田母神氏と宇都宮氏は、実はよく似ている


今回、共に東京都知事選挙に出馬した、田母神俊雄宇都宮健児は、実はよく似ているのではないでしょうか?

いえ、どこにでもいるような小柄な昭和のおじさん、という外見の話ではありません。
ネアカでサービス精神たっぷりの話し好きのおじさん、というキャラの話でもありません。
勿論、共に固定ファンプラス新規のファンを集めたものの落選、という都知事選の選挙結果についてでもありません。



生年 出身地 出身高校 出身大学 大学卒業後のキャリア
田母神俊雄 1948年 福島県郡山市 県立安積高校 防衛大学校 航空自衛官航空幕僚長
宇都宮健児 1946年 愛媛県東宇和郡高山村 県立熊本高校 東京大学 弁護士→日本弁護士連合会会長

以下の記述は、下のリンク、著書に基づいています。

宇都宮けんじってどんな人?:希望のまち東京をつくる会 宇都宮健児さん|魂の仕事人|人材バンクネット
「田母神流ブレない生き方」(Kindle版)田母神俊雄



お二人とも、戦後間もない頃のお生まれの団塊の世代(「団塊の世代」とは1947〜1949年生まれの人を指すそうなので、正確には1946年生まれの宇都宮氏は、1年だけ早くお生まれです)で、厳しくも優しいご両親のもとで育ち、大学入学までは地方で暮らしています。
大学卒業後は、それぞれの道でトップにまで登り詰め、まだ選挙では当選はしていませんが、政治家としての道は「第二の人生」です。


宇都宮氏の父上は、何と復員軍人です、爆撃機の操縦士だったそうです。
特攻隊で命を落とす同僚もいた中、負傷して野戦病院に入っている時に終戦を迎えたそうです。
父親が元軍人で、というと、息子である宇都宮氏もまた、防衛大学校に入って軍人を目指す、というストーリーがあってもおかしくなかったですし、そうだったら防衛大学校で田母神氏の2年先輩だったわけですが。
その父上が復員した故郷が段々畑が連なり殆ど畑がない愛媛県の漁村、しかも父上自身が7人兄弟の6人目。
宇都宮氏と妹2人の3人の子供を抱えて食べられるはずもなく、一家は豊後水道を渡り、対岸の国東半島に入植します。
荒れ地の開墾に苦労する父親の後ろ姿を見て育った宇都宮氏は、当時の日本の少年のヒーロー長嶋茂雄氏に憧れて一時はプロ野球選手になって家族に楽をさせたいと野球に熱中。
しかし、身長が伸びず、体格的ハンディを感じて、県立熊本高校を経て、東大合格へと目標を変更し、そして合格。
そして寮費が安いということで入寮したのが、かの有名な「駒場寮」(←何が有名なのかは、ググってみてください)。
当時のトレンドの学生運動には参加しなかったものの、社会運動に目覚める。
その後は東大在学中に司法試験に一発合格し、東大を中退して弁護士の道へ。


田母神氏の教育観は、福島県郡山市農協に勤める厳しい父上に受けた教育に影響を受けたようです。
と言っても、当時は「子供が悪さをしたら、ぶん殴ってわからせる」というのは普通であったのでしょうが、自称「悪ガキ」であった田母神氏はいたずらをしては、父上に叱られて成長したとのこと。
ちなみに田母神氏にも宇都宮氏同様妹さんが2人いらっしゃるようです。
農村で食べ物には困らなかったとはいえ、決して裕福な暮らしではなかったようです。
小学校時代には、長嶋茂雄選手に憧れて、ソフトボールに熱中して、そこでも「リーダー的な存在」(本人による)であったそうです。
小学校の頃から、身長が低いことがコンプレックスであったと、氏自ら告白していますが、成績は中学では一番(本人による)、県立安積高校に進みます。
親戚に陸上自衛隊の三佐がいたそうですが、田母神氏自身は、父上から「防衛大学に行け!」と言われるまで、何と防衛大学の存在さえ知らなかったそうです。
当時毎年東大に5〜10人合格する進学校安積高校で、田母神氏は毎回学年で10番くらいの成績だったそうですから、「防衛大学へ」という父上の強い希望がなければ、田母神氏は東京大学に進学していたかもしれません。
防衛大学校に進学した理由の一つが「家計に貢献する」というものであったことを考えると、今度は逆に、寮費の安い「駒場寮」に入寮した田母神氏がそこで2年先輩の宇都宮氏と出会っていた可能性は十分あります。
そして、血気盛んな田母神氏のことですから、入学の翌年、安田講堂を占拠する学生の先頭に立っていたかもしれません。
↑ これは決して私の暴言ではなく、氏の父上が「気性が激しく負けん気の強い息子を一般の大学に入学させると、学生運動にのめり込むのではないかと心配」なさった故の、防衛大学だったそうですから。
田母神氏は全寮制で休みも殆どない厳しい大学生活を経て、防衛大学を卒業し、幹部候補生学校に入学。



