*中学受験と子供の幸せ

アゴラに書いている松本徹三氏の中学受験にかんする記事(教育の改革は火急の問題 – 松本徹三 – アゴラ)に、藤澤数希氏が激しく反論しているhttp://trackback.blogsys.jp/livedoor/kazu_fujisawa/51654318

松本氏はお気の毒に、昨今の中学受験の実態を全くご存知ない、というか、ご存知ないのに中学受験というこの微妙な問題について意見を書いてしまう、というのもこれまたお気の毒である。中学受験に関する彼の知識は、日伊のカップルである知人のご夫婦と変わらない。せめてもう少し常識的な知識でもあれば、正しく有益なアドバイスをすることもできただろうに。その件の少年のようなバックグラウンドを持つ子は、どこか彼に合った私立中学に行くべきであり、「○○中学で教育を受けさせたい」というその最終目標がはっきりしてれば何をしなくてはならないかは明らか。サッカーボールを置いて塾通い、だったのである。サッカーボールを持ったままでも入れる偏差値の学校も沢山あるから*1そこに行く、という選択もあるけれども。「中学受験のための塾通い=難関中学のトリッキーな入試問題用の無用の知識をいやいやをつめこまれるところ」「東大の学生=非コミュ(という言葉も松本氏はご存知ないでしょうが)」という、今どき珍しいステレオタイプな図式で理解されているとしたら驚きを通り越して、これまたお気の毒である。「非コミュ」は松本氏の方で、運転免許の学科試験のくだりでは、「同じ教習所に通う他の学生、じゃなくても友人からその種の情報(学科試験には「引っ掛け問題が出る」ということ)を教えてもらわなかったのか?」とびっくりして、(再々で恐縮だが)お気の毒になった。

私には三人の子供達がいますが、私は彼等に財産を残すつもりはありません。しかし、ちゃんとした高等教育だけは受けさすことが出来ました。

とのことなので、これはさぞや奥様が時代に即した教育を一手に引き受けてこられたのだと推察した。


それに対する藤澤氏の突っ込みは至極当然なものであろう。けれども、とても不思議なのは、藤澤氏は中学受験は肯定しても東大生と東大の教育は否定しているのだ。これは論理矛盾で、開成だの麻布だの桜蔭だのを目指す子供は、その先の「東大」(もしくは医学部)を目指して、中高一貫の難関中を目指しているのである。だからこそ、昔は「御三家」だった武蔵中学が、東大合格者数が減ったため、偏差値で駒場東邦に抜かれ、中堅校の偏差値は前年の東大合格者数で上下する。中学受験の後、各塾で開かれる「合格祝賀会」で中学受験を終えた子供たちに寄せ書きを書かせると、鼻白むことに、中学受験が終わったばかりの彼らが「目指せ、東大合格!」とか書くのであるから、中学入試と東大はリンクしていると思っていい。だから、どうも藤澤氏の意見は腑に落ちない。思うに、藤澤氏は、中学受験塾で講師としてバイトをしたことはあっても、ご自身は実際には難関私立中高一貫校出身ではないのだろう。また、個人的に「東大」に怨念を抱いているのでないのならば、かなり前に「ドラゴン桜」などで「東大受験」ブームがあったのにも拘らず、全く東大入試を分かっていない、とはどういうことなんだろうか、と訝ってしまう。

たとえばSAPIX日能研四谷大塚の最上位クラスの子供たちに3ヶ月ぐらい大学受験の勉強を教えてやれば、ほとんどの子供たちが早稲田や慶応の簡単な学部ぐらい何の苦労もなく合格するだろう。
3ヶ月で十分だ。
現代文や日本史のように中学受験とあまり変わらない科目なら、そのままセンター試験を受けても偏差値60ぐらいはいくだろう。
このクラスの子供たちになると方程式などはすらすら解けるので、数学も一ヶ月も準備期間があれば十分だ。

こんな認識では、それこそ中高一貫の「エリート校」の生徒から笑われてしまう。この藤澤氏の言が事実ならば、鉄緑会もSEGもニルの学校*2も全く存在意義がなくなる。藤澤氏は小学校6年生時点での秀才&天才たちを何故かものすごく高く評価しているようだが、その後(中学入学後)の秀才&天才たちについては全く知らない訳で。
難関中学合格、で人生が終わるわけではないんですよ、それどころかそこからが「終わりなき始まり」なのです、実際は。

しかも、藤澤氏も嘗てそうであったであろうが、中学高校とは、一生で二度とこない「青春」の時期なのである。勉強は勿論最優先で大事なことであるけれども、その青春の時期をどういう環境でどう過ごすか、が子供の幸せを左右するのではないだろうか?中学受験塾は結局はお商売、であり、受験が終わったその先の子供たちの幸せについては全く考えていない、と私は感じる。


