韓国大統領竹島上陸、及びロンドンオリンピックでの韓国人選手の振る舞いから、かつて出会った韓国人について思い出したことなど


先ず前提として。
私は、韓流に興味がありません。
この属性は私の年代では珍しいので、話題が「韓流」になった時には、私はにこにこ笑って口を閉じています。だって、興味がないのですから、disることもできないのです。「韓流スター」で名前と顔が一致するのは、未だに「ペヨンジュン」くらい、という「韓流偏差値35以下」の珍種のオバサンであり(ちなみにジャニーズも興味ありません)、「少女時代」と「KARA」を去年知って、動画で色々見て、人工美の極致である身体の造形とダンスの完璧さに感動しましたが、メンバーの名前やグループの人数どころか、どちらがどちらかの区別もつかない体たらく。ちなみに「東方神起」と言われて、あちらの「東方」しか思いつかないほど。一方、実母や叔母などは、大変な韓流ファンです。私が韓流に馴染めないのは、そもそも「冬のソナタ」がブレイクした2004年に、日本を離れて夫の駐在でドイツに行ってしまった、ということもあるかもしれませんが、すぐさま「これは絶対に見るべき。心が洗われる」と日本から送られてきたのが、「冬のソナタ」のビデオでした。で、「心が洗われる」どころか、昔の嫌な自分の戯画を見せられるような気持ち、と言ったらぴったりくるのか、そういう気持ちになりました。私の「冬のソナタ」の印象は(と言っても殆ど忘れてしまっていますが)、70年代の日本のドラマ、例えば山口百恵主演の「『赤い』シリーズ」(「赤い衝撃」とか「赤い運命」とか etc ) のようなもの、メロドラマのわかりきった筋書きと、決まりきった役柄(善玉、悪玉がステレオタイプ)、現実社会を全く無視した突拍子もない設定、で作り上げた未成熟なドラマと同じように見えてしまうのです。ということは、私が韓流ドラマに興味がないのは、同種のドラマである「水戸黄門」に興味がないのと同じで、別に「韓流だから」ということではないのでしょう。

その上で、韓国人について思い出したことと、考えたことをまとめてみようと思います。

子供たちが、ドイツのインターナショナルスクールに通うことになって、私は人生で初めて「韓国人」と実際に付き合うことになりました。これも考えれば奇妙なことで、隣国である日本と韓国なのですから、今までどこかの場面で交錯することがあってもおかしくないはず。いや、日本語を喋り、もしかしたら名前も日本名の韓国人とは、どこかで出会っていたのかもしれません。
ドイツのインターナショナルの保護者同士、ということで、私が人生初で出会った韓国人女性こと韓国人ママたちの大きな特徴は二つ。高いエリート意識と、半端じゃない教育ママ、ということでした。加えて、当然の如く日本語なんて喋れないので、彼女たちとのコミュニケーションは、英語かドイツ語になります。以前も書いたことがあるのですが*1、それはなかなか奇妙なことではありますね。



さて。子供たちが通っていたインターナショナルスクールでは、各学期の最後に各科目の優等賞(award ※この単語の発音記号は[əwɔ:ˈrd]で片仮名に直せばどうやっても「アウォード」なのに、英語が達者な人でも何故に「アワード」と発音するか、未だに謎)というものを発表します。平等主義が行き渡っている日本の学校では考えられないことですが。その発表の仕方は、各学校によって違いがあるのかどうかわかりませんが、これまた日本人の感覚では新鮮なものでした。
1. 先ず学校から自宅に電話があり、親に「あなたのお子さんは、優等賞を授与されます。是非その授与式に来てください。何の科目で授与されるかは、当日のお楽しみなので教えられません。それから絶対に本人には言わないでください。当日の喜びが減ってしまいますから。席の用意があるので、出席が欠席か教えてください。」と言われます。その後に正式に手紙も来たと思います。
2. 授与式は大抵期末試験の最終日に行われます。この仕組み上、保護者全員ではなく、優等賞を授与される親のみが(学校から知らされているのは優等賞をとる子の親だけだから)出席します。
3. 当日の会場は、ちょっと盛装した母と、多分子供の晴れ姿をひと目見る為に会社を抜け出してきたスーツ姿の父の姿で溢れます(但し、未だに会社人間の日本人の父は見かけることは稀)。一方、子供達は、長い期末試験が終わって、ヨレヨレの外見と開放感に溢れた内面のミクスチャーで、会場に着席します。この時点で、子供は自分が優等賞を取れるか取れないか、などは全く分かっていません、知らされていないのですから。
4. 優等賞の発表は、アカデミー賞の発表のように、それぞれの科目の先生のプレゼンによって行われます(本当に外人はプレゼン好き)。プレゼンする先生は、「彼/彼女は、これこれこういう才能を持ち、こういう問題を解決し、こういうエピソードがあって、こういうテストの結果を残した」とプレゼンするわけですが、英語ですから、最初に「彼」と言ったか、「彼女」と言ったかで、男の子が貰うのか、女の子が貰うのか、は即座にわかります。けれどもまだまだこの時点では、本人は勿論、一応「お宅のお子さんが優等賞を授与される」と知らされている親でさえ、自分の子供のことなのかどうかはわかりません。プレゼンする教師が最後に、「◯◯の科目の、今学期最も優秀だった生徒は、△△です!」という最後の単語で、会場の全員がわかるのです。これは親は勿論、子供にとっても、全くのサプライズで、だからして喜びも大きいのです。

