敢えての「あまちゃん」辛口の感想


空前絶後のブームとなった、NHK朝の連ドラあまちゃん」が今日で最終回を迎えました。
この週末は「あまちゃん」讃歌がネット上に溢れることと思いますが、私は敢えてう〜んと辛口の感想を書いてみたいと思います、ていうか、「敢えて」も何も、本当の私の感想なのですが。


私は今回の「あまちゃん」、一日も欠かさずに見たと思います。
95%以上は、その日一番最初の放送のBSプライムの7:30からの放送分(を正座して)。
残りは、朝早くから出かけたり旅行するので、録画で。
もう何十年も放送されているNHKの朝ドラですが、半年間欠かさずに見たのは、この「あまちゃん」と「ちりとてちん」「カーネーション」の3本だけ、です。
いつもは全く朝ドラウォッチャーではありません。
最近のもので言うと、「純と愛」は主題歌が始まると即消していたくらいですし(決して歌のせいではありませんよ!)、「梅ちゃん先生」も「おひさま」も同様か、いわゆる「時計代わり」。
その理由は、「朝から嫌な気分になる」としか形容できない「純と愛」は置いておいて、「梅ちゃん先生」も「おひさま」も、過去の一連の朝ドラと同様なステレオタイプな退屈なドラマだったからです。

ヒロインは、決してとびっきりの美人でもとびっきりの秀才でもないが、明るく「優等生的」性格(学業優秀というわけでは決してない)で、何故か周囲の人は、そんなこれと言って魅力のないはずのヒロインに好意的で(お決まりの「イジメ役」を除く)、何故かその時代では女性の職業としては珍しいもの(医者やら気象予報士やら板前やら飛行士やら)にヒロインが自らの能力も省みず無謀に挑戦して成長することを助ける、的な?


あまちゃん」は一見、そのテンプレドラマ仕立てでありながら(地方を舞台にしていて潜水士や海女を目指したり)、実は全く毛色の違ったドラマであったのです。
まあ、あの破壊的な「純と愛」の後では、朝ドラファンにとっては、何を見ても癒されたと思います。あまちゃん」大ヒットの原因の一つは「純と愛」の後だったこと、ですね。

さて、「あまちゃん」批判をそろそろ書いていきますが。


先ず「あまちゃん」は「国民的人気の朝ドラ」と言われていますが、本当に全世代的に楽しめたドラマだったのかどうか?
例えば、ウチの娘。90年代前半生まれなんですが、当然の如く、80年代アイドルなんて知らないわけです。だから、たま〜に一緒に「あまちゃん」を見ていて、「これ誰?」とかしょっちゅう聞いてくるのです。歌番組の「ベストテン」さえ知らないですから、久米宏黒柳徹子に、糸井重里清水ミチコが扮している面白さがわかっていませんし、「チェッカーズ」も「田原俊彦」も「吉川晃司」も全く知らないわけで、アイドルの頂点にいた「松田聖子」さえ、「あ、いつかテレビの紅白で娘(神田沙也加のことだと思われ)と一緒に歌ってたオバサン?」ですものね。それに対していちいち、「『松田聖子』って、当時は『聖子ちゃんカット』、そうこのアキの母親役のヒトの若い頃の役のヒトがしてる髪型しててね、一世を風靡したのよ。」とか解説しながら、「ムスメと私では、同じようにこのドラマを見ていても、全く受け取っている情報量が違うのね。」と思ったことだったのですが、80年代のアイドルを知らない全国の若者たちは、どのように「あまちゃん」を見たのでしょうね。小泉今日子薬師丸ひろ子の昔を知らずして、春子や鈴鹿ひろ美を見ることはできないと思うのですが。だから同じように「あまちゃん」を見ていても、「春子の昔の部屋に飾ってあるアイドル全部わかります」という私のような(!)世代とはドラマの見方が全然違うと思いましたね。
また逆に私の親の世代も同様です。80年代のアイドルって言ったって、当時既に立派な大人であった彼らにとっては、せいぜい「名前を聞いたことがある」「そう言えばそういう芸能人がいたわね〜。」程度なんですが。ましてや「ジェームス・ブラウン」も「フレディー」も全くわかりません。更にその世代にとってハンディなのは、例えばAKB48のシステムがわかっていないと、それのパロディである「アメ女」や「GMT」のエピソードが全くわからないことや、秋元康を知らないと、太巻を見ても笑えないことです。AKBの「総選挙」を知らない人が、アメ女の「国民投票」をわかるはずがないじゃないですか?それらの「何だか自分にはわからないけど、わかっている人たちには面白いらしい」ということは、わからない側の彼らにとっては不愉快だったようです。
それでも「国民的ドラマ」と冠することができるのかどうか。

