「帰ってきたヒトラー」を読んで 雑感 この本がドイツでベストセラーとなった意味


帰ってきたヒトラー 上

帰ってきたヒトラー 上

帰ってきたヒトラー 下

帰ってきたヒトラー 下



帰ってきたヒトラー Er ist wieder da.」
ストーリーは、単純です。

第二次世界大戦末期、ピストル自殺をして遺体はガソリンで焼かれたはずのヒトラーが、2011年の8月、ベルリンの空き地で目覚めます。
彼自身、何故そこにいるのかはわからないものの、戦前の記憶はそのまま。
現代に甦ったヒトラーは、生前のままに意見を言い、行動しているだけなのに、人々はそれをコメディアンが風刺としてやっている「芸」だと思い込んで、もてはやす。
最初は人気番組のキワものゲストであったが、徐々に人気と影響力を得ていき、あれよあれよと言う間に、何と国家権力に手が届くところまで状況が進んでしまう。


・・・という話なんですが。
この物語は、最初の設定(=ヒトラーが何故か現代に甦る)こそファンタジーですが、それ以外は一切ファンタジーはない状況設定で、徹頭徹尾、現実に即して描かれています。
そして、「いつ化けの皮がはがれるのだろう?」「いつ『ヒトラー』が自らの過去の過ちに気付くのだろう?」と思いながら読み進めると、全く裏切られてしまいます。
化けの皮は剥がれません、何故なら、彼は本物の「ヒトラーであり、彼自身、常に自分自身でいるから、です。
自らが犯した過去の重大な過ちについても、彼自身が現代の思想に触れて反省するどころか、第二次世界大戦についての清算を絶えずしてきたと言われているドイツ人の心にさえもまだ残っている未清算の事柄を、彼は、悪魔的なまでな巧みさで、白日の下に晒していくのです。


で、ここからは、長文、ネタバレになりますが、私の感想を綴ってみます。


コミュニケーションとは何?

前述したように、「ヒトラーが現代に甦っている」ということは、誰一人として気付きません。
何故なら、「お前は誰か?」「お前の本名は?」と聞かれて、彼が常に真実、「私は、アドルフ・ヒトラーだ。」と答えているから、なのです、この皮肉で、恐ろしいコミュニケーション。
彼が、「私は、アドルフ・ヒトラーだ。」と真実を言えば言うほど、受け取る側の方が勝手に、「これは、『芸』に徹しているのだ。」と誤解するのです。真実を述べている彼の責任ではありません。
滑稽なほど(実際、笑ってしまうほど滑稽な場面が盛りだくさん)、コミュニケーションが成立していないのです。
これは彼と周囲の人々、出会った人々との間の、直接のコミュニケーションだけではありません。
彼が出演するテレビ番組の視聴者も、番組内の彼の昔のままの演説を聞いて、それが彼の本物の主張であるのに、「これは、手の込んだ『風刺』である。」と勝手に受け取り、喝采を送ります。
更に、それがYouTubeに動画として流されると瞬く間に70万回(!)も再生されるのですが、動画を見ているユーザーも、勝手に「これは、政治批判のコンテンツである。」と受け取っているわけです。
彼が、「私は、アドルフ・ヒトラーである。」と言っているのに、誰も危険視しないのです。
ドイツは、基本法という憲法によって、ナチスに関連するものは全て禁止されているのことはよく知られていますが、物語の中では、この本物のヒトラーによる危険な動きに関して検察に告発しようとする動きがあったものの、それは打ち切られたということになっています。
その理由は、

