*忘れられかけている頃に考える、「佐村河内」問題

3月7日に行なわれた、佐村河内氏の謝罪記者会見、ネット上の動画で全部を見ました。
2時間半を越える長い会見でした。

会見後の報道やネット上の意見では、佐村河内氏への批判や非難は、会見前よりも寧ろ厳しく激しいものになっています。

私は、少し違う感想を抱きました。

一ヶ月程前の新垣氏の会見の時には、新垣氏がゴーストライターをしていた事実を自ら告白し謝罪した勇気に一種の感動を覚えましたし、その後新垣氏を擁護する、音楽関係の識者の方々の書いたものを読んで、新垣氏が、素晴らしい才能と人望を持つ人物であることも理解しました。

しかし、今回、佐村河内氏の会見を見て、どんなことに関しても片方だけの意見を聞いて判断を下すのは慎まなければならない、と深く感じた次第です。

今回の問題は、単に「ゴーストライターが存在していた」というだけでなく、佐村河内氏が、「現代のベートーベン」として「全聾の作曲家」を装っていたことが絡んで、複雑になっています。
複雑に絡んだ問題を、時間と手間をかけて解きほぐして考えるのは、はっきり言って面倒くさいことです。
私達は忙しい。プライベートな問題だけでなく、世の中どんどん新しい社会問題、政治問題、国際問題が打ち寄せてきます。
佐村河内氏の謝罪会見の後も、震災から3周年、小保方氏問題、消費税増税はもう目の前、国会では集団的自衛権が問題になっていますし、気がついたらロシアの領土が増えてしまっています。
佐村河内氏の問題は、もう私達の目の前を右から左へと流れて行ってしまって、既に「過去の問題」になりつつあります。
もうブログのトピック的には、「旬を過ぎた」ものかもしれませんが、今回のことは「旬が過ぎた」で済ませてはならない要素があると感じ、長文にて書き記しておきます。

「ゴーストライト」をどう考えるか?

問題を整理するために、佐村河内氏が

という風貌ではなく、最初から

という姿形であったとイメージしてください。

いかにも「現代のベートーベン」風の風貌は、佐村河内氏が偽装している時は偽装を助ける有効な小道具であったのですが、偽装が発覚した今は逆に胡散臭さを増幅させるものになっています。
「ゴーストライト」の問題だけにフォーカスして考えるには、「素」である、小太りのおじさんであるところの「佐村河内氏」をイメージして頂きたいのです。

さて、佐村河内氏と新垣氏と両方の会見を突き合わせて、真実と思われることは、

ゲーム音楽鬼武者」、交響曲「HIROSHIMA」、ソナチネなど、世間では今まで佐村河内氏が作曲していたとされたものは、全て、佐村河内氏による「設計図」に基づき、実は新垣氏が作曲していたものである

