朝日新聞 朝刊一面「いじめと君」の酷い連載が終わって

2週間にわたって繰り広げられたロンドンオリンピックも終わり、また日常が戻ってきました。
「スポーツの祭典」五輪というだけあって、期間中はロンドンの現地からは何万キロも離れた日本のテレビの前にいる私ですら気分は「お祭り」という非日常にあり、選手のパフォーマンスに酔い、メダルを獲得した瞬間は飛び上がって喜ぶ、といった有様で、これはいわゆるカタルシスというものであったのか、「現実逃避」であったのか、「祭りの後」の今になって思います。
オリンピックの期間は、溜め息が出るほど降り積もった(放射能ではなく)現実の問題を考えなくてもよかったのでした。いえ、考えなくてはいけなかったのについついとろけるような「お祭り」の感覚に身を委ねる誘惑に抵抗なんてできなかったんですね。
原発問題、夏の電力供給問題、消費税増税社会保障改革、オスプレイ配備、そして何より緊急に考えなくてはならないいじめの問題。これらは、「お祭り」と共に去っていってはくれずに、当然のように未解決のまま、オリンピックの前と同様私たちの目の前にあるのでした。





さて、7月14日に始まり、オリンピックの期間中もずっと朝日新聞の一面に連載されていたいじめに関する連載が、今日の春名風花さんの回で終了しました。総勢34人の著名人が、「いじめられている君へ」「いじめている君へ」「いじめを見ている君へ」とそれぞれ呼びかけている文章を書いています。ネットで全部が見られます*1、ついでに2006年にも同じ体裁で連載されていたものも見られます*2。も一つついでにそれら全部をまとめた本が9月に発売されるそうです・・・。

しかし、率直に言わせてもらって、どれもこれも酷過ぎる!

朝日新聞から「体験談を交えて語ってください」とか言われているのだろうとと思いますが、だからこそ酷過ぎる!いじめられた体験を語っているものもありますが、何と言おうと「彼ら」は、いじめから生還しいじめを克服して著名になった成功者です。今とは時代が違ったり、偶然の幸運があったり、また「私もいじめられた」と言っていてもいじめのレベルが違う、というものもあり、寧ろ現在進行形でいじめられている生徒がそれを読むとますます無力感を感じて絶望しはしないかと心配になってしまいました。

一方、いじめっ子に向けて書かれているものもあるのですが、そもそも心が荒んで暴力的になって「友達をいじめる」という行為に及んでいる生徒が、朝日新聞朝刊のコラムを、素直な気持ちで読むでしょうか?ていうか、新聞を手に取るとさえ思えません。

唯一「いじめを見ている君へ」と題されているものを読んで、日頃教室の中でのいじめに対して、自分自身を守るために傍観者になっている生徒が、本来は親や教師に教えられていなければならない倫理感や正義漢を目覚めさせることができるかもしれないとは、淡い期待を抱いたりしますが。


「いじめられている」生徒に対しては、今までも様々なアドバイスがなされてきました。
1. いじめっ子に反撃しよう
2. 親や友達に相談しよう
3. 学校以外で、趣味や打ち込めることを見つけよう
で、きっと以前は、学校におけるもう一つの問題の「不登校」に繋がるので解決策として挙らなかったかと思うのですが、最近になって見かけるようになったのが、
4. 学校に行かなくてもいい 学校といじめから逃げよう
というものです。今回の「いじめられている君へ」でも、上記の1〜4が新味の無い解決策として語られていました。
(以下、黄色イタリック体は、連載からの引用)

