「真面目系クズになったのは、親に愛されていなかったから」と言われても・・・。

早いとこ親から愛されていなかったことを知ったほうがいいかもしれぬ

という増田氏(女性のようですが)のエントリーを読んで。
「親」という立場にいると、「親から愛されていなかった」という言葉に反応してしまうのです。ちなみに、「増田」をご存知ない賢明なる諸兄諸姉のために申し添えると、「増田」とは

はてな匿名ダイアリー」の俗称。また、それを利用する人たちのこと。
AnonymousDiary = アノニ「マスダ」イアリーの略。

です。
この記事の中では、「真面目系クズ」(←比較的新しいこの用語が分からない方は検索へGO!)という増田氏が、

「うわっ・・・わたし、まじめ系クズ過ぎ?」となった(クズの自覚は高校時代から積み重ねておりますが、うまいこといいますよね〜まじめ系クズなんて。)
ので、ここ最近精神的に追い込まれてたこともありもう死ぬしかないかな〜えへらえへらって状態になりかけてたんです。
で、どうしたものかと思っていた先日
「あっれー?私、親に愛されていなかったんだー!」と知りました。
するとかなり頭がすっきりしだして、思考回路も健全になり始めてきた気がします。

と書いていらして、(自称)「親に愛されていない」という(自称)自覚によって、彼女の精神状態が良い方向に向かったのならば、それはそれで良いことだと思いますが、「親に愛されていなかったんだ〜」ということが「真面目系クズ」問題の根幹にあった、というのを読んでしまうと、親の身である(子の身でもありますが)私としては、「親が子供を愛する」とはどういうことか?と、頼まれもしないのにこのシリアスな命題について考えるモードになってしまったわけです。


先ず「真面目系クズ」と「親」の関係について色々と検索してみると、「真面目系クズ」という、私の印象では、まあ誰にでもありがちな特徴を備えた(誰でも「自分に当てはまる」と思ってしまう)、そう悪くはないキャラクターではないかとも思えるのですが、それはどうあれ「真面目系クズ」を自称する人々によると、彼らの「親」に対する言及は以下のようなものです。

真面目系クズは幼年期の親の教育が屈折が屈折しすぎてるのが原因だと思う
マナーや規律に関して子供に「なぜ、そうしなければいけないのか」という理由を明確に説明しないまま強要し、
子供に強要したのにもかかわらず「できて当然」と言わんばかりに褒めたりしない

他人と比べるのが大好きで、とくにマナーや規律や常識を逸脱する人間を徹底的に見下す
子供に強要した規律を逸脱する人間がいた場合
「他の人が迷惑だからああいう事はしてはいけない」といった感じで具体的に指摘するのではなく
「ああいう人間にはなっちゃいけません」というふうに「規律を守れない=自分より格下の人間」なんだと思い込ませようとする

ちょっと子供がある分野で他の子よりできる事を確信すると「才能」という言葉だけで伸ばそうとする
褒める時は「すごい!」「えらい!」とかわかりやすく子供ががんばった事を称えるのではなく
「やればできる!」とか「才能がある!」とか努力のしがいを全く感じられない褒め方をする
そのくせ子供が「好きだ」という事に並程度しか能力を感じられなかったり自分が知らない分野だったりしたら
「やってみれば?」と興味関心のないそぶりをして無視をするか
頭ごなしに「やっても無駄」と決めつけて子供の主張や個性を伸ばそうとはしない

という、これはあちこちにコピペされているものですが、つまり
「親の価値観を強要された」(親の声:愛していなかったら価値観を共有しようとは思わない)
「褒め方が適切でなかったので自信が持てない」(親の声:「すごい!」「えらい!」という褒め方はよくない、という説もある)
「子供の才能分野の見極めができていなかったので、正しい方向に伸びなかった」(親の声:親は伯楽ではないので、子供がどんな分野で伸びるのか正確に把握することは無理、ただ応援するのみ)
と、「真面目系クズ」の皆様(の一部)は言うわけですが、一方で