幼少期を語るお二人に共通するのは、「貧しかった」「父親の影響」ということです。
終戦の翌年と3年後に生まれているお二人ですから、地方といえども食糧事情は良くなかったでしょうから栄養が行き渡らなかったのも当然ですし、世の中全体がまだまだ「終戦直後」の時代でした。
宇都宮氏の父上は、見知らぬ土地で一から開墾する姿を息子に見せ、田母神氏の父上は、中学を出て農協に勤めつつ本を読むのを欠かしたことがなく、幼い田母神氏もその影響で本を沢山読んだそうです。
田母神氏が防衛大学校に入学したのは、上述のように父上の希望に沿ったからでしたが、宇都宮氏の父上も氏の東大入学を殊の外喜ばれて入学式にはわざわざ九州から上京されたそうです。
体罰をも辞さない厳格な躾と同時に、強い父親としての後ろ姿を息子に見せ、息子の進路決定の主導権を持つ父親。
このような「古き良き時代の強い父親」は今では日本のどこを探してもいないと思います。
つまり、現代の日本で、宇都宮氏や田母神氏のような子どもを育てようにも、先ず「古き良き時代の強い父親が絶滅している」ところから話を始めないといけないのですが、強い父親が絶滅したのは、まさに宇都宮氏や田母神氏も属する団塊の世代・・・親子が友達のような関係になり、親といえども子供の進学先を強制でいない親子関係・・・であることを考えると、何とも皮肉なことです。



またお二人が示し合わせて言っているのではないか、と思ってしまうくらい似ているのは、ご自分でご自分のことを臆することなく、
「成績は良かった」
とおっしゃっていることです。
宇都宮氏も田母神氏も、きっと小学校では神童であり、中学校でも勿論学年で一番の秀才、地方の名門県立高校に進学した後も優等生であったのでしょう。
幼年期から高校卒業まで、常に「自分は同級生の誰よりも頭がよい」「自分はリーダーである」という意識を持ち続けると、その後の物の考え方がどうなるのか、とても興味深いところです。



そして大学卒業後、宇都宮氏は弁護士としてスタートし、田母神氏は幹部候補生として更に階段を上りますが、お二人共にここで「挫折」を経験しています。
宇都宮氏は、大手弁護士事務所にイソ弁として入所したのですが、口下手で押しも弱くて依頼人を開拓できず、二つの事務所を首になり、仕方なくサラ金問題を専門とする事務所として独立したそうです。
田母神氏は、防衛大学校卒業後に入った幹部候補生学校で、パイロット志望であったのに希望者100人の中からパイロットコースに進める35人の中には入れなかったのです。結果、田母神氏は「高射運用」の道に進むことになったのだそうです。
しかし又してもお二人に共通するのは、「挫折」を経て進んだ道で将来が開けて、結果的に日本弁護士連合会の会長やら航空幕僚長に登り詰めるところです。
そして、同世代ながら、日本の戦後、全く異なる道を歩んで来たお二人が、共に都知事候補として、先日の都知事選で相まみえたわけです。



日本にジェフリー・アーチャーがいたなら、彼の名作カインとアベル「運命の息子」のように、この二人の人生を日本の戦後史と絡めて長編小説で描いてほしいものですが。



人生が入れ替わっていても不思議はない、このお二人のこれまでの歩みですが、私には、このお二人は、戦後日本がなおざりにしていたもの、置き去りにしていたものを象徴しているのではないか、と思います。
何故このお二人が?
それは、お一人は、当時の「政治の季節」から全く隔絶した世界であった「自衛隊」で青年期から定年間近までを過ごし、お一人は、同級生が企業や官庁で高度成長やらバブルやらを牽引していたのとは無縁の法曹界で長年お仕事をしていらっしゃったからです。
60年代に地方の高校からダイレクトに防衛大学校へ入学するということは、当時程度の差こそあれ、同世代の若者が体制に反抗したり、少なくともそのような環境で自らも考えずにはいられなかった、というような経験が空白である、ということです。
在学中に司法試験に合格し大学を中退して法曹界に入るということは、東大の同級生が、大企業に入って日本国内にとどまらずどんどん世界に出て行ってメイドインジャパンの商品を売りまくったり、大規模プロジェクトを手がけたり、また官庁に入って政策で国を動かすという醍醐味を味わっていたり、というのとは無縁であったわけです。
団塊の世代の他の人々とは違って、反抗期もなければ、国際社会の中で経済成長を達成したという実感もない、稀有なほどピュアなお二人なのです。
ピュアだからこそ、このお二人は、タイムカプセルの中の小学校の卒業文集のように、セピア色の立ち位置なんだと思います、懐かしいけど、アレ、みたいな。