そして、「80年代アイドル」を下敷きにした仕掛け、AKB48をモデル?にした仕掛けを、ドラマの妙味として繰り出すということは、その下敷なりモデルなりを理解しない層を、脚本家は切り捨てている、ということです。高校の古文の時間に習った、和歌の本歌取りという技法は、「本歌」を知っている教養ある歌人だけが、「本歌」と今詠まれている歌の絶妙な配合を味わうことができたそうですが、まさにそれと同じです。「本歌」を知らない人には、どんなに技法が凝らされた「本歌取り」の歌でも、脚本家が意図しているレベルの鑑賞はできないということだとしたら、「あまちゃん」の脚本家である宮藤官九郎は、「本歌」を知らない視聴者のことは眼中になかったのでしょう。「わかる人にだけわかってもらえばいい」、それはそれで私は否定はしませんが、「本歌」を知っている一部の人にだけ寄りかかるドラマなんですよね、結局は。

そしてこれは「本歌取り」とはちょっと違うのですが、今回のキャスティングを見ると、劇団関係の方々がとても多いんですよね、それも有名な方ばかり。これも、誰がどこの劇団に属していて誰の作品によく出ていて、ということがわかっている人には、ドラマとは別にまた面白いことでしょう。勿論、それがわからなくてもドラマを見るには何の支障もないはずです。けれども、劇団の舞台上で観客を目の前にして表現活動をしている俳優さん/女優さんが、画面の中で、それも大勢で演技をするとなると、時として過剰に見える(今までの朝ドラ比)ということもあります。そしてその過剰な演技の中に、少しでも楽屋落ちが垣間見えてしまったら、視聴者は冷めてしまいます。スナック「リアス」や観光協会の場面では、そのギリギリのきわどいラインだったと思います。

ギリギリのきわどいラインと言えば、劇中歌の「潮騒のメモリー」や「暦の上ではディセンバー」も、それぞれ80年代のアイドルソングと現在のアイドルソングへの、オマージュなのか、おちょくりなのかがわからないきわどい歌詞ですよね。若き日の春子役の有村架純や能年怜奈に歌わせるのならともかく、よくこれを往年のアイドル小泉今日子に歌わせたと思います。私はクドカンによって作詞されたこの歌詞は二つとも、オマージュなんかじゃなくて「おちょくり」だと感じますね。


次に、私が元関西人(東京に住む関西人)という特殊事情に起因する「あまちゃん」批判をしたいのですが、


関西人にはクドカンの笑いはわからない
あまちゃん」が始まった頃、関西地区での視聴率が、関東のそれに比べて低いことが報道されていました。
わかります、その理由!
関西出身の私は、クドカンこと「宮藤官九郎」脚本の「笑い」は、どこがツボなのかわかりません、っていうか身体的「笑い」が出てきません。立川談志とかビートたけしとか爆笑問題とかの笑いに反応できないのと同様です。
関西の笑いだと、頭で考えなくても無条件に反応するのですけどね、これが「異文化」なのでしょうか。
クドカンが仕掛けたのであろう「笑い」の仕掛けだけが見えて、全く笑えない、というのはツラいものがあります。
逆に関東の方々は、関西のお笑いに付いていけるのでしょうか?
東京生まれの東京育ちの友人が、NHKで土曜日のお昼に放送されている「生活笑百科」という番組について「どこが面白いのか、全くわからない。寧ろ不快感を感じるくらい。」と言っていました。この番組は、司会者が笑福亭仁鶴、レギュラー回答者が上沼美恵子に桂吉弥辻本茂雄、質問者は阪神・巨人や大助・花子といった吉本の漫才師、という、こてこての関西フレーバーの番組です。
確かに、関東の方々からみれば、上沼氏の毎回の「大阪城が実家」等の法螺話も、大助・花子の掛け合いも、「異文化」ですから理解できないということは、現在東京に住んでいるので私にはよくわかります。
この逆の現象として、私は元関西人として、クドカンの笑いが理解できなかったのでありました。