・佐村河内氏は、専門的音楽教育を受けていないどころか、ピアノは弾けず(赤バイエル・黄バイエルのレベル)、譜面も書けない

・新垣氏は、現代音楽の分野では、第一人者としての実力を持ち、高く評価されている

・曲は全て、佐村河内氏から、金銭の提示と共に「発注」され、新垣氏がそれを請け負って作曲された

以上ですが、ここまでの真実に対して、私はどう思ったかと言うと、「何を今更?」というものでした。
こういう感じ方は、倫理観に欠けるでしょうか?
アイドル歌手がノートにメモした幾つかの単語を元に他人が構成したものを本人の「作詞」と称しているとか、楽器が弾けず譜面も書けない歌手が鼻歌で歌ったものを録音して他人が譜面に起こして大幅に「編曲」したものを「自作の曲」として売り出している、ということを、今までただの一度も耳にしたことがない方は、さぞ、この佐村河内氏と新垣氏がやってきたことに憤りを感じることでしょうが、この現代の世の中で普通にメディアに接している大概の方にとっては、よく考えるとそんなに驚くべき事であったでしょうか?実のところ。
これに関して「だまされた」と言っている方は、あまりにもナイーブすぎるのでは?、と思います。
寧ろ、私の驚きポイントは、現代音楽作曲家の俊英である新垣氏のような方が、たとえロマン派的な音楽を素晴らしく作曲できる能力があったとしても、本名を出しては発表できない風土になっている、という点です。
聞き手である多くの人々は、交響曲「HIROSHIMA」やら、彼のヴァイオリン・ソナチネのような音楽を求めているというのに、この時代に最も才能があるとされる作曲家が、それを提供することができないなんて!
新垣氏を擁護している音楽界の人々が書いていらっしゃるものでも、この点について触れられていないのがとても不思議でした。
新垣氏の才能を評価しているのだったら、音楽界を挙げて彼に調性音楽をばんばん作曲させて、人々を感動させ、後世に名を残す作曲家にすべきではないのでしょうか。
それが出来ない日本の風土こそが問題にされるべきでは?
クラシック音楽では空前のヒットと言われた「交響曲 HIROSHIMA」、そのような音楽を長年求めていたクラシック・ファンは、クラシック音楽界のこの風土故に、求めている音楽を聞く機会を奪われていたのですから、怒りを向けるべきなのは、クラシック音楽界の体質なのでは?
新垣氏が、氏の本業でないほんの手すさびの余技であったとしても、本名で調性音楽を発表できれば、発表できる風土ならば、佐村河内氏のような人物が出る幕もなかったでしょう。
佐村河内氏が会見の中で、新垣氏の突然の暴露の理由は「音楽の師であり大御所の三善晃氏が昨年末亡くなって、師に叱責される恐怖が無くなったからではないか」と言っていましたが、これは一面の真実かもしれません。

そもそも、いつの頃からか定かではありませんが、作品に作者として書かれている名前と、実際に作品を作った人物とは違うであろう作品を、私達は許容し消費しててきたのではないでしょうか?それが良い作品であり求めていた作品ならば?
古くは(?)山口百恵氏の自伝とされる「蒼い時」というのは、メディア・プロデューサー残間絵里子氏の手によるものだということは大概の人(?)は知っているわけですし、解剖学者の養老孟司氏が書いたとされる大ベストセラー「バカの壁」は、後藤氏という編集者が書いたものだということは、「著者」養老氏自身がおおっぴらにしていることですが、それらを私達は当然のこととして許容し消費してきたわけです。
