「服従」(ミシェル・ウエルベック著)が描くのは男性にとっては実はユートピアで、女性にとっては絶望のディストピアであるということ

読後感があまりに酷くて、書評を書く気にもなれなかったのが、この本服従」(ミシェル・ウエルベック著)です。
念のため、作品が酷いのではありません、作品自体は高度に洗練され教養に溢れた近未来小説の傑作と言えるべきものです。
酷いのは、読後感、それも私が女性であるが故の読後感です。

服従

服従

日本では殆ど話題にはなっていませんが、この本は本国フランスで、今年の1月、偶然にもシャルリー・エブドが襲撃された日に発売されるや否やベストセラーになり、フランス以外のヨーロッパでも大きな話題になっているそうです。
先日家人が仕事で同席した会合にいたヨーロッパ大陸人たちも、休憩時間はおろか会食の間もずっとこの本の内容を話題にしていたそうです。

私はというと、「得体のしれない気持ちの悪いものを飲み込んでしまったようなこの胸のあたりがもやもやする感じ」に既視感があり、はてそれは何だったかと、ウエルベックという名前をググってわかりました、彼は「プラットホーム」という小説の作者でもあったのです。
私は2002年頃に読んだ記憶があります。


プラットフォーム

プラットフォーム

最近文庫にもなっているようです。


この「プラットホーム」のストーリーは簡単に言ってしまうと、「フランス人のインテリ且つ富裕層の主人公が、タイへの旅行をきっかけに、自立した自己主張の強い女性が闊歩する西欧の本国では満足に性愛を得られない中年ヨーロッパ人男性向けの東南アジア買春ツアーを企画する」、というものなのですが、このあらすじだけでも胸が悪くなりそうですが、性愛に関しては勿論、インテリ主人公の迷える魂の言い訳こじつけの執拗な描写に辟易したものでした。
ただ、この本がスキャンダラスなストーリーだけの本であったかというとそうではなく、西欧(ヨーロッパ)の衰退・デカダンもここまできたかと思わされるもの、今2015年後半から振り返ると、予言のような予兆のようなものを秘めた本でもあったのでした。


さて、「服従」について。
殆どの日本人にとってこの本を読み通すことは苦痛でしょうし、そんな時間もないでしょうし、そもそも読書に充てる貴重な時間において優先順位が低い本であろうと私は勝手に思っているので、前述の家人から「その本読むから貸して」と言われたのですが、「読むだけ時間の無駄だから、読んだ私がポイントだけ3分でレクチャーする」と答えたくらいで、ネタバレ、結末暴露を含めてこれから書きますので、新鮮な気持ちでこの本を読みたい方はこの先はお読みになりませんように。


あらすじ1:物語の中の政治的流れ
2022年のフランス大統領選挙で、第一回目の投票結果は、34%強の得票率で極右の国民戦線党首マリーヌ・ル・ペン氏(実在)が第1位。第2位と第3位は接戦の末僅差で、第2位になったのがが弱冠43歳のイスラム教徒のエリート(何しろ彼は史上最年少でエコール・ポリティークに入学し、その後ENAを卒業している設定)、モアメド・ベン・アッベス氏(架空の人物。フランス語では「h」は発音しないので、「モハメド」ではなく「モアメド」なようで)と、第3位が現在(2015年)オランド大統領の下、政権の座にある社会党候補(大統領候補者は明示されていませんが、現在首相のバルス氏?)になってしまう。「なってしまう」というのは、フランスの大統領選挙は、1回目の投票で過半数をとる候補者がいなかった場合、1回目で第1位と第2位の候補者が決選投票をする仕組みになっているから。つまり、フランス国民は、選挙結果で必ずフランス大統領が決まる決選投票で、極右の国民戦線か、イスラム政党のどちらかを選ばなければならない究極の選択に立たされ、社会党、UMP(サルコジが属す右派)はイスラム同胞党と組んだため、選挙の勝者、即ちフランス大統領の椅子には、イスラム同胞党のイスラム教徒の候補者が座ることになる。