息子がいじめられて帰ってきたら「やり返せ!やり返すまで帰ってくるな!」などと喚く親父が昔はいたと仄聞しますが(石原慎太郎氏が息子の教育論か何かで書いていた記憶が)、今深刻ないじめに遭っている子は、既に「やられたらやり返せ」の段階ではないでしょう。圧倒的な暴力の前に「やり返す」ことなど不可能であるか、もしくは仮に「やり返す」可能性があったとしても、もうそれが可能な時期は過ぎてしまっているから、いじめが継続されているのではないですか?
今回の連載では、安西水丸氏が、「今の時代、暴力はまずいです。」とフォローしつつ、彼が嘗ていじめられていた時に、堅いビワの木の枝を持っていじめっ子のリーダーを待ち伏せして足のすねに一撃をくらわしたエピソードを語った後、「いじめをやめさせるには肉体的な恐怖(きょうふ)心を与えるのが一番。」と言っているのには、驚きを通り越して呆れました、これって本当に「いじめられている君」にとって励ましになるんでしょうか?彼らは、もうそんなことが出来ないくらい追いつめられているのですから。

「親に相談」というのも、現実的に見えて実はそうでないのでは?子供は健気です、「親に心配かけたくない」「親に迷惑かけたくない」とどんな子供でも思っています、その証拠に親から虐待を受けている子供でさえ親のことを悪くは言わないそうですから(だから虐待の発見が遅れるのです)。ですから、相手が身近な親だからこそ、子供の方から親にいじめられていることを相談する、というのは物凄くハードルが高いのではないかと思います。それとタイミング。「仲の良い友達(と思っていた)に目の前で、自分の鉛筆を1本折られた。」それだけで、親に「いじめられた」とは言いませんよね。でもそれが次には「消しゴムを隠された」「筆箱ごとトイレに捨てられた」とエスカレートしていくわけですが、いじめが段階を追って進んでいくと変な耐性ができて、客観的に見れば大変ないじめになっているのに、いじめられている本人の感覚も麻痺していて、どこが「親に相談すべきか、否か」の限界点なのかがわからないまま、「自殺」という悲劇に至っている例を私たちは幾つ見てきたことか。親に相談できないまま、自殺という悲劇的な結末を選んだ子供は、いじめで心がボロボロになっていてもそれでも最後まで「親には心配かけたくない」という親思いの気持ちで、相談が出来なかったのではないでしょうか?
「友達に相談」というのもどうなのでしょう?携帯もメールもSNSもなかった昔とは違い、デリケートな探り合いと牽制が要求される、今の子供達の付き合いにおいて、「『いじめられている』という超重い話題を、友達に投げかけて相談する」ことは、これもかなりハードルが高いのではないでしょうか?仮にいじめられている子が、孤独ではなく一方で友人がいたとしても、だからこそその貴重な友人とは「いじめ」の話題を離れて馬鹿話をしたり他の楽しい話題をしたいのでは?
朝日新聞の連載では、生協の白石さんこと白石昌則氏は、「どうでしょう。その悩みを誰かに打ち明けてみては。いじめられることは恥ずかしいことじゃありませんよ。ささいなきっかけで誰にでも起きうるんです。あなたが受けたいじめを知れば、世の中のほとんどはあなたの味方をします。話せばどんどん味方は増えます。いじめが解消され、あなたが他の子を助ける側に回ってくれたら、どんなに心強いことでしょう。」と言っていますが、いじめで追いつめられている子供にとっては、残酷とも言える楽観的なご意見ではないでしょうか?まあ冒頭に「いじめを受けた経験は、人をやさしくさせます。」と、目を疑うようなお花畑発言をなさっていますからね。これって、「いじめらている君」にとっては何のアドバイスにも慰めにもなりません。
ベストセラー「声に出して読む日本語」以来、教育問題のみならず、ビジネス書や自己啓発や書も多く書いている斉藤孝氏も「親に話そう」派のようで、連載では、「まず、親に話す。『心配かけたくない』なんて思わないで。親は君が話してくれた方が安心なんだ。親はきっと一緒(いっしょ)に怒(おこ)り、行動してくれる。親から相手の親や先生に話してもらう。それで解決しなければ、校長、教育委員会文部科学省と、より上の組織(そしき)に訴(うった)えていこう。」とおっしゃっていますが、「親に話す」というハードルをどうやって下げるかが問題なのです。そして「校長、教育委員会文部科学省」までに訴えていくことなど、いじめられている本人にとっては、尻込みさせるものでしかありません。「親に相談したら、とんでもないことになってしまう」と思ってしまいかねません。斉藤先生は職業柄でいらっしゃるのでしょうか、更に、「読書をしたらどうかな。僕も子どものころ、さみしいときには本を読んだ。本は自分の世界を広げてくれたし、嫌な気持ちを軽くしてくれた。本があれば1人でも十分(じゅうぶん)楽しかった。いや、読書に集中するために『1人でよかった』と思えるくらいだった。」と、のどかに読書のススメに至っています、しかも斉藤先生の推薦図書は、トットちゃんとトットちゃんたち」(黒柳徹子)、「だいじょうぶ3組」(乙武洋匡ひろただ〉)、「心に太陽を 唇(くちびる)に歌を」(藤原正彦なんですよ。いじめられている子供がこれらの本を読めば、「十分楽しかった」「1人でよかった」と思えると、本気で考えているのならば、「教育学者」という看板は如何なものでしょうか?


