「夏の着物」雑感

今日東京都心の最高気温は36度近くあったらしい。
体温とほぼ同じ気温であるそんな日でも着物姿の女性を見かけたとしたら、あなたはその女性がどうして過酷としか言い様がない環境の中、着物を着ていると思いますか?

「着物」ですよ、決して「浴衣」ではありません。

①暑い日に敢えて暑い格好をすることが教義に含まれている新興宗教の人だから
呉服屋さんの回し者だから
③今からご出勤の銀座のホステスさんだから
夏の我慢大会に絶賛参加中だから
⑤単なるマゾだから


・・・どれも違うと思います。多分その着物姿の女性は、
茶人だから
体温より高い気温の中、着物を着ているのだと思います。

かく言う私も茶人の末端の末端の端くれとして、今日は着物で電車に乗りお茶のお稽古に行って参りました。
御歳90歳超の先生が、風炉の唐物、台天目をお稽古して下さるのですから、洋服で参上するわけにはいかない、ということは茶人ならばご理解いただけると思います。
意外に暑くないものですよ、夏の着物。
昨日は、「タンクトップに、麻の七分丈パンツ」、という、今日に比べれば肌の露出度10倍くらいの格好で(当社比)出かけましたが、じゃあ10倍涼しかったか、というとそんなことはなくて、寧ろ着物の方が気合いは入っているし、身八ツ口から風が入ると結構涼しかったりするのですね。

以前にも書きましたが、じゃんじゃん降りの雨にもかかわらず着物で思い詰めたように歩いている方も、同じく
茶人だから
だと思って頂いて十中八九間違いないでしょう。

お茶を習い始めて通算10年以上(ドイツに住んでいた3年間は除く)。
最初は勿論自分で着物着ることができなかったのでお洋服でお稽古に行ってました。
そのうち、やはり自分で着られないとどうにもならないことがわかってきて(着物を着なくてはならない時にいつもいつも美容院で着付けしてもらう訳にはいかないし!)、一念発起で友人に着付けを習いました。
そして実践あるのみ!秋〜春にかけて雨降りでないお稽古日にはどんなに着付けに時間がかかろうとも、どんなにぼろぼろの着付けになろうとも、とにかく「着物で行く」ことを目標に、回数を重ねました。
それでも、雨が降ると「雨降りだから今日はお洋服で行こう」、夏のシーズンになると「暑いから今日はお洋服で行こう」てな感じだったのですね、「雨降り」と「真夏の着物」の偏差値というか難易度はかなり高いのです。しかしドイツから帰国してまたお茶のお稽古に3年ぶりに復帰して、多少ナショナリストになっていたこともあって、雨だろうが夏だろうが、「お茶のお稽古には着物で行く」ことを自分に課しました。実際、雨の日のお茶会が続いたり、夏物の時期に大きなお茶会があったりしたことが、実際的な理由なのですけど。
そしてやっと何とか、天候や季節に関係なくまがいなりにも着物で出かけられるようになった、という訳です。否、まだ未踏の領域があります。それは雪の日。雪の日はまた特別な下駄があるそうで、今年の冬はそれを私の着物ライフに実装しようかと思っています。

でも。
よく考えると、ちょっと前の日本人って1年中着物着てたんですよね。春の日や秋の日だけでなく、夏の日も冬の日も、照っても晴れても。だって着物しかなかったのですから。女性だけでなく男性も。
今の時代、着物と縁のない人の方が圧倒的に多いのは事実です。大体女性だって着物が自分で着られる人というのは限られています。茶人は「自分で着物を着る」ことが当たり前として、日本舞踊関係の方、旅館や料亭の女将さんや仲居さん、歌舞伎役者の奥様、バーのホステスさん・・・。皆「着物着ないことにはどうにもならない」人ばかりかもしれません。けれども、これでは早晩、着物文化は滅びてしまうのではないかと、プチナショナリストとしては憂えているのです。
現状21世紀初頭の日本人(女子)と着物の関係は(カッコ内は私自身の記憶)、

・生まれた直後のお宮参り(記憶にあるはずない)

七五三(ちょっと浮き浮きした気持を覚えているけど、ひどく疲れた記憶もある)

・いきなり成人式(今や思い出したくない・・・)

・友達の結婚式(帯が苦しくてフランス料理のコースが全部食べられなかった)

・家族・親戚の結婚式(初めて『留袖』なるものを着て、それはそれなりに高揚した)

というコースがフツウかと思います。そしてここでか細くも続いていた「着物の道」はぷつんと途切れます。
あっ、まだあるとしたら、

お葬式(自分のじゃありませんよ!近しい身内の時にはやはり和装の喪服ですかね)

ですが、ホテルや式場など着付けをしてくれる結婚式はともかく、お葬式の時に美容院で着付けしてもらうのも嫌がられそうですよね。人生の肝腎の節目の時に、日本人として着物が自分で着られないのはどうなんでしょう?


