英語教育において「ネイティブ並みのきれいな発音」は意味があるのか?

英語上達の秘訣は発音練習にあるーRailsで行こう!
日本の中高の英語教育がマイナスにしかならない件について-My Life in MIT Sloan
じゃあ中高の英語教育をどう変えるべきか考えてみる-My Life in MIT Sloan


学校での英語教育のゴールをどこに置いているのかが私には全くわからない、上記のブログである。


日本の中高の英語教育は、色々と問題もあるでしょうが、
殆どが外国にも行ったことがなくガイジンと話したこともないような教師、
一学級最大45名の規模、
学校以外に英語環境がない、
というこの三重苦の貧しいカードだけで長年英語教育を行ってきた割には、日本の英語教育は最低の環境でなかなかの成果をあげている、と私は思う。何も悲観することはない。私は日本の公教育、しかもこの先お国の借金も膨大なようで、英語教育などにはあまり国家予算が回らないと思われる状況だとするならば、まあ今までのやり方を概ね踏襲するのが、思いつきでいじるよりは最善の策ではないかと考える。
但し、私の最大の疑問は、
「何故、日本全体で揃って英語を第一外国語として学ばなければならないのか?」
ということなのだけれど*1
この壮大な(?)疑問はひとまずおいておいて。
先ず「きれいな発音」で英語を喋ることがそんなに重要かどうか、と私は思うのである。
日本の中高の英語教育がマイナスにしかならない件について-My Life in MIT Sloan」さんことLilacさんと、
英語上達の秘訣は発音練習にある-Railsで行こう!」の酒井さん、
このお二人には共通点が二つある。
一つは片や東大出身、片やMITのSloan在学中、という、「英文法、ボキャブラリーに関しては英検1級(推定)レベル」の方々だ、ということ。そのレベルの方になると、「ネイティブの英語に近づく為には後は発音だけ」というレベル。TOEFLだと、ReadingもWritingもListeningも30点満点中28点以上だから後はSpeakingで点をかせがないとTOEFL110点レベルまでには達しない」という極めてハイレベルの方々だとお見受けする。だからこそ、殊更、日本の英語教育における「発音」の部分に目がいくのではないかと思われる。大体、日本の公立中学で、卒業時つまり義務教育終了時どころか、英語を習い始めて僅か一学期、中一の夏休みには既に落ちこぼれがたくさんうまれている、という日本の英語教育の現状で、文法がまるでわかっていない、英文が組み立てられない、ボキャブラリーがない生徒に「きれいな発音」を求めること自体無理だと思うし、国民全体が受ける公的教育の中で「英語をきれいに発音する」という学習システムなど、不可能であり不必要だと思う。
日本人は英語が下手であるという問題は「きれいな発音」以前にある、
ということだ。
そもそも発音は、英語学習において「最後に登りたければ登ればいい山(オプション)」というか、英語の読み書き聞き取り、そして喋りも一通りできる人が、最後の段階において「ネイティブ並みの英語が喋りたい!」というモチベーションがあってこその発音学習であって、サバイバルできるだけの英語を組み立てる能力すら怪しい人間には、「きれいな発音」など意味はない。



もう一つの共通点は、お二人(Lilacさんと酒井さん)とも、片や最初アメリカに渡りその後カナダの大学に通い、片や言わずとしれたMIT。北米での英語体験に基づいている、ということ。
「きれいな発音」というのは、アメリカ人のような発音のことを指すのだろうか(アメリカといっても広いし、例えばテキサス風の発音だとアメリカ人の中でも揶揄の対象なのでは?)。そうだとしたら、「最初に住んだ国がアメリカ」の人にありがちな考えだと思う。
インド人の英語を聞いたことがあるだろうか?例えば、世界の鉄鋼王ミッタール氏*2がインタビューで喋っている英語は、いわゆる「きれいな英語の発音」では全然ない。彼はごく貧しいインドの小さな町の生まれで一代で叩き上げた人物で、だから勿論、少年時代からイギリスのパブリックスクールで学びオックスブリッジで大学教育を受ける、インドの上流階級ではないのだから、オックスブリッジ発音でもないし、また彼は別に、アメリカ風の「きれいな発音」に矯正しようとは微塵も思わないだろう。けれども彼は、英語を使ってビジネスをしているのだ、それも尋常ではない規模の。
英語が母国語ではない他の有名人が喋っている英語はどうだろうか?ドイツ人だとレーサーのシューマッハとか、サッカーのベッケンバウアーとか、私は別に発音の大家ではないがだからこそド素人の私が聞いても、「アメリカ英語」を範とするならば、「きれいな発音」とは言い難い。でも、彼らは立派に英語を喋っている。それ以上でもそれ以下でもない。またフランス人だと、カトリーヌ・ドヌーブが英語でインタビューを受けているのを聞いたことがあるが、流暢だけれども、彼女もまたアメリカ風「きれいな発音」ではないかもしれない。それでも、通訳を通さずに英語で自身のことを語っていることが重要であって、アメリカ人並みの発音で答えることは全く意味がない。
大体、英語という言語自体が「訛り」が出やすい言語なのではないかと思う。
英語上達の秘訣は発音練習にあるーRailsで行こう!」の酒井さんが、英語の発音矯正について書かれている部分で、「ネイティブスピーカー」という言葉が何度も出てくるけれども、きっとここでは、「北米人」を(無意識に)念頭においているのではないか、「最初に行った国がアメリカ」の人だから。
けれども、では、
「英語ネイティブ」って何?
ということになる。アメリカ人だけでなく、カナダ人、イギリス人、オーストラリア人、ニュージーランド人、等々、その発音は千差万別で、例えば、英語ネイティブスピーカーのオーストラリア人が喋る英語は、私には全く聞き取れない。同じく、イギリス人ベッカムの英語も字幕があってもわからない。脱線するが、日本では数年前「ベッカム王子」ともの凄い人気であった彼だが、彼の英語は下層階級の英語の最たるもの(いわゆるコックニー訛り」)で、しかもあの声でインタビューに応えるところが、逆に「サッカーの腕(足?)一本でセレブに登りつめた」ということで本国では人気があったのだというけれども、英語音痴の極東の国では、ベッカム王子」というイメージでCMにひっぱりだこだったのだから勘違いもいいとこ!
だから、私は日本の英会話学校の宣伝で、
「教師は全てネイティブスピーカー」
という文句を見ると笑ってしまう。間違っても、コックニー訛りやオーストラリア訛りをわざわざお金払って習いたくはないから。
もし英語圏で、「きれいな発音」で以て最も幅を利かすしたら、アメリカ風「きれいな発音」よりも、「クィーンズイングリッシュ」の方がまだ有効ではないかと思う。昨年NHKでドラマ化されてメジャーに有名になった白州次郎は、殊更イギリス仕込みの英語アクセントで占領軍のアメリカ人と渡り合ったらしい。アメリカ人をやり込めるのにイギリス風アクセントが有効ならば、逆に日本人はイギリス風アクセントを身につけるべきではないのか?それならば、お金を払って習う価値があるかもしれないけれど。