あらすじ2:主人公フランソワの物語
19世紀の作家ユイスマンスの研究で博士論文を書き、名門パリ第三大学で大学教授の職にある主人公は独身中年インテリ男。毎年女子学生と性的関係を持っては別れるという生活を繰り返し、結婚に関心はない。政治にもさしたる関心はなかったが、大統領選挙をめぐって、大学内の状況も変わり、また現在の恋人のユダヤ人女子学生は、世の中の不穏な動きを察知した家族とともにイスラエルに移住してしまう。イスラム教徒の候補者が大統領に当選した後、主人公を含む教職者は全員解雇され、男性でイスラム教に改宗した者のみ、再雇用されることになる。最初は再雇用にも改宗にも興味がなかった主人公だったが、年寄りで変人で小汚いかつての同僚がイスラム教に改宗し再雇用され、おまけに学部2年生の女子学生を妻としてあてがわれていることを知り、彼自身も改宗を決意する。


という、書いていても溜息が出てしまうようなストーリーです。
「殆どの日本人についてこの本を読み通すことは苦痛」と書きましたが、この主人公の気持ちの変遷が、「フランス文学あるある」の王道を行っていて、自身の研究対象であるユイスマンスの一生や作品と絡めて延々と描写されるので、国立大学の文系学部が削減されずともユイスマンスなんて読まない、読む暇もない現代の日本人には、とっつきにくく且つ退屈極まりないからです。
ひと昔前ならば、学生時代に海外の古今の名作を、多少背伸びしてでも読み漁る文化がありました。しかし、今は「グローバル人材」になるための実学としての英語のみが注目され、TOEICTOEFLのスコアを上げることのみに、ただでさえ少ない学生の自由な時間が費やされ、という状況だと、就活には何の役にも立たない19世紀フランス文学など果たしてどれくらいの数の学生が読むことやら。
私自身は大学でフランス語をやっていたので、ユイスマンスは辛うじてかの澁澤龍彦氏の訳で「さかしま」だけは大昔に読んだことがありますが、それでもこの「服従」の主人公のユイスマンス関係の描写にはうんざりしました、が、これがフランスのインテリの姿なのでしょう。
ちなみに、このユイスマンスという作家は、Wikiを見ていただく必要もなく、「さかしま」を書いた後カトリックに改宗し、カトリック教徒として没しました。
服従」の主人公が物語の最後にイスラム教に改宗する、という流れと対比させるために、主人公の研究対象はユイスマンスに設定してあるのでしょう。


「あらすじ」を2系統で紹介したように、本来は、この小説の目玉は二つ。「フランスにイスラム政権誕生」という物語と、主人公フランソワの口を借りて語られるフランス人インテリが繰り出す歴史や文学や思想の教養や蘊蓄と、「一粒で二度美味しい」ということなのだと思いますが、私は、大方の読者には興味がないと思われる後者についてではなく、前者の「フランスにイスラム政権誕生」という近未来的な設定について書きたいと思います。


大まかに前提知識として、この小説に似た構造は2002年のフランス大統領選挙で実際にあったことを、簡単に述べておきます。
2002年の大統領選挙も、従来通り、というか、お約束通り、社会党ジョスパン氏率いる左派と共和国連合シラク氏率いる右派が決選投票に進むはずだったのが、なんと得票率1%以下の僅差で、ジョスパン氏は極右のマリー・ル・ペン氏(現在の党首の父親)に敗北するという想定外の番狂わせがあり、決選投票が、シラク氏対ル・ペン氏、という、究極の選択になった過去がフランスにあるのです。その時、極右の候補者がまさかの大統領になることを防ぐためには、第1回目の投票時には敵としてさんざん攻撃してきた右派の「ペテン師」(シラク氏には汚職の噂が絶えなかった)に投票しなければならなくなった左派陣営は、「鼻をつまんで」シラク氏に投票し、結果は無事(?)シラク氏が当選し、「EU離脱、移民反対、モスク建設反対、フランスの伝統的価値観の復活」を唱えるル・ペン氏は敗退したのでした。
フランス人というのは、西の中華思想というか、フランス革命で獲得した民主的社会制度、ダイバーシティに寛容な洗練された社会、思想や文化では自分たちが世界の中心であり最先端だと思っていますから(私見ですが)、旧弊で粗野で野蛮な(←インテリから見れば)ル・ペン氏が決選投票に残ったことでさえ、誇らしいフランスにはあるまじき我慢ならない恥だと思っていたでしょう。
ということで、「服従」における「フランスにイスラム政権誕生」という設定の現実味は、フランス人にとっては「ありえない絵空事」と笑い飛ばすことは全くできないものなのです。
ウエルベック氏は、この2002年の構図をより刺激的に変奏させ、極右とイスラム、どちらかを選ばなければならない状況を小説内で作り出し、読者であるフランス人、そして似たような立場にある西欧の国々に、突きつけているのです。