親の期待がすごい
親の期待で気が狂いそう

というのもあるのですね。「期待」というのは「愛されている」からのではないかしら?と私などは思うのですが。そして増田氏のように

なぜか自分に自信がない、
頭ではわかっていても人がどう思うか怖くて動けない、
褒められるのが苦手、
いろんなことが中途半端、などなど
まあいろいろあるけどとにかく今の自分のクズ加減に苦しんでいる人。
「臆病」ゆえにクズになっている人。
なかでも、「本来はクズになるような環境では育っていないはずなのに」て人。
もしかしたらですね、子どものときに愛されたいだけの愛を親からもらっていないかもしれません。

という、内容としては真逆(「愛されていなかった」→→→「褒められなかった」「自分に自信が持てない」「他人の評価が気になる」)のものもある訳です、「愛されているけど無関心」というのはありえないとして。
「真面目系クズ」に限らず、同じカテゴリーの中にいても、或る子は親の過剰な愛を疎み、或る子は「親に愛されていない」と言い放つのですが・・・。


親はじゃあ、どうしろと?ですよ。
子供に関わってコミットして褒めまくり期待すればよいのか、それとも、親の価値観を押し付けることなく高所大局から見守ればよいのか(子供から「無関心」とそしられないギリギリのラインで)、どちらを真面目系クズの子供は求めているのでしょう?
そもそも、我が家の場合だと、性格が全く違う息子と娘がそれぞれネットで「真面目系クズの特徴」を見て、
「うわっ、私/僕って真面目系クズすぎ?」
と思って、息子の方は「親の期待が重過ぎる」と私をそしり、娘の方は「親の愛情が足りなかった」とこれまた私をそしるのではないか?という笑えない妄想です・・・。っていうかタチの悪い占いと一緒ですね、この「真面目系クズ」診断。



さて。
私の個人的経験から、最初の子供が生まれた時の気持ちは、これ↓です。

石井竜也 「心の言葉」

これを聞いたのは、実は息子誕生から15年以上経ってから(!)で、それも異国はドイツでの運転中に日本のアマゾンに注文したCDで、だったのですが、この歌の歌詞のように涙が溢れてきて、思わず車を停めて暫し泣きました。当時、息子は高校生で、それも日本でも難しい年頃なのが異国で親子共々様々なプレッシャーの中、という状況で、息子とは口を開けば議論、を通り越して、喧嘩腰の会話しかしなくなっていました。そんな時だったので、余計に心に滲みたのかもしれません。「そうそう、今は仇同士のような論戦相手の息子だけど、いっとう最初の思いはこうだったんだ〜〜〜」という気持ちとでも言ったらいいのか。・・・だからと言って、表面上は何が変わったということではなかったのですけど、心のどこかに別の部屋、というか余裕のある温かいキャパシティが出来たのは事実です、音楽ってすごい。
っていうか、「母は強し」というステレオタイプの言葉が真実であることを身を以て知ったのは、この歌の歌詞ではありませんがやはり子供が生まれてきた時ですね。


最初の子供は男の子だったのですが、二番目の子供として娘を生んだ半年後くらいに聞いて、同じく涙にくれたのがこれ↓です。

松任谷由実 「Happy Birthday to You ヴィーナスの誕生

この曲は、陣痛を思わせるイントロから始まって、女の子を産む時の母親の思いがリアルに表されていると思います。・・・というのは本当は少々正確ではありません、私は娘が生まれるまで性別は知らなかったのですから、ということは後付けの思いになるわけですが(生んでる最中というか陣痛の間は、「娘」が生まれてくるのか「息子」が生まれてくるのかわからなかったわけで)。そして勿論、この曲のリリースは、娘の誕生よりもはるかに以前で、アルバムが発売された当時聞いた時には、「何か観念的なことを歌っている曲」、としか印象がなかった曲でした。
冬の昼下がり、陽射しが斜めに入るリビングのソファで赤ん坊の娘を抱いてあやしている時に、何気なくかけたCDの中にこの曲が入っていたのですが、マタニティブルーなんてとっくに過ぎていた私でしたが、突如涙の洪水に見舞われました。男親が息子に対して抱く感情は私にはわかりませんが、女親が娘に対して抱く感情、特に「娘」が生まれてきた時に感じる感情は特別なものがあると、(私個人的には)思います。直裁的には、「ああ、この娘もまた将来こんな痛い思いして出産するのね。」という同士的(?)感情(息子は仮に性転換しても出産はしませんから)。いえ、「出産」だけではありません、この世界で「女」として生きていく上での諸々を思う時、本当に万感胸に迫るものがあるんですよね。「娘」を産んだ瞬間に母親が抱くこういう感情を、「Happy birthday to You」というタイトル通り、「誕生」を寿いだのが、この曲かもしれません。