「学校以外での居場所、趣味、打ち込めることを探す」というアドバイスもありますが、「学校にいる間」に行われているいじめならば、それは何の解決にもなりません。しかも小学生や中学生にとっては「学校」が生活の殆ど全てです。そして日本の小学校中学校は、「ゆとり」以降も拘束時間が極めて長いし、濃密です。小学校ならば、朝の会や朝礼に始まって、全ての授業が「クラス」のメンバーと共に過ごさねばならず、給食という食事時間も掃除の時間も、そして下校の時間まで一緒です。中学校になると更に「部活」という、いじめの温床になりやすい濃密なもの(しかも教師の目が届きにくい)が加わります。「部活でいじめられるのならば部活に入らなければいい/やめればいい」と言う人もいるかもしれませんが、そもそも「いじめている側」が部活から追放されるのが筋でしょう。子供たちが中学校生活に描く一番のものはアニメに出てくるような「充実した楽しい学校生活、なかんずく部活」なんですから、「いじめられている側」の子がそこから離脱するのは、これまたハードルが高い。「やめようか、このまま続けようか」迷っているうちにいじめがどんどん進行していく、というのが実際のところではないのか。そして、高校入試の内申書には「部活動の記録」という欄があり、それは高校受験する中学生ならば誰でも知っていることで、その欄が空白であるということは高校受験においては著しく不利である場合が多く、「部活をやらない/やめる」ことが、どんなに不利益になるかということもわかっているのです。だから、「学校以外の場所でも居場所、趣味、打ち込めること」というのは、いじめられている生徒にとってそれが例え唯一の解決策だとわかっていても、踏み出すのがとても難しいのではないでしょうか。そして、もし幸運にも「学校以外の居場所、趣味、打ち込めること」が見つかったなら、既にその時点でいじめからの脱出に一歩を踏み出していることになります。問題は、それができない生徒です。都市部ならばまだしも、地方ではそもそも、「学校以外の場所」というものがないんじゃないでしょうか。「学校」という場所の存在感がとても大きくて、親の方も「学校に行っていれば安心」と思うので、「親が仕事に出かける時間より先に子供に登校してほしいから、部活の『朝練』をやってほしい。」とか、「自由な時間があると非行に走るから、放課後の部活の時間を長くしてほしい」と学校に要望したりするそうです。親の立場から見ると仕方ないことかもしれません。けれども、この濃密で逃げ場がない学校という場所が、いじめを生む温床になっているのでは?今回の朝日新聞の連載で、「大人の社会にもいじめはある」と書いている著者も何人かいましたが(それが事実であっても、このコラムには書いてほしくないですけどね)、「どんな集団にもいじめはある」ことを前提にして、いじめが生まれないような仕組みに学校を変えていくことこそが、本来大人がすべきことだと思います、それに目をつぶって「学校外で居場所を」と方向音痴な絵空事を言う前に。
絵空事の安定感では、何と言っても茂木健一郎氏。「とりあえず君も、学校だけでなく、ご近所さんとか、塾とか、スポーツのチームとか、外の世界につながっていこうよ。いろいろな場で多くの人と知り合えば、学校でいじめられても、別の集団、仲間がいるから、心のバランスを保つことができるはずだよ。」っておっしゃいますが、「ご近所さん」って?茂木氏の頭の中には、今はどこにもない「三丁目の夕日」のようなイメージが広がっているのでしょうか?「塾」って?私企業である「塾」に、学校の問題を投げるのですか?仮に「塾」が逃げ場になっても、それが正しい解決の仕方でしょうか?私企業である「塾」は、成績が良くて進学実績を出してくれそうな「いじめっ子」と、成績が悪くて進学実績も望めない「いじめられっ子」だと、どちらを取るかは明白です、「塾」は営利企業であって、「教育の場」ではないからです。また、直近芥川賞をとった作家の辻村深月氏も「アイドルでも、スポーツでも、何でもいい。つらい状況に追い込まれる前に、夢中になれるものを見つけて、自分の心を豊かに強く、保ってほしい。」とアドバイスしていますが、これは正に「つらい状況に追い込まれる前」の寧ろ普通の平穏な学校生活を送っている子供に向けての「保険」としてのアドバイスであって、「既につらい状況に追い込まれてている」子供には、もうそんな余裕はなくなってしまっているのではないかと思います。

