「鳥飼玖美子さんの意見に寸分たがわず同意」に寸分たがわず同意!そして個人的意見を少々。

朝日新聞のオピニオンに一面を使って、鳥飼玖美子氏「これからの英語」に関する意見が載っていました(10月20日付)。
what_a_dude様が、全文引用して下さっています。

朝日新聞のオピニオンに載っていた鳥飼玖美子さんの意見に寸分違わず同意ーwhat_a_dudeの日記

鳥飼玖美子氏のことを知らない世代もあると思うので申し添えますと*1と。
彼女は帰国子女ではなく、英語が好きで国内で一生懸命勉強して、当時都道府県毎に選抜があったAFS(American Field Serviceという留学制度)では最難関の東京都の選抜試験に合格して高校生の時1年間アメリカに留学。まだ日本人にとってアメリカとアメリカ文化が憧れだった時代です。その後上智大学イスパニア語(スペイン語のこと)学科に入学。ということは、スペイン語もペラペラだと思いますけど。そして大学在学中から同時通訳として活躍し、テレビにも数多く出演していらした方です。私は「アポロの月面着陸時の同時通訳」は全く憶えていないのですが、テレビで才媛ぶりを発揮していらした記憶は残っています。
という経歴の彼女ですから、当時の彼女を知っている人ならば、あの英語ペラペラの彼女ならさぞかし「できるだけ小さい頃から英語を学ばせましょう!小学校でもどんどん英語を教えましょう!」「キレイな発音で、正確な英語を喋りましょう!」と主張すると予想されるところが、(どっこい)彼女は正反対のことをこの数年熱心に説いているのです。そして私も勿論、彼女の賛同者の末端に連なりたいと思っているのですが。

「オピニオン」に載っていた彼女の主張を是非、
「英語を学んでいる真っ最中の若者」

「これから子供に英語を学ばそうとしている親御さん」
に知ってほしい!と思い立ったものの、「全文引用」というところまで思いが至りませんでした。
what_a_dude様には感謝です。
半年程前にも、やはり朝日新聞のこれは夕刊でしたが、鳥飼氏の「小学校からの英語教育に反対する」旨のご意見が出ていましたね。その時は、以下のエントリーにまとめましたのでご覧いただけると幸いです。
「小学校からの英語教育は百害あって一利なし」朝日新聞夕刊より


さて、私見ですが。
英語が堪能という方々には、「英語」という言語に対する見方、及び「英語教育」に関して二種類のタイプがあると思うのです。

タイプ1
英語が堪能になるまでご本人が重ねた苦労からくる怨念なのか、その裏返しの優越感なのか、英語(大抵は『米語』であることが多いのですが)を過度に偏重し、日本語(教育)を過度に軽視する。例えば、「『国語」なんて学校では漢字の読み書きを教えておけばいい。後は本を沢山読ませればよい。そして他の教科は全部英語で授業をするべきである。」とか。また、「英文法なんて要らない」「発音(大抵は『米語』準拠の発音を指しているのですが)が何より大事である」という主張。

タイプ2
英語が堪能であると同時に、英語を客観的に見ている方々。鳥飼久美子氏も勿論その筆頭なのですが、英語が今や「アメリカ人が話す言語」ではなく、嘗てのエスペランサ語が成り得なかった「世界共通語」(但し、デフフォルトで)になっているということを、ちゃんと認識している方々。

元商社マンで英語圏で活躍された方、とか、最近ではアメリカでMBAを取ってきた方に多い主張が、「タイプ1」なのですね、不思議なことに。
鳥飼久美子氏は言うまでもなく、「タイプ2」であり、この記事の中で、「英語に対するパラダイムシフト(考え方の大転換)が必要」とおっしゃっていて、それには本当にwhat_a_dude様と同様、「寸分たがわず同意」(←いいですね、この表現!)なのですが、個人的に「パラダイムシフト」をした経験を書いてみます。


