私のピアスライフ (40歳を過ぎてから娘と一緒にピアスをあけた顛末)


身体髪膚これを父母に受く あえて毀傷せざるは孝の始めなり
(しんたいはっぷこれをふぼにうく あえてきしょうせざるはこうのはじめなり) 孝経より

(意味)「人の身体はすべて父母から恵まれたものであるから、傷つけないようにするのが孝行の始めである。」


「ピアスなんて不良がやることです。」
「ピアスなんてあけたら、お嫁に行けないんだから。」

と言われて育った世代なんですね、私は。
こうして文字にしてみると、今や「不良」という単語も「お嫁に行けない」というフレーズも最早死語であり、こんな言葉に私の青春(if any)を縛られていたのか!?と今更にして鬱々としてきますが、
「どうしてピアスをしてはいけないの?」
という当時の私の問いに、頭ごなしに禁止を言い渡す母の言葉に必ず付いてきた言葉が冒頭の「身体髪膚・・・」という唐突な中国の古典で(しかし後半部分は母もあやふやだったような)、その「シンタイハップ」という何だかやたら張り切った語感だけが今も私の記憶として残っているのです。


今、私はピアスをしています。ごめんなさい母上、でも大昔にお嫁に行ったので許してくださいな、「不良」になる可能性はまだゼロではないと思いますが・・・。
ドイツに住んでいる時に、娘と一緒にピアスの穴を開けたのです。私は勿論娘に「シンタイハップ」なんて言いませんでしたよ。もし言ったとしても
「わけわかんない」
と言われておしまいだったでしょうけど。
では私と娘がピアスをあけるに至るまでの歴史を書いてみると・・・


どうなんでしょうね、21世紀の子育てにおいても日本国内においては、中高生の女の子が「ピアスをすること」に対して、まあまともな家庭ならば諸手を挙げて賛成することはない、どころかまだまだ禁忌であるということは、私も了解していました*1。いわゆる私立の「お嬢様学校」ならば、ピアスの穴が見つかっただけで、親も呼ばれて叱責されることは間違いありません(「叱責」だけでは済まないと思いますし)。でも、嘗ての私のように(?)無邪気で無心な幼児の心で考えてみれば、それは如何なる理由に基づくものなのか、はっきりとした答になるものはないようです。ミッションスクールのお嬢様学校が、中国の古典「孝経」の教えを奉じているとは思えないので、「シンタイハップ」が理由ではなく、それは「ダメなものはダメ」的な、正当な理由なき校則だとわかっていても、「ピアス」というのは親が進んで娘にさせるという訳にはいかないものだったのです、娘が小学生だった10~15年前くらいは。
しかし一方我が娘の方は、かなり早い時期に「絶対にピアスしたい!」と思い定めていた節がありました。彼女が小学校1年生の時、色々と面倒を見てくれた上級生で6年生の女の子が近所にいました。そのお嬢様は学業大変優秀で、中学受験で慶応湘南藤沢中を受験、見事合格なさったのですが、受験後近所でばったりそのお嬢様とウチの娘が出会ったそうなのですが、その時に中学受験が終わったばかりの小学6年生であるそのお嬢様は既にピアスをしていて、「羽飾りみたいな、と〜っても大きくてと〜ってもきれいなピアスだった!」と興奮気味に私に報告した娘によると、
「◯◯おねえちゃん、『ごーかくはっぴょーの一週間後にピアスあけた』、って言ってたよ。私もごーかくはっぴょーが終わったらあけてもいい?ううん、絶対にあける!」(←娘が「合格発表」の意味を理解していなかったのは明らかですが、昔から言いだすときかない子だったことも確かです)
だったそうで。神奈川県以外にお住まいの方には詳しい事情がお分かりにならないと思いますが、自由闊達な校風であり校則もリベラル即ちピアスOKな慶応湘南藤沢中は、神奈川県の女子が受験する私立中学では偏差値が一番高いところ*2でありまして、娘が小学校1年生にして志が高いのはとても良いことであり(←棒読み)、「ピアス」が受験のモチベーションになるのならばそんな安上がりな嬉しいことはない、という気持ちで日々を送っておりましたところ、中学受験1年前にまさかのドイツ転勤、で娘のその野望(?)は潰えてしまったのです。
小学校6年生になったばかりで海外に行った娘には、「日本人学校」に行くか「インターナショナルスクール」に行くか、という二つの選択肢があった訳ですが、娘は後者を選択し、そしてそこから「念願のピアス・ライフ」への道が始まったのでした。日本人学校を選択していれば、当然校則でピアスは禁止でしたから。