「学校に行かなくてもいい」というアドバイスは新しいものです。今までは、義務教育である小学校や中学校に「行かなくてもいい」というのは、学校が抱えるもう一つの問題である不登校」を肯定することになるので、それがいじめ対策のアドバイスになるとしても憚られたのだと思います。親にとっても、親からは見えにくい「いじめ」と違って、「不登校」は目の前に見えます。見えるからこそ、「このままずっと不登校になったら?」という現実的な心配も生まれます。だからこそ、「もう学校に行かなくてもいい」と親が子供に言える段階に至るのには、時間がかかるのではないかと思います。不登校になってもいい、高校入試もどうでもいい、命の方がずっと大切!」と思えるようになるとしたら、それは「いじめ」によって相当子供が危機的状況に陥ってからになるのではないでしょうか。そして親以上に、いじめられている子供自身にとってもその段階(学校に見切りをつける)に達するには、葛藤があるのではないかと思います。
今回、この連載で「学校を休もう」「学校に行かなくてもいい」と呼びかけている諸氏はどのように言っているか。
西原理恵子 「うそをついてください。まず仮病(けびょう)を使おう。そして学校に行かない勇気を持とう。親に『頭が痛い』とでも言って欠席すればいい。うそは、あなたを守る大事な魔法(まほう)。(中略)学校は、いじめられてつらい思いをしてまで行くようなところじゃない。長い夏休みだと思って、欠席してください。そして、16歳まで生き延びてください。高校生になれば、通信制(つうしんせい)高校やフリースクール、いわゆる大検(だいけん)など選択肢(せんたくし)が広がります。」
中川翔子  「無理して学校に行く必要なんかない。いじめなんてくだらなくて、立ち向かう意味すらないから。(中略)『学校だけが世界の全てじゃないよ』って励(はげ)まされたことがあった。『あなたに何が分かる!?』って、その時は思ったけど、いつしかそう考えられるようになった。だって、学校なんて周りに数十人しかいない小さな世界だから。無理に合わせても苦しいだけだよ。」
三浦雄一郎 「友人関係がうまくいかず、いじめがひどいなら、学校を休んじゃおう。いじめる連中(れんちゅう)は弱みにとことんつけ込んでくる。1学期でも、1年でも休むといい。休めば先生も心配する。それでダメなら転校だってできる。僕は通信制(つうしんせい)高校の校長もしている。いじめられた経験を持つ子もたくさんいる。1日しか中学に通わなかったという子も。でも、同じような体験をしていれば、お互いの痛みが分かり、仲良くなれる。中学はほとんど休んでいたのに、高校では無遅刻(ちこく)・無欠席を通した子もいた。人生をトータルで考えれば、学校を休むくらい、大したことじゃない。君の居場所は必ずある。僕の学校に来てもいい。そしたら一緒に山に登ろう。」
姜尚中 「家出をしよう。(中略)君にも『今いる世界がすべてじゃない』と気づいてほしい。そのために家出をしよう。遠くへ。最低でも1カ月。どこへ行ってもコンビニはあるし、夏なら野宿もできる。保護(ほご)されそうになったら、そこはうまく切り抜けて。1カ月も君が行方(ゆくえ)をくらませば、学校も親も級友も大騒(おおさわ)ぎする。そして君がいなくなった原因を考えるはずだ。帰ってきたら、きっと何かが変わっている。君自身も『家出の原因はいじめだった』と堂々と言えるようになっているはずだ。君にはどうしても生き延(の)びてほしい。人生最初の大人になるいい機会(きかい)だと思って、家出をしよう。」