市井の一市民である私は英語はサバイバル&いわゆる日常会話しかできませんが、今思い出してみると、2004-2007の滞独中に、インターナショナルスクールの父兄同士として、またドイツで通った様々な語学学校で共に机を並べた人たち、それは
韓国人、ドイツ人、フランス人、イタリア人、フィンランド人、イスラエル人、インド人、ロシア人、トルコ人、ん〜他にもいたかもしれませんが、非英語圏の人々と、他に共通言語がないので仕方なく英語でコミュニケーションをとった時に、まさに目から鱗」ならぬ「耳から鱗」だったのですが、非英語圏出身で英語を喋る人たちって、タイプ1の方々が目指していらっしゃるような、アメリカ風の発音なんかじゃ決してないことを経験して驚いたものです。寧ろ、非英語圏の人たちが話す英語は、私にとっては、アメリカ人が喋る英語よりも数段聞き取りやすかったです。その理由は、非英語圏の人たちは、アメリカ人特有の[ æ ](「ア」の口で「エ」を発音というヤツ cat とか、apple とか)をアメリカ人ほどは強調しないので、ローマ字耳(というか、カタカナ耳)の日本人にも聞き取りやすいのと、使う語彙や文型が極めて限定されているからです。表現も単純化されています。前に書いたことがあるのですが(アイスランド火山噴火と東京カワイイTVと英語)、アイスランドの火山噴火の影響で成田空港に足止めされたヨーロッパ便の乗客(多分非英語圏の住人だと思われる)が、空港からサンドイッチだったかを支給されて感想を求められて答えているのが、「I'm happy ! 」ですよ。これに付いている日本語の字幕(by NHK)が、「(食料が支給されて) 嬉しいし有り難いと思っている。」ですよ、嘘ですって!彼らはそんなこと言ってないです!彼らが英語を上手に喋っているようにもし聞こえる/見えるとすれば、それは母国語で表現すれば複雑なニュアンスとなるものを、数少ない自分が知っている英語の表現に落とし込むのが上手いから、なのだと、東洋の非英語圏住民である私は思いました。英語に変な思い入れが無いのです、ヨーロッパの非英語圏の人々。
アメリカ人みたいに格好よく英語を喋りたい」(アメリカ人が実際に「格好いい」かどうかは別問題にして)、
とか、
「ハリウッド映画を字幕なしで見たい」(それに何の意味があるのかと私なぞは思いますが)
とか。そのような無意味な力こぶがないのです。ドイツでも、テレビで放送されている外国映画は全て「ドイツ語吹き替え」ですよ。可笑しくて笑ってしまうのは、第二次世界大戦もの、例えば「大脱走」では、ドイツの収容所から脱走を企てるアメリカ人のスティーブ・マックィーンも収容所の看守と同じく流暢なドイツ語喋ってますし(実際、戦争中は何語でコミュニケーションとっていたのでしょうか?)、「トラ!トラ!トラ!」では、山村聰演じる山本五十六連合艦隊司令長官も、アメリカ側の太平洋艦隊司令長官も、ドイツ語バリバリ喋っていると、違和感通り越してcomic(ドイツ語だとkomisch)ですけどね。でも、映画の鑑賞をするのに、それのどこがいけないのでしょうか?そういうことだと思います。英語は「道具」であり「手段」。こういう考え方で、今や「世界共通語」になってしまった英語に対して、日本以外の非英語圏の国々の人々は接しているのではないでしょうか?そこには、アメリカ文化やイギリス文化に対する変な思い入れはないようです、日本みたいな。
この状況ーーーその言語が母国語として話されている国に対する思い入れからではなく、道具として便利だから学ばれている言語ーーーというのは、英語にとって必ずしも幸せな状況ではないのかもしれませんが。
というのは。
例えば、「英語に変な思い入れがある国である日本」に育った私は、シェークスピアというと、イギリスの押しも押されれぬ超絶有名な劇作家であると刷り込まれていて(実際そうなのでしょうが)、作品だって、昔「少年少女世界の名作」の中の一巻が充てられていた「シェークスピア」の中で、ラム姉弟が小説化したもののそれまたダイジェスト版ではありますけれど、
リア王」「マクベス」「オセロ」「ロミオとジュリエット」「ベニスの商人」「じゃじゃ馬馴らし」「真夏の夜の夢」「テンペスト」「ハムレット」・・・・・(この辺が私の教養の限界ですが)。