これはよく出来たシステムです。何故なら、優等賞を授与されない大勢の生徒の父母にとっては、その存在すらわからないようになっていること。父母全員の前で発表すれば、帰宅してから「何故、あなたはとれなかったの?◯◯ちゃんはとっているのに。」と必ずや子供をなじる親が万国共通に出てくると思いますが、それが出来ないシステムです。優等賞をとれなかった大勢の子供もわざわざ親に、「今日、◯◯ちゃんと△△ちゃんが優等賞をとったよ。」と言いませんよね。モンスターペアレント溢れる今の日本では、絶対に無理なこの「優等賞を発表する」制度の、一番突かれそうなデメリットをさらりと克服しているシステムです。何より、優等賞を貰った子供の驚きと喜びは、他所の子供であっても見ている側も感動します。賞の発表というのはこう在るべきだと思わされます。それもこれも、「絶対にお子さんには、優等賞を授与されることを言わないでください」というルールがあるからであり、どこの国の親であっても親はそれを理解しているので、「子供には言わないルール」を守っているのですが・・・。
ルール破りする親がいるのです、韓国人。
或る学期末、娘が「◯◯(韓国人クラスメート)が、優等賞貰うらしいよ。」と言うのです。「誰に聞いたの?」と尋ねると、「だって本人が言ってたもん。」親が子供に喋り、「友達には言っては駄目よ」と言ったかどうかは知りませんが、嬉しさ余ってか子供が友達に言ったと思われます。
また、前述の通り、大抵は長い試験期間(試験が一日に一科目とかなので)の最終日に授与式が行われるので、大抵の生徒は、試験勉強で疲れきった姿での授与になります。お嬢様が優等賞を取った知り合いの日本人ママがこぼしていました、「折角の授与式なのに、朝、娘が出かける時の彼女の格好といったら、一番ヨレヨレのトレーナーにジーンズ、ほぼ徹夜で勉強していたから髪はボサボサ、コンタクトが入らなくて眼鏡、トドメは足元はビーサンだったのよ。『綺麗な格好して行きなさい』と喉元まで出かかったんだけど、勘づいてしまうかもしれないから、仕方なくそのまま送り出したのよ。」と。学校から言われたことを従順に守る日本人としては、これがフツーだと思います。それが、その時の授与式で、或る科目で名前を呼ばれた韓国人女子生徒(前掲とは別人)の格好といったら!!!白いレースの衿が付いた黒いベルベットのワンーピースに革靴、頭にはこれでもかの大きな白いリボン、の盛装もどきだったんですよね(かなりアナクロな盛装ではありますが)。各科目の受賞者一同が壇上に並んだ時、この生徒一人の存在で、サプライズの授与式全体のワクワク感(外人はやたらこの手のサプライズが好きみたいですが)が、少しと言わずダウンしたと感じましたね。
「ルール破り」と言いましたが、別の面から見ると、韓国人は日本人と比べて子供に対する溢れんばかりの愛情を隠そうとしないのであり、それは少なくとも「悪いこと」ではありません。対照的に日本人の親は、子供が優等賞を貰っても、一糸乱れず例外無しに「今回はマグレよ。」「運が良かったのよ。」と謙遜するのがお約束で、子供をハグして喜びを表したりなど絶対にしません。この点に関しては、同じ東洋に発しながらも韓国人の方が欧米の感覚に近いのか、韓国人は欧米人と同様、授与式の後、親子で抱き合って喜んでいますし、第一父親がちゃんと会社休んで参加しています。感情表現が欧米人に近い韓国人と、折角子供が優等賞を貰うというのに父親は仕事でこない、母親は喜びを抑えて表現しない日本人。韓国人の方が自然で人間的?でも、それは「システムのルールを守ってこそ」なのですが。