七五三の時は、当然ですが、自分は突っ立っていて着物を着せてもらうのですが、実は成人式の着物もそうです、図体が大きくなっているだけで、自分で足袋もはけない二十歳の成人もいるくらいです。でも、まだ「若い」から許されます。そのうちに友達の結婚式に着物で出る時に、会場のホテルの美容院で着付けと髪の毛のセットを予約して、その料金の高さにびびりながら、それでも着物を着るというのはそれなりに高揚することであるのですが、やはり同じく棒立ちで着付けをしてもらうのです。殆ど、「木偶の坊」状態です。「オトナの女としてはちょっとマズい?」という思いが頭を掠めますが、着物は日常のものではないので、イベントが終わったらその気持ちも忘れてしまいます。私の場合、決定的に「マズい」と思ったのは、30歳を過ぎてやはりとある結婚式におよばれして、今更ドレスでもないから訪問着を着ようと美容院で着付けをしてもらった時のこと。ホテルの美容室の着付け係の方々はそりゃ教育されてますから、無表情で手際良く着付けをしてくれるのですが、鏡は正直です。そこに木偶の坊として立っている私は、「30歳にもなって自分で着物も着られない甲斐性なし」という姿をそのまま映し出していました。隣のブースにもやはり着付けをしてもらっている50歳代の女性がいました。その人も鏡に映った己の姿に何かを感じたのでしょうか、頻りに言い訳をしているのが聞こえてくるのです。「着物って数年に一回くらいしか着ないから、わざわざ着付け習うのって馬鹿らしいでしょ?こうやってプロの人に着付けてもらうに限るわよね。」「着物の畳み方なんて知らないから、終わったら畳んどいてもらえます?」「ウチのムスメにも、着物なんて高いだけで無駄だから成人式の着物やめたらハワイ旅行のお金出してあげる、って言ってやってるの。」等々。これを聞いて私は決心しました。「こういう人になりたくない!日本人なのだから着物くらい自分で着られるオトナになってやる!」と(もうとっくに「オトナ」である、という突っ込みもありますが)。
とは言ってもなかなか「着付け」を習う、というところまでいかないまま、私の場合はお茶を始めて、それで自然に着物を着ることになったわけです。どうにか50歳までには「自分で着物が着られるオトナ」になれました。

そんな私が若き大和撫子に申し上げたい!
(40歳〜上限なし、のオバサンには今更言っても仕方ないところもあるので)

もし貴女が、甲斐性ありで何でも出来てお洋服もお洒落の最先端をいっていて、という人ならば、是非人生においてなるべく早い時期に「自分で着物を着る」技術を会得するべきです。そして一人でも多くの同朋に着物を伝導する立場に立つべきです。貴女が着物を着て人前に立つこと自体が「伝導」です。また着物の世界は楽しいです。貴女のセンスが生かせます。そしてどうしたって「和」の世界に繋がっていますから、貴女の人間としての幅を更に広げることでしょう。とにかく早く身に付けた方が「勝ち」ですよ。
もし貴女が、のんびりタイプでお洋服の流行を追うことにも少々疲れを感じていて何か他のものを求めているとしたら、あなたが求めている癒しと豊かさは「着物」の中にあります。着物は奥が深いですから、一生ずっとマイペースでお洒落を楽しめます。そして着物を着れば、お洋服とは違った偏差値が生まれることを実感するでしょう。それは、「洋服着たナイスバディの美人」を凌ぐ場合もあるはずですよ。

