携帯カメラとYoutubeの時代の大震災

今回の「東日本大震災」は「1000年に一度の大地震ということになっていて、防潮堤も港湾や建物の設計も、そして原発「想定外の規模の津波の被害に遭ってしまった、ということになっています。
ところがよくよく聞いてみるとそれは真実ではなく、「明治三陸地震」というのがほんの100年ほど前に起きていて、その時には津波が海抜38mの地点に達したという記録がちゃんとあり、死者2万人超という記録も残っているそうです。

全然「1000年に一度」でも「想定外」でもない訳ですが、地震に限らず天災は今までずっとこうだったと思うのです。大きな災害であればあるほど、その災害を経験し生き延びた人は数少なく、彼らが災害の恐ろしさを言葉を尽くして語り備えの大切さを子や孫や部外者に熱心に説いたところで限界があります。一世代の人が生きる時間が流れてしまえば、その災害の記憶は文字通り消えてしまっていたのでしょう、携帯カメラもデジカメもなかった時は。
加えてYoutubeニコニコ動画もなかった頃は、あの阪神大震災でさえ、私たちが目にした「動画」はテレビ局の記者が地震後取材したものでテレビの番組の中で放送されたものだけであり、災害が街や人を襲う瞬間の場面は誰も見ることはできませんでした。未明に起きた地震でしたから、一瞬のうちに多くの建物が倒壊した「その後」の映像のみ、でした。
スマトラ沖大地震の時は、観光客が撮った津波がリゾートの浜辺を襲う動画がテレビでも放映されていましたが、考えてみると当時はまだYoutubeってなかったのですよ。
けれども今回の地震津波自衛隊が撮影したものと被災者自身が携帯のカメラで撮った無数の映像に幾つも刻まれて、テレビ画面を瞬間的に通りすぎていくだけでなくYoutubeニコニコ動画の中にずっとずっと残ることになると思います。たかだか100年前に三陸地方を襲った38mの津波を忘れていた日本人(その中には勿論地震にも津波にも原発にも無知だった自分も含みますが)でも、今度は忘れようにも忘れることはないでしょう(福島原発を作った東京電力や、推進派の政治家や地元自治体が、100年前の「明治三陸地震」を知らなかった筈も忘れていた筈もなく、それは別の問題ですが。)

事ほど左様に、この震災が起こった今年2011年に私たちは、簡単に手持ちの携帯やカメラで災害の動画(写真ですらなく)を撮影することができ、そしてそれを即座にYoutubeなりニコニコ動画なりにアップして全世界の人々に知らせることができるのです。明治三陸地震の頃は勿論、これは紛れもなく人類史上初めてのことなのではないでしょうか、事の善悪とは別に事実として。

けれども。

その動画、映画でもフィクションでもない現実の大災害の動画を見るに耐えられる精神がこの2011年までに私たちに備わっているか、というとまた別の話だと思います。地震後、眠れない夜に幾つも幾つも動画を見ました。余りの壮絶さに「もうこれ以上見られない」と思っても、何かに憑かれたかのように見てしまうのです。起こった災害の真実を知る、ということは必要です。
しかし問題は。
映像の中の時間ではその数分以内に実際に沢山の人命が失われてしまうことがわかっているのに、見てしまう、自分自身はディスプレイのこちら側というこの上ない安全な場所で。これって異常な神経ではないでしょうか。ハリウッド映画ではないのです、例えば「デイ・アフター・トゥモロー*1のような。この映画にも巨大ハリケーンで引き起こされた津波が街を飲み込むシーンがありますが、これは「映画」でありCGであり作り物です。けれども、自分が今見ている動画は「現実」であり、この数分後に本当に人々が死んでいくことがわかっているのに見てしまうことは、何かに対する冒涜のような気がするのです、気がするのに魅入られたように見てしまう私。
こういうことに対して人間はどう考えたらよいのか、どのような倫理観を持てばよいのか、ということについて準備ができていないうちに、携帯カメラやデジカメやweb上での投稿サイトが発達してしまったとような気がしてなりません、主に私自身のことですが。

「事実であり、記録なのだから、見るべきであり、何ら倫理的に問題ない。」

と考えるべきなのか(以前の私だとこれに近い考え)、

「同じ日本人が予期せぬ災害で命を失っていく映像を、安全な場所で鑑賞するかのように幾つも幾つも見るのは、いくら何でも無神経というか人倫に悖る。」

と考えるべきなのでしょうか。

テレビゲームの中で人を倒したり、ライフルで撃ち殺したり、はたまた女の子を「モノ」としてしか扱わなかったり、ということに対しては、今までの私の考え方はギリギリ、

「人間の想像力は、どんな地点へも行けて、そしてちゃんと現実に帰って来られるし、想像力こそが芸術を生み出すものだから表現を制限すべきではない。」(一応フランス語やってましたからサドもマンディアルグも読んでますからね、二次元でさえない「文学表現」であのスゴさ!)

