地震後を京都で過ごしたこと

京都はパリ、だとは思いませんか。



古都という共通点だけではなく。
鴨川はセーヌ川
三条大橋は、ポンヌフ。
誰もが訪れるノートルダム清水寺
否、地理的には下鴨神社シテ島ノートルダム
嵐山はブローニュの森
古いお寺や教会に混じって新しい意匠の建物も許容する町並みの奥行き。
数多の観光客に媚びるでもなく、また迷惑顔をするでなく、自然に受け入れている住人の振る舞い。
だから、外人(etrangers)にとって実はとても心地よい都市であること。
そして恐ろしく「食」のレベルが高いこと。ガイドブックに載っていない街角のレストラン/食堂でも、丁寧な味に出会える口福。
「食」だけでなく、生活雑貨の数々を売るお店の層の厚さ。観光客だけを相手にしているのではなく、その物を目当てに遠路訪れる客を待つ余裕。


学生時代フランス語を専攻していた関係で、20歳過ぎの夏、通算で3週間ほどパリに滞在したことがあります。そして四半世紀後、ドイツ駐在の間に、機会を見つけてはドイツから詣でたパリ(3年間で5回)ですが、パリという都市にはいつも新鮮な驚きがありました。
以前ルイ・ヴィトンについて書いたことがあるのですが*1、老舗のブランドほど「変わること」を恐れない、というか、いとも軽やかに新しい境地に絶えず「変わっている」のと同じく、古都でありながら歴史にしがみつかず、永遠にメタモルフォーゼしているところが、京都とパリの共通点かもしれません。



さて。
何故、京都か?
3.11の後、京都に来てそのままもう二週間以上も居座っているから、です、勿論「疎開」なんかではありません。
何故、あの地震は「11日」に起こったのでしょうか、単に偶然とわかっていても、そこに何か意味を見出そうとしている自分がいます。
私は首都圏に住んでいますが、「3.11以前」と「3.11以後」とでは人生観も価値観も大きく変わったような気がしています。
地震発生当日から本当に悪夢のような映像をテレビで、ネットで沢山見て、「目が覚めたら全て夢だった、ということになればいいのに」と半ば本気で思いつつ浅い眠りにつき、そして目覚めるとそこには夢でない現実があり、一日一日時間が経つに連れて、それは「夢ではなくて現実である」ということを突きつけられるのです。
普段テレビを殆ど見ない私が、一日中テレビの前で福島原発のニュースに釘付け。横浜駅の地下街で地震に遭ってその後3時間かけて歩いて帰宅して以来、余震に怯えて家から一歩も出ない娘。


地震後数日経たないうちに、近所のスーパーからはお米、水やお茶のペットボトル、トイレットペーパー、パン、等々が姿を消しました。「棚に商品がないコンビニ」というものが、何か冗談のようでした。スーパーでレジ待ちの蛇のようにうねる長い列に並んでいた時のこと(ドイツ語でも『Schlange stehen』というのですけど)、お米が全て無くなった棚に僅かに残っていた「ハト麦」の小袋に列に並んでいた一人が手を出すと、残りの数袋にも次々に手が伸びてあっという間に「ハト麦」も「ビタミン強化米」も全て無くなってしまう滑稽さ!かなり年配のご婦人が、「お一人さま2箱まで」と書いてある「切れてるチーズ」を5箱もカゴに入れている哀しさ。彼女は何かに憑かれたように、「私が女学生の時には、『配給』っていうのがあって母に言われて並んだものよ」と興奮気味に誰に話すともなく周囲の人に喋り続けていました。その光景自体が、本当に悪い夢のようでした。