こういうこともありました。やはりそのインターナショナルスクールで、英語が母国語でない母親のため、というか母国語でなくても欧米人は英語喋りますから、主に日本人と韓国人の母親のための英会話教室がありました。英会話教室と言っても、自主サークルのようなもので、英語ネイティブでボランティアで英語を教えてくれる人を探してきて、彼/彼女を囲んで、学校の食堂でコーヒー飲みながら英語で話す、といったものでした。長い間ボランティアで教師役をやってくれていたアメリカ人女性が帰国してしまい、退職したアメリカ人おじいちゃん先生に頼んだら、快諾して下さったので、彼を囲んで数回、「ドイツで、韓国人と日本人が、アメリカ人に英語を習っている」という奇妙なサークルは進行していました。年明けの或る回、会話のトピックは、「クリスマス休暇に何をしたか」というものでした。その時のメンバーは、日本人が私を含めて2人、韓国人ママが4人、という構成だったのですが、日本に帰ってからの教育費を考えて慎ましく休暇を過ごした日本人の我々とは対照的に、やれポスコサムスンだ、という世界的大企業で夫が働いている韓国人のクリスマス休暇は、「サンモリッツでスキーした後カプリ島で一週間」「ロンドンでミュージカル三昧」(当時ポンド高)等々、国の経済力の勢いを感じさせるリッチなものでした。さて、もうその回も終わろうという時に、アメリカ人おじいちゃん先生が、カジュアルに切り出しました、
「ボランティアで無償であなた達に英語を教えているが、次回からレッスン料を払う気はないか?1ユーロでも5ユーロでもいい。その方が双方のためになると私は思う。あなた達のモチベーションも高まるし、私もモチベーションが高まる。」
という、カジュアルな中にも爆弾発言!!!これは如何にもアメリカ人らしい、というか、日本人は絶対にこんなこと提案できないでしょうね。
話は逸れますが、私はそれ以前に同様の経験をしたことがありました。日本にいる頃、湘南の海岸を子供を連れて散歩していた時に、ベース(横須賀基地)のアメリカ人一家と知り合い、娘同士が同じ年頃で言葉の壁関係なしに遊んだことがきっかけで(何せ3歳でしたから言葉の壁も何も)、お互いの家を行き来しての付き合いになりました。夫は、兵士ではなく、医者で軍の奨学金で医学部に行ったので、お礼奉公というか、何年かは軍で働かなくてはならないこと、自分は看護婦だったが、将来は医学部に行きたいと思っていること、苦労して医者になった夫を尊敬していること、基地内に住んでいる兵士とは違って私たちは基地の外で住宅を借りて住む特権があること、などを、メリッサというその若いママに聞かされました(当時の私の英語力を考えると冷や汗もの)。で、何度かお互いの家を行き来したのです、雛祭りには勿論我が家に招いて、アマンダという娘の友達に着物を着せて雛飾りの前で写真を撮ってあげたり、イースターには横須賀基地に入れて頂いて(←この表現がぴったりの、未だに占領地のような横須賀基地です)、卵探しをしたり、と草の根交流をしていたのです、が。或る日、本当にカジュアルに、
「私は日本人女性に英語を教えることに興味を持っている。これからあなたにレッスン料を貰って英語を教えたいし、あなたの友達にも教えたい。」
と、日本語で「英会話教師 メリッサ・何某(苗字忘れました)」と書いた名刺(!)を渡されたのです。提示されたレッスン料も結構お高かったような記憶があります。当然のことながら、大和撫子の私はショックを受け(それまでは、純粋に「友人」と思っていたので)、それからは疎遠になりました。このメリッサと同じことを、アメリカ人おじいちゃん先生はやってくれたのです。これは、アメリカ人的な「カジュアルさ」なのか、厚顔無恥なのか、とにかく日本人には理解できないことです。
さて、話は戻って、ドイツのインターナショナルスクールの食堂に集う、日韓合同演習ならぬ6人の東洋人のママたち。そのアメリカ人おじいちゃん先生の驚きの提案に、それぞれ民族に別れて母国語で話し合いを始めました。私ともう一人の日本人ママ二人とも、もしかしたら日本人基準だと「かなり言いたいことをズバズバ言うママ」だったかもしれませんが、この二人をして、日本語で話し合った結論は、
「そうよね、無償で毎週東洋人のオバサンの相手じゃ、先生も大変よね、退職してるんだし。レッスン料払っても仕方ないわよね。何ユーロくらいかしら?1ユーロとか失礼よね。間をとって3ユーロくらい?韓国人ママたちの意見も聞かなきゃね。」
という極めて日本人的な「長いものには巻かれろ」的結論にすぐに至ったわけです。対して、韓国人ママ4人は何やらいつまでも激しく韓国語で話しています、それも「激高」という言葉に近いレベルで。で、さすがにアメリカ人おじいちゃん先生が気を利かせてカウンターにコーヒーを買いに席を外したのを機に、一気に韓国人ママが英語でまくしたててきました。
「『ボランティア』ということで頼んでいるのに、お金を取るのはおかしい。大体、お金がとれるようなレベルじゃない。私たちは1ユーロだって払わない。もし有料になるのならば、この英会話サークルをやめる。」
とのこと・・・。さっきまで、やれサンモリッツ(←どこにあるかも私は知らない)やら、ロンドンでミュージカルとか言っていたリッチな彼女たちですよ?夫は世界的企業で働いているんですよ?それに加えて、このアメリカ人のおじいちゃん先生が決まるまで、なかなかボランティアで英語を教えてくれるネイティブを探すのは大変で、韓国人ママたちは「探す」という行動しないものですから、もう一人の日本人ママがあちこち探してやっと見つけてきた先生だったのですよ。それなのに、それなのに・・・。
日本人とはまるでメンタリティが違う韓国人ママですが、一応論理的には彼女たちの言い分が筋が通っているのです(結果、多数決で彼女たちの意見通りに、アメリカ人おじいちゃん先生にはやめて頂いて、別の人を探すことになった)。ただ、その意見の表現の仕方に、私は強烈な印象を抱いたのでした、隣国であり、同じ黄色人種で顔も似ているけれど、メンタリティは全く違うのだ、と。東洋人同士だから、同じように感じて同じように対処する、というのは正に幻想であることを知らされたのでした。それにしても今振り返ってみて、確かに論理的には韓国人ママたちの言い分は正論でしたが、幾らカジュアルに切り出したとはいえ、アメリカ人おじいちゃん先生の面目は潰れたわけです。彼がどういう感情を抱いたかはわかりません、でも、神秘的微笑みを浮かべて何やらごにょごにょと話していた日本人と、お互いが喧嘩しているかの如く激論していた韓国人を見れば、どちらが自分を首にしたかはわかったと思います。そして正論を押し通して、そのアメリカ人おじいちゃん先生にやめてもらった結果、又してもボランティア探しをしなければならず、その間は当然英語サークルは開けなかったのです。そこまで見越しての「正論」だったのか?「英会話の上達」という目的を考えれば、真に賢明な結論だったか?という疑問は残りました。


