「英語化の行方」 本当に「英語だけ」でよいのでしょうか?

昨日の朝日新聞グローブの特集は 「The language of the future 英語化の行方」 *1でした。

外交やビジネスの世界で進む英語の国際共通語化。
しかし中国などの新興国が台頭し、米国の影響力にかげりも見える。英語の勢いはどこまで続くのか。

という見出しの下に、シンガポール、韓国、フランス、ジュネーブ、そして日本それぞれの国、都市での事情と、インタビューとして、慶応大学言語文化研究所教授の大津由起雄氏、「グロービッシュ*2提唱者のジャンポール・ネリエール氏の主張が載っていました。

国家戦略で「英語漬け」

の見出しではじまる韓国についての記事では、国を挙げての「英語教育」について書かれています。1997年には小学校3年から英語の授業が必修化され、全国から選抜した生徒が学ぶ「英語エリート校」(そこでは、国語と韓国史第二外国語以外の授業は全て英語)を作り、小・中学生が英語だけで生活する「英語村」を韓国国内に20カ所作り、2015年からは大学入試にスピーキングとライティングも導入するらしいです。ウチの子どもが通ったドイツのインタナショナル・スクールにいた韓国人のママたちが言っていた「韓国では英語ができればエリート」というのが納得されます。そのママたちは既に日本の何倍も厳しい韓国の受験戦争を経験してきた世代ですから(「私の母親は受験日の100日前からお参りして『合格』を祈っていた」「自分が受験の時は、1回しか受験チャンスがなかったからプレッシャーがスゴかった」らしい)、「子どもにより高い英語力をつけさせる」という熱心さに於いては、日本人ママは彼女たちの足元にも及ばなかったですけど。記事の中にも

韓国人の英語は「海外で使うというより、国内競争で勝ち抜くための道具としての性格が強い」

韓国人にとって英語は、コミュニケーションの手段というより社会における評価基準。だから、確かに英語力は向上しているが(※韓国の2010年のTOEFL平均点は81点/120点満点。日本は70点)英語にコンプレックスやストレスを感じている人もいるんです。

という記述がありました。これをどう見るか、ですね。日本でも「小学校から英語教育を!」と叫んでいる人がいますが、日本も韓国が採っている政策を見習うべきなのかどうか。疑問があるとすれば、「何故全員が『英語』なのか?」ということです。「英語ができる/できない」が国内における社会の評価基準というのは、英語がたとえ世界共通語(暫定)であるとしても、或る一つの言語にその基準を委ねるのはリスクが高過ぎるのでは?と思います。英語「だけ」で世界の大半をカバーしきれなくなった時にどうするのか?何より、限られた教育財源、教育にかける時間の中で、外国語である英語に力を入れる以前に、数学やら理科やらの教育に力を注ぐべきではないのでしょうか?次のシンガポールの事情は韓国とは少々異なります。

英語で繁栄。中国語でも、と二兎を追う

という見出しのシンガポール公用語は英語、中国語、マレー語、タミル語の4つですが、行政などで使う「実用言語」は旧宗主国の言葉である「英語」です、というのは、民族的には中国系、マレー系、インド系に分かれているシンガポールのどの民族にとっても中立だから、だそうです。「建国の父」リー・クアンユーによって、1987年には全ての学校の授業が英語で行われるようになった成果が、小さな都市国家ともいえるシンガポールの現在の繁栄に繋がっているのでしょう。国際的企業が本社やアジア拠点をシンガポールに置くのも、国民が英語圏に大勢留学するのも全てはこの政策によるものです。しかし、今年89歳になる前述のリー・クワンユー氏は、シンガポールの更なる発展のために、英語と中国語「二カ国語の強化」を打ち出しているというのです、何という烱眼。中国語(それも北京語)を使える国民を増やすことによっての経済・政治両面でのメリットを考えた訳です。

ここで韓国と比べてみると、韓国は中国の隣国でありながら、戦後教育を受けた世代の韓国人は漢字を使えません。やはりインターナショナル・スクールで子ども同士が仲が良くて付き合っていた韓国人のママが、自分の名前を表す漢字さえ「家に帰って自分の名前を表す漢字が書いてある紙を見なくてはわからない」(ちなみに私と彼女のコミュニケーション言語はドイツ語でした!)と言った時には驚愕しましたが、彼女に限らず戦後世代は皆似たり寄ったりのようなのです。「学術用語や形而上学的用語も漢字ではなく無理にハングルで習うので理解が難しい」と何かで読んだこともありますが、何より隣国の言葉を学ばないのは不自然ですし、「英語漬け」教育に邁進したのはよいですが、隣国中国の経済的台頭を読めていなかった、ということではないでしょうか?逆に北朝鮮の方が、政治・経済両面で必要不可欠な中国語に堪能な人材が育っているやもしれません。

