夏の日々に、「老い」と「死」について思いめぐらすこと


もう10年は猶に昔、40歳を迎えた夫がこう言いました。
「平均寿命まで生きられるとしても、もう半分が過ぎたんだなあ。」
ひんやりした空気が一瞬流れたような、孤舟の影漂う発言だったのですが、夫よりも数歳年下の私は、「ふん」と鼻先で笑いました。酷い鬼嫁だからではありません。全然ピンとこなかったのです、「死」が近づいていること、人生には終わりが来ること、そしてその前には「老い」が横たわっていることも。

それから数年後、私の場合、「それ」は40歳では来ませんでした、やはり女性の方が平均寿命が長いせいでしょうか?ところが丁度ドイツに駐在している時、真夏の庭を眺めていた私の頭に、何の脈絡も前触れもなく、
「もう私の人生は半分終わってしまった。これから後は下り坂のようなものなのかしら。」(←夫と同様、平均寿命まで生きる気満々です)
という思いが突然まさに空から「降ってきた」のです。その瞬間に、前日までの私の人生とそれからの私の人生がはっきりと色分けされるかのように、その考えは降ってきたのでした。

人はいつ「死」というものを、自分のものとして意識し始めるのでしょうか?
思えば、中学生の後半から10代の終わり頃まで、その年頃にはありがちなことだと思いますが、私は「死」を扱った文学作品や漫画や映画に文字通り耽溺していました。その中に探し求めていた甘美な「死」とは、全く現実味のない観念上の遊びのようなものでした。苦痛も実体もそしてその前触れとしての避け難い「老い」の存在などない、観念だけの「死」です。その頃は「死=純粋」とすら思っていたかもしれません。「死」から一番遠くにいたからこそ、「死」の観念に酔い、その観念を弄ぶ残酷さを持っていたのだと、今は思います。

「死」は「純粋」なんかではないことは、今は了解しています。何より「死」の前に、自分ではコントロールできない「老い」があることを予感しているからです。その漠然とした予感は、冒頭のような「人生の折り返し点」に至って初めて気付くものなのです。


連日の猛暑ですが、実は暑さにやられているのは中年以上の人間だけです。
赤ちゃんも小さな子供も暑さお構いなしでご飯を食べて遊んで眠って、向日葵が成長するよりも早く逞しくどんどん大きくなっていきますし、灼熱の陽射しの中でも公園やプールで遊ぶ小学生、塾の鞄背負ってお弁当を手に提げ「特訓コース」に毎日通う中学受験生、全然暑さなんて関係ないかの如きです。 
JKこと女子高生だって30度を超える暑さの中、衿が二重になったセーラー服(←昔私も着ていたとは今や信じ難い!)や、半袖シャツの上にベスト着て(下着の線が透けないためだそうです)、膝上極限の短さとはいえサージのスカート(あれってウール!ですよね?)はいて街を歩いているではありませんか?
高校生男子だってそうです。夕方の駅に部活帰りの一団を見かけたことはありませんか?黒光りするほど日焼けして、水滴のような汗が額に光り、コンビニで買った菓子パン片手に1リットルのペットボトルをラッパ飲みしている野球部員か、サッカー部員の一団を?

彼らは実は、暑さなんて全然こたえていないのです。それは彼ら自身が「人生の夏」にいるからです、否、「夏」ですらなく、まだ「夏への助走」の段階なのかもしれませんが。

大学生こそ「人生の夏ど真ん中」です。やれサークルの合宿だ、テニス合宿だ、花火大会だ、免許合宿だと、彼らの言ういわゆる「リア充」の学生は暑さに挑むかの如く、一方「非リア」の学生は猛暑の中の5時間待ちも何のその有明の国際展示場に集ったり、アニサマに集ったり、これまた暑さお構いなしに突き進み、リア・非リアの分け隔てなく「夏」を貪り尽くしているのが彼らなのです。本当に日本は良い国だと思います、彼らにその環境を許していることは、殆ど誇っていいと思います。


