「茶道」は壮大な伝言ゲーム


私が毎週お稽古に通っている茶道の先生のお社中の大先輩が、来月、とある研修会で「茶通(さつう)」というお点前をなさるので、先月からお稽古をなさっています。

この世界に全く関係のない方にとっては説明が必要かと思いますが、茶道においては、どの流派であっても或る一定レベルを超えると、お点前の手順や所作が「文書化」されていないのです。いわゆる「口伝」というヤツ(失礼、茶人らしくないボキャブラリーですね)です。つまり、テキストも教本もハウツー本もなく、ネットにも落ちていなくて(お社中のおばさま方はネットなさらないと思いますが)、動画も勿論なく、直接師から教わらないと手順も所作もわからない、ということなのです。その「口伝」のレベルの中でも「茶通(さつう)」は一番下のレベルではあって、社中の先輩方にとっては軽々とこなされるものなのですが、私などは、手順と所作を覚えるだけで四苦八苦。しかも「文書化してはいけない」ということは、「紙と筆記用具」以降の文明の利器の使用も全て御法度、ということを意味するので、ICレコーダーで師の声をとるのは駄目、お点前を携帯の動画で取るなんてとんでもなく、メモを取る事さえもお茶室では許されないので、毎回お稽古の帰途、皆様とお別れして電車に乗った途端、ノートとペンを出して、頭の中の記憶を振り絞って思い出しつつ髪の毛かきむしりながら重要事項をメモする、優雅さのかけらもない茶人とは私のことなのですが・・・。



ところで「茶通」というのは、


「茶人Aが、お茶を携えて別の茶人Bを訪ねて、その茶人Bが「お持たせのお茶」と「用意のお茶」とを「茶通箱」という桐の箱に入れて、その両方のお茶を点てて、客人である茶人Aに振る舞う」


という、何とも優雅な設定のお点前なのですが、その一連の所作には合理的な決まり事があるのです。しかし、それは文書化されていない故に、師に口伝で習うしかないということになります。


そして今一度、茶道の基礎知識。
茶道における場、つまり茶室は、一年の間で2パターンの形があります。
一つは、秋から4月の末くらいまでの「炉」。畳が切ってあって炉になっていてその上にお釜がかかっています。





もう一つのパターンは、初夏から夏の終わりまでの風炉。板の上に、金属 or 土製の炉が据えられている、というもの。
風炉






この2パターンがあるのですが、これがよく出来てまして、秋から晩春まで「炉」の設えでせっせと稽古を積んで慣れたところに、季節が変わって「風炉」になるのでお点前の手順が多少変わり、また新たな緊張感で稽古に臨み、そしてやがて再び「炉」の季節になると、また・・・、と緊張感が永遠にループするのです。そしてそれに加えて、無限のコンビネーションというか、「炉」「風炉」それぞれに、薄茶と濃茶、様々な種類の棚(水差しや茶入れを置いておく)があって、また更に「茶通」のように特殊なシチュエーションが幾つも幾つもあって、それらを「場合の数」的に掛け合わせていくと、無限にお点前のパターンがあるのです。つまり今回の「茶通」だと、先ず「炉」と「風炉」では点前が違い、置いてある棚でまたまた点前が違うのです。ベテランの先輩でも、決して気を抜く事は許されません。だからこそ、人は何年も何十年も「茶道」に打ち込めるのでしょう。本当に千利休という人は、もの凄い天才だったのではないでしょうか。彼の頭の中に構築されていたものは下々の弟子にはなかなか全体像は見えないのですが、壮大で深淵な世界観としか言えません。それぞれのお稽古場で、師は口伝でしか伝えられない一つ一つの手順や所作を、400年前の千利休の世界観のままに教えていらっしゃるということなのですね。


「口伝」でしか伝えられないことが、400年以上正確に伝えられてきている


これは奇蹟のようにスゴいことだと思いませんか?イメージで言うと、千利休から始まって、気の遠くなるような樹形図を通過して、現代にまで達した「伝言ゲーム」なのです。それもほぼ完璧に正確な「伝言ゲーム」です。400年という時間と、日本全体という空間をかいくぐって、茶道は見事に正確に伝えられてきたのです。そして今も現在進行形で、脈々と伝えられつつあるのです。