影響力低下に危機感

と書かれているフランスの言語であるフランス語は、さてヨーロッパにおいて長らく「lingua franca」でした。しかしフランスにおけるの英語事情がこの20年の間に激変したのを、私自身個人的に或る感慨を持って実感しました。嘗て四半世紀前に学生としてフランスを旅した時には、パリのカフェでも駅でも英語は通じず、寧ろホテルなどで英語で喋ると嫌な顔をされるくらいで、逆にスペインやイタリアでもフランス語が通じる、というまさに「lingua franca」を当時は地で行っていました。大学でのフランス語の授業の中でも、英語由来の単語をフランス語に言い換えた表、というのをやった覚えがあります。今でも覚えているのは、当時流行していた「Walkmanウォークマン)」、これ自体、英語というよりはSONYの造語だったと思うのですが、フランスでは政府によって「baladeur(バラドゥール=散歩する人)」と言い換えねばならないと決められているということを聞いた時には当時も「そこまでやるか!?」と思ったものでしたが、事程左様に自らの言語であるフランス語を英語から死守しようと必死だったフランスですが・・・。
時は流れて、流石文明先進国、その後闇雲に英語を閉め出すだけでない政策をとったようです。1990年代、EUの言語政策(EU市民は、母語の他に二カ国語が喋れることが望ましい」)の影響で、小学校の頃から多言語政策の中で教育を受けたフランスの今の若い世代は、殊更英語を嫌っていた親の世代と違って「英語が喋れること=自分の能力を示すもの」のようです。ホテルのフロントやカフェで、こちらがフランス語を喋っていても早口の英語で返されて凹む、という以前なら考えられなかった状況に何度も遭遇しました。フランスのエリートは英語が堪能だそうです、唯一の例外が何と英米大好きの現サルコジ大統領(英語ができなくてENAを卒業できなかったらしい)ですが、前大統領のシラク氏も、IMF理事長になったラガルド女史も英語は堪能だそうです。英語がエリートの証明になっている点、この辺りは前述の韓国と似ていますが、フランスではまだフランス語を英語の浸食から守ろうとする姿勢は健在なのです。未だにフランスでは「computer」は「コンピューター」とは言わない、ということを知っている人はどれくらいいるでしょうね?フランス語では「computer」は何と「ordinateur (オーディナター)」と言うんですよ、今でも頑固に!?フランスでは「e-mail」という英語を使うことは政府の省庁全てで禁止され(刊行物、ウェブも含む)、「courriel」で言い換えねばなりません(ドイツ語では素直に「E-mail(ドイツ語の名詞は大文字ではじまるので)」ですけどね。)これらは瑣末的なことのようですが、「母国語がそれだけで世界を表すことができる言語」であり「論理的に考えることができる言語」であることは、とても大事なことなのではないかと私は思います。


各国の「英語教育」事情の次に「英語化」に関して以下の2氏のインタビューが続きます。大津由起雄慶応大学教授のインタビューの見出しは

なぜ「英語だけ」なのか

なのですが、大津氏は先ず昨今の日本の中高の英語の授業で、会話形式が増え、歯ごたえのある英文が少なくなって、大学生ですら基本的構文が把握できなくなっていることを指摘しています。そして「外国語を学ぶ上で不可欠な、主語とは何か、動詞とは、人称とは、といった「概念」は母国語である日本語で身につけておくべきものである」、とおっしゃっています(過去の私の主張と畏れ多くも同じなのですが)。更に激しく同意してしまうのは、英語以外の外国語を学ぶ意味も重要であると仰っていることです。中高では「外国語」というものが「英語」しかなくて「英文法♡命」だった私も、大学で精緻な文法を持つフランス語を学んで、逆に英語という言語を客観的に見られるようになりましたし、更に40歳過ぎてドイツ語世界に入らざるをえない状況になって、ドイツ語の堅牢な文法から英語を見ると、
「英語というのは、出来のよい言語ではないけれど、運命の悪戯、若しくは、時代の寵児として世界共通語になったラッキーな言語」
として見られるようになるのですね。また、どんな言語を学ぶにしても「文法」が如何に大事かということもわかりますし、その「文法」の「概念」は母国語である日本語で理解するしかないのです、海外で「英語で英語を」教育をされた帰国子女でない限り。そして自分と英語の距離感というものも自ずとわかってきます。例えば、帰国子女でなく仕事で英語を使う訳でもない私にとっての英語とはどのレベルであればよいか?ということです。日本人一人一人が様々な英語との距離感があるはずです。或る人にとっては、英語よりも中国語/韓国語/ロシア語の方が距離感がより近いかもしれないのです。
「英語だけでなく、複数の言語に触れるべき」という大津氏の、一見「グロービッシュ」とは何の繋がりもないようなこの主張ですが、もう一つのインタビュー記事のジャンポール・ネリエール氏(「グロービッシュ」の提唱者)の主張と実は大いに通じています。

文化は別、伝われば十分

と言うネリエール氏です。「グロービッシュ」というものは私も知ってはいましたが、彼のこの考えがIBMの副社長として日本に赴任した時の体験に由来するとは知りませんでした!

