'大学入試にTOEFL' 朝日新聞オピニオン欄「争論」の遠藤利明自民党教育再生本部長の主張に欠けていること

5月1日朝日新聞朝刊オピニオン欄「争論」で、遠藤利明氏(自民党教育再生本部長)ご自身が、大学入試へのTOEFL導入について語っていました。

想像を越える、実に酷いものです。


これに対するTwitter上の反応は、
「自分は受けたこともない、『受けても10点くらい』(筆者註:TOEFLは120点満点)と自分で言っている人物が、よく無責任にTOEFL導入を言えるものだ。」
「海外進出する中小企業や、観光地で働く人に英語が必要と言っていながら、政治家である自分は国際会議では英語が話せないが『政治家は英語力がないと務まらないものではない』、と言う神経がわからない。」
という、至極全うなものでした。


遠藤氏の主張が酷いことに加えて、彼の主張には致命的な欠陥があります。それは、
TOEFLの受験料については一言も触れられていない
ということです。
「全受験生について、1回225ドル(筆者註:アベノミクスの円安のお陰で円換算した受験料は上昇中)以上する受験料を、何回受けても国が持つ」というのではないんですよね。個人である受験生の負担なんですよね。それは取りも直さず、日本のお父さん、お母さんの負担になるということに、一言も触れないというのはどういうことなのでしょうか?(これについては、日本のお父さん、お母さん、大学入試や国家公務員の採用にTOEFLが導入されてよいと思いますか?というエントリーで長々と書いていますので、そちらも見て頂ければと思います)

それ以上に問題だと思うのは、
日本を、国民全体としてどれくらい英語が使える国にしたいのか?
という視点が全く示されていないことです。「政治家は、英語力よりも広い視野を持って政治を行うから英語力がなくても務まる」というのならば尚更、英語力だけでなく、中国語をはじめとする他の言語に対する目配りが全くない、この視野狭窄はどうなんでしょう?
英語力以上のものを持って政治家をやっていると言うのならば、
「日本の国民全体としてどれくらい英語が使える国にしたいのか?」
ということに加えて
少子化が進み人口が減っていく日本で、英語力をどのように国民で分担するか?
国全体として、英語も含めた語学力をどのようにデザインするか?
というビジョンを示すべきではないですか?





私がかねがね感心しているのは、海外のチームに移籍して活躍しているサッカー選手の語学力です。
もう引退しましたが、中田選手がセリエA時代に試合後現地のスポーツ記者のインタビューにに英語でなく流暢なイタリア語で答えていたのやら、チームメイトとレストランでイタリア語で普通に歓談しているところやら、更にはあの巨匠アルマーニとイタリア語で対談!しているのを見て、文字通りぶっ飛んでしまいました。
イタリア語はわからない私ですがドイツ語は必要に迫られて少々学んだことがあるのでわかるのですが、ブンデスリーガに移籍した長谷部選手がドイツのチームメイトとやはりレストランで会話している動画を見たことがあるのですが、あの七面倒くさいドイツ語をちゃんと修得して普通に話しているのを見て感動しましたよ。
他にも英語学習の本を出している川島選手とか、やはりイタリア語でファンと交流している長友選手などを見ると、本当に語学って大事だと思います。
しかし、彼らが「EUの移民政策について」とか「フランス政府がサッカー選手の高額報酬に75%の課税をしようとしていることについてどう思うか?」という問題について論理的に英語やイタリア語やドイツ語で解説できるかと言うとそれは別の話です(中田選手ならできるかも?)。っていうか、そんな英語力やイタリア語力やドイツ語力は彼らには必要ないのです。
そして、そもそも彼らが海外の一流チームに移籍できたのは、「語学ができるから」ではなくて「サッカーの技術が優れているから」ということに尽きます。「Football first,language second」であり、決して逆ではないのです。
先ず彼らのサッカーの技術が卓越しており少々言葉のハンディがあっても高額の移籍料を払い迎え入れたいと考えるから海外のチームに招かれるわけであり、語学がちょこっと出来るから海外移籍した訳ではない、ということです。
そして彼ら自身にとって語学とは、チームメイトやファンや現地の記者とコミュニケーションするための「道具」でありそれ以上ではないので、別にEUの移民政策について語るレベルでなくても十分なのです。
「英語だけ」ではサッカーの世界では通用しなくて、時にはドイツ語やイタリア語が必要なことも、また示唆に富んでいます。
これはサッカーのみならず他の全てのことに当てはまるのではないかと思うのです。