そして女の子にはさらにおまけが。
以前にもどこかのエントリーで書いた気がするのですが、「娘育てに行き詰まったらコレ!」と私は友人に勧めている本があります。

ちいさなあなたへ (主婦の友はじめてブックシリーズ)

ちいさなあなたへ (主婦の友はじめてブックシリーズ)

これは今でも泣けます。児童虐待を防ぎたいのなら、出産したばかりの全ての母親にこの絵本を公費で配るべきですっ!と思うくらいのインパクト。


上記の歌や絵本で、子供が生まれた時の親の気持ちの何十分の一かをバーチャルで体験して頂いた上で。
上記の増田氏がどんな状況かはわかりません。けれども、
どんな親も子供が産まれた瞬間は少なくともピュアに「子供を愛している」
と、申し上げたいですね。いえ、私は無神経且つナイーブに言っているのではなく、例えば我が家では夫と娘が共通の趣味というか、毎週日曜日の夜NHKの「ダーウィンが来た!」を好んで視聴していて、生物趣味のない私も付き合って見ているのですが、この番組で取り上げられる動物の世界では、感動的なまでに、生き物の人生(「人」生、と言っていいのか)全てが「子孫を残す」ことに終始しています。爪の先ほどもない小さな昆虫から、巨大な鯨まで、皆「子孫を残す」ことだけが生きている使命であり、携帯もネットもゲームも株もFXも合コンも不倫も芸術も娯楽も彼らには無い訳です。自らの存在意義の全てをかけたこの「子孫を残す」という営みは、「愛」、いえ、「愛」以上の何かがあるとしか思えません(リチャード・ドーキンスは別の意見のようですが、それはこの際おいておいて)。ですから、子供を産んだ数年後に幼児虐待する人間の親も、パチンコするために子供を炎熱地獄の車内に何時間も放置する親も、産んだ数時間後にゴミ箱に赤ん坊を捨てる親も、そして「真面目系クズ」と自称する若者たちの親も、皆産んだ瞬間だけは、少なくとも爪の先ほどもない小さな昆虫並みには「子供を愛している」ことは生物界に生きる人間の真理だと思うのです、何たって人類は進化の頂点にあるのですから。

問題は「それから」、ですが、そこからは人間の世界では、親にとっても子供にとっても試練というか、「シンプルに、無条件に、子供を愛する」ことへの妨害を撥ね除けることが人生、になるんですね、勿論途中で妨害に負けてしまう親も死屍累々です。アフリカで干ばつで内戦状態で、という極限状態にいる親にとっても、高度に工業化されて物質的には満たされているはずの現代の日本の親にとっても、「ただひたすらに子供を愛し続ける」ことは難しい。いや、これは言い訳ですけど。

そして、親と子のマッチング、ということもあると、最近つくづく思うのですね。例えば、理想の母親として「何も言わずにいつも遠くから見守ってくれる慈母」を求める子供の、実際の生物学上の母が、その理想通りの母とは限りませんし、「自分のことを叱咤激励して応援してくれる肝っ玉母さん」を求めている子供の母がそういうタイプであるか、と言ったらそれもそうとは限りません。同じ母親から生まれた兄弟姉妹でも、求める母親像は違うかもしれませんし。父親像もそうでしょう。言えることは、
「人は皆、一つの親の形しかできない」
ということです。「子供が求める親の形と、親が唯一演じられる親の形とが一致する」、というのは何と幸せで、何と稀なことでしょうか。