関西人には「東北訛り」がヒアリングできない
大昔の学生時代、ネイティブの先生による英語の授業があったのですが、授業の中で2人組になって英語の短いドキュメンタリー映画について感想を英語で話し合ってまとめる、という課題があったのですが、私が聞き取れなくて苦労したのは、その映画の英語よりも、私と組んだ、仙台出身の男の子が喋る、関西育ちの私が人生で初めて生で出会った「東北訛りネイティブ」の東北弁だったのでした。本当に聞き取れないんです、何言ってるかわからない。で、「えっ、何?」と聞き返していたのですが、英語ならともかく日本語を聞き返すのって、回数が多いと気まずくなるんですよね。
関西人にとっては、「大阪と京都と神戸は、喋る言葉は全然違う。『関西弁』で一括りにするのはやめてほしい。」というのは切実な声なのです。一方私にはとても聞き分けることはできなくて皆一緒に聞こえてしまうのですが、東北弁も県によって違うのでしょうか?
今回の「あまちゃん」はドラマですから、ネイティブではなく他都道府県出身のプロの俳優/女優さんたちが、脚本と方言指導に沿って「東北弁」(私にはこれ以上の聞き分けはできないので一括りでお許しください)を喋っているのでしょうが、それが私には聞き取れない。「東北弁」の細かな知識がない私が疑問を持つのは、あの「あまちゃん」の中で話されているのって「過剰な東北弁」ってことはないのでしょうか?実際に三陸の方々は、あのレベルの方言を話しているのでしょうか?
関西では、ドラマや映画で話されている関西弁がそのまんま話されています、否、実際に話されている関西弁の方が、イメージとしての関西弁よりもより濃厚かもしれないくらいです。
でも一方で、関西以外の地域では、寧ろテレビドラマなどで誇張されて話されている方言など話している人は殆どいなくて、標準語とマイルドにミックスされた言葉なんじゃないかと思うのです。
あまちゃん」で、海女クラブの面々の女優さんたちが喋る東北弁を、必死で聞き取って頭の中で文字に起こしつつ、朝ドラであそこまで過剰な東北弁である必要性があるのかどうか、いつも疑問でした。
突き詰めていくと、脚本と演出の不自然さを感じるのです。
特にそれを強く感じてしまうのは、アキは元々は東京生まれの東京育ちで、父親も母親も全く方言なんて家庭内でも喋らないんですが、そういうバックグラウンドを持った子が、しかも「地味で暗くて向上心も協調性も存在感も個性も華もないぱっとしない」女子高校生が、いくら不思議ちゃんでも、「おら」とか言うでしょうか?ネイティブでもないのに突然方言を喋るでしょうか?中途半端な方言は、逆に現地の方々に失礼だし、そんな無礼者は普通は受け入れてもらえないでしょう。
ユイちゃんは、方言全く喋りません。元女子アナの母親も当然喋りませんし、何故か足立先生も喋りません。ストーブさんも殆ど喋らないけれども、時々イントネーションに方言が出る感じ。こちらの方が普通ではないかと思いますね。
ヒアリングだけでなく、同じ日本語なのに、意味さえよくわからなかったかも。例えば、夏ばっぱの「お構いねぐ」という言葉。この言葉は結構重要な場面で使われるのですが、これはシンプルに「お構いなしでお願いします。」ということなのか?そこに他のニュアンス、「放っといてくれ」とか「No thanks.」という意味が加わるのか?ネイティブでない私は、ちゃんと正確に意味がとれていたのか自信がありません・・・。決め台詞くらいは、半沢直樹でなくとも、日本人全員が理解できる単語にして欲しかったですね。