難関中合格者の中には「中学受験の時が、同年代の子供の中で相対的学力がピーク」という子もかなりいる。2/6 のエントリーでも書いたが、「12歳の時点で他の子に比べて身体的にも精神的にも成長が早い子」というのがそれ、である。そういうタイプの子は、たまたま「成長が早い」というアドバンテージを中学受験時に持っていたから難関校に合格しただけであって、決して地頭がいいわけでもなく、東大入試に合格していくような知性を持っているわけでもないから、大学受験では「えっ???」というような大学にしか合格しない。そういう子たちにとって、つまり言い換えれば、開成中に合格した瞬間が人生において最高の瞬間で、その後は自信を失うばかりの中高時代、というのは幸せだろうか?学校にとっては授業料を払って下支えしてくれているわけだけど。
大体、藤澤氏が言うように、難関中に合格する子が、とびっきりのエリート集団だとすると、開成中に合格した300名全員が揃って現役で東大に合格してもいいはずである、藤澤氏が指摘しているように、東大入試の合格者数は3500名なのだから。しかし実際は、高校募集の100名を加えて卒業生400名の中、医学部に抜けて行く生徒がいることを勘案しても現役で「たった」84名(2009年度)*3しか合格していない、というのはどう説明するのか?中学受験時にあれだけの高偏差値の子を集めておいて、更に高校で補充して、この数字である。
開成中に限らず、私立の中高一貫進学校は頭が痛いことだろう。日本の中学入試は清々しいまでに実力主義当日の試験が全て、である。その難関校の試験で高得点を上げる子供達の中から、①本当に地頭がよくて数学オリンピックでも何でも出られそうな子、と、②単に「他の子供よりもたまたま成長が早くて入試でいい成績がとれている子」の区別が、ペーパーの入試だけではつかないだろうから。学校の本音は②の子供は要らなくて、①の子供ができるだけ沢山欲しいのだろう。


大体、開成中や筑駒、麻布などの上位30人くらいは、別に開成や筑駒や麻布に通っていなくても、東大に合格する子たちなのである。その子たちがたまたま父親の仕事の関係で地方で高校生活を送っていても、そこの公立高校から東大に合格していただろうし、海外で高校生活を送っていても、帰国生入試で(実はこちらの方がハードルは高い)東大に合格していただろう。要は、同じ歳(大学入試だと浪人もいるけど)の中で、相対的にどれくらい頭がいいか、つまり上から3500番以内にいるかどうか、というのは、清々しくも残酷に、ある程度生まれつき決まっているわけで。

「中高6年間で100メートルのタイムを同年代の中で上から3500位以内にする」というタスクを子供に課し、結果を期待する親はいないだろう。ならば、それが学力であっても同じ、ということに、中学受験をさせる親は気がつかず、子供の将来に夢を見る。親が我が子に夢を見るのは、親の特権かもしれないけれど、親ならば、勝手に子供に夢を託すよりも、子供の目下の幸せ、を考えてやることの方が大事ではないだろうか?
「子供の幸せ」?
限定すると、中学・高校時代、俗に「青春」と呼ばれる人生で一番眩しい時期の子供の幸せ、である。

私は幸か不幸か、息子がまだ幼稚園の頃に、「子供の幸せ」についてのヒントを得ることができた。
どこの家でもそうだろうが、幼稚園になると今までは遊びにも親の存在が大きかったのが、子供の友だちが家に遊びにきたりする。或る時、いつも私が遊び相手になってやっていたプラレールとレゴを組み合わせて電車を走らせる遊びを、息子が遊びに来た幼稚園の友だちとやっていた。園児同士がするものだから、オトナである私が相手になる時よりもはるかにしょぼくレールとブロックが組み合わされていたのだが、その時息子の笑い声に私が振り向いてみた息子の顔・・・。親の私がひっくり返っても息子から引き出せないような「とてもいい顔」で息子は友だちと笑い合っていたのだった。私だって夫だって、そりゃ最初の子である息子の歓心を買うべく、あの手この手で遊んでやっていたのだ。それでも、私たちにはそんな笑顔を息子から引き出すことはできなかった。そうなのだ。親じゃ駄目なのである。子供にとって、何が幸せといって、友だちの中で自分が認められ自分で自分を肯定できることが、一番の「幸せ」なのだ。
つまり、親の見栄やエゴや支配欲を捨てて、子供が「一番たくさんいい顔で笑うことができる学校」を選ばなくてはいけない、ということだ。

そういう観点で、中学受験も考えてほしい。
中学受験はあらゆる意味でゴールなんかではない。
あなたの子どもが行こうとしている中学で、本当に彼/彼女は幸せな青春を送れるかどうか、立ち止まって今一度考えるくらいのことはしてもいいのではないだろうか、親として外してはならない責任なのだから。

あなたの子どもは、そこでいい顔で友だちと共にたくさん笑うことができる青春を送ることができる中学に進もうとしていますか?