海外に住むとプチ・ナショナリストになるというか、それまでは何の関心もなく「当たり前」と思っていた日本の文化を再確認して感動する、ということがありますが、「茶道」というようなものは、本当に世界中を探しても希有なものだと気がつくのですね。例えば、私が住んでいたドイツをはじめとしたヨーロッパ文化においては、「茶道」に類するものは無い訳です。「tea ceremony」って、手順も所作も形になっているものではありませんし、ヨーロッパ各地には名窯があって素晴らしい食器やカトラリーは沢山あっても、それらを使っての飲食に何の芸術的意味も精神性もありません。「茶道」とは、「道」がつくだけに、生涯にわたって打ち込むことができ、それでいて仕事の都合や子育てで中断してもまた始めることができて、年々新たな気持ちで臨むことができ、歳を重ねれば重ねるほど核心に近づくことができ(ここが体力が関係するスポーツとの違いかも)、それなのに、物理的に残る「作品」や「工芸品」を作るものでは全くなく、基本は「客に美味しいお茶を点てる」ということに尽きる、というこの、「芸術」という言葉を最早超えた「ハイパー芸術」である「茶道」のようなものは、他に類を見ないのです。万国共通の「趣味」や「余暇の過ごし方」というのは、スポーツ、音楽、読書、等々ドイツでもどこの国でもありますが、そこに深い精神性はさしてなく、ましてや400年にわたって「口伝」だけで伝えられ、また人々がその「道」と共に生きている「趣味」なぞ、どこを探してもありません。


で、思うのです。
今回被災地になった東北の町にも、「茶道」を嗜み「茶道」と共に人生を生きてきた人たちが沢山いて、3月11日あの日あの時間にも、師についてお稽古をしていた人たちもいたであろうと。地震とそれに続く津波で400年の伝言ゲームで伝えられてきたもの全てが流されてしまったのではないか、と。
表千家のホームページ(茶の湯 心と美)の中に、「各地の稽古場」というベージがあって、都道府県別更に市町村別にお茶の先生を探すことができるのですが、東北地方の県を選択すると、元々は親戚諸共オール関西人である私にとって今回の地震津波原発の報道で初めて知った、被災地の市町村の名前も並んでいます。彼の地にもお茶の先生がいらっしゃって、千利休が創始した「茶道」というものを400年という時間を超えて弟子に伝えていらっしゃったのだ、と思うと、その先生方がご無事であったかどうか、生き延びていらっしゃるとして劣悪な環境の避難所の生活をしていらっしゃるのではないか、「一服のお茶を点てる」ことから程遠い生活をなさっているのではないか、と様々な思いが浮かびます。
また、あの瓦礫の山。家も車も家財も全てのみ込んだ津波はまた、きっとお茶のお道具ものみ込んで流しさってしまったことでしょう。お茶の道具、と一口に言っても、茶碗、茶杓、茶入れ、水差し、釜、だけではなく、掛け軸、花入れ、香合、など多岐にわたります。その一つ一つは、きっと色々な思いと共に人の手から人の手を経て東北の地まで運ばれてきて、茶人に愛でられていたのだと思います。それらも全て津波に流され破壊され瓦礫に埋もれているのでしょう。

何とも悲しいことではありませんか。
失われたら二度と戻ってくることがないものが、失われてしまいました。


でも。
又しても根拠もなく、私は確信することはできます。江戸時代以降の地震津波に遭いながら、第二次大戦中の米軍の空襲に遭いながら、見事「茶の道」を復興させ「3.11」までは途切れることなく師から弟子へと「口伝」という伝言ゲームが行われていたのですから、今回も必ずや彼の地に、茶室で静かに松風の音を聴く、という日が再び訪れるであろうと*1。文書化されなくても、写真やビデオに撮らなくても、400年もの間正確に伝えられてきたものは、こんな震災で途絶えることなどないであろうと。