西原氏の「うそをついてください。まず仮病(けびょう)を使おう。」という発言は、「今日、学校に行くとエスカレートしたいじめが待っている」「辛くてもう学校に行けない」ギリギリの地点にいる子供にとっては、「今日仮病で学校を休めば、今日学校で待っている今日のいじめからはとにかく逃れることができる」という気持ちに導くとても有効なアドバイスだとは思います。その「仮病で休んだ一日」によって、「いじめ」が良い方向に変わる可能性だってごく僅かですがあるかもしれないし、一日分時間稼ぎができて、いじめられている本人も、「親や先生に相談しよう」という方向に決心できるかもしれません。でも、仮病で休んで再び登校した時に何も変わっていなかったら?実はその可能性の方が高いのではないかと思いますが、そうなると、また「いじめられている」日常が終わりなく続くか、再び仮病で休むか、ということになります。また三浦氏も「1学期でも、1年でも休むといい。」とのことですが、それはもう仮病ではなく、完全なる「不登校」になってしまいます。もちろん「いじめ」よりは「不登校」の方がずっとマシに決まっています、そう大人である私も思いますが、子供にとっては「学校を捨てる」ということは、これもまた「いじめ」とは全く別の辛さなのでは?そもそも日本の学校には「皆勤賞」というものがあり(これを受けるお子さんは本当に偉いと思いますが)、「休まず学校に行く」べく圧力がかかっていたりしますから。平日に子供をディズニーランドに連れて行くために学校を休ませる親でさえ、1学期も1年も学校を休む「不登校」は、到底容認できないでしょう。いじめられている子がそれでも頑張って(?)仮病で学校を休んだ先には何があるのか?西原氏の言を読むと、「16歳まで生き延びて」「通信制(つうしんせい)高校やフリースクール、いわゆる大検(だいけん)など選択肢が広がる」つまりは、普通の高校受験・高校生活のレールを外れて青春を送ることになることを示しています。これって「選択肢が広がる」というのでしょうか?被害者であるいじめられている側の子が、普通の進学ができない破目に陥ることが?かたやいじめっ子がフツーに高校受験してフツーに楽しい高校生活を送ることがフツーに約束されているのに?それを考えると、いじめられている子に「学校に行かなくてもいい」ということは、確かに緊急避難的には最善の策かもしれませんが、一方被害者であるいじめられている子が「不登校」に向かい、また学校を休むことによって降り掛かる進路上の不利益を覚悟しなければならないことを心配してしまいます、問題の解決はそこにはないのですから。

姜尚中先生の発言は、「これって本気で『いじめられている子』に向かって語っているの?」と思わざるを得ません。その非現実的であること、そして何の問題解決もないこと甚だしく(いじめっ子はその間も、家庭と学校で楽しくぬくぬくと暮らしていて)、正気を疑うレベルです。しかし、これは彼だけでなく、土井隆寛という社会学者の方は、「竜巻もいじめも、被害を避ける合理的な方法は、まず逃げることです。竜巻では進行方向から横に逃げるように、いじめに遭ったら、相手と同じ土俵から下りてしまうことです。(中略)過去に創造的な仕事をした人の多くは、孤独を抱えていました。人と違うから独創的な仕事ができるのです。空気を読み、周囲に合わせる必要はありません。孤独になっていいんです。」とのアドバイスですが、竜巻の比喩も微妙ですが、いじめられっ子は孤独を恐れていじめに甘んじているのではなく(そんな呑気なものではなく)、孤独になりたくても孤独になれない濃密な学校生活の中で、いじめから逃れられられなくて苦しんでいるのではないですか?と言いたくなります。