服従」の日本語訳には、佐藤優氏の解説が付されています。
10月25日の日経新聞の書評欄には、フランス文学者の野崎歓氏の書評が載っています。
また、Amazonのカスタマーレビューも、載っているものは全て読みました。
それら全てに対して、不満があります。
男性読者にとっては、一夫多妻制や、女性の社会的活動を制限することの恐ろしさが、実感としてないのではないか、と思います。
どの書評を読んでも、一夫多妻制については言及しているものの(←これについては男性は興味津々でしょうし)、この小説でひたひたと書かれている女性にとってのディストピア社会の恐ろしさについては触れているものがないのです。


物語の中では、まだ第一回目の投票が行われる前から、ひたひたと「変化」は始まっています。
主人公フランソワが勤めるパリ第三大学の学長は、「非の打ちどころのない『ジェンダースタディーズ』の研究キャリアを経てきた女性」であるシャンタル・ドルーズ氏(非実在)という設定になっているのですが、選挙前であるにもかかわらず、彼女は数週間先の国立大学評議会で、「親パレスチナの立場を表明したことで知られていて、イスラエルの研究者たちをボイコットした中心人物である」ロベール・ルディジェ氏(非実在)にすげかえられる、という噂が流れています。
何故、そんな風向きになっているのか?それはオイルマネーが、ソルボンヌにも流れ込み、発言権を増しているから。
小説内では、ソルボンヌはオックスフォードと競うように、ドバイかバーレーンカタールあたりに分校をオイルマネーの援助で作ろうとしています。
フランスの誇る名門ソルボンヌ大学が、オックスフォードを出し抜いて中東に分校を作れるのなら、目障りな女性学長の首など喜んで差し出す、ということなのですね。
ちなみに、この女性学長は非実在ですが、現実に去年までパリ第三大学の学長を務めていたのは、やはり女性(Marie-Christine Lemardeley)です。
とすると、イスラム政権が誕生せずとも、女性学長が辞めさせられて親アラブの男性学長が後任になる、ということはあながち非現実ではないのかもしれません。

第1回目の投票から第2回目の決選投票の間にも、ひたひたと目に見えないところで社会が変わっていきます。
2002年の大統領選挙の時と同様、極右のル・ペン氏(今度は娘)に勝たせないために、社会党イスラム同胞党と選挙協力を模索するのですが、呆気なくそれは成功します。というのは、イスラム同胞党は気前よく、重要省庁である経済・財務省内務省の大臣ポストを社会党に譲り渡すというのです。その代わりに彼らが要求するのは、教育に関する権限です。
彼らが描くフランスの教育とは、先ず男女共学は廃止。女性が学ぶ教科の制限。義務教育は小学校の初等教育のみ。女性は初等教育を終えた後、家政学校に進みできるだけ早く結婚することを強制され、結婚前に文学や芸術課程で勉強できるのはごく少数の女性のみ、勿論教師は例外なくイスラム教徒に限られる、というものなのです。
「リケジョ」から10世紀くらいの後退です。
この部分を男性読者が書評やレビューで取り上げないのは、彼らにとってはこの部分は何ら恐怖を覚えるものではないからでしょうが、私は戦慄しました。
また、何と現在のフランスの社会制度と齟齬をきたさずに一夫多妻制が可能になります。というのは、今でもフランスでは、法律的に正式に結婚(勿論、一夫一妻として)していなくても、同性愛者を含めて社会的結合とみなされ、社会保障制度や税制に対しても、正式に結婚しているカップルと同様の権利を持ちますが、これを逆手にとって、一夫多妻制のカップル(?)にも同様の権利を付与するだけ、ということになるようです。
社会党は2002年と同様、今回も選択の余地はありません、この条件を呑むわけです。

