村上春樹最新作「1Q84」Book3雑感


村上春樹は高校の先輩にあたる。彼が都の西北大学出身のことは、著書の「作者紹介」には必ず出ているし、彼自身も色々なところで書いているけれども、出身高校を知っている人は少ない。
大体、高校の同級生だって知らない人がいるくらいだから。
嘗ては一応名門高校で、白州次郎吉川幸次郎井深大も北尾忠孝も卒業生なのだけれども、今は見る影もない県立高校である。去年の今頃、バレーボール部の部員の中に「渡航歴なし」の新型インフルエンザ患者国内第一号が出て大騒ぎになり、校長先生が懐かしい校門前(まるでイギリスのパブリックスクールを思わせるクラシックな門構え)で記者の質問に答えていた高校、と言ったらわかるだろうか。

今ならネットで検索すれば簡単に彼の出身高校などわかるのだが、「風の歌を聴け」が出た当時、それを調べる術はなかった。この小説を読んですぐに、「もしかして私と同じ高校?」と思ったけれども、その直感を確かめる方法はなかった。
風の歌を聴け」は文庫で読んで、「羊をめぐる冒険」は発売直後にハードカバーで買っていて、「羊をめぐる冒険」を読んでいる時には、確かに「村上春樹は同じ高校」という確信を持って読んだ記憶があるのだけれど、どこでその情報を得たのかが思い出せないところが、年月のなせる技かもしれない。

「高校が同じ」というだけでない共通点もある。
その高校は嘗ての名門校&それに相応しい進学実績の記憶がその後斜陽になっても消えないらしく、私の頃ですら、進路指導は「とにかく国公立大学!」という、金科玉条の一点張り。しかもこの「国公立」の意味は、何故か「東京大学」をまるで無視して、「京大、阪大、神大」を指すのである。最初から「私立大学目指します」なんて言えない雰囲気。実際はともかく、一応構えとしては「国立文系」「国立理系」にしておいて、現実は私立大学に行くことになる。その「私立大学」も「慶応」や「早稲田」じゃなくて「関関同立」。受験の視野が関西地方で閉ざされていた教師団の世界観こそが、学校没落の原因ではなかったかと今では思える。
そんな中で、一浪して(予備校は大道学園?*1早稲田大学、という村上春樹の経歴は、我が高校の卒業生としてはかなり異端の進路である。彼に遅れること10年以上の私も似た経歴だから、それがよくわかる。進学先の大学が決まって高校に報告に行った時、高一の時の担任教師が、私の進学先(東京の私立大学。一応当時偏差値70)を知らず、真顔で「何で◯◯大学に行かへんねん?」と「関関同立」の一角の大学名を挙げたほどである。
関西から東京の大学に行く、というのは色々と複雑な思いを経験することになる。
地元の関西の大学でなくて敢えてわざわざ東京の大学を選んだ、ということは、心のどこかに、「東京に行きたい」というよりも寧ろ「関西を離れたい」という気持ちがあったからなのだが、実際に東京に来てみると、何もかもが薄っぺらに見えて、今度は関西が恋しくなってくる。ところが心待ちにしていた夏休みに帰省してみると、一週間も過ごしたら退屈でたまらなくなる、ということの繰り返し。
神戸、というよりも芦屋、それも阪急芦屋川から芦屋川沿いに海に向かう辺りの夏の気怠い雰囲気は、まさに「風の歌を聴け」の世界であり、「羊をめぐる冒険」にもそれは色濃く出ていると思う。しかし、村上春樹の安住の地は、彼の両親は根っからの関西人であるにも拘らず、その風景にも関西にもなかったのだろう。

その後今まで村上春樹の出す本、特に小説はほぼ発売と同時に買って読んできた。
私の中でベストワンは、「羊をめぐる冒険」。初めてこの本を読んだ時、前夜から読み始めて、翌日の午後の3時くらいに読み終わり、西に傾いた日差しが入る神戸の実家の自分の部屋で、暫く泣いたのを覚えている。泣いた理由を今思い出してみると、それまで私が読んできた本が連れて行ってくれなかった場所に、この小説が遠く遠く私を連れて行ってくれたからだと思う。村上春樹33歳の時の作品である。