くらいは読んでタイトルとあらすじくらいは知っているのですが、例えば、ドイツ人とかフランス人で、勿論大学を出ていて教養のある人が、この大劇作家に関して、「シェークスピア」という名前とせいぜい「ロミオとジュリエット」くらいしか知らなかったりするのです、それも「映画で見ただけ」とか(オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングのヤツ*2でしょう)。つまりヨーロッパ大陸では、「英文学」の比重が、日本におけるそれとは比べ物にならないくらい低いという印象でした(日本の大学だとどこの文学部でも「英文学科」ってあるでしょう?それも断然メインぽく)。アメリカの小説になるともっと酷いです。私なんて、日本の高度成長期=アメリカ大好き時代、に育ったもので、「少女探偵ナンシー・ドルー」「(同じく)少女探偵ジュディ」「ヘンリーくんとアバラー」の児童向け小説に始まって、アメリカ文学の有名どころ、例えば「アンクル・トムの小屋」、「若草物語」、「トム・ソーヤ−の冒険」を経て、ハヤカワミステリでアメリカ人作家の探偵小説を読み漁ったものですけど、非英語圏の人々とはこの経験を共有できないのです、彼らはほぼ自国の児童文学のみで育っているようで、少なくとも日本のようにはアメリカ文学の影響をこんなにも大きく受けていないみたいで、そうだとすると知らず知らずのうちに深くアメリカ文学が食い込んでいる日本の状況とは???という疑問を抱いたことでありましたが。こういうギャップ、つまり、私たち日本人は英語の背景にアメリカ人やイギリスの文化を意識しつつ英語を学んできたのに対して、英語(米語)の背景にある文化や文学に対する興味や憧れなしの英語学習をしてきたヨーロッパ大陸やアジアの非英語圏の人々の意識との落差が、逆に「英語を喋る力」の差になっているような気がしないでもないのです。世界共通語となった英語を操る、ヨーロッパ大陸の人々やアフリカ、アジアの人々は、逆にアメリカやイギリスの文化に思い入れがないから」、英文法的には、また英語の語法的には少々違っていても、とにかく「屈託なく」英語を喋ることができる、のではないでしょうか?土台、ネイティブのように喋るなんて、そもそも無理なのですから、自分が喋りやすいように喋れば、却って意を通じさせることができるのかもしれません。
実は日本にもそれと同じノリで英語を喋っている方々が嘗ては存在しました。高度成長期に、いきなりアメリカに駐在させられ、ゼロからビジネスを開拓した日本人サラリーマンの方々です。彼らは、旧制高校で英語を学び(「敵性語」であったはずですけどね)、「文法」と「語彙」と「訳読」のエリート教育を受けた人たちですが、その英語力でアメリカ社会の中でビジネスを成功させた訳です。ちなみに実父は、旧制高校最後の卒業生なのですが、所謂「理乙」(ドイツ語が第一外国語)ですが、「単語に関しては旧制高校時代、英語は一万語、ドイツ語は5000語暗記した」と申しております。私たちがドイツ滞在中、ドイツに遊びに来た旧制高校卒業生の父ですが、私の娘(当時中一)が「あの看板のHoechstgeschwindigkeitって何?」と質問したのに対して、「最高速度!」と誰よりも早く即答して面目躍如、侮れません、旧制高校の教育。今、難関大学とされている大学の入試でさえ、必要な英単語数はMax.5000語とされているくらいですから。また、大昔、まだ私が中学生の頃父に英語の和訳を質問したことがあったのですが、複雑な文型を見抜く力は流石で外れたことはありませんでしたが、父の関係代名詞の訳し方はいつでも決まり文句のように「◯◯であるところの△△」でしたからね!そんな父は、会社人生の中でメーカーの社員として、駐在こそはなかったけれども、数知れない程の海外出張、それも殆どがアメリカ。そこで最初は(1$=360円時代←今の4分の1以下ですよ、円の価値!)ホテルではなく、モーテルを泊まり歩きながら、ビジネスを開拓するべく「英語」を使っていたわけです、何せ旧制高校仕込みの文法はばっちり、単語は畏れ多くも10000語頭に入っていますからね。その旧制高校仕込みの英語力で、幾つビジネスをまとめたのか、それは知りません。でも、他の日本企業もそうだったと思いますが、彼らが先兵となってアメリカの中でビジネスを開拓したことは事実です。そして私は一度だけ、父がアメリカの合弁会社の記念式典ででスピーチをしている映像を見たことがあるのですが(割と近年)、それはそれはもう解りやすすぎるジャパニーズな発音でありました。でもそれで良かった、それが良かった、のではないでしょうか、ビジネスをするための英語は!旧制高校年代の方々は、逆に変な「英米コンプレックス」がなかったようですから。つまり、旧制高校が語学教育を行っていた当時のパラダイムに戻すことなのかもしれませんね、鳥飼久美子氏がおっしゃっている「パラダイムシフト」とは。