そして、社会党、UMPと共闘したイスラム同胞党が決選投票で大勝利をおさめた後は、雪崩を打って社会は変わっていきます。
地方に出かけていた主人公がパリに戻ってみると、ユダヤ教徒向けの食品コーナーが消えているだけではなく、ショッピングモールから若い女性向けの衣料を売っていた店であるJennifer (実在、日本には店舗はない模様)は消え、ということは、日本でもお馴染みのH&MZARAもMANGOも皆無くなっているのでしょう。街を歩く女性は全員がパンタロン姿。ショートパンツは勿論、太ももが見えるようなワンピースやスカートの女性は消えています。
フランソワの同僚でまともな論文を書いたこともない無能な男スティーブは、節操もなくさっさと改宗して大学に従来の3倍の給料で職を得て、大学が借り上げた高級アパルトマンに住むことになり、おまけに女子学生の妻まであてがわれ、更におまけに「二番目の妻」を来月めとることになると言います。
またイスラム同胞党の新政府は、家族手当をを大幅に増額し、それで何が起こったかというと、働いていた女性たちの多くが仕事を辞めて家庭に入ることになったのです。巧妙な政策です。それで女性の就業率はぐっと下がりましたが、失業率もぐっと下がったので、左派社会党は文句を言えません。
大学関係者のパーティーに招待されたフランソワは、赤ワインを4杯飲んだ後、やっと目に見える変化に気がつきます、それは

「会場には男性しかいなかったのだ。一人たりとも女性は招待されておらず」

という状況だということです。
前述のように、パリ第三大学の学長は、ジェンダー学専門の女性から、親パレスチナで当然イスラム教に改宗したルディジェという人物に代わっているのですが、彼のパリ5区にある豪勢な邸宅に招かれたフランソワは、彼が16歳の第二夫人(ハローキティのTシャツとローウェストのジーンズ姿)と、40歳を超えた料理の上手な第一夫人と、二人の妻(プラス、あと一人か二人!)を持っていることを知ります。
このルディジェという人物は後に外務大臣になる野心家なのですが、彼はフランソワの研究上の業績を大きく評価しており、彼を大学に戻したいと考えています。それは即ち、フランソワにイスラム教への改宗を迫るものなのですが。洗練されたインテリアの彼の自宅サロンで、ムルソーブルゴーニュの高級白ワイン)とプハ(チュニジア蒸留酒)のグラスを傾けつつ、ルディジェはフランス及びヨーロッパ的知性と教養を総動員して華麗な論理で彼を改宗へと誘います、まるでメフィストフェレスのように。
更にその後別の場所で「白髪の交じった髪は薄汚れ長く伸び、分厚いメガネをかけ、洋服は上下ちぐはぐで不潔一歩手前」の年上の元同僚のロワズルールもまた、イスラム教に改宗して大学に職を得たばかりか、このキモオタのおじさんが、学部2年生の女子学生を妻にあてがわれたと聞いて、フランソワは驚きを隠せません。
ここまで来たら、もう陥落はすぐそこです。フランソワはインテリとして最後の足掻き(?)で、一夫多妻制度について、

「支配する雄として自分を捉えるのは少し難しいように思われるのです。」

と、僅かに抵抗を試みるのですが、それさえ言い終わらないうちにメフィストフェレスのルディジェに遮られ、

「あなたは間違っている。自然淘汰は普遍的な原理で、あらゆる生きものに当てはまりますが、その形は様々に異なっています。(中略)自然において人間の支配的な地位を保証するのは、爪でも歯でも走る速さでもありません。それは人間の知性なのです。ですから、真剣に言わせていただければ、大学教授が支配的な雄の間に入るのは何もおかしなことはないのです。」

と、論破(?)されてしまうのです。つまり、インテリである大学教授は人間界において強者であるので支配的な雄になって妻を複数持ってもそれは自然の摂理に適っている、という(トンデモ)理論なのですね。フランソワのプライドをくすぐるには十分すぎるものです。トドメは、メフィストフェレスのこの一言 ↓

「あなたは特に問題なく三人の妻をめとることができると思いますよ。」

これでフランソワは完全に攻略されてしまいましたとさ、おしまい。



「おしまい」で済めばいいのです。
きっと男性読者にとっては、愉快でもあり、痛快でもあり、笑える話なのかもしれません。
キモオタのおじさんにとっては、ディストピアどころか、夢のようなユートピアではありませんか?