しかし一方。
天災や戦災ではなく、今まで経験したことのなかった事態が現実に起こっていることに思いが至ります。前述の表千家のホームページでは、福島原発事故で避難地域になった市町村にも先生方がいらっしゃることがわかるのですが、地震津波を凌いだ後、原発事故の影響で着のみ着のまま避難なさったとしたら、とてもじゃないけどお茶道具など持ち出せなかったと思うのです。原発事故の先行きが全く見えない今、住んでいらした地域が期限のない「立ち入り禁止地域」になったとしたら、お茶道具も人が住めなくなった家の中に何千年何万年(プルトニウムなら半減期は24000年)まで、そのまま在り続けるのでしょうか。いつか家も崩れ落ち、名品と呼ばれた茶碗も由緒ある釜も朽ちて土に帰るのでしょうか。


天災は自然の一部で、それは人間の力では如何ともし難いものであると同時に、人間もまた自然の中で生かされていますから、破壊されても打ちのめされても人間はまた自然と共に生きていくのだと思います。今回、海岸近くの自宅が津波で海に流された漁師の人たちの中に、お役所の「高台に新しく住宅地を作る」というプランに背を向けて「船をいつでも見に行ける港に近く海に近い場所、元住んでいたところに家を再建したい」という人がいるのは、私にも理解できないことではありません。自然の脅威によって壊れてしまったものは、自然の恵みを以てまた作り直せばいいのです。きっと今までもそうだったのだと思います。それでも伝言ゲームは途切れなかったということです。
でも、原発事故による災害はそうではないと思います。放射能は見た目には何も破壊してはいません。原発から20km圏内の映像を見ても、地震の爪痕こそ散見するものの、田畑はそこにあり町並みもそのままで家々はまるで人が住んでいるかのようにそこにあります。でも天災と違って、全ては断ち切られてしまっています。「いつになったら安全になって、いつになったら帰宅できる」という見通しが全くないのです。長年培ってきた全てのこと(そこには茶道もあると思うのです)が断ち切られてしまいました。生まれた時から住んでいて、そこで生業を営み暮らしていた土地から突然強制的に避難しなくてはならなくなり、100歳まで生きても二度と帰ることができない人たちが現にこの日本の福島県にいる、と思うと、果たして、原子力発電に支えられていたこの20年かそこらの日本の文明は、その人々の暮らしと引き換えにするほど、価値のあるものだったのか?と考えてしまいます。


電気という文明の利器を使って駅のエレベーターやエスカレーターを動かし、結果例えばベビーカーの赤ちゃん連れでお出かけする若いママやら、階段がつらいお年寄りが、不便や苦労なく動けるようにするということや、病院や自宅で療養している方が少しでも快適なように電気を使うことも、またOA機器が発する熱で蒸し風呂のようになるオフィスを冷房で冷やしてまともな温度で経済活動することも、一極集中の解消に政府が長年無策でついでにインフラ整備も無計画で依って忍耐のレベルを超えている首都圏の満員電車を通勤時間だけガンガンに冷房することも、全て「そのために電気はある」のだから「そのために電気は使うべきである」と私は思います。

けれども、昨年の夏はまさに官民挙げて大合唱だった「エコ家電」「オール電化のエコ住宅」というのは何だったのでしょうか?一台ごとに見れば消費電力は「エコ」でも、ちょっと前までは各家庭リビング/茶の間にエアコンが1台しかなかった時の消費電力総量と、各部屋に一台「エコ家電」のエアコンを置いて合計一家で4台エアコンがフル稼働している時の消費電力総量とでは、一体どちらが本当の意味で「エコ」であり「節電」なのか、誰も示しませんでした。取りあえず目先の新しい製品がじゃんじゃん売れることの方に利があったからです。製品が売れて売り上げが増えて会社が増益になって景気が良くなって・・・と皆が考えていました(含む、私)。「去年よりは今年、今年よりは来年と、新しい製品を出して売って買って、というサイクルに乗っていれば景気は悪くならない」という高度成長期の刷り込みもあったかもしれません。でも、冷房ギンギンのコンビニに「エコのためにできること:「『レジ袋』いりません」という勇気」というポスターが貼ってあったり、真夏に「はおりもの」がなければショッピングもできないほど冷房のきいたデパートに「エコをテーマにしたお中元商品」が陳列されていたり、といった茶番のために電気を使うのはもう止めるしかないと思います。その為に被らなければならない代償が余りにも大き過ぎることを、目の当たりにしている今。






