夫のドイツ赴任顛末記 ⑤

顛末記④から続く)
ドイツ上陸僅か3日目の夕方、右も左も分からぬ状態で異国に置き去りにされた私と子供2人。
心臓にタテガミが生えている私でも、この夜はかなりビビった。しかも偶然にもその夜は上の階の住人がパーティーをしているみたいで、ドイツにしてはかなりの騒音で(異邦人の身でこの賑やかな音は、逆に寂寥感と恐怖感を誘うものである)、更に多分酔っぱらった客が1階の共同玄関の呼び鈴を押すのに、間違って我が家の部屋番号の呼び鈴を
ドイツ人的執念深さ
で何度も何度も押すものだから、一晩中、緊張とその音で眠れなかった私。

デュッセルドルフは実は日本人がとても多いところで、「Oberkassel」という日本人学校がある地域は日本人だらけで「ここは海外駐在とは呼べない」と言われているところだそうだが、私たちが仮住まいしていたのは、逆に日本人どころかアジア人や黒人も稀にしか見ない旧市街で、しかもかなり庶民的な場所。後に、「Oberkassel」に行った私は、「同じデュッセルドルフ市内とは思えない、こんなところがあったなんて!」とびっくりしたのだが、とにかく「一刻も早く現地へ行く」ことを目指した我が家にとって、短期間で家具付きで借りられるところ、ということでここのディープなアパートになったわけである。デュッセルドルフの見本市にくるビジネスマンが数週間、とか滞在する用に出来ているらしく、家具はもちろん、一通りの食器、お鍋、ベッドリネンまで揃っているところだった。仕事でパリに出張する夫に選択の余地はなかったとはいえ、ドイツ上陸後3日目でここに親子で置き去りにされた訳である(これをネタに一生夫をゆするつもり)。

不眠なんだか時差なのかわからないまま、翌日朦朧とした頭で行動開始。喫緊の課題は、子供達に英語を教えてくれるところを見つけること、だった。泊まったホテルの近くにある「日本クラブ」で幾つかの英会話教室のパンフレットは貰っていたので、それと地図を見比べて、仮住まいからでも、本格的に住む予定の社宅からも通いやすいところを見つけた。が、電話で交渉するだけの英語力に自信がないため、子供達を引き連れ、切符を買って電車に乗り(切符の買い方を学習しておいてよかった!)、実際に行ってみる。経営者は勿論ドイツ人だけれども英語も喋るおじさん。私のサバイバルオンリーの錆に錆び付いた英語で何とか、子供達二人に英語を教えてもらえるように交渉する。紹介されたのはイギリス人女性で(あとでわかるのだが、ご主人はハンガリー系ドイツ人)、息子と娘、それぞれ別にレッスンしてもらうことになる。ここまでは勢いで来て、ミッション・コンプリートでほっとする。その帰りに地図と市電路線図を見ながら、市中心部の「日本クラブ」に行く。子供達は日本を離れてまだ数日なのに、日本語に飢えていてここの図書室にある、新聞といい漫画といい本といい、貪り読んでいる。というのも、仮住まいのテレビにはトーゼンの如く日本語放送など入らないし、英語放送だってBBC・Worldだけなのだが、最初私はこのBBCの英語が全く聞き取れなかった。でも本当は慣れてくるとCNNよりは余程聞き取りやすい、というのが実感。

夫が不在の4日間はもの凄く長く感じられた。日本では、夫が出張だと「ラッキー」くらいの気持ちなのに(どこの奥様もそうだと思う)、外国でそれこそネットもない、テレビもあるにはあるが全く理解できない、新聞もない、勿論知人とて一人もいない、という状態だと、長いのなんの!と言う訳で、夫と初日に買い出しに行った食料品も底をつき、子供達とおっかなびっくり近所のスーパーに行く。まあ、スーパーだからドイツ語わからなくても、必要なパン、牛乳、野菜、お肉も見ればはわかるわけで、テキトーにカゴに入れ、レジに向かった。そこのスーパーのレジは旧式、というか、後にわかることだが大型スーパーにはもうないけれども専門店などではまだまだドイツにはあるタイプのレジだった。そのレジとは、買い物した合計金額が一応レジスターに表示される、が、表示されるがすぐに消えてしまうのである!で、カートの中の商品をレジのおねーちゃんが次々とバーコード読み取りをしているうちはよかったのだ。そして金額が表示されたのだが、すぐに消えてしまって、私は見過ごしてしまった。仕方ないので、日本では中学一年生の英語の時間に習うフレーズ、「How much?」と聞いた。ところが。レジのおねーちゃんはこの「How much?」がわからない様子。
まさか!ドイツ人が「How much?」がわからないはずないでしょ?
日本のスーパーのレジのおばちゃんでもおねえちゃんでも、「How much?」くらいの英語はわかると思う、と断言したい。
「世界まるごと、ハウマッチ?」
なんてクイズ番組が一昔前テレビであったし。ましてここは英語と同じアルファベットを使う国、ドイツ。わからない筈がない、と私は思うわけで、それで重ねて「How much?」と既に不機嫌な無表情になっているレジのおねーちゃんに尋ねるのだが、何度阿呆みたいに「How much?」と繰り返してもおねーちゃん、この簡単な英語が理解できてない、ということがわかってきた。何気に後ろを振り返ってみると、ドイツ人たちが大人しく、しかし顔だけは剣呑なコワい顔で長蛇の列で私の後ろに並んでいるのだ!この時のキョーフ感は忘れられない。更に数回おねーちゃんに「How much?」を絶望的に繰り返した後、とうとうそのレジのおねーちゃんもさすがに私が何を尋ねているかがわかった模様(ていうか、他にレジで尋ねることありますかね?)、で今度はおねーちゃんの方が私に向かって何やら言っているのだが、否、察しのよい東洋の女である私は、今度は逆に彼女が私が払うべき金額をドイツ語で言っていることは即座にわかったのだが、そのドイツ語で言っている数字が分からないのだ!そして永遠とも思われる問答が続いた後、彼女はやっと気がついた。その辺にあった紙に数字を書いて、(そしてこれからが肝腎のところなのだが)、投げてよこした、のである!手首のスナップを利かせて数字のメモを
投げてよこしたのである!