更に。やはりドイツで、ドイツ語学校で知り合った韓国人ママとの「ドイツ語による交流」(彼女は英語が喋れなかったので)で私は初めて知ったのですが、私と同年代の韓国人は漢字教育を受けておらず「漢字が読めない」のですね。韓国は独立後、長らく支配されていた中国も近代になって支配者だった日本が使用していた漢字を廃止して、ハングルだけで文字を表していたのです。「漢字を廃止」「ハングルだけで十分」という気持ちというか、その愛国的な熱い感情はわかります。でも、まあ色々あっても、アジアの帝王であった中国の文字である「漢字」を全く廃止する、という施策は、本当に韓国のためになったのでしょうか、と私などは思います。一概に比較はできませんが、日本語から漢字をなくし、平仮名・片仮名の表音文字だけにしたら、どうなるか?日常生活では、さして不便はなくても、四字熟語や、学術用語や、形而上学的な概念を表す語までが、平仮名・片仮名表記になると、それこそ日本人のメンタリティまでが、変わってきそうな気がします。「文学や思想は勿論、日本の科学技術を支えているのは実は漢字であり、漢字によって認識される概念を通じて思考がなされるから」であって、「韓国がノーベル賞を取れないのは、漢字を廃止したからである」という意見も読んだことがあります。まあ、日本語だって、「ローマ字化を唱える会」(かの梅棹忠雄氏が会長を務めていたことも)やら「漢字廃止運動」(かの前沢密も福沢諭吉も論者だった)やら、と言った意見もあったことですし。でも、日本人は漢字を廃止しませんでした。それは、当時の日本人が、ワープロやPCやTwitterの未来を予測して漢字の有用性を理解していたからでなく、「漢字を廃止して日本語をグローバル化する」という情熱に、単にイマイチ欠けたからであり、現状をドラスティックに変えてしまうという情熱こそが、日本人になかったからだけでしょう。韓国は、愛国心&民族愛でそれをやってのけたわけです、結果はともあれ。