彼の小説群の中で、一番「出身高校濃度」が高いのは、「ノルウェイの森」。この大ベストセラー(累計1000万部を超えたとか)は「100%恋愛小説」らしいけれども、私としては主人公たちの「恋愛」よりも、主人公の僕とキズキと直子が通った高校の描写の方に集中した。坂の上にある高校の雰囲気、屋上の開放感、坂の下のレトロな遊園地、もし彼の出身高校を知っていなくても、卒業生ならばあの描写を読めばそれ以外にはありえないと確信させる描き方だった。それも震災後はすっかり変わってしまったが。
加えて。
私の同級生にも卒業の年に自殺した生徒がいた。その話は、「裏ノルウェイの森」、というか私には、まるで「ノルウェイの森」の白黒が反転したネガのように感じられる。村上春樹の同級生に、それもごく近しい同級生に自殺した生徒がいたのかどうか、は私にはわからない。だけれども、もしいたのならその事実が、いなかったとすればそれをイメージさせる想像が、「関西を離れたい」という気持ちの核となった、ということは、とても共感できるのである。
小説としては好きな作品ではないけれども、この本も発売後すぐに買って一気に最後まで読んでしまった。ドラマチックな話ではなく、寧ろ人目を引かずにはいられない表紙のデザインの人気とは裏腹に、物語自体は陰気で静かではあるけれど、読んでいて、小説世界の中にぐいぐいと引っ張っていかれる力強さはあった。村上春樹38歳の作品である。

その後の「ダンス・ダンス・ダンス」「国境の南、太陽の西」「ねじまき鳥クロニクル」「スプートニクの恋人」「アフターダーク」「海辺のカフカ」の感想については割愛しよう。これらの本のうち、出版予定がわかると最寄りの本屋に予約していたのが、アマゾンでクリック一つで予約するようになったのは、どの本からだったか?
今こうして思い返してみると、彼の小説は私にとって、読み終わった時の風景や時間だけでなく、何故か「読み終わった時の感覚」というものをそれぞれ覚えている小説群、という気がする。

さて。
去年丁度この時期、引っ越しを控えていたので、アマゾンに予約注文して配送された本を、「引っ越し先で荷物の片付けが終わってから読もう」という固い決意のもと封印して(読み始めると引っ越し作業ができないから)、無事引っ越しも終わり、部屋の中も片付いてから、初夏のある日読み始めたのが「1Q84」のBook1と2だった。読み終えたのは夕方、薄暗くなってから。家族の帰宅までに夕食を作るにはかなり急がないと危ない時間だったが、最後のページをめくるまで、私は根拠のない期待でいっぱいだった。が。が。一人だったのに、読み終わった瞬間、思わず叫んでしまった、
「これで終わり、ってないんじゃない!!!」
と。世間の読者の方々は、(続編のBook3が出る、ということが知らされていない時に)あの終わり方で納得したのだろうか?殆ど「詐欺」としか思えない終わり方に憤慨したのは、私の読み方が間違っていたか、未熟だったからなのかもしれない。

ところが。
今回の「!Q84」のBook3は、村上春樹の今までの小説を読んだ時とは違う気持ちで読み進めることができたのである。
先ず、「一気に読む」ということがなかった。言い換えれば、それだけ「巻措くを能わず」ということがなかった、ということである。登場人物に合わせて章仕立てになっていて分割して読みやすい、ということではなく。
そして、いつの間にか私は自然に了解していた、

「きっと終章まで行っても、何も解決はない」
「提示された様々な暴力についても、そのままだろう」
「印象的なエピソードもその殆どは中途半端に放擲されたままだろう」
「それにも拘らず、青豆と天吾は予定調和的ハッピーエンディングになるだろう」

読み終わったのは、土曜日の夜、というより、日曜日の未明夜中の2時頃。勿論、読み終わっても泣けなかった。すぐに翌日のスケジュールが私の頭の中を占領した。どうしてなんだろう?
今年61歳を迎えた村上春樹の最新作である。

*1:当時卒業生が通った近所の予備校