その他、芸能人やスポーツ選手や経営者が書いた半生記にしたって、多忙を極める本人が書いたものではないことを薄々はわかっていても、それは許容されており、私達は受け容れて読んでいます。
「出版界と音楽界では慣習が違う」というのなら、前述のように、アイドル歌手の「作詞」や、楽器が弾けない歌手の「作曲」は?
謡曲やポップスと、クラシックとでは倫理のラインが違うのでしょうか?
そうではなくて、消費する私達の側が、「パッケージ」で受け容れることに、(良し悪しは別にして)慣れてしまっているだけであって、ですから、私達は、「ゴーストライター」が書いた書籍や音楽を、大抵の場合、疑義も挟まず批判もせずに消費しているのです。
佐村河内氏の風貌や聴力障害の問題と、このゴーストライターの問題をはっきり分けて考えると、この問題は、世の中全体が憤慨して非難するほどのことであったか?
佐村河内氏がずっと一貫して、前掲の写真の2枚目のような姿形、どこにでもいる小太りのおじさん的風貌で活動していて、今回「実は、自分では作曲していませんでした、すみません。」と謝罪したとしたら、どうだったでしょう?
世論の怒りはここまでに至ったでしょうか?

出版物も、音楽も、今は全てパッケージで売られています。
本の表紙には、有名な「著者」(ゴーストライターの作であったとしても)のベストショット。着ている服、ポーズも、本の内容を最大限良くみせる演出になっています、それは当然のことです。
音楽も、CDのジャケットは勿論、アーティストの衣装もキャラもSNSでの発言も、全てパッケージになった状態で、売られています。
それは良い悪いではなく、いつの頃からか、そうやって「パッケージ」で作品の魅力を最大化して売ることが普通になっており、私達も、いつの頃からか、それを当然と受け容れてきたんじゃなかったのでしょうか?
長髪に髭にサングラス、杖をついて、という風貌もまた、彼にとっては「パッケージ」の一部だったのだと思います。
冷静に考えると、長髪も髭もサングラスも、実は「難聴」を装うこととは無関係なのですよ。
これらの小道具を装っているだけでは、「全聾」の演出にはなりません。
小太りのおじさんが狙ったのは、「クラシック音楽の作曲家」を装うことです。
杖は、「聴覚障害から来る、バランス感覚の喪失を補うため」とのことですが、「長髪・髭・サングラス」は「難聴」を装うものではなく、「クラシック音楽の作曲家」としての装いなのだとしたら、それは、ハイヒールとスーツを着こなして「知的なキャスター」を装ったり、作務衣を着て「こだわりのラーメン屋」を装ったりするのと、どこが違うのか?
つまり、佐村河内氏、新垣氏、そしてレコード会社も含めて彼ら関わった人間全員が「佐村河内守という作曲家」を、ゴーストライト、長髪・髭・サングラス、CDジャケットの演出など全てを「パッケージ」して世の中に提供し、消費する側も「パッケージ」で受け容れていただけであり、「だまされた」という怒りは、それらを踏まえて冷静に量られるべきでは?と思いました。
私達が、「素晴らしい交響曲を作曲した、被曝2世の全聾の作曲家」という設定を、何故やすやすと信じてしまったのか?を自問すると同様に。