ところで。
「茶道」という壮大な伝言ゲームの発起人というか、茶祖である千利休
今丁度NHK大河ドラマの「江」では、石坂浩二が頭を剃って(と言っても「五分刈り」で時代考証的にはどうよ?なのですけど)

千利休をやっているようですが(私は最初の1、2回を見て以降見ていないので)、お社中では、先生をはじめおばさま方には「江」のドラマ自体が大変評判がよく(「『龍馬伝』は画面が汚くて面白くなかったわね〜。『篤姫』とか今回の『江』みたいなのがいいわよね〜。」というのが年配の方のご意見ではないでしょうか、はい。)勿論毎回欠かさずご視聴なさっていて、次のお稽古日には必ず、石坂浩二のお点前の形が良かった/良くなかった。」という厳しいチェックが入るのです。下っ端の私はにこにこ笑ってお話を聞いているだけですが(社中でのキャラ作りに苦労しています私)、そもそも千利休石坂浩二をcastingすること自体、プロデューサーは「茶道」の門外漢に違いない、と勝手に思ってしまいます。俳優さんも大変なことでしょう。役柄とはいえ、お茶を点てるシーンを演じて、日本中の茶人に注視されるよりも、役柄上で踊ったり、馬に乗ったり、という方が余程気楽ではないか、と推察してしまいます。お社中のおばさま方は、「お茶」ということに関して本当に勉強熱心というか、お茶道具の展覧会にもこまめに足を運ばれたり、テレビ番組で「お茶」を扱ったものは何でもよくご覧になっています。
で、実は今私はものすご〜〜〜〜く悩んで迷っているのです。石坂浩二よりも「千利休」をより実像に近く描いている番組があって・・・

社中の皆様にNHKBSプレミアムで今期放送しているアニメ「へうげもの*2の存在をお教えするべきか、否か?


毎週木曜日の午後11時から放送されているこの番組の終わりでは、「へうげもの 名品名席」といって、アニメに登場したお茶道具の名品を鑑定家の中島誠之助氏が解説してみせる、というコーナーもあって、中島氏といえば「開運!なんでも鑑定団」(TOP画面に髪の毛がある石坂浩二が出ています)という別番組でも有名な方で、どういう訳かやはり年配の方でこの番組がお好きな方が多いので(実家の両親も欠かさず見ています、何故?)、余計におばさま方には馴染みがあるかしら?きっと、「名品」のこともよくご存知の方ばかりだからさぞかしこのアニメをご覧になれば楽しまれるのではないか?などと、下っ端の茶人である私などはつい思ってしまうのですが・・・。

でも、やっぱり、「御歳90歳を超える先生、そして平均年齢70歳は有に超えるお社中のおばさま方」に、幾ら古田織部とお茶道具を扱ったアニメとはいえ、この「へうげもの」のアニメはお勧めするには躊躇してしまいます。だってこのアニメ、元々は講談社の「モーニング」連載されているもので、この「モーニング」は講談社によると*3

コミック界の未来をひらく、高品位・高品質の雑誌です。

とはいうものの、対象読者層は、

30代を中心とした20代〜50代の幅広いサラリーマンが読者対象。

だそうで、それなりの内容の箇所もある訳で・・・。今まで社中で営々と築き上げてきた私の立場が、このアニメを皆様に紹介することによって音をたてて崩れてしまいそうで・・・。

「茶通」という伝言ゲームの、末端の復唱がなかなかできない悩みと、アニメ「へうげものをお勧めすべきか否か、という、茶人始まって以来の低レベルな悩みの狭間で頭が痛い今日この頃。

*1:「松風」とは、茶の湯では、炉にかかった釜で湯が煮える音を指します。

*2:「へうげもの」

*3:http://www.kodansha.co.jp/