心ならずも読んでしまった、村上春樹最新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 雑感

もう新作が出ても買わないつもり、読まないつもりだったのに*1・・・買って読んでしまいました、それも発売日に。
アレルギー・クリニックに行く途中、「今日は予約とっていないから待たされるかも。じゃ、本でも買っていこうかしら。」と本屋さんに入ったのが運の尽き。気がついたら中身を確かめることすらせずにこの本を手に取ってそのままレジでお会計。予想に反してガラ空きのクリニックの待合室で名前を呼ばれても気がつかないほど既に本に没頭し、最近は目が疲れるので乗り物の中では本は読まないことにしているのに電車の中で立ったまま没入し、流石に歩きながらは読まなかったものの、帰宅したらソファーに直行。そしてそのまま、寝食も家事も忘れて一気に読み切ってしまうって、何と大人げないことか、読了後我に返って反省致しました。


村上春樹の過去の作品を、「処女作の『風の歌を聴け』」からほぼリアルタイムで読んできた」、というと歳がバレてしまうのですが、そんな「ハルキ中毒」のオバサンが、丁度3年前に「1Q84 book3」を読んだ後、せっかく村上春樹作品という麻薬から離脱したのに、また感想を書こうとしています。


若い読者の方には、是非おススメします、色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年


今年の秋にもノーベル賞文学賞を受賞するかもしれない日本の作家の最新作ですから、日本人の教養として読んでおくなら、今でしょ!そういう意味でこの小説は最適です。「海辺のカフカ」や「1Q84」よりも分かりやすいこと請け合いです、分量的にも手頃です。この小説を最初に読んで、拒絶反応を起こさなければ、「羊をめぐる冒険」と「ノルウェイの森」、そして数多くある短編をおすすめしたいところです。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、何より若い感性があるうち、せめて大学を卒業するまでに読んでおかれるのが賢明かと思います、っていうか、大人になってからは「こんな小説読んでいてはいけない」種類の小説ですから。
私のように年を重ねてくると、いつまでも「学生時代に置き去りにした出来事や思い出」にとらわれていては先に進めなくなってしまうのですね。facebookで学生時代の彼/彼女や好きだった子の名前を検索したりする事自体が「負け」であり、必ずや美化され修正されているであろう過去を振り返ってそこから何かを取り出そうとする事自体が「負け」になってくるのです。過去に郷愁を抱くよりも、見たくはないかもしれないけれど、無理にでも前を向いていなければならない世代の方々には、この小説はあまりおすすめできません。昔、「羊をめぐる冒険」や「ノルウェイの森」、「ねじまき鳥クロニクル」を読んだ時以上の感動が、この小説を読んでも味わえないのは、自分自身のせいなのか、作者のせいなのか、は置いておいて。


さて。
小説を読んでも感想文以上のことは書けないド素人の私ですが、この「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の中で気になった点を二点だけを書き留めておきます。




1 アカ、アオ、シロ、クロという、主人公多崎つくるの4人の友人の名前について

色で呼ばれるキャラクターというと、どうしてもレンジャーものが最初に頭に浮かびますが、この小説ではレンジャーものに見られる色とキャラクターの配分とは違っているようです。レンジャーものでは必ずヒーローでありリーダーである「赤」は、この小説ではそうではありませんし、「桃色」やら「黄色」、たまさか「白」(カクレンジャー)が割り振られる女性キャラですが、この小説では「黒」と「白」が女性キャラになっています。では、この4人の友人の名前にどういう意味があるのか?
古い小説を引っ張り出して申し訳ないのですが、福田章二が庄司薫というペンネームで書いて1969年に芥川賞をとった「赤頭巾ちゃん気をつけて」という小説があります。今の若者は知らないでしょうし、そもそも読まないでしょうが、庄司薫はこの芥川賞受賞作に続いて三部、連作を書いています。出版順に挙げると、
「赤頭巾ちゃん気をつけて」
「さよなら怪傑黒頭巾」
白鳥の歌なんて聞こえない」
「ぼくの大好きな青髭
という風に、ここにも「赤」「黒」「白」「青」という色が配置されていて、これについては庄司薫本人が、「狼なんてこわくない」だったか「バクの飼い主目指して」だったか「ぼくが猫語を話せるわけ」だったかのエッセイ集の中で、「赤は朱雀、黒は玄武、白は白虎、青は青龍」というようなことを書いていた記憶があります(現在倉庫に山積みになっている段ボールの中から原典を探してくる気力はないので正確でないかもしれませんが)。どうやら、今回の村上春樹の小説の、4人の友人のこのわざとらしい名前もそれと関係ある疑いが濃厚です。
多崎つくるの4人の友人の名前は、主人公多崎つくるが巡礼した順番に行くと
青海悦夫
赤松慶
黒杢恵理
(白根柚木)・・・既に死亡
こういう順番になります。
陰陽道にも五行説にも、全く詳しくないのですが、この4人を見てみると、「クロ」こと「黒杢恵理」は「黒」が表す「北」の「冬」の国フィンランドに移住していますし、「シロ」こと「白根柚木」は「白」が表す「西」即ち「死」に向かうのですね、半ばこじつけですが。「アカ」と「アオ」の謎解きは、私の知識ではお手上げです。村上春樹の研究本を出している久居つばさ氏や加藤典洋氏にお任せしたいと思います。いやいやそれよりも、村上春樹が国際的な作家になった今ならば、中国語に翻訳されたこの小説を読んだ中国の読者が、何と言っても陰陽五行や風水の本場の読者ですから、久居氏や加藤氏よりも早く、作者のサービス精神いっぱいに散りばめられたこの謎を喜んで解いてくれるのではないかと思います。上述の久居氏や加藤氏と言えば、私も90年代には、彼らの手による「村上春樹研究本」を読みあさったものですが、はい、もうこの年になるとそれも疲れますので、素直に読んでそれ以上は深く考えないことにするつもりです。最近は、提示された謎がきちんと作者によって回収されないものは(例えば、相当な分量で描かれている「ミスター・グレイ」こと「灰田文紹」についてなど)、この小説であれ他の映画やドラマであれ、何だか「時間の無駄」というか、費やした時間を返してくれ状態になってしまうので。