インターナショナルスクールに入学してまだ数日も経たないうちから、
「ねえ、ピアスあけてもいいでしょう?外人の女の子はみ〜んなあけていて、あけていないのはわたしだけなの。だからあけてもいいでしょう?」
という娘の昼夜を問わない波状攻撃が始まりました。娘が物心ついて以来彼女の「み〜んな◯◯持っていて、持っていないのはわたしだけ。」攻撃は色々なパターンでありましたが(◯◯には、たまごっち、キティちゃんのタオル、お絵描きステンシル、等々が入ります)、「み〜んな」というのはせいぜい全体のうちの4分の1とかだったのですが、今回ばかりは限りなく文字通りの「み〜んな」に近いことは事実でした。一説には外人の女の子は男の子と区別するためにほんの赤ちゃんの頃からピアスをあけるとかあけないとか。しかし、ここで簡単にピアスを許すようなことは勿体ない、つまり中学受験のモチベーションとしての「ピアス」を不意にしてしまった後だったので、咄嗟に出た私の答は、
「じゃあ、ESLを出られたらね。」
というものでした。ESL(English as Second Language)というのは、英語が母国語じゃない生徒が、授業の時に別室に集められてそこで本来のクラスのレベルに追いつくために授業を受けるシステムなのですが、インターナショナルスクールに入ったとはいえこのESLから普通クラスに入れることになって初めて「一人前」という感じなのです。娘のピアスに対する折角の執念を利用しない手はありませんから。娘がESLを出るまでの道のりは、本エントリーとは関係ないので端折りますが、やがて月日は過ぎ親の苦労と娘の苦闘の末、娘の英語力が同級生に追いついたと認定されやっとESLを出て、普通のクラスに合流する日が来ました。
ところで、私は来るべきその日(ESLを出て晴れてピアスをあける日)のために、現地に詳しい日本人のママに(そこのお嬢様もつい最近ピアスをあけたと娘から聞いていたので)、このドイツの街のどこでピアスをあけたらよいのか、ちゃんと聞いてありました。そのママによると、
「私が知っている選択肢は二つなの。一つは、アルトシュタットにある『英語が通じるけれども、衛生状態が悪そうな不潔なアクセサリー屋』、もう一つは、『とっても清潔そうだけれども、英語が全く通じなくてドイツ語だけの美容院』。私は娘に後者を勧めたんだけど、娘はお友達と一緒にさっさと『英語で不潔』の方に行っちゃったのよ。『エイズになったらどーするの!!』って怒ったんだけど後の祭り。その後、消毒には気を使ったわ。」
とのこと。私が渡独以来、艱難辛苦ドイツ語を勉強してきたのはこの日のためであった!とばかりに、当然の如く後者(清潔なドイツ語美容院)を選んだのでした。ばっちりドイツ語での交渉の予習もして、更にドイツ語で一方的にまくしたてられて乗せられてとんでもないこと(鼻とか唇にもピアス穴あけられてしまうとか←ドイツでは若い子で鼻ピアス唇ピアス結構います)になってしまうのを防ぐために、ピアス穴をあけてほしい箇所にボールペンで印をつけてから(←もはや黒歴史)いざその美容院に向かったのでした。ちなみに、娘は耳たぶのほぼ中央、私はかなり下の方に印をつけました。昔一世を風靡した小林麻美の「こぼれ落ちそうなパールのピアス」が忘れられなかったからですが。