そして、「私もいじめを受けた」と書いている筆者の面々とその「いじめられた理由」が、何と言うか普通じゃなくて、今現実にいじめを受けている子にとって参考になるのかならないのかわからないものも多々あります。
はるな愛氏も、壮絶ないじめを受けて死ぬほど悩んだと書いているのですが、異質なものを排除する「学校」という場が、彼女(彼?)を受け入れなかったであろうことは想像できるのですが、彼女(彼?)がそのいじめから立ち直ったきっかけというのが、「14歳の時、母が経営するラウンジのお客さんにショーパブに連れていってもらった。そこでニューハーフのお姉さんに出会ったの。そのとき、僕(ぼく)は一人ぼっちじゃない、一人ぼっちじゃなかったと知った。」からなのだそうなのですが、これって、今いじめの渦中にいる子にとって何か参考になるかというと・・・。ただ、彼女(彼?)が受けたいじめは書いてある部分だけでも酷いもので、今の彼女(彼?)のキュートで幸せそうな雰囲気からは想像できないのですが、そんな彼女(彼?)の姿は、今いじめに遭っている子供にとっては「そんな酷いいじめから這い上がったんだ」と励まされるものなのかもしれませんが。
しかし一方首をかしげてしまう「いじめられた経験」もあります。AKBの秋元才加嬢は、いじめられた経験があるそうですが、それとは「私の悪口を公園に落書きされたり、教室の机に彫られたり。『なぜ文句を言われるんだろう。どうして私はみんなと違うんだろう』と泣いていました。」というもので、大津のいじめの実態を少しでも知っているのなら、軽々しく「私もいじめられた」と言ってはいけない見本のような「いじめられた経験」のレベルなのですが、そのいじめの原因というか、「なぜ文句を言われるんだろう。どうして私はみんなと違うんだろう」とは、「小学生の頃、目立つのが好きでした。芸能人に憧(あこが)れ、安室(奈美恵)ちゃんのような格好をしていました。」だったのならば、これは親の責任で、小学生であった秋元嬢に、「最低学校へ行く時くらいは『安室ちゃんのような格好』はやめなさい。」と親が一言諭せばよかっただけのことで、小学生で安室ちゃんの格好、というのも、私は想像つきませんが(それをさせる親の心境が)、加えて、「いじめられている君へ」と題したこの連載の最後を彼女は「個人の考えは一人ひとり違う。それでも恐れずに自分の気持ちを伝え、話し合うことが、いじめを脱(だっ)する一歩になると思います。」(←深刻ないじめとは、こんな段階ではないということもわからない鈍感さ)と締めくくっているのです。この程度の認識で、「私もいじめられていた」という彼女の経験談がこの連載に相応しかったかどうか?
蛯原友里氏も同様で、彼女もいじめられた経験があるそうですが、それも秋元嬢と良く似ていて、「私も転校先の小学校で、一つ上の女の子たちに目をつけられ、嫌がらせを受けました。通学路で数人に待ち伏せされ、『なにちゃらちゃらした服着てんの』って囲まれて。自宅の車のボンネットに傷をつけられたり、弟まで囲まれて脅されたりしたときは、本当につらかったです。」だそうです。「ちゃらちゃらした服」を着ていないのに、「安室ちゃんのような格好」をしていないのに、日常的に暴力を受けている「いじめられている君」、加えて彼女達のような外見や根性を持たない平凡な「いじめられている君」はどうしたらいいのか?朝日新聞の人選に、大きく首を傾げてしまいます。

