「こうした方がええかも」「どっちゃでももよい」、そして「一期一会のパフォーマンス」


このブログですが、恐れ多くも「堀内宗心宗匠」で検索して見てくださる方がコンスタントにいらっしゃり、そのことすら恐れ多いで私ですが、そんな私が分不相応に経験させて頂いた貴重な機会の感想を書き留めておこうと思います。

DVD版 茶事 堀内宗心全記録 (風炉編)

DVD版 茶事 堀内宗心全記録 (風炉編)

DVD版 茶事 堀内宗心全記録 (炉編)

DVD版 茶事 堀内宗心全記録 (炉編)

(↑DVDの宣伝ではなく、この表紙の宗匠のお姿を見て頂きたいので、貼っています。購買目的ではなく、「現代日本茶道会の至宝」と言われるお方を見るためにお写真をクリックしてみてください。)



過日、私が最末端で属する長生会にて、宗心宗匠をお招きしての研修会がありました。研修会の会場の最寄り駅で社中の皆様と待ち合わせをしていると、偶然何と宗匠が秘書の方と改札を出ていらっしゃいました。電車でお出ましなのです。厳寒の中でしたが、意外に軽装でいらして、歩みもすたすたとこれまた意外なほどお早くて、軽々とタクシーに乗り込まれました。

さて。
研修会は、午前中は、お濃茶、お薄のお点前が一種類ずつと、あとお炭などのお点前が一種類、合計三種類のお点前、午後はお許しものとか七事式などの中から一種類、つまり半日かけて大抵合計四種類を宗匠がご覧になる、というものです。

以前も書きましたが、宗匠のご指導は大変深いものです。宗匠の前でお点前するお当番に当たられた方は、それは皆様練習を積んで研修会に臨んでいらっしゃるのですが、宗匠の前ということで緊張されないはずはなく、どんなベテランの方でも手順を間違えたり、所作がぎごちなくなって形が崩れたりすることもあるのです。そのような時の宗匠のご指導なのですが、お点前をする方の手順や所作が明らかに間違っている時でも、断定的に直されることはありません。手順や所作を正しく直された後、
「こうした方がええかもしれませんね。」
とおっしゃるのです。
また、完全に間違いではないけれども少々お点前の形がおかしかったりする時でも、ご指導が入った後、宗匠がおっしゃるのは、
「まあ、どっちゃでもよいのどすけど。」
という一見肩すかしのようなソフトなお言葉なのですね。
この言葉を言葉通りに受け取った方は、関西人ではありませんね。私は元々が関西人なので、この意味は完全に理解できるのですが、時に、研修会でお点前をなさっている方本人や周りの方で(現在私は東夷である関東在住です)「こうした方がいい」「どっちでもいい」と文字通りに受け取ってらっしゃる方がマジにいるのではないか、と感じることがあります。何故って、前回の研修会の時と同じことをご注意受けるということは、宗匠のご注意を真摯に受けとめていないからでは?と思わされるのですね。
関西人的には、この「こうした方がええかも」「どっちゃでもよい」というのは、センター試験国語現代文の解答選択肢風に言うと(←すみません、最近娘が受験したもので)、
「言葉の上では曖昧に表現されているが、真の意味は、『こうでなくてはいけない』という強い意思を表している」
というのが正解なのではないかと。つまり宗匠にそのご注意を受けたら、それはその「唯一の在るべき形・手順」に改めるべきものである、ということです。お点前の形も手順も、究極の合理性と美しさで組み立てられているものなのですから。
しかし。
それなのにそれを表現する言葉は「こうした方がええかも」「どっちゃでもよい」というのは、決して「京都の『ぶぶ漬け』」と同じ次元でおっしゃっているのではないと、また私は思うのですね。
「美味しいお茶を差し上げる」という目的に収斂させるために、茶室の設えから始まってお道具の組み合わせ、お点前の順序、形、全てに「これが最高であり最善の形」というものを目指すのが茶道でありながら、もしその極みの間際まで辿り着いたとしたなら、そこにあるのは「美味しいお茶を差し上げることが出来れば、他のことは全て二義的になる」という、無限ループのような思想というか流れがあり、だからこその「こうした方がええかも」「どっちゃでもよい」という、言葉本来の意味にもなってくるからこそ、宗匠のそのお言葉だと思うのです。
お点前に限定して言うと、茶道を知らない人がお茶を点てている茶人を見て、「ごく自然に余計な動作なく普通にお茶碗を拭いて、普通にお釜の蓋をとり、普通に茶筅でしゃかしゃかやってお茶を点てているのね」と感じるようなお点前が実は最高のお点前なのでしょう。お点前が「ごく自然に無造作にやっているようい」見えるということは、お点前の沢山の細かい決まりを全て身に付けなければできないことですよ、実は。私なんてお点前中は未だに「手順=次何やるんだっけ?」という低レベルのことで頭が一杯で、「お茶碗を取り上げるのは、ここは右手?左手?」てな感じで、殆どHONDAのロボットアシモくんの如きのぎごちない動作になってしまうことしばしばです。