アドルフ・ヒトラーが本当にヒトラーである可能性はなく、芸術家としてならばまったくの自由が与えられるべき


検察さえも、勝手に解釈しているわけです。
最初は、「ビルト紙」という実在のタブロイド紙が彼の真実を暴こうとするのですが、却ってヒトラーの術中にはまって、

才気あふれる意見をつぎつぎ発表する国民の真の代表者

と記事に書かざるをえない状況になり、やがて、同じく実在の「南ドイツ新聞」やら「フランクフルター・アルゲマイネ紙」やらもそれぞれ、

その情熱的な弁論は、一見ネオファシストそのままの単一的構造をよそおいながら、同時に、多元的もしくは直接的な民主主義的プロセスを激しく訴えるものである

国粋主義の狼が羊の毛皮をかぶるという本質的矛盾を見事に操っている

と、彼の「芸」を称賛することになるのです。
加えて、彼が出演した番組が、テレビ番組に送られる、ドイツで最も権威ある賞であるグリメ賞(実在)を受賞するに至り、誤解が誤解を生んで、立派な箔もつきました。
更に更に、彼がネオナチの若者に襲撃され怪我を負い入院するに至っては、

極右ナチの暴力の犠牲者

正当防衛をあえて行なわず、非暴力を貫いた

と、美しく誤解するのです。ここまで来ると最早お笑いですが、それだけでなく、そういう美談が完成した途端、怪我で入院中の彼のもとに、ドイツの実在の政党の実在の幹部がそれぞれ電話をかけてきて、彼を自らの党に引き入れて政治的に利用しようとするのです!
さすがに、「陰気くさいオーラを自信満々に放っている不格好な」「東独育ちの」女首相の党からは、まだ電話がかかってきていない設定なのですが。

(この方のことだと思われます、失礼な!)

発信側が「真実」を述べているのに、受信側が勝手にねじまげて解釈しているが故に成立しない、コミュニケーション。
しかも、その危ういコミュニケーションは、ヒトラーの時代にはなかった、テレビやYouTubeやネットで更に増幅してしまう危険があるということ。
それを、著者であるティムール・ヴェルメシュ(←ヒトラーなら、「非アーリア人種の名前」というはず)は、現代ドイツ「あるある」(←ドイツに住んだことがある人にとっては、膝を打つことばかりでしょう)を絡めて、丁寧に描いているのです。
この丹念な描写が、荒唐無稽な最初のファンタジー設定を乗り越えて、読者に対して説得力を得ているのだと思いました。


ヒトラーが、ボロを出さない理由、人々が彼を危険視しない理由は、このコミュニケーションの不成立に加えて、彼が過激な政治批判をしても、ユダヤ人問題については、テレビ番組では言及しないことにあります。
ドイツでは、ユダヤ人問題は絶対にジョークにはできないトピックです。
現代に甦ったヒトラーを、「政治風刺の芸人」と思って雇うことにしたテレビプロダクションの女性幹部は、彼を採用するにあたって、釘をさします、

ユダヤ人〉を決してネタにしないこと。これは、ここにいるみんなの総意よ。


と。
この場面だけは、ヒトラーの方が、勝手に解釈した結果、彼と、現代ドイツの常識人である女性幹部の意向は見事に一致してしまうのです。
というのは、ヒトラーにとっては、〈ユダヤ人〉問題は、「ジョーク」ではなく「マジ」な問題なので、「ネタ」などにはできないから、なのです。
それが、「ユダヤ人問題をネタにしないから、彼はちゃんと『常識をわきまえた』コメディアン、芸人なのだ」という視聴者の誤解を更に助長することになるのですが。

これだけ情報が溢れており、テレビにネットにメディアには事欠かないのに、人々は「見たいものしか見ない」。
本当の意味でのコミュニケーションが成立していない、のです。
その滑稽さを笑っていられるのは僅かな間で、すぐにそれは危険な状況になり得る、ということ。
コミュニケーションとはそもそも何なのか?ということを考えさせられました。