元関西人という特殊事情に寄る批評は以上でやめておいて、再び一般的な感想に戻りますが、

衣装と照明と演出が残念
ヒロイン・アキのキャラクター設定の中に入っているのかもしれませんが、アキの私服は本当にひどかった。アキが猫背なのもキャラクター設定のうちなのかどうかは私にはわかりませんが、最終回ですら、猫背な上に、黄土色なのか黄色なのかわからない、きったない色のカットソーに細さも丈もわけのわからない青いパンツ、意味のない白いはおりものを羽織ったヒロイン。あのコーディネートに何か意味があるのか、意味がないのなら、悪趣味以前にまるで趣味が感じられない衣装を見せられるのは、少々うんざりでした。ユイちゃんはまだマシ。田舎でアイドルに憧れる女の子(自分が可愛いと自覚あり)が着そうなお洋服でしたから(眉毛のないヤンキー時代の緑のダウンが一番決まってたかも)。夏さんがいつもしてる、安物っぽい首の巻物もやめてほしかったものの一つでしたね。実際に三陸のおばあさんがよくそうやって化繊の巻物をしているのかもしれない。けれども、それと「衣装」は別だと思うのです。「衣装」なんですから、「リアルを超えたリアル」を追求してほしかったですね。加えて「朝ドラ」なんですから、ヒロインを含めて女性陣が纏っている衣装の意匠一つで、観る側の気持ちも変わるんですから。
そして、「あまちゃん」は画面の美しさがこれと言って感じられないドラマでした。「カーネーション」の時は、家の中の情景一つとっても、光が入ってくる方向が計算されていて、ドラマを見続けていると、光が部屋に差している方向で、「今は午前中」「今は夕方」とわかるくらいでした。ドラマの中の家の東西南北がわかる感じ。ドラマの中の1階と2階の明るささえ違っていました。一つ一つのシーンが丁寧で本当に美しかったのですが、今回は北三陸の天野家にしても、東京の黒川家マンションにしても、全く美しくないんです。天野家の家の中はぐちゃぐちゃで、リアルかもしれないけれど美しくない。「リアルに見せておけばいい」というところが、貧しいのです。黒川家の無味乾燥なインテリアも然り。天野家のかつての春子の部屋は、あれは「リアルであればそれでいい」部類だと思いますが、他は何とかならなかったのか。
そしてこれは衣装だけでなく、脚本と演出も関係してくることなのですが、昨日、即ち、最終回前日のあの「3組の合同結婚式」って何ですか、あれ?あの3組の中年(元)夫婦に陳腐な花嫁衣装と似合わないタキシード(大吉は紋付袴)着せたことによって、凡百の平凡な朝ドラ、何故かドラマあり涙ありの婚礼シーンがお約束のテンプレの朝ドラと、「あまちゃん」は同じになってしまったと思います、ストーリー的にも不自然でご都合主義で、本当に残念なシーンだったと思います。と思っていたら、小泉今日子自身、本当はやりたくなかったみたいですね。

もともと小泉さんは、このシーンが嫌だなあっておっしゃっていたんです。「なんか、結婚式とか恥ずかしい、ベタ過ぎてこのドラマっぽくない。ドレス着せるなんて悪趣味だって」って、散々な言われようでした(笑)。
     チーフ演出井上剛インタビュー

「ベタ過ぎてこのドラマっぽくない。」と言う小泉今日子の方が、朝ドラの中での「あまちゃん」の見られ方を演出家の方よりも余程よくわかっていたのではないかと思わされます。


そして朝ドラとして一番肝腎なものが、この「あまちゃん」には欠けていたような気がします、それは
さて、「あまちゃん」には全編を貫く「物語」があったか?
私が過去夢中になった朝ドラ2本は、「ヒロインの一生」ということ以外に、全編を貫くテーマがあり「物語」がありました。それは国語の入試問題で30字以内で答える解答のように、シンプルで且つはっきりとしていました。

ちりとてちん」→→→「お母ちゃんのようにはなりたくない。」と家を出た娘が、色々あった末、最後に「私がなりたかったのはお母ちゃんだった。」と気付くドラマ

カーネーション」→→→ 3人いる娘の3人ともが、「お母ちゃんの生き方を真似したい」と必死で道を切り開くほどのエネルギーを、仕事に打ち込む後ろ姿で娘に与えた女性の一生を描いたドラマ


純と愛」は別にして、他の朝ドラでも大抵のヒロインは、テンプレのドラマであっても愚直に一つの道を進むものなのですが、「あまちゃん」のヒロインのアキはそうではありません。