大人になるということは、人生の夏から秋へ移行することなのですが、マッチ売りの少女がマッチを擦って火が灯っている間だけ夢が見られるように、大人も過ぎ去りし夏の夢を見られるチャンスが実は与えられています。それは「子育て」。子供ともう一度、夏を体験できるのです。今年、私は子供二人分の誕生からのアルバム(写真を台紙に貼るタイプ)をデジタル化(と言っても、業者を探してアルバムと写真をスキャンして、DVDにしてもらったという次第)するに際して、15冊あったアルバムを見返したのですが、二人の子供が小学校と幼稚園の頃の夏休みといったら、今では想像できないくらいパワフルに動いていることがわかって、或る意味感動しました。たった15年くらい前のことなのですが、或る夏など、自宅から海が近かったということもありますが、泊まりがけで遊びに来ていた弟一家と、二日連続で子連れで海水浴。その翌日にはテーマパークに出かけているのです!その間も三度の食事の支度やお洗濯もやっていたのでしょうが、今じゃ想像できないことです。また他の年には、8月の後半毎日のように夕方海に出かけて子供達を遊ばせているのです。それをするためには、午前中に宿題や勉強をさせ、午後は子供たちに昼寝をさせている間に夕食とお風呂の準備、そして夕方から海に行っていたとは!その頃は、子供たち同様私も疲れなど感じなかったのでしょう、子供たちのお相伴で私も二度目の「人生の夏、真っただ中」にいたので。脈絡もなく思うのは、それも30代だから出来たのであって、40歳で出産した結果40代の後半では、子供と一緒でも「夏」を再び生きる元気があったかどうか。


さて、「老い」です。
つい数年前までは、学生時代の友人と会っても、ママ友と会っても、話題は「受験」一色だったのですが、それが突然「老い」に激変しました。と言っても、まだ自身のことではなく、「親」の病気であり、「親」の検査入院であり、「親」の手術の付き添いであり、「親」の介護施設の探し方であり、「親」の認知症の検査の受けさせ方であるのですが。「受験」の話題から「老い」の話題の間には、全く何もない平穏な凪の期間などありませんでした、本当に息つく間もなくの変わりようでした。

私も含めて誰しも、自分の「親」の「老い」に関しては「直視したくない」というのが本音という気がします。たまに実家に行っても、つつが無く昔通りの生活をしていたならば、「まだまだ大丈夫」と思ってしまう、思いたいのです。


一方私は15年以上前から茶道をやっているのですが、お稽古日の関係でこの15年ずっと「私が最年少」という環境の中で過ごしてきました。実は先輩のおばさま方は、私の母の世代です。この短くはない年月、先輩方の人生の移り変わりを間近に見てきました。
ご自身が病を得て辞められた方、病を得たご主人の看病のために辞められた方、ご主人を亡くされた方、ご主人が認知症になられた方、皆この15年の間のことです。皆さま、私が入門した15年前には60歳代前半だったと思います。その年代になるまですら、まだ時間はありますが、やがてこれから私もどれかの道を辿っていくのだと思わされるのですが、正直「実感」がありません。「実感」がないからこそ、気がつかないうちに与えられた軌道(どれになるかはわからないのです)を歩いていけるのかもしれませんが。



徐々にわかってきたことは、「老い」と「死」はその有り様を自分では選べないということです。これまでの人生では、自分で様々なことが選べました。進学する学校も、職業も、結婚相手も、それだけではなく「しない」選択すらありました。「進学しない」「この職業には就かない」「結婚しない」「子供を持たない」選択です。「時」も選べました。「20代で結婚しよう」「30代で独立しよう」、勿論思い通りにならないこともありますが、100%思い通りではないかもしれないけれど努力と運で人生を選べる可能性はありました。
けれども、「老い」と「死」は選べません。「老いない」「死なない」ことも選べません。若い頃からどんなに健康に気を付けていても癌を患って手術の連続の「老い」の時期を過ごすのかもしれませんし、聡明で頭脳明晰だった人が認知症を発症し長い「老い」の生活を送るかもしれないのです、その反対もあるでしょうけど。「死」だってそうです。いつ、どうやって(老衰なのか、癌で苦しんでなのか、認知症でわけもわからないままになのか)、どのように(家族に囲まれてなのか、病院や施設でなのか、孤独死なのか)死ぬかは、誰にも選べません。

私が「もう人生の折り返し地点を過ぎた」と自覚した頃、若気の至りで思っていたのは、「癌で死にたい」ということでした。癌と戦っていらっしゃる数多の患者さんのことなどてんで頭になく、ただただ認知症になって自分が誰かもわからなくなって死ぬくらいなら、最期まで自分の意識がある状態で死にたいと思っていたのでした。この本を読んだこともあります。

百歳まで生き、ガンで死のう。

百歳まで生き、ガンで死のう。

また、夫に
「もし私が認知症になって、何もわからなくなったら、迷わずに施設に入れてね。家族で介護しようなんて思わないで。お見舞いもこなくていいから。だって私はもう何もわからない訳じゃない?心が咎めるのならば、介護費用が高い施設に入れてくれれば、それでいいから。」
と言ったこともありました、ついでに子供たちにも。今はわかります、問題はそう簡単ではないことが。私自身が一気に「何もわからない」状態になるのではないことも、家族が決心するまで、実際に行動に起こすまでには紆余曲折があるであろうことも。10代の頃、「死」に対して甘っちょろい考えを抱いていたのと同じです。