大学入試において全ての大学にTOEFLを導入しようとしている、遠藤利明氏を本部長とする自民党教育再生本部は、日本の社会の将来像をどういう風に描いているのでしょうか?
ちょっと考えても目眩がするくらいのコストをかけて(←このコストを払わされるのは、学生とその親)制度を改革したその先に目指しているものが何なのかが全くわかりません。



ヨーロッパを旅行した方なら経験があると思いますが、英語圏ではないフランスでもドイツでもイタリアでもスペインでも、空港やホテルのフロントや旅行会社では英語が通じます。日本でもここまでは同様でしょう。成田でも羽田でもカウンターに座っている航空会社の社員に外国人が英語で何か尋ねたとしたら、にこやかに英語で答えてくれるでしょうし、東京や大阪でなくても大都市のホテルのフロントなら一人くらいは英語で応対できるホテルマンがいることでしょう。ここまでは問題ありません。
では観光地はどうでしょうか?ヨーロッパ大陸各地の有名な観光地に行けば、お土産物を売る店のおじさんが、すっごい巻き舌の英語で話しかけてきたり、中には「安いよ!」「おまけするよ!」と日本語で話しかけられた経験もあるのではないでしょうか?観光客が行くレストランやカフェなどでは、英語のメニューがあり、場所によっては日本語のメニューまであったりしますよね(日本人観光客が長年築いた実績がありますから)。そういうレストランだとウェイターも英語でメニューの説明をしてくれたりします。
一方、外国人がよく訪れる日本の観光地ではどうでしょうか?以前鎌倉に住んでいた時に、若宮通りの観光客相手のお蕎麦や丼ものを出すお店の前で、外人の家族連れが立ち尽くしているのを見たことがあります。日本独特の本物そっくりの蝋細工の見本は出ていても、それが一体何なのかは、ショーウインドウの見本には英語で書かれていないので彼らにはわかりません。お店の前に出ている「お品書き」だって日本語オンリーです。もし彼らが勇気を振り絞って店内に入ったとしても、店員は彼らの英語の質問に答えることはできないでしょう。小町通りのお土産物屋さんも然り。これは日本の他の観光地もそうでしょう。確かにフランスやイタリアの観光地並みに、日本の観光地でも英語が通用する範囲を広げる余地はあるでしょう。遠藤利明氏もおっしゃっています、

蔵王スキー場に海外からたくさんお客さんが来るのに、話せない。これはもったいないですよね。

しかし、そのためにTOEFLを大学入試に導入する必要などないのです。TOEFLのレベルなど全く必要ありません。TOEFLというテストの性格をわかっていれば、蔵王スキー場で英語が通用するようになるために必要なのはTOEFLではないことはわかるはずなのですが。スキーを英語でコーチしたり、山菜蕎麦や鎌倉彫のお盆の説明を英語でしたり、レストランで英語で注文をとったり、ということは、テンプレを覚えて、外人教師相手に少々練習をして、あとは現場で経験を積むのみ、ですよ。英語圏ではないフランスやドイツの観光地のお店の人が喋っている英語も、その程度の英語なのです。決して、TOEFLレベルの英語を勉強したからではありません。