(確か事務所の社長と今で言う「できちゃった婚」をして引退したんですよね)
さて、ピアスをあける日の当日、美容院の駐車場に車を停めた時から実は私は何だか胸がドキドキしてきて、エスカレーターを降りてお店の入り口に近づくにつれ、一瞬「ピアスあけるの、やめちゃおうか。今なら引き返せる。シンタイハップ!」という考えが頭をよぎりましたが、何せ横には宿願を果たすべくこの日を迎え一歩も引かないであろう娘がいるわけで、思い切って入店。娘と私はそこで、ドイツ人らしい気のいいおばさんと、どう見てもゲイでどう見てもドイツ人以外に見える色の浅黒い男の美容師との二人に、予想通りのドイツ語早口喋りまくりにまみれつつも、無事にピアスをあけることがでたのでありました!!!ドイツ人ていうのは、こちらが明らかに「ガイジン」(ドイツ人から見て)であっても、ドイツ語手加減してくれませんからね。日本人だったら、ガイジン相手に日本語喋る時には、ゆっくり喋ったり、言葉を選んだり、と気を遣いますよね、それが全く彼らにはありませんから。しかし、それでも「やってて良かったドイツ語!」でしたね、まさに。そして運命の瞬間はあっと言う間で「痛み」どころか、感覚さえないうちに、ピアスホールがあいてしまいました、ボールペンで印をつけた望みの場所に。「案ずるより産むが易し」! 二人の子供の出産の時には「この諺、全然真実じゃない!」と思いましたが、ピアスホールをあけることに関してはまさに真実でありました。
・今日はシャンプーをしないように
・雨が降ってきたら、濡れないように傘をさすこと(←ドイツ人は大概の雨なら傘はさしません)
・今日嵌めた18金のピアスは、6週間はそのままにしておくこと
・何らかの理由でその金のピアスが外れて無くなってしまったら、またお店にきてほしい
という注意事項をドイツ語で何とか聞き取って母娘共にハッピーなピアスライフが始まったのでありました。



ピアスその後 娘の場合:
中学3年の秋に日本に帰国して公立中学校に編入したのですが、トーゼンのことながらピアスは禁止でしたので、「ピアスの穴が塞がっちゃわないように」(←娘の言)毎晩寝る前にピアスをして寝ていました。彼女は高校を5校受験したのですが、そのうちの3校は私立だったのですが、受験で行った時も合格発表の時も、在校生でピアスをしている女の子を普通に見ましたから、もしそのうちのどこに進学してもピアスは全然OKだったでしょう。私立でピアスOKというのは隔世の感がありますが、更に受験した公立高校もそこは自由な校風で、生徒手帳に「ピアスOK」と書いてあるかどうかは知りませんが、「◯◯高校もピアスをしても大丈夫らしい」とのことで、自分の高校時代を振り返ると驚きでしたし、結局進学した国立大の附属高校はこれまた自由な校風でピアスOK。もう「シンタイハップ」の時代ではないのですね。「『ピアスOK』という高校だけを選んで受験したのではないか疑惑」は、少々穿ち過ぎですが、少なくとももし「ピアスOKの高校」と「ピアス禁止の高校」の2校しか合格しなかったら、娘がどんなに通学が大変でも前者を選んだことは間違いありません。


ピアスその後 私の場合:
「お洒落」という点では、ピアスは劇的でした。私の場合、40歳を過ぎると、着るもの一つをとっても、もうどこへ行ってもどんなバーゲンに行っても心躍ることは殆どなく買うものは決まってくるのですよね。黒のタートルネックのセーターなんて、ウール、カシミヤ、綿、ノースリーブ、半袖、長袖、七部袖、と何枚持っていることか。ベージュやグレーのセーターも然り。一応お洒落のキャリアも積んできているので、一通りのものは持っていて、小物やアクセサリーとの組み合わせ方も熟知していて、良く言えば完成度は高く(体型、容姿は除く)、言い換えれば「マンネリ」「無難」に陥りかけていたのですが・・・。ピアス一つで変わります!
40歳を過ぎてのピアスはとてもいいですよ!
「ピアスでなきゃダメなの?イヤリングでも一緒では?」
という疑問もあることでしょう。ピアスとイアリング、何が違うと言えば、二つあると思います。

一つ目は内面的なことですが「緊張感」。
私はピアスを耳朶につける時の女性の仕草が好きです。すごく繊細で悩ましいのです。つける時の緊張感は他のアクセサリーとは全く違います。イアリングは、ネックレスや指輪やスカーフや帽子と一緒で「小物の一つ」の域を出ませんが、ピアスは違います。装うための「小物」より更にもう一段階自分に近いもの、という感覚、それが緊張感になるのだと思います。そして「オバサン」とも称される年齢の女性に一番欠けているのは、言うまでもなくこの「緊張感」なのですから、ピアスをつけて緊張感を取り戻すというのは特効薬です。

二つ目は見た目の「存在感」。
不思議なのですが、ピアスという装飾品は分量に相応しない存在感があります。その存在感はイアリングとは比較にならないのですが、これは理屈ではなく実際にそうとしか言えないのですが、とにかく破壊的に存在感があります。顔に一番近いところにあるからでしょうか、ピアスだけで、相当印象が左右されます。ユーミンのバブル期のアルバムのタイトルにもある「パールピアス」、即ち真珠のピアスですが、こんな小さな物体が持つ「顔色を明るく見せる効果」たるや抜群です。それが同じパールでもイヤリングと比べるとその違いがわかるのです、全然違う(私の「思い込みバイアス」も入っているかも?)。他の素材のピアスであっても、顔を縁取る位置にそれがある存在感だけで、今までとは違う効果が生まれること請け合いです。

この「緊張感」と「存在感」がまたお互いに影響しあって、40歳を超えるとなかなかに得難いお洒落の刺激を生んでくれるのですね。
例えば外出する時、服を着て、最後にピアスをつける、その時に今までは年の功(?)でスルーしていたことに気がつくのです。「このセーターにはこのネックレス」と惰性で決めつけていた長年お馴染みの組み合わせが何かそぐわない、「too muchかも?」と初めて気付かされます。ピアスの存在感はかなり大きいので、他のアクセサリーや小物とのバランスも見直さなければなりません。例えばパールのピアスをしたら、やはりそれに似合うコーディネートというものがあり、それは何もブランド物で豪華に装うということではなく(←寧ろこういうのは野暮)、カジュアルであっても、美しくプレスされたシャツとか、首のところがよれていないTシャツとか、カシミアでなくても(でも、パールにはカシミアが似合うのも事実)せめて毛玉のついていないニット、とか、そういうものを合わせたくなって、自分で自分にチェックを入れざるを得なくなるのですね。パールのピアスでなくても、トルコ石ならトルコ石のピアスに相応しい清々しいコーディネート、ベネチグラスのピアスならばそれに相応しいコーディネートというものが、何故かしら自然に立ち上がってくるのです。私の場合、ネックレスとかペンダントなどを「取りあえずつけておこう」という付け方は一切しなくなりました。ピアスの存在感が大きいので、近い位置にあるネックレスやペンダントは過剰すぎて、逆にお洒落ではなくなってしまうような気がして。
一言で言えば、ピアスをすることによって、お洒落のスタート地点に戻れるというか、初めて口紅をつけてドキドキしたあの頃に戻れるというか、惰性で積上ったお洒落をリセットすることができる気がします。
ただ、とても残念なのは、日本では「大人のピアス」がとても少ないことです。ファッションビルに行けばどこでもピアスは沢山売っていますが、どれも若い子向けで、値段も見た目もクオリティもチープなのです。かと言って、これ見よがしのダイヤモンドのピアスは私の趣味では全然ないので、本当に探すのが大変ですが、だからこそ選び甲斐もあり、買ったものに愛着もあります。こういうお洒落の満足感は、若い頃には感じられなかったものですね。この先、歳を重ねてもその年齢に相応しいピアスを探して身につけるという楽しみもあります。

