何故教師は、「我が子よりも教え子」の入学式を優先すべきなのか? 考えてみました。

埼玉県の県立高校に勤務しており、今年度新入生の担任でもある教諭4人が、自身の子供の入学式に出席するために、勤務先の高校の入学式を欠勤したことが、賛否両論をよんでおります。

4月23日の朝日新聞朝刊社会面でも、

担任が出席すべき入学式は、我が子か、教え子か


という見出しで、この問題について、珍しく、賛否両論を上手く配分してまとめていました。


その記事では、その4人の教諭は、勤務先の高校の入学式を欠席して、自分の子供の小中高校の入学式に出席したそうです。
4人のうち3人は女性教諭。残りの1人の男性教諭は、子供2人の入学式が重なり、妻と手分けをする必要が生じたための欠勤だそうです。


担任教諭の入学式欠席について、「問題である」という意見の方々も、「問題とは思わない」という意見の方々も、どちらも看過していることがあります。
3人の女性教諭の夫は、どうしていたのか?
1.夫は仕事を休まず、入学式にも出なかった。
2.夫も仕事を休み、妻と2人で入学式に出た。
3.女性教諭はシングルマザーであった。

入学式当日、夫が1か2の行動をとっていたとしたら、この問題についての見方は、また変わってくるのではないでしょうか?
1の場合。夫が仕事を休んで入学式に出てくれるのなら、妻である女性教諭は、新入生の担任である責任を放棄してまで、勤務先の入学式を欠勤したのかどうか?妻が責任ある仕事をしているのに、それに協力しない夫、今の時代にまるでそぐわない夫を非難するべきでは?
2の場合。夫婦揃って子供の入学式に出ること自体は、今は普通のことです。しかし、もし夫が別の学校の新入生の担任であったり、会社で重要な会議がある日であれば、妻に我が子の入学式出席を任せて、勤務先の学校の入学式や会社の会議に出るのではないでしょうか?夫は社会的責任を放棄してまで「夫婦揃っての入学式出席」にこだわるでしょうか?今回は公私の選択を迫られるのが妻だったわけですが、妻は「公」をとる選択はしなかった、夫婦の間で、公私の選択に違いがある、ということになります。加えて、自分たちは「夫婦揃って出席する」くらい、入学式を重要視しているのに、片方では、妻が担任する新入生の入学式は相対的に重要視していないことになります。
1であっても2であっても、単純に「我が子の入学式を優先すべきか否か」では論じることができないと、私は思います。

この最近、世間を騒がすトピックの全てについて思うのですが、今回も同様です。
「教師のモラルや倫理が欠如していることが原因だ。」とこの問題を捉えている方々、「新入生の担任が子供の入学式に有給休暇をとるのに何の問題もない。それができないのはブラック体質だ。」と捉えている方々、双方とも、元々のご自分の主義主張に、この問題を引き寄せているだけ、なのではないでしょうか。
面倒くさくはあっても、冷静に客観的に、臆見なく、公平に物事を判断すべきであって、日頃の自分の主義主張を反映させるための論であってはなりません。


では、今回の問題の詳細はどうであったのか?
最初に話題になった、江野幸一埼玉県議にFacebookで批判された女性教諭は、江野県議が来賓として出席した彼の母校である県立高校の入学式を欠席して(新入生の担任だった)、別の高校の我が子の入学式に出席したといいます。

その女性教諭が、担任であるのに入学式を欠席してまで駆けつけた我が子の入学式で、
もし、その女性教諭の子供の担任もまた、入学式当日欠席であったら?
やはり別の学校の我が子の入学式に出席するために。
その時にどう感じるのでしょうか?
「折角仕事を犠牲にして入学式に駆けつけたのに、担任が欠席だなんて。」
と落胆するのなら、では自分の担任クラスの生徒と保護者はどう思っているか、に思いを馳せるべきでしょう。
「私が我が子の入学式を優先したように、我が子の担任も同じことをしただけ。」
と思うのなら、女性教諭が我が子の入学式を優先し、我が子の担任もまた子供の入学式を優先し、その子供の担任もまたその担任の子供の入学式を優先し、というループになり、そもそも入学式というセレモニー自体が意味があるのか?ということになるでしょう。