「地味で暗くて・・(中略)・・華もない」女子高生@東京

祖母がやっている海女@北三陸

祖父も免許を持っている潜水士@北三陸

アイドル@東京

地元に帰って海女と地元アイドル@北三陸


名前の如く「アキっぽい」アキですが、これまでの経過を見てもまだ20歳そこそこの彼女の年齢から言っても、これで落ち着くとは思えませんね。
最終回を見ても、アキが今後果たして「海女」に軸足を置いて人生歩んでいくのか、はたまた「アイドル」から足が洗えないうちにまた東京に行ってしまったりするのか、全く予見できません。
とすると、ドラマの中で流れた4年間、そして視聴者が夢中になったこの半年のドラマは何だったのか?
あまちゃん」が4月に始まって、1話1話は楽しい仕掛けがあり、回が進むとそれまでに張り巡らされていた伏線を回収する楽しさも加わり、だからこそ、クドカンの笑いに付いて行けなくても、東北弁のリスニングが下手でも、私は毎朝頑張って7:30から正座して「あまちゃん」を見ていたのです。
この「伏線の回収」というのは、昨今のドラマや小説には欠かせないものになってきています。前述の「本歌取り」とはまた少し違って、「本歌取り」はその場面で理解できるのに比べて、「伏線の回収」は今回出て来たものが、次回次々回で、もっと先の回で回収されるので、視聴者はその間ずっとそのドラマに引きずられることになります。そして朝ドラの場合は結果的にそれが半年続くことになるのですが、これは視聴者がヒロインと共に、ドラマを貫く或る「物語」に沿って成長していくうちに気がついたら半年過ぎていた、ということとは、全く違います。
ちりとてちん」の場合は、ドラマのごく最初の部分で、「お母ちゃんみたいにだけはなりたくない」と言ったヒロインの台詞が、半年間のドラマを経て最終回で、「私がなりたかったのはお母ちゃんだったんだ。」と回収されますし、「カーネーション」の最終回はヒロイン糸子の「おはようございます。死にました。」という衝撃の(?)ナレーションで始まり(死ぬ場面はなしに)、最後の最後は老いた幼馴染が車椅子に座って見る朝ドラの画面が、「カーネーション」の実際の初回である、というドラマ全体が円環のように最後に回収されたのでした。
あまちゃん」も「伏線の回収」に引っ張られて最終回まで来たけれど、終わってしまうと、所詮それだけだったのか、と思えてきます、全編を貫く「物語」がないから。母娘3代の物語?「三代前からマーメイド」とか言いますが、夏、春子、アキ、と名前は続いていますが、春子は結局海女は継いでいないわけで、アキだって前述のように腰を据えて海女をやるのかまだまだわかりません。アイドル論?アイドルを目指した女の子の成長物語?ありえない。
それからもう一つ敢えて指摘をしておくと、「あまちゃん」には「物語」がないのに最終回まで視聴者を引っ張っれた理由の一つに、ドラマの最初から年月日が明示されていたことがあります。ドラマは2008年夏から始まり、2012年7月で終わります。「東北の三陸地方が舞台で、2008年から始まる」ということは、誰だって「2011年の3.11が必ずドラマの中で描かれる」と予想します。被災地の方々のみならず、日本人全体がまだ「3.11」というものを描いたドラマには慣れていないこの2013年において、この年月日の設定が、「あまちゃん」に対する視聴者の関心を9月まで引っ張ったことも否定できないと思います(脚本の宮藤官九郎が「3.11」をどう描いたかについては、前のエントリーで書いたので繰り返しませんが。)震災に関しては、「あまちゃん」は現在の日本のパラレルワールドである、と私は思っています。


あまちゃん」の後の朝ドラはやりにくいであろうことは予想できますが、もうすでに次のごちそうさんとやらの宣伝も始まっているようです。
せっかく「純と愛」で朝ドラの定型が木っ端微塵に跡形もなく破壊されて、「あまちゃん」で「物語」でない朝ドラでもOKということが証明されたのに、予告編を見る限り、どうやらまたあの、明治・大正・昭和を生き抜いた女の一代記的なテンプレ朝ドラに回帰しているような・・・。


言論の自由に感謝しつつ。