聴覚障害についての、余りに酷いマスコミの無知

さて、今回の件で佐村河内氏が叩かれているのは、ゴーストライター問題よりも、「全聾」を装っていたことではないか、と記者会見の動画を見て、私は思いました。
結局マスコミも含めて人々は、そちらに対しての「騙された」という怒りの方が強いのでしょう。
当たり前です、どんな形であれ障害を偽装していたのならば、どれだけ断罪されても足りません。
しかし、今回「聴覚障害」ということに関しては、彼の発言は真実かもしれない、と私は感じました。
私の身近に、突発性難聴による聴覚障害を持つ人間がいるので、私は記者会見での記者の不勉強ぶりがよくわかりました。
否、「不勉強」では済まされない、マスコミとして正義の味方を気取っていながら実は「聴覚障害」については何も知らない偽善さえ感じました。
彼は、確かに「全聾」ではありませんが、極めて重い難聴であることは確かです。
佐村河内氏は、「聴性脳幹反応検査(ABR)で、『右が40デシベル、左が60デシベルで感知する(普通に聞こえる人は、10デシベルで感知する)』感音性難聴である」と、診断書を示して会見で言っていました。
このABRという検査は大雑把に言ってしまうと、いわゆる本人が「聞こえる/聞こえない」を申告する普通の聴力検査とは違って、本人が誤摩化しようがない聴力検査です。
「本当は耳が聞こえるに違いない、それを暴いてやろう」と記者たちが会見に臨むのならば、会見中にわざと携帯を鳴らしたりして佐村河内氏の反応を見る、というような、幼稚で姑息な手段をとる前に、「ABR」と「感音性難聴」という言葉の意味くらい、手持ちのスマホでさくっと調べてほしいものです。
ほんのちょっとそれらの言葉の意味を調べれば、「何故、補聴器をつけて聞こえるようにしないんですか?耳が悪い自分の方が都合がいいからでしょうか?」と、まるで佐村河内氏がわざと「聞こえない」状態でいるかのような質問はしないはずなんですが。
極悪人であっても聴覚障害者の一人である佐村河内氏に、検査の意味を理解していれば到底できないであろう、障がい者を愚弄するようなそのような質問をすることは、倫理にかなっているのか?
高齢者が補聴器によって「聞こえ」を改善させているのは、それは「伝音性難聴」だからであって、「感音性難聴」の場合は、補聴器を使っても「聞こえ」が改善しない場合が殆どなのです、これもちょっとググればわかることですけどね。
突発性難聴」という言葉は、近年よく聞かれます。
歌手や芸能人、歌舞伎役者でも、この病気に罹ったと言われている人が多いので、知られるようになったのだと思いますが、この病気は、原因不明、「或る日突然耳が聞こえなくなる」という点だけは罹った人全てに共通しているのですが、何もしなくても2〜3日で回復する人、入院してステロイドの点滴をして回復する人、同じように入院治療しても全く回復しない人、2ヶ月くらい経ってから回復する人、様々です。
また、体調や環境によっても「聞こえ」が変わることは、一人の患者の中でも多々あります、例えば、難聴の症状が安定してからでも、何故か今日は耳鳴りが酷くていつもより「聞こえ」が悪いとか、逆に今日は嘘のように耳鳴りが治まって「聞こえ」がよいとか。
「原因不明」と書きましたが、ウイルス説あり、また、睡眠不足や慢性疲労、ストレスなどが原因とも言われています。
時間が不規則な仕事で、ストレスも多いであろうマスコミで働く方々の中にも、この突発性難聴を患う方は少なくないのでは?と思うのですが、それにしては、「難聴」に関する知識が乏しい、いや、会見に臨むにあたって下調べすらしていないのではないか、と、会見を見ていて思いました。
結局マスコミは、佐村河内氏を「現代のベートーベン」と大々的に持ち上げた時と同じで、今回は「本当は聞こえているんじゃないの?」という固い固い臆見に凝り固まっているだけです。
前述のように、回復の仕方は人それぞれで、全く回復しない人もいれば、静かな部屋で一対一だと話は聞き取れるくらいに回復する人もいます。
しかし、そこまで回復した場合でも、大勢ががやがや喋っている場所では、佐村河内氏が何度も会見で言っていた言葉通り、「音としては聞こえるけれど、割れてしまって言葉としては意味をなさない」状態なんだそうです。
これは、片方の耳だけが難聴になった場合も同様だそうです。
もし、あなたの知り合いが、そういう状態の聴力障がい者だった場合、あなたはしばしば誤解するかもしれません。
彼/彼女が、皆が談笑している時に、普通に一緒に笑っているのを見て、「本当は聞こえてるんじゃないの?」と。
カフェで数時間も彼/彼女と一緒にお喋りできたから、「本当は聞こえてるんじゃないの?」と。
かなりうるさい場所で、彼/彼女に話しかけたら、すぐに返答されたから、「本当は聞こえてるんじゃないの?」と。
実際は違うと思います、一緒に笑っているのは、「話は聞き取れてないけど、『空気』を読んで、訳もわからず笑っている」だけかも?