以下は、我が子の入学式を優先した教諭を擁護する論調のものです。

担任が入学式を休んで我が子の入学式に出てはいけないのか?〜現代版「滅私奉公」はブラック企業の始まり 佐々木亮

教師は率先して「仕事よりプライベートを優先」する姿勢を見せるべき 脱社畜ブログ

入学式欠席問題は日本のブラック労働の実態を反映している ロンドン電波事情

これらの論調はどれも、この問題の本質を論じるよりも、「ブラック企業は悪だ」という、この問題とパラレルには論じられないことを言いたいがために為されているとしか思えません。
先ず、はっきりさせておくべきなのは、今回の問題は「学校」「入学式」「教師」「新入生の担任」という条件であることです。
その条件を無視して、「民間企業」「有給休暇の権利行使」「雇用契約」の話に持っていくというのは、正しい議論なのでしょうか?
では、諸姉諸兄がおっしゃるように、これが民間企業ならどうでしょう?
有給休暇をとって子供の入学式に出席するのは、労働者として当然の権利です。
それをしたことによって、会社からどんなハラスメントを受けることがあってもいけません。
しかし、例えば入学式の日が、取引先との重要な会議と重なり、また自分がそれの重要な役目を果たすべき職責にあれば、どうでしょう?
また社内の会議で、数週間準備したプレゼンを社長の前で自分が発表する日と、子供の入学式がかちあったら、どうでしょう?
それでも、「有給休暇は権利だから」と自分の責任やチャンスを放擲するでしょうか?
もし会社の命運がかかった取引先との重要な会議をブッチした社員を、減給や降格を含めた処分に処したら、「ブラック企業」なんでしょうか?
また社内でのプレゼンを有給休暇とって欠席しておいて、「次のチャンスを貰えないからブラック企業だ」とは言えないでしょう。
今回の問題を、民間企業に置き換えては考えられないのです。
民間企業は慈善事業ではありませんから、社員の生活と株主を守るために営利を追求するのがお仕事です。
そして、日本の場合、普通の民間企業であれば、「身内の不幸」だけは最優先されます。
身内の不幸であった場合は、商談を一つ逃そうが、社長を前にしてのプレゼンのドタキャンであれ、逆に「仕事は構わないから、とにかく早く行け!後は任せろ!」と言われるのが、日本の企業であり、社会であり、文化なのです。
まとめると、民間企業では、お葬式以外のプライベートを優先して仕事に迷惑をかけた場合は、社内のルールによってそれ相応の処分がある、ということです。
民間企業では、我が子の入学式の日にこれと言って仕事に差し支えが無いと判断して有給休暇をとることが当然であるのと同時に、どうしても抜けられない責任がある仕事と我が子の入学式が重なれば仕事を優先する、ということも当然あるわけで、今年の春、入学式を迎えた全国の小中高校の生徒の親御さんの中には、会社の仕事の責任を優先した人も大勢いることでしょう。
しかし、翻って今回のケースは、公務員である県立高校の教師でした。
教師としての立場は守られています。
余程のことがなければ、担任を外されたり、給与を減らされたり、首になることはありません。
今回も、我が子の入学式を優先して、担任する新入生が入学してくる勤務先の入学式を欠席しても、教師としての身分は保証されています。
せいぜい、「モンペ」と呼ばれる保護者からの苦情があったり、たまたま入学式に出席した県会議員にFacebookで批判されるくらいのことです。
これのどこが、「ブラック」なんでしょう?
寧ろ、教師という立場は手厚く守られていると言うべきなのです。

自分はちゃっかり子供の入学式に出席しておいて、それでいて自分と同じように子供の入学式に出る教師を罵倒するというのは、想像力が足りなすぎる。(上掲 脱社畜ブログ)

と、脱社畜ブログの日野瑛太郎氏は言いますが、子供の入学式に仕事を休んで出席する民間企業に勤める保護者は、「ちゃっかり」出席しているわけではなく、入学式当日の仕事上の自分の責任を見極めた上で判断して出席しているわけです。仕事上重要な日と入学式が重なれば、当然その判断が「欠席」になる場合も多々あるのです。だからこそ、立場が手厚く守られている教師である、勤務先の入学式を欠席した教諭は、本当に仕事上の責任を見極めた上で我が子の入学式の方を選んだのか?という疑問や批判になるのではないでしょうか?