だから、私は「文法」も「語彙」も「訳読」も大事だと心から思います。日本にいながらにして英語上達のためにできることの中で、一番効率がよいのは、この「文法」「語彙」「訳読」を学習することだと経験から信じていますから。「文法」を知らないと、実際に喋る時に、どんな簡単なものであっても、先ずテンプレートが出てこない訳ですし、「語彙」なくしては始まりませんし、耳で聞き取れない不便よりも英語で書かれた文章が正確に読めないことの不便の方がずっと大きいですから。


英語が世界共通語になったのは、決して言語として優れていたからではなく、メディアや交通が発達した時代にたまたま覇権を握っていた国の言語であったことに依るのは自明だと思われますが、一言語としての「英語/米語」にとって、それは幸せなことではないのではないかと思います。世界共通語になってしまった言語の宿命であるとはいえ、言語の背景にある文化に関心を持たれることのない言語にならざるをえず、そして母語としている人々の思いとは関係のないところで発達していく言語、となってしまった「英語/米語」(これをGlobish wikipedia:グロービッシュと言うらしいですが)とは、少々悲しいかもしれないと、私などは思います。そして、よく「アメリカ人が羨ましい、世界のどこに行っても母国語の英語だけで押し通せるから」と言われていますが、果たして本当に幸せなのでしょうか。なまじ「英語/米語」が母国語であったばっかりに、外国語学習のモチベーションが低いまま大人になり、、一カ国語でしか世界を見ることができないのは、決して幸せとは言えないと思います。これからは、EUの住民ではありませんが、「英語でない母国語」と「Globishである英語」と更に「もう一カ国語」が喋れる人が多くなってくるのではないでしょうか?世界でも最も難解な言語である日本語を母国語に持つ日本人は理想的なのではないでしょうか、「英語」に対する見方を「パラダイムシフト」しさえすれば。こんなにも豊かな日本語と、Globishという新しい英語、そしてもう一つアジアの言語でもラテン系の言語でも好きな言語を学べば、無敵です。世界の見方が変わってくると思います。一生単一の言語しか喋らないし学ばない人々と、2~3カ国語喋る人とでは、そう遠くない将来、脳の機能さえもが変わってきたりしないのでしょうか?私たちは、それを目指すべきであり、変に思い入れを込めたり過剰に肩に力が入る英語教育ではなく、今こそ時代に合った英語教育を考えるべきなのですね。それは同時に、「英語支配」「英語一辺倒」でなく、他の言語を学ぶことも視野に入れてほしいものです。英語が高校時代に既に堪能でありながら、大学ではスペイン語を専攻した鳥飼久美子氏、彼女のような存在が珍しくなくなるような時代が日本にも来てほしいものです。



※外国語教育についての、拙ブログ「英語はそんなにスゴい言語か? ①〜⑤」を読んでくださると有り難いです。
    

*1:参照http://女性.biz/career3.html

*2: