「服従」(ミシェル・ウエルベック著)が描くのは男性にとっては実はユートピアで、女性にとっては絶望のディストピアであるということ

読後感があまりに酷くて、書評を書く気にもなれなかったのが、この本服従」(ミシェル・ウエルベック著)です。
念のため、作品が酷いのではありません、作品自体は高度に洗練され教養に溢れた近未来小説の傑作と言えるべきものです。
酷いのは、読後感、それも私が女性であるが故の読後感です。

服従

服従

日本では殆ど話題にはなっていませんが、この本は本国フランスで、今年の1月、偶然にもシャルリー・エブドが襲撃された日に発売されるや否やベストセラーになり、フランス以外のヨーロッパでも大きな話題になっているそうです。
先日家人が仕事で同席した会合にいたヨーロッパ大陸人たちも、休憩時間はおろか会食の間もずっとこの本の内容を話題にしていたそうです。

私はというと、「得体のしれない気持ちの悪いものを飲み込んでしまったようなこの胸のあたりがもやもやする感じ」に既視感があり、はてそれは何だったかと、ウエルベックという名前をググってわかりました、彼は「プラットホーム」という小説の作者でもあったのです。
私は2002年頃に読んだ記憶があります。


プラットフォーム

プラットフォーム

最近文庫にもなっているようです。


この「プラットホーム」のストーリーは簡単に言ってしまうと、「フランス人のインテリ且つ富裕層の主人公が、タイへの旅行をきっかけに、自立した自己主張の強い女性が闊歩する西欧の本国では満足に性愛を得られない中年ヨーロッパ人男性向けの東南アジア買春ツアーを企画する」、というものなのですが、このあらすじだけでも胸が悪くなりそうですが、性愛に関しては勿論、インテリ主人公の迷える魂の言い訳こじつけの執拗な描写に辟易したものでした。
ただ、この本がスキャンダラスなストーリーだけの本であったかというとそうではなく、西欧(ヨーロッパ)の衰退・デカダンもここまできたかと思わされるもの、今2015年後半から振り返ると、予言のような予兆のようなものを秘めた本でもあったのでした。


さて、「服従」について。
殆どの日本人にとってこの本を読み通すことは苦痛でしょうし、そんな時間もないでしょうし、そもそも読書に充てる貴重な時間において優先順位が低い本であろうと私は勝手に思っているので、前述の家人から「その本読むから貸して」と言われたのですが、「読むだけ時間の無駄だから、読んだ私がポイントだけ3分でレクチャーする」と答えたくらいで、ネタバレ、結末暴露を含めてこれから書きますので、新鮮な気持ちでこの本を読みたい方はこの先はお読みになりませんように。


あらすじ1:物語の中の政治的流れ
2022年のフランス大統領選挙で、第一回目の投票結果は、34%強の得票率で極右の国民戦線党首マリーヌ・ル・ペン氏(実在)が第1位。第2位と第3位は接戦の末僅差で、第2位になったのがが弱冠43歳のイスラム教徒のエリート(何しろ彼は史上最年少でエコール・ポリティークに入学し、その後ENAを卒業している設定)、モアメド・ベン・アッベス氏(架空の人物。フランス語では「h」は発音しないので、「モハメド」ではなく「モアメド」なようで)と、第3位が現在(2015年)オランド大統領の下、政権の座にある社会党候補(大統領候補者は明示されていませんが、現在首相のバルス氏?)になってしまう。「なってしまう」というのは、フランスの大統領選挙は、1回目の投票で過半数をとる候補者がいなかった場合、1回目で第1位と第2位の候補者が決選投票をする仕組みになっているから。つまり、フランス国民は、選挙結果で必ずフランス大統領が決まる決選投票で、極右の国民戦線か、イスラム政党のどちらかを選ばなければならない究極の選択に立たされ、社会党、UMP(サルコジが属す右派)はイスラム同胞党と組んだため、選挙の勝者、即ちフランス大統領の椅子には、イスラム同胞党のイスラム教徒の候補者が座ることになる。