という、以上のような、多くはない韓国人との思い出が私の頭をよぎりつつ、今回ロンドンオリンピック終盤に見られた、李明博・韓国大統領の独島(←韓国的には)訪問や、男子サッカー準決勝後の韓国人選手の振る舞いやら、その他オリンピックという場で見られた韓国人の態度を見ていて、「短慮」という言葉が浮かびました。

感情表現が豊か、ということは悪いことではなく、芸術や芸能の分野では大いにプラスになります。韓流アイドルの表現や、フィギア・スケートのキム・ヨナの素晴らしい表現力は、韓国人が持つ豊かな感情表現から来ているのだと思います。
日本人選手なら、例えばオリンピックで、中国相手の準決勝で勝利した後、相手チームと応援団の前で、「尖閣は日本のものだ!」とプラカードを掲げるでしょうか?絶対にありえないでしょう。しかし一方愛国心からそれをやった韓国人の若者は、韓国的には「愛国者」なのでしょう。でもその結果がどうなるのか?相手の日本チームの感情を逆撫でするだけでなく、球技場に応援に来ていた世界中の人々の気持ちを害し(その時はハングルが読めなくてもその後の報道で)、オリンピック精神を損ね、彼らが愛する祖国韓国の評判を落とし、日本との外交にもヒビが入る、というところまでは考えなかったのでしょう、それは「短慮」。
一国の大統領である李明博大統領もそうです。日本で出生した初めての韓国大統領、日韓関係について「未来志向」という言葉を使った大統領就任を、日本は「好意的」という言葉以上の期待を以て受け止めたものでした。改めてWikipedia で彼の経歴を読むと*2、高校にも通えるか通えないかの貧しい境遇から、努力の積み重ねで大統領まで上りつめた、傑出した人物だということがわかります。しかし。ロシアのメドベージェフ首相の真似と取られても仕方ないパフォーマンスで、独島(←韓国的には)をヘリコプターで訪れ、剥げかけた白いペンキで「韓国領」(←ハングルではなくて何故か漢字)

と落書きのように書いてある岩に登ってみせる、という振る舞いが及ぼす影響が、自身の大統領としての資質への疑問を産むだけでなく(それで済めばまだよいのですが)、彼が大統領を辞めた後の日韓関係までに及ぶ、ということは、この一国の元首の脳裏を微塵もよぎらなかったのでしょうか?時期も時期です、何故ロンドンオリンピックの期間に?そして、相手が日本でなくとも、相手国の元首に「謝罪するなら訪問を認める」的な発言をすることが、自身だけでなく韓国という国の品格を貶めマイナスでしかないことが、この努力の人、李明博大統領をしてわからなかったのでしょうか?、それも「短慮」。


「短慮」の反対の意味での「長慮」という言葉がないので、「深慮」になるのでしょうが、国として「深慮」の国は何と言っても中国でしょう。外交政策でも経済政策でも、この三千年の歴史を持つ超大国がしたたかであることは、誰もが理解していることだと思います。強く出るべき時は強く出て、下手に出た方が利がある場合は下手に出て、曖昧にしておいた方が有利なものはそのままにして、単一方向ではなくマルチにチャンネルを持ち(アフリカや中東で着々と存在感を増していることなど)、そして貧富の格差が広がる13億人の国民を何とか抑えている、この中国という国。不幸にして(?)地理的にこのアジアの超大国の隣国に位置している日本と韓国は、本来は手を組むべきであり、逆に中国から見れば、分断しておくのが得策、ということになるのでしょう。李明博大統領の振る舞いは、一見また別の超大国ロシアと歩調を合わせたかにみえて、実はまさに中国の日韓分断策に乗っかってしまったと思います。