以下は手持ちのピアスの幾つかです。


(↑ごく初期に買ったパールのピアス。ドイツ人がデザインしたもの)

(シルバーの輪っかにラインストーンとパールがぶら下がっていてシャープでいて可愛い)

(↑上のパールをつければ誰でも「小林麻美」になれる?)

(↑ベネチアンガラスのピアスで、可憐だけれど付けると存在感がある)

(↑このボリュームのトルコ石がこなせるのは、40歳以上限定かも)

(↑フランスのIMACというアクセサリーブランドのもの。大人に合う紫)



ところで、不思議に思ったことはありませんか?何故長年日本では女性のアクセサリーとして「耳飾り」が一般的でなかったのでしょう?平安時代十二単を着た女性がピアスしている絵は見た事ありませんし、時代は下って江戸時代の大奥の女性たちでもピアスをしているというのは見たことないですよね。でも考えてみれば、指輪やネックレスや腕輪も日本の女性の装飾品にはありませんでした。
しかし。
「耳飾り」は古墳時代まではあったのです。
山梨県埋蔵文化財センターのウェブサイトで、「教えてシンゲン君!」(←この「シンゲン君」とは武田信玄君のことだと思われます)というコーナーがあって、そこに以下のような質問と回答がありました。

Q3 むかしのひとは、おかあさんたちみたいにおしゃれをしていたのですか?(甲府市 Nさんより)

シンゲン君のこたえ:
お母さんはどんなおしゃれをしているのかな?昔の人たちも負けていないよ。いろいろなアクセサリーを身につけていたんだ。
縄文時代の遺跡からは、ヒスイなどのきれいな石や動物の骨でつくったペンダント、貝や小石をつないだネックレスが発見されているよ。
とくに縄文時代の後期から晩期にかけての遺跡では、耳かざりは、たくさん見つかっているんだ。これは粘土で形をつくり、焼き上げたもので、大きさはふつう直径3〜4cmほど。でも、大きいものは9cmもあるものもあって、こうなるとちょっとビックリするね。下の左側の写真のような飾りを、耳たぶに穴をあけて、その穴に入れて付けていたんだよ。縄文人のピアスだね。
古墳からは、金や銀をつかったイヤリングや、ガラス玉をつらねたネックレスなどがまとまって見つかることがあるんだ。このころは、身分の高い人たちが身につけていることが多かったようで、おしゃれというよりは、アクセサリーの輝きで、力の強さを見せつけ、人々を従えようとしたようだよ。
でも奈良時代より後になると、アクセサリーを身につける習慣はなくなり、おしゃれといえば髪型(かんざしなどの髪飾りも多くなる)と着物に変わっていくんだ。 


縄文時代の耳かざり 縄文人が耳にピアスのように、はめていたのかな(北杜市金生遺跡出土)









古墳時代の玉素材 つなげてネックレスにしていたんだよ。(笛吹市四ツ塚古墳群)








ということで、シンゲン君のお陰でやっと「シンタイハップ」の呪文から解放されて、縄文〜古墳時代のご先祖さまと同じくピアスライフにお洒落を見いだしている私なのでした。



 

*1:一部のいわゆるDQNというかヤンキーのご家庭を除く

*2:参考:http://www.yotsuyaotsuka.com/deviation/pdf/110710goufugouyobi_w80.pdf