
私は80年代のバブル期に大学生やってましたが、ブランドもののバッグ持った女子大生やらフィラのポロシャツ着てテニスのラケット抱えた男子学生が大勢通る大学の門に、「共産主義革命を成功させよう!」とか何とか書いた立て看板掲げて演説している学生を見て、言論の自由の有り難さというよりも、「この時代に正気の沙汰ではない」と思ったのと同様です。


また、田母神氏が自衛隊を辞めることになった論文(ネットで読める)を見ると、最初のページから、マトモな大人ならば即赤ペンを入れて添削したくなるくらい酷い。牽強付会、例えになっていない例えのオンパレードです。
特徴的なのは、今までの歴史の見方を覆すようなことをわかりやすい比較と共にわかりやすく提示して、「なるほど、そういう見方もあったのか!」という錯覚に読者をして陥らせる、しかしその見方は偏向しており、そして浅いことです。
中学校1年生くらいで学年で一番頭が良く、口も立つ生徒が大人に対して言いそうなことです、「日本軍は、良い事もたくさんやったんでしょ?」「他の国も、侵略とかやっていたのに何故日本だけが悪者なの?」と口を尖らせて大人に質問する、っていうような。
それを聞いているクラスメートの中に、彼が大人に対して勇ましく質問をしているということだけで、内容を深く考えもせずに彼に心酔してしまう者もいるかもしれません。
彼が言っていることは間違っているとぼんやり思っていても、その根拠を上手く言語化できないので、黙ってしまっている者も多いでしょう。
この質問に対して、日教組とか関係なく、教師が一人残らず自信を持って答えられるように、この間違った歴史観を一瞬で論破できるような日本の学校であらねばならなかったのですし、世の中もそうでなくてはいけなかったのです。
例えば、ドイツで「ヒトラーは、アウトバーンを建設したり良いこともした」と子供が言ったら、全ての大人は即座にそれを論破するでしょう、「そ、そうだね、良いこともしたかもね。もごもご。」には絶対にならないと思います。
それに対して、日本は・・・、60歳半ばのピュアなおじさんに、誰も今まで論破を試みたことはなかったのでしょうか。


ちなみに、ドイツ(西ドイツ)は戦後独立して間もなくネオナチこと極右の「社会主義帝国党」の活動を禁止すると同時に、「共産党」の活動も禁止しています。
日本人の理解を越えるほど合理的なドイツ人です、極右と極左を予めぶった切って、安心感のある政治を現実的に進めるためであったのでしょう。


翻って、今回の都知事選も、もし田母神氏も宇都宮氏も立候補していなかったら、争点はもっと明確であったのではないでしょうか?
舛添氏VS細川氏で、それ以外は泡沫、有権者にとってはわかりやすかったと思います。
本来はずっとずっと以前に、このお二人の立場は清算され回収されていなくてはならなかったのでは?と思ってしまうのです。
団塊の世代の皆様には、皆様の同世代である、エクストリームに左右両極の田母神氏と宇都宮氏、このお二人の物語に是非、合理的ピリオドを打って、次の世代にまで持ち越さないようにして頂きたいものだと思います。


何故か自民党には、団塊の世代の大物政治家がいないのだそうです。
なので、団塊の世代から総裁を出すことなく既に1954年生まれの安倍氏が、1年半前から総裁です。
民主党団塊の世代の政治家、といえば、菅直人氏、鳩山由紀夫氏、仙谷由人氏・・・もうやめておきましょう。
こんな状況だからなのか、嘗て自民党を蹴って出た舛添氏が、自民・公明の支持を受け、細川氏並びに田母神氏と宇都宮氏を破って、都知事選挙で当選しました。
舛添氏は実は田母神氏と同じ1948年生まれ、2年年長の宇都宮氏と同じく東京大学に入学し、三鷹寮で政治の季節を過ごしたそうです。
舛添氏もまた、「政治家」は、長年学者をやってきた後の「第二の人生」です。
団塊」というからには、マス(mass)のはずなんですが、そのmassの中に、今胸突き八丁に来ている日本の政治を託せる人がいなかったり、また都政を、プロの政治家ではなく、第二の人生の職業として政治家を選んだ人物に託すことになるのは、何故なんでしょう?
よく似たこのお二人を見て、考えてしまったことでした。




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