Apocalypse=アポカリプス
海外のメディアが今回の地震を語る時に使っていましたね、この言葉。

地震と関係なく、また娘の受験の結果と関係なくずっと以前から3月の半ばに、京都に一泊で行く予定にしていました。親戚に会員制リゾートホテルを一泊だけ取ってもらい、京都に下宿している息子も誘ってご飯食べて帰ってこようという計画でした。
ところが京都に行く前日の夜、静岡県東部を震源とする最大震度6の地震がありました、もう忘れ去られていますけど、結構大きな地震でした。3.11の地震との連動なのか、東海地震の前触れなのか、不気味な地震でした。私は京都へ向かう新幹線を頭でイメージして、この地震震源地近くを通ることを考えた時、しかもその辺りは朧げな地理の知識では「新丹那トンネル」という長〜いトンネルなのではないか、と思い至り、そうでなくても「閉所恐怖症」の私は、前日の晩は「京都行きを決行すべきか否か、新幹線でなく飛行機で行くべきか否か」と真剣に悩み、一睡もできませんでした。
京都行きを決行することにした一番の理由は、地震と受験の結果がない交ぜになって塞いでいる娘の気分転換になるのではないか、そのためにはとにかく行かなければ、と思ったからです。
丹那トンネルが永遠に続いて私は発狂しそうでしたが、余震に見舞われて緊急停車、ということもなく、新幹線は無事に1200年の都、京都に到着。


そうしたらならば。


そこには、ついこの間までの私たちの暮らしがありました。
揺るがない大地、棚に物があるコンビニ、お米が何種類も積まれているスーパー、車が長蛇の列をなしていないガソリンスタンド、産直の京野菜が売られている地下鉄の構内、そして24時間消えない電気。
本当にほんの一週間前までは、首都圏のどこでもあった風景、いえ、東北のどこの町でも普通に見られた光景です。
なのに、この官能に近いほどの「安心感」は、3.11が起こってしまったから、逆に感じてしまうのでしょう。

一泊の予定だったのに、私と娘はどうしてもそのまま新幹線に乗って関東に帰る気がしませんでした、というより、身体がいうことを聞きませんでした。
夫が「福島原発の様子が落ち着くまで、数日京都にいればどうか」と言ってくれたのに乗じて、そのまま京都に居座ってしまいました、「数日」が意味する範囲を大きく超えて。そして福島原発は「落ち着く」どころか、全世界から深刻な懸念を受けるまでに悲惨な状況にひた走っていますが。
毎日リゾートホテルに泊まる訳にはいかないので、息子の下宿に雪崩れ込んで我が物顔でそこを占拠し(何故か私と娘がベッドに寝て、息子が寝袋)、息子の堪忍袋の緒が切れそうになると、夫がマイルを交換していた商品券&某大学生協のホテル割引を使ってホテルに避難(?)、そしてまた下宿に帰ってくる、という日々を送って、気がついたら3月が終わろうとしていました。

この短くはない京都滞在の間、様々なことを考え、また人生観も価値観も嫌でも変えざるを得ない現実を受け止める力を蓄え、また一番根底の部分で癒されました。
2週間以上も京都に滞在するなんて。海外旅行よりも長い「旅先」での生活です。


その長い休暇の毎日、「京都はパリ」、という連想の遊びを毎日娘としていました。
百万遍はカルチェ・ラタン。
書店だけでなく、古本屋さんの充実ぶりが嬉しくなります。
桂離宮は位置的にも(?)ヴェルサイユでしょうか。
景観論争にもなったJR京都駅の新駅ビルは、フォーラム・デ・アール(Forum des HALLES)とは言えませんか?絶対に古い都には合わない新奇なデザインのように見えて、不思議にマッチしているところが。
そして、京都の定食屋は、パリのブラッスリー
殆ど毎日、息子の下宿から歩いて2分という定食屋さんで夕食を食べていたのですが(敢えて名は伏す)、そこのレベルの高いこと&値段が安いこと!私と娘はそこを主に贔屓にしていたのですが(それは禁煙であることと、定食が格安なのに比べて何故か割高なビールだけしかアルコールを置いていないことが理由です)、息子によると、他にも同じようにレベルが高くて何より安くて特色がある定食屋さんは枚挙に暇がない、そうです。お客は、学生も沢山いますが、地元のおじさんやおばさんが単身でも来ているのです。お客はお互いに思いやり、席が空いていない時は当然のように相席、もしくは食べ終わると長居せずにさっさと席を立つ、といった風情なのですね。
京都だと、単身者もコンビニのお世話になることなく外食だけで暮らしていける、というか豊かな食生活を送れると思いました、勿論コンビニはコンビニとして活用するのが、古都が「新しもの好き」である懐の深さなのですけど。
こういう京都の全てのものに、私と娘の全てのことが癒されたのかもしれません。