では、日本は?日本の指導者を見ていると、「短慮」では勿論なく(「決められない政治」ですから)、かと言って、「深慮」では到底ありえず、「衆愚」もしくは「集慮」(という言葉を作ってみました)でしょうかね。リーダーの資質を持たない人がリーダーになって、取り巻きがああでもないこうでもないと議論した結果、無難な「落としどころ」に落ち着いて結局は何も進まない、といった状態が、個人レベルでも政治のレベルでも、長らく日本の姿だったのだと思います。けれども、これは仕方ないことで(開き直り)、変えようにも変わらない、日本人という国民の特性だと思うのですね、良くも悪くも。韓国の国民のように、感情と情熱に任せて後先考えず「愛国的」な振る舞いをすることも出来ず(それが日本人の美点だとも言えるわけで)、また中国のようにしたたかに脅しと友好の両面作戦で近隣諸国と渡り合う能力もなく(日本は400年鎖国していたから仕方ないわけで)、ただ言えることは、それを自覚した上で、最良の選択肢を選ぶ見識くらいは日本人にあってほしい、いや、ある筈だ、ということです。

領土問題に限って言えば、私ははっきり言って、北方領土竹島が日本に返還されるというシナリオは到底想像できないのです、だって、日本がどんなにお金を積んでも(日本には武力で取り返すという選択肢はないし、肝腎の経済力も斜陽なわけですが)、はたまた国際機関に何度訴えたところで、現在現実に住んでいるロシア人や韓国人が「はい、どうぞ」と島を明け渡すことが、実現されるとは思えません。フツーの常識で考えれば、どう考えても実現不可能ではないですか。でも、尖閣諸島に中国人や台湾人は住んでいないわけで、こちらを死守する方が現実的です。とすると、ロシアや韓国との間の領土問題はのらりくらり、時々国際的にアピールするくらいで敢えて曖昧にしておいて、中国と台湾相手の尖閣諸島に集中すべきじゃないでしょうか。しかし、その尖閣諸島も相手の一国(台湾じゃない方)が、超ヘビー級チャンピオンの中国ですから、同じリングの上(武力)に立つのは全く得策ではありません。ここで、どこかの都知事みたいに「愛国心」とやらの感情だけで突き進むと、都知事ご自身が蔑視しているもう一つの隣国韓国のようになってしまうので、それもなし。いやいや、一地方自治体の長を、韓国国民のように感情だけで突き進むままにしておいて、政府は逆にその自治体の長に冷静にブレーキをかける役回りに回って、中国に恩を売るとか。もしくは、もう一国の紛争相手国である台湾と連携するとか。考え得るすべての選択肢を挙げ連ねて、徴兵制もない平和国家なりの戦略を考えるべきでしょう。都知事の長男にして自民党の幹事長の石原伸晃氏は、
「(李明博大統領は竹島に)自民党政権ならば行かなかった」
と言っていますが、韓国が独島(韓国的には)接岸施設を作ったのも、灯台を作ったのも、紛れもなく自民党政権時代なんですが、もうその時点でかなりのアドバンテージを失っているのですから、「韓国が間違いに気付いて、『独島はやっぱり日本領だった』と速やかに平和的に放棄してくれる」なんてお目出度い夢は政治家は見てはいけなくて、「韓国が竹島から撤退することはない」ことを前提に次の手を考えてほしいものです。


と長々書いていたら、まさに終戦の日の今日、香港の民間人が尖閣諸島に上陸して逮捕されるという事件が起きました。北京でも速報が流れたそうです。「深慮」の中国です、どういう対応をとるのか予断を許しません。一昨年の「尖閣諸島漁船衝突事件」では強硬な態度に出た中国ですが、今回の件ではどうでるのか?韓国やロシアと同じく、絶対に武力では反撃してこない日本相手だからと、この際実行支配に向けて一歩踏み込むでしょうか?それとも、中国3000年の「深慮」で今回は静観するでしょうか?将棋の名人みたいに、何千手先までを読んでの対応になるだろうと思いますが。そしてそれに対して、韓国はどう出てくるのか?独島(←韓国的には)を韓国が実行支配しているように、同じく紛争相手が日本である中国に肩入れして中国が実行支配することを反対しないのかもしれません、「日本憎し」の感情が優先して。そうではなく、その結果中国が東シナ海のこの位置まで前庭を広げてきてもいいのか?ということに考えが及んで、別の選択をしてほしいと思います。そして私は依然として、K-POPを聞いたり、韓流ドラマを見ることだけが、韓国を理解することではないと信じているので、他の手段でこの隣国を理解する方法を探そうと思ったりするなど。

*1:http://d.hatena.ne.jp/souheki1009/20100422/p1:title=「英語」はそんなにスゴい言語か? ② 第一外国語にアジアの言語の選択肢を!

*2:http://ja.wikipedia.org/wiki/李明博