数字には出てきませんが、今年の春の入学式シーズン、全国の教員の方々の中には、新入生担任であるので自分の子供の入学式よりも勤務先の入学式を優先させた人は大勢いることでしょう。
彼らは、教師という職業が「ブラック」だから仕方なく勤め先の入学式を優先したのでしょうか?
いえ、彼らの教師としての地位は守られているはずですから、そうではなく、彼らの教師としての責任感と使命感がそうさせたのだと、何故考えないのか?
彼らが渋々勤め先の高校の入学式を優先したと決めつけ、それは

現代版『滅私奉公』の論理であり、『ブラック企業』の論理なのです。(佐々木亮氏)

と、どうしてなってしまうのか?
それは逆に彼ら教師の、教師としての責任感や使命感を貶めることではないのでしょうか?

当事者の教諭だけでなく、全国の教師の皆様は、「入学式には担任の先生にいてほしい」という保護者の声に、素直に感動してほしいものです。
先生の不祥事やいじめ対策の不手際で、学校に対する信頼が失墜しているのかと思いきや、新しく入学する生徒の保護者は、まだまだ学校や教師に期待し、希望を託しているんじゃないでしょうか?
担任の先生とビジネスライクではない人間関係を築きたい、と思っているんじゃないでしょうか?
それこそ、「入学式に、担任がいようがいまいが関係ない」と言われるようになったら逆におしまい、ですよ。


高校なので入学式に担任がいなくても泣かないこと 発声練習

こういう ↑ 論もあったのですが、最初私は、相当な早とちりをして、「高校の入学式に親が付いてこなくても、高校生なのだから泣かないこと」という意味かと思ったら、まるで反対の論でした。
子供の入学式と勤務先の入学式が重なった場合、教師である親が、高校生の子供に、「あなたの高校の入学式に出たいけど、こういう理由で出られない」とちゃんと説明して、子供を一人で入学式に送り出すという選択肢もあるのではないかと、逆に気付かされましたけどね。
小学校1年生や中学校1年生ならともかく、義務教育を終え、同年齢では(高校進学率が97%に達する今はごく少数派ではあれ)社会人として働いている子供もいる高校1年生ならば、入学式に一人で出席するというのは、それほど大変な思いをすることではないと思いますし。
「発声練習」氏ご自身、高校の入学式は、お父様は欠席、休みがとれたお母様のみが出席だったと書かれているのですが、もしお母様が仕事を休めなかったとしても、「発声練習」氏は、納得され、「万単位の物品購入」も含めてご自分一人でちゃんとこなされたのではないでしょうか。

来賓した県議は…。たぶん、あなたの会派はこういうの好きでしょ?。

と、維新の会が大阪市に提出した、「家庭教育支援条例」のリンクを貼っていらっしゃいますが、私も「発声練習」氏と同様、この手の復古的教育観、今安倍政権が押し進めようとしている教育観には、大いに抵抗があるのですが、だからと言って、今回の問題で、入学式を欠席した教諭を擁護する側に立つというのは、違っていると思います。
そもそも、復古的な教育観に反対=教諭の入学式欠席を擁護、というのは、論理的に破綻しています。
子供の非行や障害までも家庭教育や親の責任に帰そうとする動きに反対するのならば、学校というもう一極の教育の力を重要視しなくてはなりません。
特に高校ならば、家庭環境と関係なく、学校の教育の中で豊かな人間関係を築いたり、将来の進路を教師との信頼関係の中で自主的に探していく、という、学校教育の機能に期待すべきであり、だとすると、論理的には、教師の役割には重きを置く論でなくてはならないのでは?
それなのに、

家庭での子育てを重要と考えている埼玉県教育局は「教員としての優先順位を考え行動するよう指導する」なんていうコメントをするべきではない。

と真逆のことを言ってはならないのでは?もっとも、埼玉県教育局もまた論理破綻しているのですが。


また、擁護論のリンクで貼った「ロンドン電波事情」中で、著者である、めいろまこと谷本氏は、

ところで、欧州って入学式ない国が大半なんですけど、いっそ入学式なんかやめちゃったらどうですかね?だってあれやるのに経費はかかるし、先生の労働時間も使うし、立ってるの疲れるし、来賓の挨拶とか意味わからないし、やってる間とか練習中は授業できませんから、付加価値がないでしょう。服だって高いし。あれ、やることに何の意味があるんですかね?

