夫のドイツ赴任顛末記①

それは何年前?2004年お正月が明けると、「今年は転勤の年だ!」と夫が騒ぎ始めた。
私はというと、夫とは対照的にクールに構えていた。
何故ならば、お尻叩いて中高一貫の私立に入れたもうすぐ中三の息子、
やはり中学受験を控えたもうすぐ小六の娘がいて、これは「単身赴任」しかないでしょ、と思っていたから。
そのうちに、「国内のポストはどこも埋まっているから、これは海外かもしれん。丁度北京の副支店長のポストが空きそうなんだよな。」と、気がついたら会社帰りに高い高い「中国語講座」語学教材をほくほく買ってきて、MD (当時はiPodなかった!)に入れて聞き始めた。
会社から遅く帰って来るなり、テレビの前に座って

「教育テレビ 中国語講座

を真剣に見ていて、娘に「どうしてパパは中国語を勉強し始めたの?」と聞かれる始末。
私は、海外でも北京ならば、勿論これまた単身赴任でお願いするしかないと思っていた。
中国だったら近くて、テレビの天気予報の画面にもいつも映っているし、

まあはっきり言って赴任先が北京では(2003年のSARS大流行の翌年では)「行きたい」という気も起こらなかった、と言ってもこれは中国蔑視では決してない。
「北京だったら一回くらい遊びに行って、かの『マキシム』*1でフレンチ食べたい。」くらいしか思っていなかった。


ところが、2月も末のある冬の日の午後、私がホットカーペットの上で猫状態

になっていたところ、電話が鳴った。夫だった。
「ドイツのデュッセルドルフに転勤になったから。とにかく報告はしとくよ。」
だそう。私はというと、

「あ、そう。」

と言って、電話の後はまた猫状態になったのだった。

夕方、猫も流石に主婦に戻らなくてならなくなり、頭の方も回転し始めた。

ドイツ?のどこだっけ?ヨーロッパは遠いよねー。
パリだったら遠くても絶対に行くのに(←この時点でドイツに行く気が全くないことがわかる)。
でも、ちょっと待って。
ドイツに単身赴任する夫もそりゃ大変かもしれないけれど、中三の息子と受験間近の小六の娘を置いていかれる私の方も、これは相当大変じゃない?
でも、私立に通う息子を連れては行けないし・・・。
それに小六の娘の四谷大塚の春期講習のお金、昨日振込んだばっかり!
???じゃあ、あの中国語講座の高い高い教材はどうなるの???

夜、夫は帰り道に買った、高い高いドイツ語講座の教材一式と共に帰宅した・・・。
その日「取り敢えず」決めたことは、まだ子供達にも(息子は期末テスト前で、娘は学芸会前だった)このことは言わない、「取り敢えず」私と子供の身の振り方は決めずに、夫だけ先ず3月の終わりにとにかく一度ドイツに行ってくる、学校等、どんな様子かも聞いてくる、ということになった。

偶然その次の週が、息子の担任との個人面談の予定が前から入っていた。夫がドイツ転勤になった話などせぬまま、滞り無く面談は進み、最後になって、
「先生、実は主人がこの度ドイツに転勤になりまして。難しい年頃の男の子を置いていかれるのは私も不安なんですけど、よろしくお願いします。」
とご挨拶したら、

「この学校は、保護者の海外転勤に付いて行ってもまた戻ってこられますよ。」

との先生からの爆弾発言!
「えぇ〜っ!何年くらいまでいいんですか?1年か2年くらいでしょうか?」
と私。すると先生は、

「さあ、戻りたい気持ちがあれば何年でもいいんじゃないですか。」

まさかの展開。どうする?
家族は日本に留まって、一癖も二癖もあるウチの子供達を私一人で面倒みるか(ちょっと想像しただけでもそれは地獄)、
それともいっそのこと、家族一緒にドイツに赴任する?
パリなら一も二もなく行くんだけどなぁ(←まだ言ってる)。

ということで、面談で思わぬ貴重な情報をゲットした私だったが、夫と話し合って依然として子供達にはまだ言わないことにした。
娘は、「外国に住む」というと、きっとそれが例え北京でも、「絶対に行きたい。」と言うに決まってる。
逆に息子は鉄道やパソコンや歴史のオタク友だちに恵まれた今の環境を捨てて海外に行こうとは思わないだろう。
不用意に子供達に話して、兄妹で意見が違った場合、とにかくどちらかにはなるわけだから、その時に自分の思う通りにならなかった方から、先々までずっと不満が出てくることが予想されたからだ。
そして私と夫は、決して「ものわかりのいい親」ではないので、「子供に決めさす」ことなんてありえなかった。
からして、親が熟考して結論を出してから、用意周到に周りを固めておいてから、子供に言うことにした。


で、結果、

家族でドイツはデュッセルドルフに赴任することにした

のだ、後先考えずに。
何と言っても、息子の学校が帰国後の復学を保証してくださったことが一番大きな理由付けになった。
海外から高校生(つまり義務教育以降の)子供を連れて帰国するのはとても大変だということ、元いた学校にそのまま戻れるケースは極めて稀であることをこの時、私はまだ知らなかったのだけど。
息子には、期末テストが終わってから、夫がドイツ転勤になったことを話し、「とにかく家族みんなで5月に行くから。向こうで1年くらい暮らして、どうしても帰りたくなったら学校に帰れるらしいから、一人で帰って、鎌倉の祖父母の家から通学してもいいから、とにかく一度は家族でドイツに行きましょう。」と、結論のみを言い渡した。
娘には、「中学受験はしないことになったけれども、必ず高校受験をしなくてはならないからこれまで通り、しっかり勉強するように。」と言い渡した、
ちなみに、四谷大塚は事情を話したら、

払い込んであった春期講習の授業料を返還してくれた、

ありがとう!
そうして海外赴任が決まった家族なら皆経験するであろう平均的忙しさの3割増くらいの怒濤のような忙しさをくぐり抜け、5月の末、私たちは成田からドイツのデュッセルドルフに向かったのであった。


・・・しかし。
私は、ドイツとドイツ語、海外生活、というものをその時は

はっきり言って、なめきっていた。

何とかなるだろう、と。
そしてドイツでのディープな3年間がスタートした。