(実際、お茶会でお運びをする時の私って、こんなものかも?)
流れるようなお点前、否、それさえも通り越して「お点前」と感じさせない「お点前」というのが最高の境地なのかもしれません。けれども、きっとそこに辿り着いた哲人のみが悟るのではないでしょうか、全ての膨大な細かい手順の規則も形もそこまでいけば「どっちゃでもよい」と。
いや、深い。アシモくんの茶人への道は遠いのです。

それにしても、研修会とはいえ、宗匠の前でお点前をされる方の緊張は相当なもののようです。もうかなり茶歴がある大ベテランの方でも、例えば茶室に右足から入ってしまったり(普段では考えられない!)、宗匠から一言ご注意を頂いただけできっと頭の中が真っ白になって次の所作を忘れてしまわれたり・・・、拝見している側にもその緊張が伝わってくるほどです。しかし今回、「茶通箱」のお点前をなさった方は、本当に落ち着いて、このお許しもの*1の長い長い複雑なお点前を見事になさったので、感動しました。
突然突飛な例えですが、お茶のお点前って或る意味一つの完結したパフォーマンスだと思うのですね、浅田麻央ちゃんが滑るフィギアスケートのフリープログラムのような。「茶通箱」をなさった方は、小さいミスはあったものの、それに捕われることなく、三回転半ジャンプは全て成功させ、最後まで気持ちが途切れることなくお点前を終わらせていらっしゃいました。その方から伝わってくるのは、お稽古を、それも真剣なお稽古を何回も何回も数限りなく積んでいらっしゃったのだ、ということです。普段のお稽古の時、「咳(しわぶき)一つ聞こえないお茶室で最初から最後まで集中力を切らさずにお点前をする」、という機会は、考えてみると実はなかなかありません。社中の方々のお喋りが気になったり、「お稽古だから」とついついいい加減になってしまったり。けれども、いざ大事な場面で、お点前に立ち表れてくるのは、その日々のお稽古を如何に真剣にやってきたかになる、という当たり前のことが今更のように理解できました。
で、私自身は実は、この「一期一会のパフォーマンス」としてのお茶のお点前が凄く好きなのです。勿論まだ研修会でも、宗匠の前でのお点前など経験したことはありませんが、大寄せのお茶会などで大勢のお客様の前でさせて頂くお点前は、緊張するからこそドーパミンやらアドレナリンが私の体内を駆け巡り、他では経験できない一期一会の達成感を味わせてくれるのです!そして最高の達成感を味わうためには、入門して最初の「割稽古」*2から始まって、一つ一つのお稽古を真剣に「一期一会」でやることが必要不可欠なのです、実はその初歩のお稽古をやっている時には気がつかないのですが。
余りに人口に膾炙しすぎているので、茶人の端くれでありながら私は本来はこの「一期一会」という言葉があまり好きではないしあまり使いませんが、この言葉なしには茶道の説明は無理だということが、つくづくわかります。
と、言い訳したところで「一期一会」を更に大盤振る舞いさせて頂くと・・・
或る日或る場所で或るお客様たちを前にして点てるお茶のお点前は、その時限りの一期一会で、それだけではなく、その季節に合わせたお道具の組み合わせ、お茶とお菓子、その時刻に降り注ぐ障子を通しての日の光と茶室を満たす釜のお煮えの音も全て一期一会、その時限りのもの。そして点前のために隅々まで計算しつくされたシンプルを極めた動作、それは細かい規則に則っているのですが規則を規則と感じさせないほど自然な動きで、その動きそれ自体と、その動きによってなされる様々な道具の配置の変化、これがまた一期一会なんですよね・・・。
そしてこの「一期一会のパフォーマンス」ですが、お茶の場合、以前も書きましたが、何歳になっても現役としてお点前できる、寧ろ年齢を重ねれば重ねるほど尊敬される、という、今の日本の現実社会とは真逆な環境です。フィギアスケートのパフォーマンスは30歳を超えると難しいでしょうけどお茶の世界だといつまでも現役でパフォーマンスができるのです。現に宗心宗匠はとうに齢90歳を超えていらっしゃいますが、茶道界の尊敬を一身に集めていらっしゃいますし、勿論現役で献茶式でお点前をなさるのです。
こんな素晴らしい芸術活動が文化として日本にあるのですけど、それが余りにも普通の生活と離れてしまっていることが、残念です。


という訳で、私がお茶にのめり込んでいる理由の一つがこの「一期一会のパフォーマンス」の快感なのですが、更にもう一つ、特に最近しみじみとその深遠さに感動する理由があります。
宗心のご指導で感じることと絡めて、それについて稿を改めて書いてみたいと思います。

*1:いわゆる解説本などがなく、師から直接習うしかないお点前のこと

*2:茶の湯で、作法をいくつかの部分に分けて、一部分ずつを稽古すること。