2 主人公にも4人の友人達にも「名古屋」の匂いが全くしないこと、設定が「名古屋」になっていることについて

これは今に始まったことではなくて、村上春樹の初期の作品では神戸や芦屋という関西の町が舞台になっているのに、登場人物たちは、関西弁ではなくて、翻訳調の標準語を喋っていたのですが、今回もまたそうなのです。主人公のつくるも、4人の友人も皆筋金入りの名古屋ロコであるのに、何でしょう、あの喋り方は?海老フリャーと味噌煮込みうどんと味噌カツと天むすと小倉トーストを愛してやまない名古屋人はどこにいるのか?まあ、「風の歌を聴け」からずっとこの調子(主人公が翻訳調の変な日本語を喋る)ですから今更、という気もするのですが、神戸や芦屋が、町としての実体を持つものとしてでなく、村上春樹の頭の中の観念上の「神戸」であり「芦屋」という、実際はどこにもない町になっている、ということはもう「そういうことなのね」と慣れてしまっていましたが、「名古屋」に関してはすんなり入っていきませんねえ。童話というものは大抵の場合綺麗な標準語で書かれていますが、「星の王子様」のように大人の童話的様相をますます呈している村上作品ですが、じゃあ地名と方言との制約がない、もういっそどこにもない「架空の町」を舞台にしてほしいと思うのです。「どえりゃー」とも「うみゃー」とも言わない、名古屋の高校生5人組っているはずないのですから。つくる自身、「(東京の)人々は奇妙な話し方をしたし(27ページ)」と言っているくらいですから、名古屋弁を喋っていたに違いないはずなのに。というよりは、もうそういう村上春樹のお約束に耐えて読者であり続けることが、私には難しくなってきているのだと思います。
そしてそもそも、関西人にとって、名古屋とは、或る種「真空」のような場所なのです。関西人にとって永遠のライバルである「東京」ヘ向かう途上にある、関西でも東京でもない場所、それが「名古屋」なのです。「現地の人が喋る言葉がわからなくて、食べているものが違って、生活慣習が違う場所」を「外国」と呼ぶのならば、紛れもなく名古屋は関西人にとって「外国」です、東京以上に。日本人がいつかアメリカへ旅行をするために「日常英会話」などをひそかに勉強したり、マクドナルドやケンタッキーでハンバーガーやフライドチキンを食べて「アメリカの食べ物ってこんなもんか。」という経験をしたりするのと同様、関西人はひそかに「関西弁と標準語のバイリンガル」を目指して東京で喋られている「標準語」に磨きをかけていますし、「東京だとうどんでなくて蕎麦らしい」とか「その東京の蕎麦はお汁が真っ黒でお椀の底が見えないらしい」という予備知識もぬかりなく蓄えています。ところが、関西人にとって真空スポットになっているのが、「名古屋」なんです。「関西弁」と「標準語」の境目、「薄口醤油」「納豆を食べない文化」の境目は関西と東京の間にあるはずなのに、名古屋ではそれとは異次元の世界が繰り広げられているのです。関西人にとっては、東京よりも「遠い外国」なのです。そんな「名古屋」に、東京で暮らす関西人であった村上春樹が、主人公と4人の友人を配置するというのは、どういう意図があったのか?
ド素人の私が考えるに、この小説の中で、主人公のガールフレンドである38歳の沙羅が「フェイスブック、グーグル、ツイッター」という言葉を出してきていることから、この小説における「現在」の設定はフェイスブックの日本語版がリリースされた2008年以降ということになり、36歳のつくるは1972年以降の生まれということになりますが、もし以前の幾つかの小説のように主人公が神戸や芦屋で高校卒業まで育った設定にしたとしたなら、どうしても彼とその友人が20歳過ぎに遭遇したであろう、1995年1月に起こった阪神大震災の存在を避けて通ることはできないから、ではないかと思うのです。だから、設定を関西にしなかったのかもしれないと思います。







十代の頃偏愛した作家で既にこの世にはいない人々、例えば三島由紀夫倉橋由美子の新しい作品を読むことはもう叶わないことを思えば、今年もまたこうして村上作品を読むことができるのは、幸せなことかもしれません、読む形がどう変わろうとも。
そして、彼の作品がもう驚きに満ちたものでないことを淋しく思おうとも。