多くの支持者を集めることが簡単だというからくり

物語の中では、現代ドイツの社会問題が、甦ったヒトラーの目を通して、戦前と比較する形で、政治体制から人々の服装までさまざまに描かれます。同様に、ドイツに住んだことがある方なら、「あるある」と思われることでしょう。
・多くのトルコ人が移民として、ドイツ社会に根をはっていること
・政治家が、マスコミ受けを気にして軟弱になっていること
・1991年に「ドイツ再統一」がなされたというけれど、それには、アルザスやロレーヌ、シュレジエンなど戦前ドイツ領であったところが含まれていないこと
・ドイツ女性、とりわけ若い女性がスカートを履かず、ファッションが黒ずくめであること
・携帯をいじりながら道を歩く人が多いこと
・ゴミの分別が面倒くさいということ
スターバックスが街中にあふれ、店主が責任を持って客に接していた個人商店が減ってぎりぎりまで店員の数を減らしたセルフサービスのチェーン店ばかりになっていること
・シンプルで丈夫な製品がなくなって、複雑で不要な性能がついた製品ばかりになっていること
・中年を過ぎても、胸を強調する若作りのファッションに身を包む女性が多いこと
・結婚、離婚を繰り返し、自分の娘ほどの女性と結婚する男性がいること

・・・移民問題以外は、日本や他の先進国にも当てはまりそうなことばかりですが。
政治活動において支持者を獲得することは、実はすこぶる簡単だということがわかります。
自分の主張全てに賛成な人を集める必要はないのです。
国民が現状に対して持っている数多の不満を並べ立てれば、どれか一つでもそれがヒットすればその人は支持者になるのです。
多くの社会問題のうちの一つ一つに不満を持つ人々が、その一つの不満を解消してもらうべく甦ったヒトラーを支持すれば、甦ったヒトラーはそれらの人々の全体集合を味方につけることに成功するのです。
そして支持された側は、全ての論点に関して自らの思う通りに実行できるのです、何故って、かくも多くの支持を得ているから。
あれ?何だか似たようなことが身近になかったでしょうか?
経済政策に賛成したはずだったのに、いつの間にか、原発再稼働、憲法改正、道徳の教科化、靖国参拝にも賛成したことになっているどこかの国民が・・・。
経済問題、少子高齢化問題、失業問題、貧困・格差問題、教育問題、原発問題、環境問題、etc。
日本に限ったことではないかもしれませんが、本当に、現代は政治課題が多すぎて、政策を掲げての選挙がもう限界になっているのではないでしょうか?
物語の中では、甦ったヒトラーはまだ政治家にはなっていませんが、彼がいとも簡単に人々の心を捉え、支持者を増やしていく過程を、著者ヴェルメシュ氏は、恐ろしくも現実に即して示しているのです。



結果が全てであり、それを達成するための過程や手続きは二義的なものなのか?

これを言い換えると、「政策を実現させるためならば、主義主張が違っても、手を組むべきなのか?」ということです。
この物語の下巻、即ち後半部分で、或る程度「政治風刺のコメディアン」としての名声を得た、現代に甦ったヒトラーは、自らの番組を立ち上げますが、その番組のゲストに、何と、ドイツ緑の党の元党首、レナーテ・キュナスト女史(実在)を招きます。
ちなみに、緑の党は、ドイツでは4番目(事実上は3番目)の規模を持つ政党で、1998年から2005年までは、SPDと組んで連立与党の座にありました。
言うまでもなく、環境に配慮した政策(脱原発自然エネルギー促進、二酸化炭素削減)に加えて、女性の社会進出、人権の擁護、多民族多文化社会の実現を標榜しています。
そのキュナスト女史に、甦ったヒトラーは、お互いに手を結ぶことを提案して彼女を驚かせ、当惑させます。
ナチス緑の党が連携するなんて、現実社会でも仮定ですら想像できないことです。
甦ったヒトラーはこう言います。

エネルギーの輸入は極力ゼロに近づけ、水力や風力など再生可能な資源をもとに、エネルギーの自給自足をめざすこと。これが百年、二百年、あるいは千年後のエネルギー上の安全保障というものだ。あなたも、この点では多少なりとも未来に目を向けておられるはずだ。そして私が言いたいのは、あなたがめざしているのと同じものを、私もこれまでつねにめざしてきたということだ。

当然、キュナスト女史は反論しますよね。

ちょっと待って!あなたの場合は、理由がぜんぜん別でしょう?

至極もっともなこの問いこそ、甦ったヒトラーが待っていたもので、彼はこう続けます。

持続可能なエネルギー経済を推進するのに、理由が良いか悪いかが関係あるのか?風車に正邪の区別があるというのか?