旅行ではなく現地に住むともう少しよくわかってきます。
私は夫の駐在でドイツに3年住みましたが、赴任する前はこう思っていました、「ドイツに住むと言っても、今更難しいドイツ語勉強しなくても、普通に英語くらい通じるでしょ。」と。我々アジアの日本人から見れば、英語はドイツ語と同じくゲルマン語派であり、フランス語やイタリア語やスペイン語とも文法は極めて似た言語なのですし、英語の発祥地であるイギリスとは狭い海峡を挟んでいるだけなのですから、大陸のドイツやフランスは英語だけで何とかなるのではないかと思っていたのです。見た目も、外見が欧米人だと、誰もがすっごく上手に英語を話していると思ってしまいますが、実態はそうではありません。
生活に即して言うと、鉄道や電車のローカル駅は英語など通じませんし、DB(ドイツの国鉄)の車掌さんも通じる人と通じない人がいます。
タクシーには「英語OK」とステッカー貼っているものもありますが、そもそもタクシーの中の会話って、英語だろうがドイツ語だろうが、行き先の住所と「右・左」、「止めて」が言えればよいのですから、英語ができないタクシーでもあまり不便は感じません。
役所は、入り口の大きな受付のようなところでは英語が通じますが、個別の窓口では通じません、郵便局も同じ感じ。
病院に行くと、医者と受付は英語を喋るけれども、看護師は全く英語を喋りません。
デパートは、店にもよりますが、インフォメーションのところに座っている人は英語を話すけれども、各売り場の店員さんは全く英語を喋れないことも多いですし(英語の数字すらわかってもらえない)、スーパーに至っては、レジのおばさんやおねえさんは勿論、「店長」のような制服を着た男性店員も英語は全く喋れません。街中のパン屋さんや肉屋さんは、勿論英語など通じません。
レストランは、観光客の行かない普通のお店は勿論メニューはドイツ語だけ(日本のように、写真付きの気の利いたメニューではありません、文字だけ。)、注文も会計もドイツ語オンリーです。

このあたりは、「グローバル化されていない」「英語が喋れない」と言われている日本とそんなに変わらない状況です。一方日本とは少々異なる場面も経験しました。

家に来るペンキ塗りや配管修理の業者さんなどの中には、年は若いのに職人のボスみたいなおにいちゃんがいて、彼は英語を喋ったりします。「何時から何時まで仕事をする」とか「壊れているところを修理するには新しい部品が必要で、それを注文するには2週間かかる」といったレベルの英語ですが、楽しそうに英語を喋るんですね、東洋人の私相手に。彼は大学卒ではなく、職業学校を出たマイスターなのだと思いますが、職業学校でこのレベルの英語を学んだのだと思います、勿論TOEFLなどとは無縁でしょう。「ペンキ職人/配管工で英語が喋れる」ということは、外国人の家の仕事も受注できるということで有利なのでしょうか。外国人が多く住む都市では有利かもしれませんが、ド田舎ではどれだけ役に立つかはわかりません。それに何より、英語ができる云々よりも、迅速に正確に作業が出来る方が重要であることは当たり前のことです。
またドイツでは自動車教習所の代わりに「Fahrlehrer」という個人でやっている自動車教習の先生に実際に車に乗ってもらって練習するのですが、彼らの中にも「英語出来ます!」と看板をかけている人もいます。私も実際に「英語OK」というFahrlehrerに数回乗ってもらって左ハンドル右側通行の練習をしたのですが、「英語OK」という看板の中身は私のサバイバルイングリッシュとどっこいどっこいのレベルで、「Go/Turn/Stop」「Right/Left」という限られたボキャブラリーに加えて、別に飛ばし屋でも何でもない私にひたすら「Drive slowly,more slowly.」と繰り返すのみ、時々前方を指差して、「Police watch you and take a picture. You have to pay money.」と言うのです、つまり、「あそこにネズミ取りのカメラがあって、写真取られたら罰金だよ。」と「速度違反監視カメラ」という英単語抜きでこのように説明してくれているとっても親切な先生でした。加えてある建物の横を通った時に、「That building is not beautihul! It is very ugly!」と怒ったように言うので、帰宅して地図を見てみたらそれは税務署の建物で、彼が背負っているものがほの見えてしまったのですが・・・。このレベルの英語でも堂々と「英語OK」の看板がかけられるのです、だってそれ以上の英語は実際必要ありませんから。