とおっしゃっています。
「来賓の挨拶や練習が退屈」、というのは私も大いに賛同しますが、「入学式がない」というのがどういうものなのか、を示さずに「やめちゃったらどうですかね?」と言うのもアレなので、谷本氏に代わって、書いてみます。
中学生と高校生の子供を、卒業式以外は、入学式も始業式も終業式もないインターナショナルスクールに海外で行かせたことがあります。
「入学式や始業式」がないまま、学校が始まるとは、どういう感じかというと。
初日登校すると、事務室で時間割を渡され、フツーに授業が始まるわけですが、実は、あちこちグダグダで、全く混乱状態です。
生徒もその日初めて顔を合わせるわけで、誰が誰かもわからないまま、科目ごとの教室移動も、あっちへ行ったりこっちへ行ったり滅茶苦茶です。
先生までもが、時間割や教室をきちんとは把握していないものですから、もうカオス状態。
日本人ならキレそうなその状態を、生徒も先生も楽しんでいる風さえあります。
高校になると、選択科目によって一人一人違う時間割が渡されるわけですが、或る年、息子に渡された時間割には、数学の授業が全く記載されていませんでした!
事務室が、きちんと生徒一人一人の時間割をチェックしていないことは明らかです。
事務室に行って、その旨を伝えると、「今年は間違いが沢山あってあなただけじゃない。調整に時間がかかるから2日後にまた来て。」と言われる始末。
極東の神秘の国、日本では、先ず考えられないことですよね。
日本では、入学式の日には、クラス名簿も時間割も完璧にできていて当然先生方もそれを把握、翌日からは整然と授業が始まります。
確かに、この欧米システム(とにかく動かして、それから修正する)というのも、まあ慣れればこんなもんか、と思いますが、これは「文化」の違いです。
そして、「文化」は良し悪しではなく、長い間に培われたものですから、これを変えるということは、大半の日本人が納得しないと変わらないものですし、だからこそ無責任に「やめちゃったらどうですかね?」とは言えないものだと、私は思います。
つい先日、JRの電車に乗って終点に着いたら、「電車の到着が2分遅れましたこと、ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありませんでした。」と車内アナウンスがありました、2分ですよ、2分!これが、日本クオリティなのです。
始業日だというのに生徒の時間割が滅茶苦茶で、「2日後に来てね」と言われるのがフツーの国とは、根本的に歴史的に文化的に(良し悪しではなく)違う、のです。
ですから、「入学式や始業式やめちゃったら」どうなるか、というと、日本人のメンタルが先ず一番先に崩壊してしまうと、私は思います。
しつこいようですが、それは「良し悪し」ではなく、日本人の身体に染み付いているものなのです。


入学式や始業式に区切りやけじめを見いだす日本、めいろまこと谷本氏のお住まいのイギリスとは違ってまだ(?)教師に対する期待や信頼が失われていない日本の文化や社会の中での、今回の問題なのであり、我が子の入学式を優先した教諭は、実は自家撞着に陥っています。

我が子の入学式が「けじめ」や「新しい門出」であるから何を措いても駆けつける、

という行動をとっているのに、

勤務先の高校での「けじめ」や「新しい門出」である入学式で担任として我が子と同い年の新入生を迎えることは二の次になっている、

という矛盾。
我が子の入学式を選んだ教諭自身が、プリンシプルというか、一貫した考え方がなかっただけなのだと思います。
それなのに、それを指摘、批判すると、「ブラック企業体質を擁護している」ということに何故なるのか?理解に苦しみます。
そういう論調で、この問題を論じている方々は、為にする論をなさっているのではないのでしょうか?


私は、例えば放課後や休日の部活動の顧問を、学校の先生方が半ば強制的にさせられていることこそ、「ブラック体質」であり、学校の部活のこういう仕組みを変えるべきだと思っていますが、それはそれ、これはこれ、で、今回の問題については、我が子よりも、教え子の入学式を、教師は優先すべきであると思います。

何故なら。

担任が入学式を欠席した、新入生のクラスには、きっと、両親共に仕事で、親の付き添いなしに入学式に出席した生徒、もいたでしょう。

教え子になる彼らの気持ちに一瞬でも思いを馳せることがあれば、「我が子の入学式を優先する」、という行動には至らなかったのではないか、と思うからであり、担任の先生に期待と信頼を寄せる生徒や保護者の気持ちに、教師の側も今一度真剣に応えるべきだと思うから、です。