このインテリ的小説の書評を書くような日本の男性「大学教授」の方々にとっては、給料は今の3倍、東京で言うと港区や世田谷区に豪勢な住宅をあてがわれ、「大学教授は知性において支配的雄の中に入って当然」とプライドをくすぐられ、妻を三人も娶ることができるのなら(その内の一人はAKBあたりから調達も可能)、「服従」の世界はまさにユートピアでは?



私などは、21世紀の自由で豊かな国ニッポンに生きているというのに、この「服従」を読み終えて、鬱々した気分が抜けません。
考えれば考えるほど、鬱々としてきます。
それは何故か?
服従」の中のこの女性にとってのディストピアが、細切れのピースになってこのニッポンにも深く存在している、もしくは芽を出さんばかりの状況なのではないか、と気付かされたから、です。

今の日本が進もうとしている方向とは。
国民を牛耳るには先ず教育、なのでしょう。道徳って教科になったんですよね。「親学」信奉、「夫婦別姓」も選択的ですら反対、ジェンダーフリー教育も反対。そういう思想の政治家が教育に関する権力を握れば、たった一世代でお好みの国民を作ることができるのですね。女性活躍とか今頃になって言っていますが、つい最近まで日本の大企業の取締役会は、「服従」の中でイスラム政権が誕生した後に開かれたパリ第三大学の会合みたいに、「一人たりとも女性は招待されず」という男性のみの状態であり、それは官僚の世界でも経団連でも日本の社会を牛耳る組織ではどこでも同様だったわけです。
そもそも、少子化がここまで進まなかったなら、「女性活躍」「女性が輝く社会」などと政府が言い出したかどうか?つい先日、「少子化対策のために、祖父母・親・子供の三世代の同居などを促進する住宅政策」なるものが発表されましたが、イマドキの三世代同居が実現した暁に、その世帯の家事を担うのは誰になるのか?夫の両親と同居した場合には、嫁が働いていたとしても、どうしたって嫁が家事・育児、やがては介護も担うようになるでしょう。逆に、妻の両親と同居した場合、娘に働いてもらうため、婿にいい格好するため、妻の母親が家事・育児に加えて、夫の介護も担うようになるでしょう。どちらにしても、男性は、三世代同居を運営する責任ある当事者にはならないでしょう。結局は、社会から見えない世帯の中で何とかしてね、多分女性が家事を切り盛りしてくれるよね、という政策なのではないでしょうか?これで、三世代同居をしている家族にどっさり「家族手当」を支給する政策なんかが出てきたら、仕事を辞めて家庭に入る女性が増え、まるで「服従」の世界になりますよ、今でも一歩手前です。
また、中年男性がティーンエイジャーのアイドルに熱中したり、女子高生を性的対象として見ているという、本来異常なことが、もう普通のこととみなされてしまっている日本です。古女房に加えて、初等教育を終えたばかりの10代の若い第二の妻を娶ることができるようになるというのは、日本でも荒唐無稽で言語道断なことではなく、既に中年男性が抱く夢なのではないでしょうか?
フランスの男性は、日本の男性に比べてフェミニストだと言われていても、「服従」の中で、彼らフランスの男性が、いとも簡単に一夫多妻を受け容れているのを見ると、日本の男性などは瞬殺でしょうね。
何より、この「服従」の書評や感想を書いている男性が、イスラム教の教義を基にした一夫多妻制や女性の権利の制限の描写に、全く危機感がないことが、私の一番の危機感です。
日本の女性が現在謳歌しているように見える自由、やっと手に入れたささやかな自由で不十分なこと極まりないのですが、それさえ本当はガラスのように儚く、ちょっとしたことで後退、もしくは煙のように無くなってしまうものなんじゃないか、と恐ろしくなりました。