あらすじ2:主人公フランソワの物語
19世紀の作家ユイスマンスの研究で博士論文を書き、名門パリ第三大学で大学教授の職にある主人公は独身中年インテリ男。毎年女子学生と性的関係を持っては別れるという生活を繰り返し、結婚に関心はない。政治にもさしたる関心はなかったが、大統領選挙をめぐって、大学内の状況も変わり、また現在の恋人のユダヤ人女子学生は、世の中の不穏な動きを察知した家族とともにイスラエルに移住してしまう。イスラム教徒の候補者が大統領に当選した後、主人公を含む教職者は全員解雇され、男性でイスラム教に改宗した者のみ、再雇用されることになる。最初は再雇用にも改宗にも興味がなかった主人公だったが、年寄りで変人で小汚いかつての同僚がイスラム教に改宗し再雇用され、おまけに学部2年生の女子学生を妻としてあてがわれていることを知り、彼自身も改宗を決意する。


という、書いていても溜息が出てしまうようなストーリーです。
「殆どの日本人についてこの本を読み通すことは苦痛」と書きましたが、この主人公の気持ちの変遷が、「フランス文学あるある」の王道を行っていて、自身の研究対象であるユイスマンスの一生や作品と絡めて延々と描写されるので、国立大学の文系学部が削減されずともユイスマンスなんて読まない、読む暇もない現代の日本人には、とっつきにくく且つ退屈極まりないからです。
ひと昔前ならば、学生時代に海外の古今の名作を、多少背伸びしてでも読み漁る文化がありました。しかし、今は「グローバル人材」になるための実学としての英語のみが注目され、TOEICTOEFLのスコアを上げることのみに、ただでさえ少ない学生の自由な時間が費やされ、という状況だと、就活には何の役にも立たない19世紀フランス文学など果たしてどれくらいの数の学生が読むことやら。
私自身は大学でフランス語をやっていたので、ユイスマンスは辛うじてかの澁澤龍彦氏の訳で「さかしま」だけは大昔に読んだことがありますが、それでもこの「服従」の主人公のユイスマンス関係の描写にはうんざりしました、が、これがフランスのインテリの姿なのでしょう。
ちなみに、このユイスマンスという作家は、Wikiを見ていただく必要もなく、「さかしま」を書いた後カトリックに改宗し、カトリック教徒として没しました。
服従」の主人公が物語の最後にイスラム教に改宗する、という流れと対比させるために、主人公の研究対象はユイスマンスに設定してあるのでしょう。


「あらすじ」を2系統で紹介したように、本来は、この小説の目玉は二つ。「フランスにイスラム政権誕生」という物語と、主人公フランソワの口を借りて語られるフランス人インテリが繰り出す歴史や文学や思想の教養や蘊蓄と、「一粒で二度美味しい」ということなのだと思いますが、私は、大方の読者には興味がないと思われる後者についてではなく、前者の「フランスにイスラム政権誕生」という近未来的な設定について書きたいと思います。


大まかに前提知識として、この小説に似た構造は2002年のフランス大統領選挙で実際にあったことを、簡単に述べておきます。
2002年の大統領選挙も、従来通り、というか、お約束通り、社会党ジョスパン氏率いる左派と共和国連合シラク氏率いる右派が決選投票に進むはずだったのが、なんと得票率1%以下の僅差で、ジョスパン氏は極右のマリー・ル・ペン氏(現在の党首の父親)に敗北するという想定外の番狂わせがあり、決選投票が、シラク氏対ル・ペン氏、という、究極の選択になった過去がフランスにあるのです。その時、極右の候補者がまさかの大統領になることを防ぐためには、第1回目の投票時には敵としてさんざん攻撃してきた右派の「ペテン師」(シラク氏には汚職の噂が絶えなかった)に投票しなければならなくなった左派陣営は、「鼻をつまんで」シラク氏に投票し、結果は無事(?)シラク氏が当選し、「EU離脱、移民反対、モスク建設反対、フランスの伝統的価値観の復活」を唱えるル・ペン氏は敗退したのでした。
フランス人というのは、西の中華思想というか、フランス革命で獲得した民主的社会制度、ダイバーシティに寛容な洗練された社会、思想や文化では自分たちが世界の中心であり最先端だと思っていますから(私見ですが)、旧弊で粗野で野蛮な(←インテリから見れば)ル・ペン氏が決選投票に残ったことでさえ、誇らしいフランスにはあるまじき我慢ならない恥だと思っていたでしょう。
ということで、「服従」における「フランスにイスラム政権誕生」という設定の現実味は、フランス人にとっては「ありえない絵空事」と笑い飛ばすことは全くできないものなのです。
ウエルベック氏は、この2002年の構図をより刺激的に変奏させ、極右とイスラム、どちらかを選ばなければならない状況を小説内で作り出し、読者であるフランス人、そして似たような立場にある西欧の国々に、突きつけているのです。