ペンキ屋さんや配管業者や自動車学校の教官で「英語が喋れる」ことが日本社会でどれくらい有利なのかはわかりませんが、彼らに限らずドイツ人は少しでも英語が喋れる人は、自信たっぷりにもの凄く喋ります。どうもドイツでは「黙っているのはバカ」と思われているかのようなのですが、ところが、彼らが喋っている英語をよく聞いてみると、現在進行形や現在完了など日本だと中学レベルの英文法が滅茶苦茶です。簡単な文章を多量にこちらが口を挟む間もないほど畳み掛けてくるので何やら流暢だと錯覚してしまいがちですが、実はそうでもありません。ただ、少々文法的に間違っていようがリラックスして楽しそうに喋っているところが日本との大きな差です。ドイツも第二次世界大戦英米に負けた国ですが、日本と違って「英語信仰」というか「英語崇拝」というものはないみたいです。だからリラックスして気軽に英語を話しているのではないでしょうか。慎み深くシャイな日本人が、性格だけドイツ人になったとしたら、英語力は実はそんなに変わらないのではないか、と思います。


日本よりもグローバル化されているらしいドイツでも、日常社会では英語はこの程度なのです。
っていうか、これで十分なのです。日本と同様、ドイツも、ドイツ語で高等教育を受けて学校を卒業し、殆どの国民が国内で仕事に就き、国内で生活し、英語が必要とされる場面は限られていますから、当然と言えば当然でしょう。
もし、遠藤利明氏を本部長とする自民党教育再生本部が目指している「グローバル化」された日本の社会がこの程度ならば、それを達成することはそんなに難しいことではないと思いますし、そのためにTOEFLは全く必要ないと思います。


しかし。
一方で決定的な日本との差は、「高いレベルの英語力と、英語以外にも外国語が喋れて当たり前」という層が必要十分にいる、ということです。
例えばそれはEUの議員であったり、国会議員であったり、また政府の高官、アカデミックな仕事に就いている人は、日本の国会議員が足元にも及ばないほど語学が堪能で、母国語と同じレベルで英語で会見も議論もでき、外国の首脳と通訳抜きで話ができるのです。また大企業のトップやエグゼクティブ(及び予備軍)は当然のように英語を喋りますからビジネスは英語だけでOKですし、アカデミックな分野の学者などは英語以外にも数カ国後外国語が喋れたり、同じくインテリ層である医者も英語は当然のように喋れます。日本の「グローバル化」とやらに足りないのは、この部分ではありませんか?彼らの使う英語のレベルは、TOEFLなどよりもはるかに高いレベルのものです。言い換えると「大学入試にTOEFLを導入」したくらいでどうにかなるものではないのです。
日本が国として本当に力を入れなくてはならないのは、将来日本の「英語部門」を担う人材への高度な英語教育なのです。
今春東大が発表した新しい語学プログラムや、慶応大学の学期スケジュール変更の方が(←詳細は東京大学の新しい語学プログラムと慶応大学の学期スケジュール変更のニュースについて 雑感を読んで頂ければ)、「TOEFLの大学入試導入」という自民党教育再生本部の愚案よりもはるかに、日本全体の英語力として足りなかった部分、欠けていた部分を補うものとなるでしょう。


要するに、国の中で「語学力」を無駄なく配分すべきなのです。最適な場所に、最適なレベルの英語力を持った人材を配置するということです。
そして、観光地や日常社会での英語のレベルを引き上げるのにはTOEFLのレベルは必要なくて、また議論や交渉も英語でできる人材を育てるのにはTOEFLなどでは足りない、ということなのです。

それを、ビジョンも示さずに、一律に「大学入試にTOEFL導入」とお題目を唱えている「教育再生本部」とは何なのでしょう?