というものでしたが、今回の津波が町を襲う映像は、想像力や芸術なんかではなく、「現実」なので、どう考えたらよいのか、私自身の倫理観がメルトダウン(←わざと使ってみましたが不謹慎な隠喩です)してしまいました。
けれども落ち着いて冷静にもう一度考え直してみると、携帯カメラやデジカメを手に入れた私たちはもっとタフになって、見るべきもの、記憶しておくべきものは、恐れずに見るべきなのかもしれないと思います。ただ、大人はともかく、子どもたちには、心の整理というか倫理観との折り合い、ということに関して、学校教育の中で扱ってもいいほどのケアというかプログラムが必要だと思いますね。未熟な精神で、CGも実際の映像も、「無感動」というプロテクターで心を覆って見てしまうようになると最悪です。

話が微妙にずれるのですが(いつものこと)、ドイツに赴任した2004年の暮れにスマトラ沖大地震が起きました。冬が長い北ヨーロッパでは太陽を求める人々はクリスマス休暇に、近場(?)では、スペインのイビザやマジョルカ、地中海のど真ん中マルタ、そしてアフリカのモルディブやアジアのバリやプーケットなどの南国に出かける人が意外に多く、スウェーデン人やフィンランド人、ノルウェー人に混じってドイツ人も多くの観光客が地震津波で命を落としたので、ドイツでも連日テレビでこの地震のニュースを報道していましたし、ドイツ出身のF1レーサー、ミヒャエル・シューマッハは1000万ドルをこの地震の被災者の為に寄付をしていましたが、それはドイツ人の犠牲者が多かったせいもあると思います(Wikipediaによると、ドイツ人死者60人行方不明者970人)。しかし、私が何よりびっくりしたのは、ドイツのテレビでは、津波で亡くなった犠牲者の遺体の写真や映像を普通に流していることでした。ドイツのテレビ局だけでなく、CNNとかBCCWorld、TV5Mondeも同様でした。記憶しているのは、一目見ただけではそれが人間の「遺体」だとはわからないような不自然に硬直した木製の人形のようなものが道路脇に積み上げられているような映像ですが、そういった体のものが普通に流れていました。その後起こったハリケーンカトリーナの時も同様だったと思います。勿論殊更遺体を映しているのではなく、例えば自宅の屋根の上で救助を待っている人を映している映像の中に何やら浮かんで流れているものが映っていてよく見てみるともしかしてあれは人間の遺体?というものが何本もあり、つまりは「編集」していない映像だと思われます。
しかし翻って今回の東日本大震災を映した映像で、少なくとも日本国内のテレビ局で流したものの中にそういった遺体の映像はなかったと思います。ということは、日本ではテレビ放送するにあたって「編集」が行われているのでしょうか?「お茶の間」に流す映像としては相応しくない、という理由で?これはこれで問題だと思うのです。余りに私たち、同じ日本人同士が未曾有の災害に遭っているのに、その事実を「編集」されたものしか見せて貰えないとは、私たちはマスコミによってspoilされてはいませんか?外国人は編集されていない現実そのままの映像を見ているのに、日本人の私たちはそういう映像から事前の了承もなく故意に遠ざけられているのです。私たちは現実の映像や写真に「耐えられない」人間なのでしょうか?
今回も海外メディアでは、スマトラ沖地震やハリケーンカトリーナイラク戦争の報道と同様に、遺体も映っている映像や写真が出ているようです。今、まだ小さくて今回の地震津波のことが理解できていない、被災地以外に住んでいる子どもたちが理解できる年齢になったら、是非ともどれだけこの災害が悲惨なものだったかわかってもらうために、「編集」していない映像や写真を見せるべきだと思います、避難所でお互いに助け合っている被災者の人々や、極限の状態でも秩序を保ち思いやって過ごしている様子などの、美しい話だけではなしに。
私などの想像力を超えている事実が実際今回の災害でも沢山あるようです。印象に残っている新聞記事(多分朝日新聞)で以下のようなものがありました。

津波の被害に遭った町に救助に入ったら、ありえない高さのところに何か白いものがひっかかっている。それは遺体だった。波で服も剥ぎ取られ流されたらしい。クレーンもない状態では下ろすことも出来ず、救助隊員たちはその下で黙祷するのみだった。

これなどは、映像や写真などなくてもその事実だけで、この地震津波の凄さと痛ましさを生々しく受け止め、これを必ずや無駄にしてはいけない、という気持ちになるものなのですが、国土全体がどこもかしこも「いつ大地震が起こってもおかしくない」日本に住んでいる子どもたちにも、是非知っておいてもらいたいことです。

被災地の人々があれだけの災害に遭いつつ余りに健気に生活している映像や記事を毎日のように見て、涙が出るほど感動すると同時に、
「これだけでは何か抜け落ちている」
「マスメディアを中心として、何か日本全体が共犯関係のように『そこ』だけを巧みに避けている」
ことがあるような気がしてならない、携帯カメラとYoutubeの時代に生きている私です。

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