地震後私の最大の関心事は、福島原発で何が起こっているか」なのですが、周囲はそうでもないような気がするのですが、実際はどうなのでしょう?
毎日Ustream に張り付いて、東京電力原子力保安院の会見をずっと見てしまうのが私の3.11以来の日々ですが、これは異常なことでしょうか。
周囲はそこまでではなく、余震や停電、スーパーの品不足、放射能に汚染された水や食品に対する関心は高くても、原発で起こっていることそれ自体については、何故か根拠のない安心感(「福島から離れた東京にいる限り安心」「日本の技術力を以てすれば何とかなる」「政府が何とか対処してくれる」)に溢れているような。
私自身は、特に慌てて水や食品を買いだめする気はないし、そもそももう子どもが大学生以上になっているこの年齢で、少々放射能に汚染された水や食品を摂取したところで、例えば20年後30年後に癌のリスクが高まると言われても、それが放射能の影響なのか寿命や遺伝の問題なのかわからないでしょうから、個人の健康に関する心配ではなく、恐らく精神的なものなのだと思います、私のこの底知れない不安の正体は。

色々な意味での、これまでの人生観、価値観を変えなくてはならないこと。
それを子どもたちにも伝えること。
もう「以前」には戻れないこと、「3.11より前」の世界には戻れないことを、認めること。
不安と共に生きることに慣れること。

私を苛んできたのはこういうことではないかと思います。
勿論自分が生まれて育って住んでいた町がもろとも津波に流されてしまった被災者の人々が、物質としての家や工場や車を失っただけでなく、がれきの中に続く白い地面が痛々しい、廃墟ですらない荒涼とした町を目にしなければならない精神的なショックは如何ばかりかと思いますし、その一端だけを想像しても胸が潰れそうです。
これは日本人全体で背負っていくことなのでしょう、これから長い年月。

地震直後の原発報道を見ていて絶えず頭に浮かんだ映画があります、もう20年以上前に観てその時は遠い世界のお話と思ったものですが。
wikipedia:風が吹くとき

風が吹くとき デジタルリマスター版 [DVD]

風が吹くとき デジタルリマスター版 [DVD]

英語版だとYoutubeで全て観られます。
主人公のジムは或る意味最期まで政府を、救助がやってくることを信じて待ち、それまでの人生観や価値観を変える前に終末が訪れるのです。
私たちはそうではなくこれから否が応にも価値観の転換を迫られるのでしょう、それは「節電」といったことだけでなくもっと根本的なところで。


いつまでも流浪の民という訳にもいかず、息子の大学の新学期も始まり、思いがけず長くなった京都居候生活に終止符を打ち、一昨日実に17日ぶりに首都圏に帰ってきました。
最初の「福島原発が落ち着いたら」という目論見は最大限悪い方向に外れて、映画やドラマのような「危機の後の大団円」ということは現実世界にはないのだと今更のように思い知らされつつあります。

今年はなかなか暖かくならない気がします。昨日は真冬の気温でしたし。
今日も決して「4月上旬の入学式の頃の暖かさ」からは程遠いのですが、それでも陽射しだけは春の陽射しなのですね。この暖かそうな春の陽射しの中にも、目に見えないごくごく微量の放射性物質が漂っていて(「長期にわたってでなければ直ちに健康に悪影響を及ぼすものではない」のですよね)、現実として、また象徴的にも、私たちはこれからの幾多の春を、今までの春とは違った春として迎えなければならないのでしょう。

それでも「希望」があるということですね。
「希望」なんてベタな言葉を使うなんて・・・、でも使わずにはいられません、復興を願う日本人の真剣さと世界の人々の気持ちをメディアで見る時。


という訳で、この現実の中で希望を持って生きる、ということをやっと始められそうです。