爾来低血圧で、大学4年生の時の健康診断では異常に血圧が低くて(上が90下が60未満)、「あなた就職できないよ」と看護婦さんに言われた私だったが、この、ドイツ人のおねーちゃんに数字を書いた紙を投げつけられた瞬間には、
血圧が人生最高値(推定)まで急上昇!
あの腹立たしさと悔しさと言ったら!
それはこういうことだろう。日本ではそんな扱いを受けたことがなかった私が、いいトシした子供が二人もいる私が、ドイツ語がわからない、ということだけで、この目の前のドイツ人のおねーちゃんに馬鹿にされてる!というのが、未知の腹立たしい経験だったわけである。あまりに頭に血が上っていたので、
「あんただって、『How much?』っていう、超弩級に簡単な英語がわかんないじゃない!」
というところまでは頭が回らなかったのではあるけれど。

この瞬間、私はそれまでの屈託を捨てて、
じゃあ、ドイツ語くらいやってやろうじゃないの!
こんな仕打ち受けながら何年もここで暮らすなんてありえない!
と思ってしまったのであった。
説明が後になるが、私は実は夫がドイツ赴任に決まってからも、ドイツ語を避けていたし全然勉強しようとは思わなかった。今から思うと、超楽観的に、「上手くすると(?)ドイツ語やらなくても、英語と大学で専攻したフランス語で何とかなるかも。」と高をくくっていたフシもある。その理由は・・・

もうこのトシになって、新しく何か言語を勉強する気にはなれなかったから。
ずっとドメスに人生生きて来た私の外国語歴は、
①英語  勿論中学校に入ってから学んだ「第一外国語」だけれど、私はやたら文法が好きでそれゆえ成績は良かった、ていうか、英語だけで点数かせいでいた。
②フランス語 ところが大学受験の時に、「もう英語飽きた!」とばかり、大学ではフランス語を専攻(第二外国語ではなく専攻)した。この時にドイツ語を専攻していたら、レジのドイツ人おねーちゃんに馬鹿にされることも、紙を投げつけられることもなかったのにぃ!フランス語も文法が好きだった。卒業後は、ワインのラベルを読む時のみに、活躍するフランス語力!のレベル。

であるからして、ドイツに転勤になったから、と言って更にもう一言語勉強する気には、生来面倒くさがりだということもあり、なれなかったのだった。
が、
もうそんなことはかなぐり捨てて、ドイツ語を勉強する気になった私。
スーパーのレジでの出来事が、その後の私のドイツ語学習のモチベーションを支えてくれたのであった。



追記
ドイツ人の名誉、というか、そのレジのおねーちゃんのために言っておくと。

レジに座っているおねーちゃんくらいだと、当然、ギムナジウムコースではなくて、職業学校出身だと思われるので(ドイツの教育システム参照)外国語として英語を学んでいない可能性もある(第一外国語は、「英語しか選択肢がない」日本と違って、フランス語、オランダ語、等々の選択肢もあるからして)。
そしてそのおねーちゃんが特にDQNというわけではなく、例えばデパートの布団売り場でネクタイ締めたいかにも「主任さん」というおじさんでさえ簡単な英語がわからない、とか、大学生が多いケルンの町のど真ん中の靴屋で店員のおねーさんがやはり英語が全くわからなくて、イギリスから遊びに来た私の友人(日本人)がびっくりしていた、ということもある。

更に。
「投げてよこした」というのも、本人にはそのつもりじゃなかった、とも考えられる。日本に帰国して「浦島太郎」的に感動したのは、スーパーのレジでお金を払うと、
「大きい方から、一、二、三千円。小さい方は二百六十三円でございます。」
と、お札を先に揃えて渡してくれ、私がお札をお財布にしまうのを見計らって小銭でお釣りを渡してくれることである!
これって、ドイツでは絶対にありえないこと。
ドイツ人だと、お札のお釣りは、くしゃくしゃのまま台に投げ出す、って感じでしょうかね。それがクレジットカードだと、それこそ手首のスナップを利かせて、「投げる」って感じで返してくる。最初私はそれを、「私が黄色人種だから、ドイツ語ができないから、馬鹿にして投げて返してるわけ?」と被害妄想的に思っていたのだが、それは大きな間違い。何故なら、誰に対しても、そう、いかにもお金持ちそうなお喋りドイツおばさんにも、髭を生やしたコワそうなおじさんにも、投げて返しているから。つまり
ドイツ人はお札やカードを揃えて丁寧に渡すことができない!
というのが真実なのである。


とにかく、この時の経験が、私をして、ドイツ語学習に向かわせるきっかけになったのだった。