目下いじめられている子供に対して、一番説得力があるアドバイスで、今すぐ実行できそうなことを書いていたのが乙武洋匡氏です。「君が受けているいじめをノートに書いてみるんだ。誰が何をしたか。周りはどう反応したか。君はどんな気持ちだったか。できれば、毎日書き続けよう。書けば気持ちが整理できる。何がつらく、自分がどうしたいか、どうしてほしいかが見えてくる。問題がこじれたときには、君を守る証拠にもなる。そして何より、その記録の厚みは、君が耐えに耐えてきた強さの証しになるんだ。」と彼はアドバイスするのですが、現状(濃密な学校、忙し過ぎる先生、学校外では居場所を見つけにくい環境等々)の中で、ベストの方法ではないかと思います。特に、「問題がこじれたときには、君を守る証拠にもなる。」という点を強調したいですね。取り返しのつかない悲劇が起こってから全校生徒にアンケートをとっても、事実は出てきません。一番にいじめに気付くべき教師に至っては、「遊び/ふざけ/喧嘩と思った」と言う始末です。学校を休むことも、いじめから逃げる一時的方法かもしれませんが、いじめの被害者自身が自分を守るためにいじめの詳細をノートに書く、というのは、乙竹氏が言うように「そして何より、その記録の厚みは、君が耐えに耐えてきた強さの証しになる」のではないでしょうか?いじめられている子が自尊心を取り戻す第一歩です。実際にいじめっ子に対しても、「お前たちがやってきたことは全部記録してある、いつでも公表してやる」と言い放つことは、腕力ではやり返せなくても相手を怯ませる武器にはなるでしょう。この乙竹氏のアドバイスさえ、暴力によって踏みにじってしまうような「いじめ」はない、と思えたらよいのですが。


この朝日新聞の企画は、「いじめ」の問題に関して、「いじめられている被害者」の心に救いの何かをもたらすものでもなく、 「いじめ」の現実に即した有効なアドバイスをするわけでもなく、寧ろ人選もさることながら、逆に「いじめ」の問題の本質を隠してしまい、それだけではなく意図していなくても、陳腐化してしまう恐れさえあると、私は思います。「いじめ」って、著名人が体験談とアドバイスを語ることによって良い方向に向かう、なんていう、そんなに浅い問題ではないでしょう。
今回の大津のいじめによる自殺は、本当に痛々しいものです。しかし、ちょっと調べれば、同じような事件は今までにも数多く起こっているのです、それも似たような構造で*3。大抵は地方の濃密な中学校、軽卒で配慮の足りない担任、無関心な学校当局、「自殺」に追い込むことがゴールを思っているかのような加害者たち(必ず複数)。被害者は暴力だけでなく金品を盗られる被害も受けており、何度も周囲にSOSを出し、不登校に近い欠席もあり、そして追いつめられて、かけがえのない尊い命を、しかも10代前半の若さで自ら絶つに至るのです。この現実を見てきたのならば、前掲の、いじめられている子に対するよく聞くアドバイスである、
1. いじめっ子に反撃しよう
2. 親や友達に相談しよう
3. 学校以外で、趣味や打ち込めることを見つけよう
4. 学校に行かなくてもいい 学校といじめから逃げよう
のどれもが、酷いいじめには全くアドバイスにはならないことを、もういい加減悟るべきなのです。
既に新しい提案をしている教育学者の方もいます。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

学校の姿を変えることに関して、現状に慣れきっていて犠牲者が出ようが今の制度にしがみつく人たちは、そういう発想すらなくて、「今の学校を変えるなんてとんでもないことだ。不可能だ。」と歯牙にもかけず放置した結果が、同じことの繰り返しなのです。現状がこれからも続くとなると、必ずや「いじめを苦に自殺」する可哀想な犠牲者がこれからも出ることでしょう。今までの犠牲者が命を以て訴えたかったことを全て無駄にして。この本を読んだのは数年前ですが、「濃密な学校」の在り方はもうそろそろ、否、すぐにでも変えていくべきではないかと思います。

ネットで加害者のプライバシーが暴かれて炎上するくらい関心の高かった大津のいじめの問題は、オリンピック期間中は忘れられていて、オリンピックが終わればもう「過去の事件」になってしまっている感さえありますが、そうなってはいけないと願いつつ。