服従」の中では、単に「フランスにイスラム政権が誕生」したことがゴールではないようです。
新大統領のアッベス氏は、まだ43歳。ケネディ大統領が大統領に就任した年齢です。
彼の壮大な目標は、ヨーロッパの軸を南にずらして、リビア、モロッコ、エジプト、更にシリアやトルコも加え、さながらローマ帝国の再興のようなヨーロッパに作り変え、自身はアウグストゥス皇帝ならぬ大ヨーロッパ初代大統領に就く、というもののようです。
前述のように、西の中華思想を持つフランス人は、この近年の政治・経済両面におけるドイツの台頭は面白くないことだったでしょう、二度と彼らと戦火を交えるつもりはなくとも。再び栄光のフランスの時代が来る可能性、それを人参のように鼻先にぶら下げられればフランス男は胸踊るはずです、ナポレオンの末裔ですからね。
そしてイスラム世界と親密な大ヨーロッパ帝国が完成した暁には、この一世紀の間大きな顔をしていたあの野蛮なアメリカさえ怖くなくなります。
これがフランス男の夢でなくて何なのでしょう。


以前に、帰ってきたヒトラーという、これはドイツにおける近未来小説の感想を書いたことがあります(「帰ってきたヒトラー」を読んで 雑感 この本がドイツでベストセラーとなった意味
この内容もそれなりにコワいものでした。しかし、この本が出版された時には、まだ今年の夏に起きた、ドイツに押し寄せる難民の問題はありませんでした。
2015年秋、もし今の時点で「帰ってきたヒトラー」を読んだとしたら?もしくは、作者が、この夏以降のドイツの状況も小説に組み入れていたら、もっともっと現実味を帯びた恐ろしいものになっていたに違いありません。

一方つい先日もイギリスが、嘗ての植民地であり、アヘン戦争を仕掛け香港を奪い取った、当の相手の中国の習近平主席を、王室の馬車とバッキンガム宮殿宿泊という破格の待遇で厚遇、人民元建て国債をロンドンで発行、更に原発まで中国に作ってもらうというニュースがありました。


フランス、ドイツ、イギリス(私はイギリスはヨーロッパではないと思っていますが)の、西欧世界が、政治的にも経済的にも文化的にも、もう崩れ去りつつあるのでしょうか?
西欧文明のアップデートをし損ねて、西欧の外の文明に対抗するどころか、飲み込むことさえ、もう叶わなくなっているのでしょうか、西欧世界は。


服従 Soumission」というタイトルに関して、小説の中では、O嬢の物語(「ポーリーヌ・レアージュ」という女性の筆名で、ジャーナリスト、ドミニク・オーリーが書いた)が言及されています。主人公フランソワに、改宗を迫るメフィストフェレスことルディジェの言葉はこうです。

O嬢の物語」にあるのは、服従です。人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前にこれだけの力を持って表明されたことがなかった。それがすべてを反転させる思想なのです。(中略)「O嬢の物語」に描かれているように、女性が男性に完全に服従すること、イスラームが目的としているように、人間が神に服従することの間には関係があるのです。(中略)コーランは、神を称える神秘主義的で偉大な詩そのものなのです。創造主への称賛と、その法への服従です。


ユイスマンスと同じ理由で、「O嬢の物語」のようなニッチな本は稀代のポルノとはいえ読んだ方は少ないのではないかと思いますが、私は18歳の誕生日に親友が「自分では本屋で書いにくいだろうから(アマゾンがない時代でした)、代わりに買ったよ。私もレジで『プレゼントです!』と大きな声で言って買ったけど。そして一足先に読ませてもらったからね。」と言って文庫をプレゼントしてくれたので既読です。しかし、「女性が男性に完全に服従すること」が「人間の絶対的幸福」であるとは、18歳当時も、そして何十年経った今でも、到底1mmも思えません。


最初に書いたように、この「服従」は、教養ある男性諸氏が読むとわくわくするような、フランス文学らしい思想や哲学的議論や文明論が盛り沢山の、非常に洗練された小説です。
その知的興奮に素直に入り込めません、少なくとも私は。


読後の気持ちの悪さをようやく飲み込みつつ、願うばかりです。
服従」の中のディストピアを、この目で見る日がどうか来ませんように。