カフェで「お喋りした」とはいっても、彼/彼女が一方的に喋っていただけで、それは「質問されると、聞こえなくて何度も聞き返したら相手に嫌な思いをさせるから、一方的にこちらから喋って雰囲気を壊さないようにしている」だけかも?
難聴で聞こえない状態だと逆に、聴力以外の感覚全てを動員して、相手が何を言おうとしているかを感じることに神経を使うそうで(だから、とても疲れやすいらしいのですが)、言わば、常に全身の全感覚で「予測変換」をしていて、それがたまたま当たっただけなのかも?
例えて言うなら、英語圏に行った時、相手が喋る英語が50%しか聞き取れなくても残りの50%はあらゆる想像、予想を動員して意味をとろうとしたりすることやら、皆が誰かが早口で言ったジョークに笑い転げている時に、聞き取れていなくても一緒に笑う振りをすること、と同様です。
佐村河内氏が、ゴーストライターに書かせた曲を自作の曲だと偽り、震災の被災地の少女や義手の少女をだましていた極悪人であることは事実だとしても、彼に「聴覚障害」があることもまた、同じく事実なのではないかと、私は会見を見ていて思いました。
新垣氏が、自身の会見で、「佐村河内氏の耳が聞こえないと思ったことは一度もない」と発言していました。
新垣氏がそう「感じた」ことは事実でしょうが、相手が佐村河内氏ではなく、同じ程度の感音性難聴を患っている人が相手でも、新垣氏は同じように感じると思います。
例えば、私が知っている「難聴」を持つ人物(ABRの検査結果が佐村河内氏と同じ程度)が、新垣氏と静かな喫茶店で一時間話したとしたら、新垣氏は「相手の耳が聞こえないと思ったことは一度もない」と言うと思います。
新垣氏は自分が感じた通りに発言しているので、「嘘をついている」とは思いませんが、彼もまた、「難聴」という障害に対する理解がない状態での発言であると感じました。
更に、佐村河内氏の「聴覚障害」が重い、否、重かったことを確信させるのは、彼が手話を学んでいることです。
想像してみてください。あなたが突然難聴になったとして、生まれついての難聴ではないので「話す」ことに関しては普通に話せる状態で、また「空気を読む」ことや、全感覚での「予測変換」やらで、失敗はあっても、「難聴」と知られずに他人とコミュニケーションを辛うじてとれている場合、「手話を学ぶ」という方向に踏み出せるかどうか?
友達が誰かのジョークで大笑いしている輪の中で訳もわからず一緒に笑う、という孤独が筆舌に尽くせぬものであっても、それでもなかなか「手話を学ぶ」こと、即ち自分の「難聴」を認めることは難しいのです。
佐村河内氏が、手話を学んでいるということは、それは取りも直さず、「難聴」である自分を認めたところから始まっているのであり、また現実生活の中で、少なくとも或る一時期には「空気を読む」やら「予測変換」ではやっていけないレベルの難聴であったからだとしか思えません。
彼の会見では、数年前から「聞こえ」が回復しているとのことですが、それは普通に聞こえる人が想像する「回復」ではなく、「ほとんど聞こえない」状態から、「空気を読む」「予測変換」が使える状態くらいまでの「回復」、それも極めて低いレベルで、ではないのか、と想像します。
勿論、障がい者手帳を受け取る資格がなくなっているのに返納しなかったことは厳しく糾弾されるべきです。
ただ、佐村河内氏に限らず、この「聴覚障害」というのは極めてデリケートな症状で、人により千差万別、外見からは障害のレベルがわかりにくい(ABRでは確実にわかります)、そもそも医学的にも治療法もなければ薬もない、というものです。
謝罪会見で、彼がABRの結果を出して「難聴」のレベルを示しているというのに(どうも、彼はそれによって、記者を納得させられたと思っている節があります)、会見の間も、「本当は聞こえるんでしょう?」的質問に多くの記者が終始し、会見後には、実際は長時間であった会見を「切り貼り」して、さも佐村河内氏が「本当は聞こえている」ように見える場面だけを動画にしたものが、ネット上に出回っているのは、実は、聴覚障害を持つ方々全員(佐村河内氏を含む)に対する重大な非礼ではないでしょうか?
歌手や歌舞伎役者で、突発性難聴から聴覚障害を患った人には、「本当は聞こえるんでしょう?」などという暴言は浴びせなかったのに。
多忙を極めるマスコミの記者である彼らの中で今後何人かが、突発性難聴という形で同じ状態になった時に、自らの酷い行い、暴言に気付くのでしょうか?
また、会見後に、当然のように佐村河内氏を批判、非難、糾弾する文章が、ネット上に数多溢れたわけですが、その中で、冷静に「ABR検査の意味」を少しでも調べて書いたものがどれだけあったでしょうか?
少なくとも、私は一つも目にしていません。
以下の実際に聴覚障害を持つ方々の発言を、是非知って頂きたいですし、あの記者会見で無礼な行いをしていた全ての記者の方々(特に、ABRの意味もわからず、彼の障害を笑い者にした「遠山」という記者の方)にも、是非読んで頂きたいと思います。