「私、着物自分で着られないんですぅ〜」と言って何とか許されるのは、せいぜい30歳前半まで(それもかなり無理がありますが)。それ以上の年齢で同じ台詞を言う女性は、お馬鹿か恥知らず、ということになるでしょうね。だってよくウチの祖母とかが言うんです、「昔は、10歳かそこらの姐やさんでも自分で着物を着てた」(「姐やさん」って死語ですね)。そうなんです、おしんだって自分で着物を着ていました。だから、着物を着る事は、「特別難しいこと」でも「特殊なこと」でもないはずです。今、花火大会などでは、たくさんの若い女の子が浴衣を着ています。私はそれはとてもいいことだと思います。日本人のDNAが騒ぐのでしょうか、暑いのに浴衣きて、髪の毛もアップにしてそれぞれに工夫しています。エラい!やる気あるじゃない!って思います。けれどもそういう彼女たちを批判する勢力もあることは事実でそれは主に60歳前後のおばさまたちなのですが、「ケバケバしい、ったらない」「布団の柄みたい」「着方が滅茶苦茶」等々、言いたい放題であります。そういうおばさまたちに限って、そのお歳になっても「着物を着る」という甲斐性がない方が多いのです。大体、仰るところの「ケバケバしい布団柄」の浴衣を着ているJCやJKこと中学生や高校生はおばさまたちの孫娘、という年代です。そもそも孫娘の母にあたる、おばさまがたご自身の娘(アラフォー世代)には、ちゃんと「着物教育」したんですか?と聞きたいです。おばさまがたがご自分の娘たちに、浴衣の選び方、着付け、を教えていないのに、どうして娘の娘である孫娘たちに、「美しい浴衣」が伝承しましょうぞや!また、孫娘にご自分が直接伝授する、ということはなさらないのですか?あっ、そうですか、「孫が私の言うことなんか聞くもんですか。」ですか、失礼しました、発言権おありにならないのですね。・・・話が逸れましたが、花火大会に頑張って浴衣を着て来ている若き大和撫子には是非次に着物に挑戦してもらいたい!と願う私であります。

私などは、学校教育の中で日本文化として「着物」について教えることがあってもいいとさえ思いますが、まあ畢竟、
日本の民族衣装を自分で着ることができない日本人、
という自分であっていいのか、それは嫌なのか、と個人で考えることでしょうけど。


実はもっと目を覆わんばかりの惨状は、日本男児の着物道。「自分で着られる/着られない」以前に、日本男児の正装である「紋付羽織袴」(家紋付きですよ)を持っているビジネスマン、学者、政治家、医者その他エラそーにしている人たち、はどれくらいいるのでしょうか?着物を着たこともなくて、グローバル企業だか日本文化論だか国際化だか知りませんが、語ってよいのでせうか?ごくごく例外の人を除いて、日本男児の「洋服のお洒落偏差値」はかなり低いと思いますが、それは元々が洋服文化でないことと、所詮ガタイが洋服を着て映える様には出来ていないので仕方ないことなのですが、だからこそ、日本人がそのままで一番似合い、一番落ちつく着物を、一年に数日だけでもいいから着てほしいものです。大体、「ラルフローレンが似合う日本男児」っているでしょうか(←勿論、反語)?その代わりに落語家さんは落語家さんの着物の似合い方、歌舞伎役者さんは歌舞伎役者さんの着物の似合い方してますよね。何故、一般の日本男児は、「自分の着物」というものを着ないのでしょうか。日本人として、着物体験をしないまま生きて行く日本男児を、僭越ながら少々お気の毒に思います。


さて、まだ梅雨明け前の6月某日。私はまたまた鎌倉の某所で、堀内宗心宗匠の研修会に参加しておりました。そこの某所は、何とSoftbankの電波が来ていない(圏外)文字通り浮世離れしたところなのですが、勿論浮き世ではありませんから、6月といえども最高気温30度近いその日でも、エアコンの設備はないのです。そこに集う、全員着物の人たち数十名。う〜ん、やはりどう見ても新興宗教ですかね。いえいえ、宗匠のお出ましを待っている茶人たちなのでありました。正座してお扇子などで顔を扇いでいた信徒たち(違う!)ですが、これまたお着物姿の齢90歳超の宗匠が登場なさった途端、勿論お扇子などはしまって背筋を伸ばしてお話に聞き入ったのですが、そこに、本当に私には目に見えた気がしたものですが、一陣の風が吹き抜けました。否、それまでにもずっとその部屋に吹いていたのでしょう、ただ私達が感じられなかっただけで。網戸すらない開け放した戸から戸へ、風は抜けていたのです。それに気付く瞬間と、それこそ「一期一会」(←この言葉、手垢が付きすぎて余り好きではない)の空間体験こそが、実はお茶をやっていて何とも言えない喜びを感じることであるのですが。