例えば、私は前述の「慈母」と「肝っ玉母さん」のうち、後者だと思います。それは、私の性格に依るところもありますし、最初の子供である息子が思いっきり個性的だったのでそうならざるを得なかった(幼稚園の先生や周囲の母親たちに息子の解説をする、というプレゼンターから私の母親業が始まったので)、ということもありますが、自分の心を探っていくと、私が「肝っ玉母さん」になっている一番の理由は、実は「私自身がそういう母親を求めていたから」だということに行き着くのです、実母はそうではなかったので(ということは、私も親とミスマッチだった「真面目系クズ」?)。でも、私の息子や娘はもしかしたら、「慈母」タイプを求めていて、私の熱くてクールな「肝っ玉母さん」としての親の形に息苦しさを感じているかもしれないのです。私と子供たちのマッチングが良かったのか悪かったのかは、人生の最後にならないとわからないことであり、今更子供たちがどんなに願っても修正が効かないことであり、これこそ「縁」と呼ばれるものなのかもしれません。


そして私のごく狭い個人的経験で言わせて頂くと、子供の側にもタイプがあると思うのです。陳腐な例えで言うと、「ご飯お茶碗1杯でお腹いっぱいになる子と、3杯食べてもまだ空腹な子」、「毎日変わりない有り合わせのご飯でも満足する子と、日替わり豪華メニューでも満足できない子」、というのか。「普通に年齢相応に親から世話されてそれで何の不満も感じない子」と、「溢れんばかりの愛情を受けても『もっと愛してほしい』と感じる子」、が確かにいます。「自分のことは自由にやらせてほしい」と願う子にとっては、普通の親の愛情は「過保護」「過干渉」と感じるでしょうし、「親に褒められたい」「受け止めてほしい」と願う子にとっては、同じく普通の親の愛情でも「無関心」「愛されていない」と感じるでしょう。

私の息子は多分前者で、私自身はこんなに(!)開けた物わかりのいい母親のつもりなのですが、彼にとって私は「ウザい」「過干渉」の母親であるようで、「もっと自由にさせてくれ〜〜〜」というのが彼の心の叫びだと推察されます。
ところが娘は、小さい頃からこんなに(!)肝っ玉母さんの私が溢れんばかりの愛情を注いだにも拘らず、「もっと愛を!もっと光を!」というタイプの後者で、彼女は「いいな、お兄ちゃんは。」といつも兄と自分を物凄いバイアスがかかった物差しで比べて羨ましがるのです、まあ自分に都合が悪い時には、「そんなに心配してくれなくても自分のことは自分でできる」と言うのですけどね。


親の立場からもう一度言うと、じゃあ、どうしろと?というのが本音です。
もう親は開き直るしかありませんね。多重人格者のように複数の親の形を使い分けることもできませんし、だいたい昭和の昔、6人兄弟とか、10人兄弟が珍しくなかった頃の母親は、どうやっていたのでしょうね。一つ言えることは、当時もいたかもしれない「真面目系クズ」がそれを親のせいにはしなかったこと、でしょうか。
現代を生きる子供の皆様には、申し訳ないことですが(←これは一応儀礼的に言っているのです)、親は本能と環境と学習が命じるままに会得した一人一人の「親の形」でしか、「親業」できません。けれども、これは人類の歴史以前の虫さんの世界からこうだったので、その辺りはご容赦願いたいところですね。
「生まれた瞬間は誰しも愛されていた」ということだけは、もう一度申し上げたいところです。



前掲の「ちいさなあなたへ」(原題は「Someday」)と同じく、この年になっても色々と子育て(最終局面を迎えてはいるのですが)で「あ〜あ・・・何か詰んでる。」と思う時に、見るDVDがあります。

映像が美しいのに加えてフランス語のナレーションが官能的でさえあるこのDVDを見ると、
「ああ、私、皇帝ペンギンでなくてよかった!」
と思うのですね。皇帝ペンギンの母親たちのように、氷原を往復40日かかる旅をしないと子育てできないなんて(お父さんペンギンはもっと過酷で辛い!)、私は真っ先に脱落してしまいそうです。受験やイジメやニートや「真面目系クズ」など色々あっても、「人間で良かった!人間の子育てで良かった!」とシミジミ思っているうちに、気がついたらモヤモヤは昇華されています。
「ちいさなあなたへ」と同様に、これを見て、また元気出して「親」やっていきましょう!