この甦ったヒトラーの問いに、この物語の読者である現実の緑の党員、及び支持者の人々は、どう答えるのか?
これは、議会制民主主義のジレンマですよね。甦ったヒトラーいわく、「権力を掌握するためには国会で過半数をとる必要がある」のですから。
主義主張は一致しないけれど、政策が一致するから、目的のために手を組むべきなのか?
日本においても、この悩ましさは見られます。ここまで(極右とエコ政党が連携する)極端ではなかったですが、「脱原発」で元首相候補と、共産党推薦の候補が連携できるか否か、は、先日の都知事選においても提起された問題でした。
また現政権で自民党と連立を組む公明党も、憲法改正やら原発再稼働で悩めるハムレット状態です。
逆にみんなの党は「政策が実現できるのならば」と自民党との連携に動き始めています。
最近では、都知事選に出馬した田母神俊雄氏が、宗教法人「幸福の科学」が設立した大学の教授に招聘されるという報道がありました。
政治家にとっては、権力を取らないことには、どんな政策も実現できないわけです。
一方、有権者にとっても、自分の意見が政策として反映されることが一番大事なのですし、大体、日々の生活が忙しくて、政党間の駆け引きを注視したりするヒマなどなく、結果さえ良ければいいのだ、という気持ちになりがちです。
しかし、本当に、政党や個人は、「結果」だけを見て、目的の実現のためには過程をなおざりにしていいのか?
著者ヴェルメシュ氏のこの問いに、今、私達は答えられるのでしょうか?


歴史を直視することに関して、タフであるということとは?

この物語の山場は、下巻の29章です。
日本よりは遥かに真摯に戦争責任について向かい合ってきたと言われているドイツですが、そんなドイツのそんなドイツ人であっても、相当タフでないと読み通せないような問題が、この章にはてんこ盛りです。
ドイツでは130万部売れたという、この本ですが、この本を手に取った全てのドイツ人にとって、28章まではげらげら笑い飛ばして読んでいたとしてもこの29章は一番厳しい章であったことと思います。

先ず、この章では、甦ったヒトラーにプロダクションが付けた女性秘書、クレマイヤー嬢が、実はユダヤ人であり、祖母の一家は密告されガス室送りになり、祖母以外は亡くなっているという衝撃の事実が明かされます。
このクレマイヤー嬢は、現代に甦ったヒトラーが有名になる前から、彼にパソコンや携帯の扱い方を教え、メールアドレスを取得してやり、言わば、彼が現代に順応するのを大きく手助けした人物です。
クレマイヤー嬢は、祖母の家を訪れた時、「政治風刺のコメディアン」である(と彼女は思い込んでいる)甦ったヒトラーのもとで働いていることを祖母に告げた途端、祖母はもの凄い剣幕で怒り始め、涙ながらに孫娘であるクレマイヤー嬢に訴えるのです。

(おばあちゃんは)こう言った。あの男がやっているのは、笑いごとではすまない。笑ったりなんかできないことなんだ。あんな人間が大手を振って歩くなんてとんでもないことだって。
 だから、私は説明してあげた。あれは、ぜんぶ風刺なんだよ。もう二度とあんなことが起きたりしないように、そのためにやっている風刺なんだよって。でも、おばあちゃんは言った。あれは風刺なんかじゃない。ヒトラーが昔に言ったことを、そのまま繰り返しているだけだ。人々がそれを聞いて笑っているのも、昔とおんなじだって。

この物語の中で初めて、甦ったヒトラーは揺らぎます、いえ、罪悪感で揺らぐのでは全くありません。
先ず彼の頭に浮かぶのは、「(外見はとてもユダヤ人に見えない彼女の家族が殺されたのは)人違いであったのでは?」という脳天気なことです。次に、クレマイヤー嬢がユダヤ人であることが事実だとわかってからも、今回は、彼の方が、自分に都合が良いように解釈します、優秀である秘書を辞めさせないために、