首都東京の知事選挙で、「共産党の推薦を受けて立候補する」というのは、本当に当選して都政を担う気があるのか?と、真意を疑ってしまうのです。
本気で当選を信じていたのでしょうか?
定数5の東京選挙区で共産党公認の候補者が当選した昨年の参議院選挙とかなら話は別ですが、現代の東京都のトップを選ぶ選挙で、共産党の支援を受けている候補者が当選するわけがない、というのは、私でもわかります。
まさか、1970年代の美濃部都知事時代が再来するとでも?
その後のバブルとその崩壊を経て、東京は資本主義で手に入れることが出来る最上のものが集まった都市なのです。
私は80年代のバブル期に大学生やってましたが、ブランドもののバッグ持った女子大生やらフィラのポロシャツ着てテニスのラケット抱えた男子学生が大勢通る大学の門に、「共産主義革命を成功させよう!」とか何とか書いた立て看板掲げて演説している学生を見て、言論の自由の有り難さというよりも、「この時代に正気の沙汰ではない」と思ったのと同様です。


また、田母神氏が自衛隊を辞めることになった論文(ネットで読める)を見ると、最初のページから、マトモな大人ならば即赤ペンを入れて添削したくなるくらい酷い。牽強付会、例えになっていない例えのオンパレードです。
特徴的なのは、今までの歴史の見方を覆すようなことをわかりやすい比較と共にわかりやすく提示して、「なるほど、そういう見方もあったのか!」という錯覚に読者をして陥らせる、しかしその見方は偏向しており、そして浅いことです。
中学校1年生くらいで学年で一番頭が良く、口も立つ生徒が大人に対して言いそうなことです、「日本軍は、良い事もたくさんやったんでしょ?」「他の国も、侵略とかやっていたのに何故日本だけが悪者なの?」と口を尖らせて大人に質問する、っていうような。
それを聞いているクラスメートの中に、彼が大人に対して勇ましく質問をしているということだけで、内容を深く考えもせずに彼に心酔してしまう者もいるかもしれません。
彼が言っていることは間違っているとぼんやり思っていても、その根拠を上手く言語化できないので、黙ってしまっている者も多いでしょう。
この質問に対して、日教組とか関係なく、教師が一人残らず自信を持って答えられるように、この間違った歴史観を一瞬で論破できるような日本の学校であらねばならなかったのですし、世の中もそうでなくてはいけなかったのです。
例えば、ドイツで「ヒトラーは、アウトバーンを建設したり良いこともした」と子供が言ったら、全ての大人は即座にそれを論破するでしょう、「そ、そうだね、良いこともしたかもね。もごもご。」には絶対にならないと思います。
それに対して、日本は・・・、60歳半ばのピュアなおじさんに、誰も今まで論破を試みたことはなかったのでしょうか。


ちなみに、ドイツ(西ドイツ)は戦後独立して間もなくネオナチこと極右の「社会主義帝国党」の活動を禁止すると同時に、「共産党」の活動も禁止しています。
日本人の理解を越えるほど合理的なドイツ人です、極右と極左を予めぶった切って、安心感のある政治を現実的に進めるためであったのでしょう。


翻って、今回の都知事選も、もし田母神氏も宇都宮氏も立候補していなかったら、争点はもっと明確であったのではないでしょうか?
舛添氏VS細川氏で、それ以外は泡沫、有権者にとってはわかりやすかったと思います。
本来はずっとずっと以前に、このお二人の立場は清算され回収されていなくてはならなかったのでは?と思ってしまうのです。
団塊の世代の皆様には、皆様の同世代である、エクストリームに左右両極の田母神氏と宇都宮氏、このお二人の物語に是非、合理的ピリオドを打って、次の世代にまで持ち越さないようにして頂きたいものだと思います。


何故か自民党には、団塊の世代の大物政治家がいないのだそうです。
なので、団塊の世代から総裁を出すことなく既に1954年生まれの安倍氏が、1年半前から総裁です。
民主党団塊の世代の政治家、といえば、菅直人氏、鳩山由紀夫氏、仙谷由人氏・・・もうやめておきましょう。
こんな状況だからなのか、嘗て自民党を蹴って出た舛添氏が、自民・公明の支持を受け、細川氏並びに田母神氏と宇都宮氏を破って、都知事選挙で当選しました。
舛添氏は実は田母神氏と同じ1948年生まれ、2年年長の宇都宮氏と同じく東京大学に入学し、三鷹寮で政治の季節を過ごしたそうです。
舛添氏もまた、「政治家」は、長年学者をやってきた後の「第二の人生」です。
団塊」というからには、マス(mass)のはずなんですが、そのmassの中に、今胸突き八丁に来ている日本の政治を託せる人がいなかったり、また都政を、プロの政治家ではなく、第二の人生の職業として政治家を選んだ人物に託すことになるのは、何故なんでしょう?
よく似たこのお二人を見て、考えてしまったことでした。




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