服従」の日本語訳には、佐藤優氏の解説が付されています。
10月25日の日経新聞の書評欄には、フランス文学者の野崎歓氏の書評が載っています。
また、Amazonのカスタマーレビューも、載っているものは全て読みました。
それら全てに対して、不満があります。
男性読者にとっては、一夫多妻制や、女性の社会的活動を制限することの恐ろしさが、実感としてないのではないか、と思います。
どの書評を読んでも、一夫多妻制については言及しているものの(←これについては男性は興味津々でしょうし)、この小説でひたひたと書かれている女性にとってのディストピア社会の恐ろしさについては触れているものがないのです。


物語の中では、まだ第一回目の投票が行われる前から、ひたひたと「変化」は始まっています。
主人公フランソワが勤めるパリ第三大学の学長は、「非の打ちどころのない『ジェンダースタディーズ』の研究キャリアを経てきた女性」であるシャンタル・ドルーズ氏(非実在)という設定になっているのですが、選挙前であるにもかかわらず、彼女は数週間先の国立大学評議会で、「親パレスチナの立場を表明したことで知られていて、イスラエルの研究者たちをボイコットした中心人物である」ロベール・ルディジェ氏(非実在)にすげかえられる、という噂が流れています。
何故、そんな風向きになっているのか?それはオイルマネーが、ソルボンヌにも流れ込み、発言権を増しているから。
小説内では、ソルボンヌはオックスフォードと競うように、ドバイかバーレーンカタールあたりに分校をオイルマネーの援助で作ろうとしています。
フランスの誇る名門ソルボンヌ大学が、オックスフォードを出し抜いて中東に分校を作れるのなら、目障りな女性学長の首など喜んで差し出す、ということなのですね。
ちなみに、この女性学長は非実在ですが、現実に去年までパリ第三大学の学長を務めていたのは、やはり女性(Marie-Christine Lemardeley)です。
とすると、イスラム政権が誕生せずとも、女性学長が辞めさせられて親アラブの男性学長が後任になる、ということはあながち非現実ではないのかもしれません。

第1回目の投票から第2回目の決選投票の間にも、ひたひたと目に見えないところで社会が変わっていきます。
2002年の大統領選挙の時と同様、極右のル・ペン氏(今度は娘)に勝たせないために、社会党イスラム同胞党と選挙協力を模索するのですが、呆気なくそれは成功します。というのは、イスラム同胞党は気前よく、重要省庁である経済・財務省内務省の大臣ポストを社会党に譲り渡すというのです。その代わりに彼らが要求するのは、教育に関する権限です。
彼らが描くフランスの教育とは、先ず男女共学は廃止。女性が学ぶ教科の制限。義務教育は小学校の初等教育のみ。女性は初等教育を終えた後、家政学校に進みできるだけ早く結婚することを強制され、結婚前に文学や芸術課程で勉強できるのはごく少数の女性のみ、勿論教師は例外なくイスラム教徒に限られる、というものなのです。
「リケジョ」から10世紀くらいの後退です。
この部分を男性読者が書評やレビューで取り上げないのは、彼らにとってはこの部分は何ら恐怖を覚えるものではないからでしょうが、私は戦慄しました。
また、何と現在のフランスの社会制度と齟齬をきたさずに一夫多妻制が可能になります。というのは、今でもフランスでは、法律的に正式に結婚(勿論、一夫一妻として)していなくても、同性愛者を含めて社会的結合とみなされ、社会保障制度や税制に対しても、正式に結婚しているカップルと同様の権利を持ちますが、これを逆手にとって、一夫多妻制のカップル(?)にも同様の権利を付与するだけ、ということになるようです。
社会党は2002年と同様、今回も選択の余地はありません、この条件を呑むわけです。