「聞こえないこと」の意味を理解するために (←長いコメント欄も是非)

佐村河内守を嫌いになっても、聴覚障害で遊ぶことはやめてください! 


親を亡くした被災地の少女や、身体障害者の少女との関わり

これは、佐村河内氏の所業の中で、最も許せないことだと思います。
多感な時期、しかもそれぞれその年齢の少女としては背負いきれないようなものを背負っている二人の少女を、かくもショッキングな事件に巻き込んでしまった罪は、断罪してもしきれないほどのことです。
謝って済むものでは到底ないことですが、会見で、何故彼女たちを関わったのかを聞かれて、彼はこう答えました。

あの子やおばあちゃまは本当に大好きで、この子に小さな光が届けば良いと思って、やったことは真摯な気持ちでやっておりました。

僕はみくちゃんがそういうハンディを乗り越えて、ああいう大きな舞台に立った時にとても温かい拍手を頂いたと聞いているので、それでよかったと思ってますけど。


この脳天気なまでの無神経さ!
佐村河内氏は、自分が犯してしまった罪の重さをまるでわかっていないと思います。
私は、動画が流れるPC画面のこちら側で、一人で激しく憤っていたのですが、会見場では、この件について質問したのは、2人の記者のみ。
その2人の記者が問題にしたのは、「『パパ』と呼ぶように強要したのか?」「何故舞台の上で義手をとるように言ったのか?」という、言わば、問題の枝葉にあたることであり、しかも追求が中途半端。
この問題こそ、佐村河内氏からの、心からの反省と謝罪がなされるべきことなのですが、上記の彼の発言からわかるように、彼は全く反省していないどころか、それを正当化しています。
嘘で偽装した上であっても、一時期彼は、一般人が持ち得ないパワー、即ち「影響力」というものを手にしたわけで、その快感を忘れられないようなのです、言語道断なことに。
この期に及んで、「真摯な気持ちでやっていた」「それでよかった」と発言する非常識ぶり。
それほど、「影響力」というパワーは、甘い蜜の味なのでしょう。
前述のように、楽曲の「ゴーストライト」ということやら、「難聴の程度」を偽っていた、ということよりも、「影響力」を使って二人の少女を巻き込んでしまったことこそ、今回の「謝罪会見」という場で、マスコミが最も激しく糾弾すべきことでした。
しかし、実際はなされませんでした。
今回の事件で、本当に深刻な被害を蒙ったのは、前述の二人の少女です。
コンサートがキャンセルになった企画会社でもなく、レコード会社でもなく、音楽出版社でもなく。
ゴーストライターを使っていた作曲家に「市民賞」を与えてしまった自治体でもなく。
ゴーストライターが書いていたとは知らずに、「現代のベートーベン」の一連の曲を聞いて感動していた消費者でもなく。
勿論、ついこの間まで「現代のベートーベン」と持ち上げていたマスコミでもありません。
そもそも、この二人の少女がこの「佐村河内問題」に巻き込まれてしまったのには、マスコミも手を貸しているのです。
被災地の少女ですが、NHKスペシャルの番組において、あそこまであの少女をエピソードの中に組み込むことは必要であったのでしょうか、適切だったのでしょうか?
あのNHKの番組を見ていて、佐村河内氏の胡散臭さを一番感じたのは、あの少女との関わりの場面でした、番組中結構長い時間を割いていましたしね。
制作側のNHKとしては、「被災地の少女」というファクターをどうしても詰め込みたかったのでしょうが、あの少女のこれからの生活やら人生に関して、仮に「佐村河内問題」が起こらなかったとしても、配慮や気配りはなかったのでしょうか?
当時「全聾の作曲家」と信じられていた佐村河内氏の、作品にのみフォーカスした番組であっても良かったのでは?
被災者、被爆者、障がい者、少女。そういう人々を番組に登場させることが、「演出」にならないように細心の注意を払うべきなのに、NHKが最近出した番組検証の文書では、それには触れられていません。
また、実際には新垣氏が作曲し、佐村河内氏の名前でソナチネを献呈された「義手のバイオリニスト」である少女ですが、この少女もまさに大人たちに翻弄されています。
元々、新垣氏はこの少女が幼稚園の頃から、バイオリンのピアノ伴奏をしていたそうです。
そういう極めて親しい間柄であっても、新垣氏は自分の名前で、調性音楽の楽曲を彼女のために作曲することはできなかった、というのですからね。
自分が作曲したソナチネを、佐村河内氏の名前でこの少女に捧げている、というこの何とも大人の事情の捩じれた事実もまた、少女を傷つけていることには変わりありません。
一方、今回の告発の端緒となった文春の記事を書いたのは、この少女を題材にしたノンフィクションの児童書を出版(2013年1月刊)している、ジャーナリストの神山典士氏という方です。
今現在この本は出版停止になっているようですが、それはまだバレる前の佐村河内氏と彼女の出会いのことがこの本にエピソードとして入っているからのようですが、神山氏も本を執筆した当時は、佐村河内氏の偽装の数々には全く気付かなかったのでしょう、しかし、それは「気づかなかった」」と済ますことができるものなのか、ジャーナリストとして?
1年前に出版されたということは、「佐村河内人気」にも乗っかったはずなのに。
この少女に関しては、佐村河内氏に騙されていただけでなく、旧知の新垣氏にも或る意味ずっと騙されていたわけであり、NHKの例の番組でも「佐村河内氏に曲を献呈された少女」として取り上げられ、自分を題材にしたノンフィクションを書いた神山氏が文春で告発した記事によって、渦中の人になってしまった、という、大人たちに翻弄され続けた酷い話であり、本当に怒りを禁じ得ません。
結局のところ、NHKも他のマスコミも、この記者会見で、佐村河内氏に猛省させ謝罪させるべき一番のポイントを糾弾する資格はなかったわけです。







物事がもっと単純だと、トピックを消費していく側もラクなのですが。
佐村河内氏が「聴覚障害を偽装している」100%の極悪人で、ゴーストライターだったことを勇気を出して告白した新垣氏は100%良い人で、記者会見でこの問題を厳しく追及するマスコミは100%正義の味方、ならば、話は簡単だったのでしょうが、現実は複雑です。

会見から2週間以上過ぎてからのエントリーになってしまって、このまま下書きに入れておこうかとも思ったのですが、敢えてアップさせて頂きます。