そして、アメリカ風であれイギリス風であれ、
「きれいな発音」と、英語が「流暢に使える」こととは別物である、
ということははっきりしておいた方がいいと思う。

ドイツにいる時に、英語放送はCNNよりも聞きやすさで主にBBC Worldを聞いて(というのはおこがましい、「流して」が本当のところ)いたのだが、ごくたまに、日本人外務官僚で日本では有名な方がインタビュー番組に出演されたり、英語でコメントをしているのを聞いて、びっくりしたことがある。それは、司会者と丁々発止と英語で討論している日本人の外務官僚即ち外交官、の方々も決して英語の発音がネイティブ並みではない、ということ!それもド素人の私が聞いても、頭を抱えてしまうくらい、「ベタなジャパニーズイングリッシュの発音」なのである。正直驚いた。日本にいると、「日本人が長時間英語を喋っている」、という場面には逆に出くわさないものである。しかし、偶然BBC WORLDで見た日本人外交官の方々の決して「ネイティブ並み」ではない発音の英語が天下のBBCで十分通用していた!彼らは、数十分の番組の中で、日本人として恥ずかしくないどころか積極的に英語で議論し、意見を述べ、時には頑張ってジョークも飛ばしていた。それで十分ではないか?と私は感じた。考えてみれば、外交官とて、一部の例外的人々(親も外交官で海外で育った、とか)を除いて、「日本の中高」で英語教育を受け、刻苦勉励して東大/京大に入学して更に外交官試験を受ける、という課程をたどったのであろうから、ネイティブ並みの発音を学ぶ機会はなくて当然なのだ。しかし英語で仕事ができれば、それで十分なのでは?発音がネイティブ並みじゃなくても、優れた外交資質を持ちレベルの高い英語でコミュニケーションをとれればいいのであって、それ以上(ハリウッド俳優みたいに喋る、とか)じゃなくても全然構わないわけで。納税者としては、「英語の発音矯正する時間があったら、外交政策を磨いてほしい」と思って当然ではないだろうか。

想像するに、明治以降、日本の外交やら貿易やらを担って、フロンティアで頑張ってきた日本人たちも皆が皆、アメリカ人並みの「きれいな発音」じゃなかったと思う。大体、元々日本人は破裂音やら巻き舌は苦手にきまっている。発音は全然「きれい」じゃなくても、立派に交渉し、商売してきたのだから。諭吉先生も漱石先生も、政治家も軍人も英語を使って立派に仕事をしてたけれど、発音はきっと「きれい」ではなかっただろうし、彼らもまた、アメリカ風の「きれいな発音」で喋ろうなどとは考えもしなかっただろう。

ということで、日本人にとっては、はたまた日本の英語教育においては、「きれいな発音」は意味のないこと、百歩譲っても優先順位はかなり低いのである。
意味があるとしたら、英語の文法やボキャブラリーを極めた人がオプションで、「自分が喋りたい種類の発音」として、アメリカ風であろうが、イギリス風であろうが、高いモチベーションで学べばよいのではないだろうか?



ここのところ、英語教育についての議論が喧しいのだけれど、それはこの問題が単に「英語」という一つの言語の学習法、というだけではなく、実は大げさに言うと、入試制度、日本人の世界観、国家戦略、まで含んでいるからではないかと思う。
談論活発なのはとても良いことだと思う。しかし一方で、日本という国は国債の発行残高だけでも68兆円、この借金まみれの中で、政治家が大して票にもならない「外国語教育」にお金を振り向けるとは思えないのであるから、実現可能な提言であってほしいものだと思う。
でもはたまた真逆のことを言えば、「何故改革しなくてはならないのか」を国民に説明し納得させることができる勇気ある政治家の助けがあれば、この際、国家百年の大計をたてて一挙にドラスティックな外国語教育改革!を期待したりもするのであるが。