そう、ユダヤの血が混じっていたらそれで終わりというわけではないのだ。ほかの遺伝的資質が十分に優れていれば、たとえユダヤ的な資質があっても、それを乗り越えることは可能だ。

こう考えて、彼は全力で彼女を引き止めに入るのです。そして、何と自分から祖母を説得すると言い出します。自分のオーラに絶対的自信があるからなのですが。

私の仕事にとってクレマイヤー嬢がいかに欠かせない存在かを話せば、おそらくばあさんは目を輝かせ、孫娘の代わりを探す必要などないと言ってくれるだろう。イデオロギー的にたとえ疑念があっても、ばあさんはきっと、自分の聞きたい話だけを耳に入れるはずだ。

30章以降もクレマイヤー嬢が甦ったヒトラーの秘書を続けているところを見ると、彼の説得は成功したのでしょう・・・何という、苦く恐ろしい成り行き!


次に、この章の中では、去年麻生財務大臣兼副首相が失言したのと同様のことが、提示されています。
「あの手口、学んだらどうかね。」というあの失言です。
この失言の前には、

ドイツは、ヒットラーは、あれは民主主義によって、きちんとした議会で多数を握ってヒトラーは出てきたんですよ?ヒトラーと言えば、いかにも軍事力で(政権を)取ったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから!ドイツ国民は、「ヒットラーを選んだ」んですよ?間違えんで下さいね、これ。

と麻生氏は発言されていますが、この29章の中でも、甦ったヒトラーの口から同様のことが言われます。

そして総統は、今日的な意味で、〈民主的〉と呼ぶしかない方法で、選ばれたのだ。自らのヴィジョンを非の打ちどころがないほど明確に打ち出したからこそ、彼を、人々は総統に選んだ。ドイツ人が彼を総統に選び、そしてユダヤ人も彼を総統に選んだ。もしかしたらあなたの祖母殿の両親も、彼に票を投じていたかもしれない。

そして、ドイツ人にとって最も琴線に触れることを彼は口にします。

真実は、次の二つのうちのひとつだ。ひとつは、国民全体がブタだったということ。もうひとつは、国民はブタなどではなく、すべては民族の意志だったということだ。

これを聞いて取り乱したクレマイヤー嬢は、

おばあちゃんの一家が死んだのが、人々の意志であるわけがないじゃないの!あれは、あそこでーーーニュルンベルクで裁判にかけられた人たちが考え出したことよ

と反論するのですが・・・。
身も蓋もなく言ってしまうと、ヒトラーが言っているのは、民主的選挙を経てナチスが政権をとったことを前提として、

・国民全体がブタ→ドイツ人全体が、ホロコーストという非人道的な政策を実行した愚かにして低劣なブタであった。
・国民はブタなどではなく、すべては民族の意志だった→ドイツ人は愚かでも低劣でもなく、ホロコーストはドイツ人の総意で採った政策だった。

それに対してクレマイヤー嬢は、

ホロコーストは、ニュルンベルク裁判で戦犯として裁かれたナチスの人々が国民を欺いて考え出したことであり、ドイツ国民に責任はない

と、言っているわけです、このクレマイヤー嬢の見解が、ドイツでも一般的だと思いますが。

「ドイツ人全体がブタだった」というのは、いわゆる自虐史観ですね。
大多数のドイツ人は、戦後から現在に至るまで、ナチスが悪い。ドイツ国民に責任はない」という論理を受け容れてきたのですが、著者ヴェルメシュ氏は、それに対して「それで十分なのか?」と厳しく迫っているのです。
誰しも自分の国を誇りたいですし、自分の国がブタだったとは思いたくないですから、自虐史観から逃れようと思うならば、甦ったヒトラーが示した「ドイツ人全体がブタだったか?/民族の意志だったか?」という二者択一のうちの、「民族の意志だった」という選択肢を採りそうになってしまう、という落とし穴になっています。
この29章では、読者であるドイツ人が、これまでの「悪いのはナチス。ドイツ人には責任はない。」という立場から更に進んで、「ドイツ人全体がブタだった」という苦い選択肢を採れるかどうか、が試されているのです。
私の個人的意見ですが、合理主義者にして堅実なドイツ人は、この苦い選択肢を選べるに足るタフさを持っていると思います。
それは、第二次世界大戦後、国全体として、そして国民一人一人が積み重ねてきた全てのものに自信を持っていると思うから、です。
歴史上何度も戦ったフランスと手を取り合ってEUを支え、幾多の困難を乗り越えて東西ドイツを統一し、国民レベルでも和解と協力がなされた結果、独仏が再び戦火を交えることは、今日極めて非現実的になっているから、です。
甦ったヒトラーは、第二次世界大戦後の独仏の宥和を「知識」として知ってはいますが、彼が彼の弁論術の全てを尽くしたとしても、過去70年という年月をかけて築き上げられたものをなし崩しにすることはできない、という自信が、現代のドイツ人にはあるのだと思います。
その自信がなければ、つまり、この本によって「ヒトラーと戦前のドイツ礼讃」にドイツ国民が傾く危険性が僅かでもあれば、逆にこの本は発禁処分にされていたでしょう。
この本が出版され、しかも130万部を売り上げるベストセラーになったということは、ドイツ人の自信の表れなのです。

この物語を傍観者のように読んできた私は、ここでハタと自問してしまいました、「日本人は、これだけのタフさがあるのだろうか?」と。
東京裁判で戦犯とされた戦争指導者が悪かった。日本人には責任はない。」という見方さえ否定する(「戦勝国の裁判であって、戦犯にも責任はない」)人々がいる日本で、「日本人全体が、ブタだった。」と認める「自虐史観」に耐え得るタフさが、日本人にあるでしょうか?
自虐史観」という言葉には、私も反応してしまいます、誰だって、自分の国の不名誉な部分は認めたくない気持ちはありますから。
しかし、現代ドイツ人は「自虐史観」でさえ飲み込めるタフさを持つことを、この物語によって求められていることを思うと、いかにも自分のひ弱さを感じてしまいます。
日本人は、戦後70年という短くはない年月の中で、果たして歴史を直視するタフさを得たのでしょうか?



この物語がベストセラーになった意味

物語の最後で、この現代に甦ったヒトラーは、

悪いことばかりじゃなかった。Es war nicht alles schlecht.

というスローガンで、更に活動を続けることになるのですが、このスローガン、またしてもどこかで聞いたことがありませんか?
「日本が戦争中、それまで欧米の植民地だったアジアの国々を解放し、善政を敷いた。」
とか、
「日本は韓国を併合して、教育やインフラの整備をした。」
とか、です。
それはさて置いて、この物語は、このスローガンを掲げて、甦ったヒトラーが今度は本格的政治活動に乗り出すところで終わります。
さて、物語の先、ドイツはドイツ人は、どの方向に進むのか?

「悪いことばかりじゃなかった」とは、何とも巧妙なスローガンです。
一つでも「良いこと」があれば、正当化されてしまうかの如きです。
美化された過去として補正もされた「良いこと」を懐かしむのは、誰にとっても心地よいことです、現実に対する不満を暫し忘れることもできますし。
反対に、誰にとっても、忘れたい過去の「悪いこと」を突きつけられ、見たくないものを見る作業は辛く苦痛を伴うものであり、出来れば逃げ出したいことです。
政治家にとっても、選挙の票にもならない、有権者の耳が痛くなるようなことを主張するのは、やりたくないことでしょう。
寧ろ政治家がナショナリズムを煽って、「ドイツ人はブタではなかった」と信じ込ませ、国民はそれを信じるフリをする方が、どれだけ簡単なことか。
しかし、その困難な作業をやり抜く事こそが、現代を生きる国民だけでなく次の世代の国民にも、真の誇りを与える方法だと合理的に結論を出し、戦後70年間に渡ってやり続けた国があります。
それが、ドイツという国であり、だからこそ、この「帰ってきたヒトラー」がドイツで出版を許され、ベストセラーとなっているのだと思いました。