そして、社会党、UMPと共闘したイスラム同胞党が決選投票で大勝利をおさめた後は、雪崩を打って社会は変わっていきます。
地方に出かけていた主人公がパリに戻ってみると、ユダヤ教徒向けの食品コーナーが消えているだけではなく、ショッピングモールから若い女性向けの衣料を売っていた店であるJennifer (実在、日本には店舗はない模様)は消え、ということは、日本でもお馴染みのH&MZARAもMANGOも皆無くなっているのでしょう。街を歩く女性は全員がパンタロン姿。ショートパンツは勿論、太ももが見えるようなワンピースやスカートの女性は消えています。
フランソワの同僚でまともな論文を書いたこともない無能な男スティーブは、節操もなくさっさと改宗して大学に従来の3倍の給料で職を得て、大学が借り上げた高級アパルトマンに住むことになり、おまけに女子学生の妻まであてがわれ、更におまけに「二番目の妻」を来月めとることになると言います。
またイスラム同胞党の新政府は、家族手当をを大幅に増額し、それで何が起こったかというと、働いていた女性たちの多くが仕事を辞めて家庭に入ることになったのです。巧妙な政策です。それで女性の就業率はぐっと下がりましたが、失業率もぐっと下がったので、左派社会党は文句を言えません。
大学関係者のパーティーに招待されたフランソワは、赤ワインを4杯飲んだ後、やっと目に見える変化に気がつきます、それは

「会場には男性しかいなかったのだ。一人たりとも女性は招待されておらず」

という状況だということです。
前述のように、パリ第三大学の学長は、ジェンダー学専門の女性から、親パレスチナで当然イスラム教に改宗したルディジェという人物に代わっているのですが、彼のパリ5区にある豪勢な邸宅に招かれたフランソワは、彼が16歳の第二夫人(ハローキティのTシャツとローウェストのジーンズ姿)と、40歳を超えた料理の上手な第一夫人と、二人の妻(プラス、あと一人か二人!)を持っていることを知ります。
このルディジェという人物は後に外務大臣になる野心家なのですが、彼はフランソワの研究上の業績を大きく評価しており、彼を大学に戻したいと考えています。それは即ち、フランソワにイスラム教への改宗を迫るものなのですが。洗練されたインテリアの彼の自宅サロンで、ムルソーブルゴーニュの高級白ワイン)とプハ(チュニジア蒸留酒)のグラスを傾けつつ、ルディジェはフランス及びヨーロッパ的知性と教養を総動員して華麗な論理で彼を改宗へと誘います、まるでメフィストフェレスのように。
更にその後別の場所で「白髪の交じった髪は薄汚れ長く伸び、分厚いメガネをかけ、洋服は上下ちぐはぐで不潔一歩手前」の年上の元同僚のロワズルールもまた、イスラム教に改宗して大学に職を得たばかりか、このキモオタのおじさんが、学部2年生の女子学生を妻にあてがわれたと聞いて、フランソワは驚きを隠せません。
ここまで来たら、もう陥落はすぐそこです。フランソワはインテリとして最後の足掻き(?)で、一夫多妻制度について、