何十年来の友人(中学の時に同じ部活で、共にテニスコートの白球を追った仲)と今年の夏の始めにお酒を飲みながら語り合ったのですが、お互いの近況からお互いの親の近況に話が及び、更には「どういう風に自分は死にたいか」という、若い頃では考えられない話題に盛り上がった(というのも変な言い方ですが)のです。等しく思うことは、「ボケずに死にたい」ということですが、「これって巣鴨とげぬき地蔵に集う高齢者の方々と同じ思いってこと!?『ぴんぴんころり』でしたっけ?」「年とっても、巣鴨に集うおばあちゃんにだけはなりたくないと思ってたのに!」「でも、目指すところは同じってことじゃないの?」と言い合っているうちに、「癌って末期は本当に大変らしいわよ。」「そうそう、他の病気の痛さとは比べられないくらい痛いらしい。」「じゃ、痛がりの私は絶対に耐えられない。」「現代では仕方がないことかもしれないけれど、できれば病院では死にたくないわよね。」となり、「ねえ、熱中症って辛いのかしら?」「そうなのよね、私もこの間『昼食の後田んぼの様子を見に行った◯◯さん(8×歳)が畦道で倒れているのを家族が発見、死亡が確認された。原因は熱中症だと思われる。』っていう記事を新聞で読んで、暫し考え込んじゃったわ。これって不謹慎な言い方かもしれないけれど『幸せな死に方』じゃない?」「そうよね、病院で管に繋がれてでもなく、孤独でもなく、何より自分が生涯をかけて作り上げてきた田んぼの側で一生を終えるなんて、これ以上のことがある?」というところに話が至ったのでした。

もう随分以前のことですが、柳家小さん師匠(五代目)の亡くなり方を知って、夫と「こう在りたい」と言い合ったことがありました。小さん師匠は、亡くなる前夜に好物の「ちらし寿司」を家族と共に夕食に食べた後、二階の自室で就寝。翌朝起きてこないので家族が見に行くと、眠ったまま死去していた(心不全)ということです。こういう人生の終わりは、望んでできるものではないのでしょうが、これぞ幸せな「大往生」ではないでしょうか。

幸せな「大往生」の話は他にも仄聞しますが、しかし人生の理想的な終わり方をいくらコレクションしたって、自分がその通りになるかどうかはわからないところが、もしかしたら私が今感じている「老い」と「死」に対する怖さの大部分なのかもしれません。



さて西行は、

願わくば花の下にて春死なん、その如月の望月の頃

と歌ったそうですが、私は真夏に死にたい。何せまだまだ修行が足りないので、どんな形で「お迎え」が来るのかについては心の準備はできていませんが、私のお葬式の日のイメージだけはあるのです。
目眩がするほどの青空に入道雲が湧いていて、うるさいほどの蝉時雨の中、若者たちが充溢した夏を生きている傍らで死んで行きたいものです。「暑さ」を理由に葬礼は全て簡略に済ませてもらい、荼毘に付している間に雷鳴と共に夕立が通り過ぎ、骨壺に入る頃にはひと時の涼しさがあたりに立ちこめている、そんな最期が理想です。←これすら、まだまだ若輩者の甘い考えであり、これから見るべきものを見なければならないのでしょうが。


若い頃は「夏は暑いから大っ嫌い!」と言っていた私ですが、ですからいつの頃からか、夏がたまらなく愛しいのです。全ての生き物、植物が狂おしいまでに生命を謳歌している夏が。
今年も夏の始めは「猛暑」と言っていたのが、気がつけば「厳しい残暑」となっています。もう「残りの夏」なのです。東京でも8月の末というのに連日35度に迫る厳しい暑さですが、確実に今年の夏も終わりに向かっています。夏休みは終わり、これだけ鳴いている蝉の声もやがて消えてしまうのです。もう朝晩の風にも、傾いた陽射しにも、確実に夏の終わりが感じられます。まさに「風の音にぞ驚かれぬる」です。
昨年以来、節電意識も手伝って、真夏の昼間にエアコンを点けない生活をすることになって、じっとしていても湿気と暑さで汗ばむ感覚、だからこそ微かな一陣の風にも敏感になる感覚を思い出しました。昔、エアコンなどない小学校の夏の教室はこんな感じだったと、気持ちだけ若返った夏の終わり。




「老い」について考えさせられる映画2本。「家族の肖像」のバート・ランカスター扮する老教授と、「八月の鯨」のリリアン・ギッシュの可愛らしさ(演じた時は90歳!)に希望が持てます。

八月の鯨 [DVD]

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そして私は、以下のようなものも嫌いではありません。
何か夏の風景とか夏を感じる画像を見ると死にたくなる
夏だなあ〜って画像ください
夏の終わりを感じる画像をください