グロービッシュとは?
英語を母国語としない人同士の実用的なコミュニケーションの「道具」という考え方。1500語の基本単語とその派生語だけで表現する。

日本人はとかく、「ハリウッド映画が字幕無しで見られるようになりたい。」とか、「英語のジョークがわかるようになりたい。」とかを英語力に求めるのですが、ネリエール氏はこう言います、

目的は理解してもらうことで、ネイティブのように上手に話すことではない。

私がフランスのジョークを言ってもあなたは笑わないでしょう。

グロービッシュシェークスピアを楽しむには十分でないが、トヨタと契約を結ぶには十分だ。
私の理想は、人びとがそれぞれの母国語を話し、制限はあるものの「十分な」英語を話すこと。余った時間で、スペイン語、イタリア語、中国語など別の文化を学ぶ。

グローブの記事を読みつつ私は先日実家の父(80歳超)が言っていたことを思い出しました。戦前「陸軍幼年学校」*3というその名の通りの陸軍の幹部候補生養成機関が全国に幾つも(東京、広島、仙台、大阪、名古屋、熊本)あったらしいのですが、それぞれがドイツ語、フランス語、ロシア語を外国語として学ばせていたそうです。また今の若者は知らないでしょうが、嘗ては上海に「東亜同文書院大学」*4という旧制私立大学があって多くの日本人が学んでいたのです。時は流れて21世紀の日本において、義務教育の中学校で英語しか「第一外国語」として学べないのは、アメリカの占領政策の余波第二次世界大戦後70年近く経っている今もあるとしか思えません。「英語」だけにとらわれて、日本という国が置かれている位置や環境を見据えた外国語教育がなされていないのが現状と言わざるを得ません。
そういうことに思いを馳せながらつらつらと今更ながら思った「日本における英語教育が目指すべきこと」は、

仕事上英語が必要な日本人は先ず「グロービッシュ」のレベルの英語を目指す。これは小学校で他の教科を犠牲にしてまで教えることではない。

更に仕事上、学問上、高度な英語を必要とする日本人は、「アメリカ語」「イギリス語」「オーストリア語」等々を学べばよい。

仕事上、英語よりも中国語や韓国語が必要な日本人もまた、「文学を理解するには十分でないが、ビジネスの契約を結ぶには十分な」中国語や韓国語を学べばよい。

英語/中国語/韓国語に加えて更に他の言語を学ぶことによって(趣味のレベルであれ、本格的学習であれ)、多くの国の文化を理解できる日本人が増えることが理想的な形である(スペイン語厨、アラビア語厨、ロシア語厨等々がたくさんいればいるほどよい)。

そして「グロービッシュ」のレベルの英語であれ中国語であれ韓国語であれ、全く外国語が仕事上必要がない日本人もたくさんいて、それでも国内に豊かな文化や産業がある限り(伝統工芸や歌舞伎やマンガやその他色々)、それに専心すれば、今度は逆に日本と日本文化に関心を持つ外国人を呼び込むことになるので、皆が皆揃って英語を勉強することはない。

ではないでしょうか。
あらゆる場面で連呼されていい加減聞き飽きた「グローバル化」という言葉ですが、日本がTPP参加などでなく真に「グローバル化」を目指すのならば、「英語!英語!」と一つの言語に血道を上げるのをやめて、言語の学習の形ではシンガポール(ビジネス英語プラス隣国の言語を学ぶ)を目指し、そして日本の人口はシンガポールよりも遥かに多いのですから、語学においても国内分業というか色々な選択肢があってよいと思うのです。英語を学ぶ人、中国語を学ぶ人、その他の多くの言語を学ぶ人、そして勿論外国語は最低限しか学ばない人がいて初めてバランスがとれた真の「グローバル化」に至るのではないかと思います。

*1:http://globe.asahi.com/feature/2012030100008.html

*2:グロービッシュは、英語を母語としない人同士の実用的なコミュニケーションの「道具」という考え方。1500語の基本単語とその派生語だけで表現する。

*3:http://ja.wikipedia.org/wiki/陸軍幼年学校

*4:http://ja.wikipedia.org/wiki/東亜同文書院大学_(旧制