また
「フィリピンやシンガポールやインドでは、日本よりも英語を喋れる人が圧倒的に多い。TOEFLの国別平均点でも日本よりもかなり上位である。それを見習うべきだ。」
という意見が、この英語教育に関してよく聞かれますが、本当にそれらの国を見習うべきなのか。日本が目指す形は、それらの国とは違うのではないでしょうか?国別TOEFLの平均点などに一喜一憂して、日本をフィリピンやシンガポールと比べるのは間違っています。それらアジアやアフリカの嘗て欧米の植民地だった国は、現地語では高等教育を行うことができなくて英語で行われていますから英語という言語の重要性はまた異なってきますが、言うまでもなく、日本と同様にドイツやフランス、イタリア、スペインでも、高等教育は母国語で行われており、この先それが英語にとって代わることはないでしょう。そして日本はノーベル賞受賞者を何人も輩出しているのですから、日本語で行われている教育の中身のレベルに関しては何の問題もないのです。母国語である日本語が、高いレベルのアカデミックな思考に十分耐え得る言語であることを感謝して、さてそうは言っても「グローバル化」とやらに対応するために、国民全体としてどれくらいの英語力を目指せばよいのか、を考えなければならないのではないでしょうか?TOEFLを受けたこともなく、TOEFLの受験料についても何の言及もない自民党教育再生本部長に欠けているのは、この大きな視点です。



日本の「英語部門」を担うべき、英語で議論、交渉、プレゼンが不自由なくできる政治家や企業のエグゼクティブや医者、会計士などを先ず育てなくてはなりません。そのレベルの英語を日本人が修得するには、逆に大学入試にTOEFLを導入したくらいでは全然駄目であり、各大学の各学部でそれぞれの専門用語の修得を含めた英語教育、少人数でのプレゼンやディスカッションを行う授業を通じてではないと身につかないレベルになりますから、望まれるのは大学入学後の英語教育の充実です。
日本という国全体の中ではメインの「英語部門」でないかもしれないけれども、職業によって英語ができれば有利な場合はそれに応じた英語教育が必要です。それは議論や交渉ができるレベルの英語力では全くなく、各々の分野で十分な英語でよいのです、勿論TOEFLなど必要ないのです。先ず高校での英語教育の選択肢に、日本人教師による文法がちがちの英文解釈の授業などの代わりに外国人教師による少人数の会話やプレゼンの授業を認める方が、余程効果的でしょう。「英語神聖化」をやめて、「道具」だと割り切り、気楽に話せるようになることが一番効果があると思いますが、市や町などが、コミュニティカレッジのような形で、その市や町に住む人のニーズに合った英会話の講座(例えば、「スキーのコーチを英語でするための英会話」、とか)を開くのも、TOEFL導入よりは遥かに効果が望まれるでしょう。
そして、肝腎なところは、「英語だけでは足りない」ということです。ドイツの中高にあたるギムナジウムでは近隣の国の言葉も含めて多くの言語の中から第一外国語を選べます。メルケル首相は東独出身ということもありますがロシア語が得意だそうで、プーチン大統領とはロシア語でサシで話ができるとか。そのプーチン大統領は逆にドイツ語が堪能だそうですが。英語以外の近隣諸国の言語が喋れる人材の厚さもまた大事だということです。今寧ろ心配しなければならないのは、遠藤氏を筆頭にして「英語、英語」と騒いでいる蔭で、他の言語に堪能な人材を育てることが疎かになっていることではないでしょうか。



・将来政治家や企業人やアカデミックな分野や医者を目指す大学生には、高度の語学力を身につけさせる
・その教育は、それぞれの分野に応じて大学で行う
・それ以外で外国語を必要とする職業、外国語を身につけている方が有利な職業に就こうとしている大学生や高校生には、必要なレベルの語学教育を大学や高校で行う
・語学は「道具」であるから、市町村それぞれのニーズに合った社会人向けの語学教育も必要である
・そして語学教育は、英語に限らず、近隣諸国の言語も含めて他の言語にも目を配る

このあたりが、日本が目指すべき「国全体としての語学力」ではないかと思います。


少子化の進行には、今のところ政治は無策のままなのですから、せめて政治家は、この先少ない日本の人口で最大のパフォーマンスを上げられるように、国全体の語学力をデザインしてほしい、その上で提言なり発言なりしてほしいところです。大学受験生の殆どが、TOEFLを受けて英語だけに集中する、理数系の勉強が疎かになってレベルが下がったり、他の言語は大学入学後にやってください、というのは、人口が減りつつある資源のない国の施策としては愚かとしか言えません。
また、全く別の視点で、通訳や翻訳の専門家を国として養成するとか、自動翻訳の更なる開発を後押しするとか、そういう方法で、日本独自のやり方で「語学力」を上げる選択肢もあります。要するに、国全体として「語学力」が上がればよいのですから。自民党教育再生本部の「TOEFLを大学入試に導入」するという馬鹿げた提言が万が一実現したら、何百億円にもなると見込まれるアメリカの団体に払うTOEFLの受験料を考えると、それらの方が余程現実的でローコストだと思えます。



自民党教育再生本部の提言では、TOEFLを大学入試に導入するのみならず、各大学各学部が入試に際してそれぞれTOEFLの点数基準を明示する、という馬鹿げた案も出しています。
教育再生本部長である遠藤利明氏は、新司法試験になってからも多くの合格者を輩出する法曹の名門中央大学の法学部の出身だそうですが、もし彼が今受験生だったとして、中央大学法学部のTOEFLスコアの要件が彼自身の予想スコア「10点」になることはありえませんし、もし中央大学法学部が明示するスコアが70点だとして、遠藤氏が中央大学法学部を目指してそのスコアに到達すべく、国語や社会科を犠牲にして受験勉強の殆どを英語の勉強に傾注したとしても、TOEFLのスコア10点を70点に引き上げることは今の日本の高校生が置かれている環境では無理というもので、遠藤氏が中央大学法学部の門をくぐることは到底ありえないでしょう。将来政治家を志し、法律を勉強しようとしていたのに、TOEFLの点数で門前払いされてしまった遠藤氏の将来はどうなるのか?何より中央大学法学部は、「英語はちょこっと出来るが、国語の読解力や社会科の知識が乏しい」学生を望んでいるとは思えないのですけどね。サッカー選手の語学力と同じで、先ずは法曹に進むに足る能力が必要なのであり、語学はその能力があった上での「道具」に過ぎません。「国際会議でも臆さず英語で話せる自民党の政治家」を育てたいのならば、必要な語学教育は大学教育の中で行われるべきであり、勿論それは中央大学に限らずこれからの日本の大学教育の課題だと思います。



ついこの間、昨年の12月の総選挙までは、日本の喫緊の課題は、消費税増税であり、社会保障と年金の問題であり、震災復興の問題であり、尖閣問題であったらしいのですが、政権が変わると、それらがどこかに行ってしまったかのように、アベノミクスやら、一票の格差問題やら、憲法改正問題やら、新たな課題噴出で、あまりの変化と課題の多さに国民も思考停止になりそうです。この「大学入試と国家公務員試験TOEFL導入」という問題も国民の間でよく議論されるべきものだと思うのですが、7月の参議院選挙で、全てがごちゃまぜにされて、安倍総理お得意の「結果が全て」で片付けられてしまわないことを願うのみです。