「支配する雄として自分を捉えるのは少し難しいように思われるのです。」

と、僅かに抵抗を試みるのですが、それさえ言い終わらないうちにメフィストフェレスのルディジェに遮られ、

「あなたは間違っている。自然淘汰は普遍的な原理で、あらゆる生きものに当てはまりますが、その形は様々に異なっています。(中略)自然において人間の支配的な地位を保証するのは、爪でも歯でも走る速さでもありません。それは人間の知性なのです。ですから、真剣に言わせていただければ、大学教授が支配的な雄の間に入るのは何もおかしなことはないのです。」

と、論破(?)されてしまうのです。つまり、インテリである大学教授は人間界において強者であるので支配的な雄になって妻を複数持ってもそれは自然の摂理に適っている、という(トンデモ)理論なのですね。フランソワのプライドをくすぐるには十分すぎるものです。トドメは、メフィストフェレスのこの一言 ↓

「あなたは特に問題なく三人の妻をめとることができると思いますよ。」

これでフランソワは完全に攻略されてしまいましたとさ、おしまい。



「おしまい」で済めばいいのです。
きっと男性読者にとっては、愉快でもあり、痛快でもあり、笑える話なのかもしれません。
キモオタのおじさんにとっては、ディストピアどころか、夢のようなユートピアではありませんか?

このインテリ的小説の書評を書くような日本の男性「大学教授」の方々にとっては、給料は今の3倍、東京で言うと港区や世田谷区に豪勢な住宅をあてがわれ、「大学教授は知性において支配的雄の中に入って当然」とプライドをくすぐられ、妻を三人も娶ることができるのなら(その内の一人はAKBあたりから調達も可能)、「服従」の世界はまさにユートピアでは?



私などは、21世紀の自由で豊かな国ニッポンに生きているというのに、この「服従」を読み終えて、鬱々した気分が抜けません。
考えれば考えるほど、鬱々としてきます。
それは何故か?
服従」の中のこの女性にとってのディストピアが、細切れのピースになってこのニッポンにも深く存在している、もしくは芽を出さんばかりの状況なのではないか、と気付かされたから、です。

今の日本が進もうとしている方向とは。
国民を牛耳るには先ず教育、なのでしょう。道徳って教科になったんですよね。「親学」信奉、「夫婦別姓」も選択的ですら反対、ジェンダーフリー教育も反対。そういう思想の政治家が教育に関する権力を握れば、たった一世代でお好みの国民を作ることができるのですね。女性活躍とか今頃になって言っていますが、つい最近まで日本の大企業の取締役会は、「服従」の中でイスラム政権が誕生した後に開かれたパリ第三大学の会合みたいに、「一人たりとも女性は招待されず」という男性のみの状態であり、それは官僚の世界でも経団連でも日本の社会を牛耳る組織ではどこでも同様だったわけです。
そもそも、少子化がここまで進まなかったなら、「女性活躍」「女性が輝く社会」などと政府が言い出したかどうか?つい先日、「少子化対策のために、祖父母・親・子供の三世代の同居などを促進する住宅政策」なるものが発表されましたが、イマドキの三世代同居が実現した暁に、その世帯の家事を担うのは誰になるのか?夫の両親と同居した場合には、嫁が働いていたとしても、どうしたって嫁が家事・育児、やがては介護も担うようになるでしょう。逆に、妻の両親と同居した場合、娘に働いてもらうため、婿にいい格好するため、妻の母親が家事・育児に加えて、夫の介護も担うようになるでしょう。どちらにしても、男性は、三世代同居を運営する責任ある当事者にはならないでしょう。結局は、社会から見えない世帯の中で何とかしてね、多分女性が家事を切り盛りしてくれるよね、という政策なのではないでしょうか?これで、三世代同居をしている家族にどっさり「家族手当」を支給する政策なんかが出てきたら、仕事を辞めて家庭に入る女性が増え、まるで「服従」の世界になりますよ、今でも一歩手前です。
また、中年男性がティーンエイジャーのアイドルに熱中したり、女子高生を性的対象として見ているという、本来異常なことが、もう普通のこととみなされてしまっている日本です。古女房に加えて、初等教育を終えたばかりの10代の若い第二の妻を娶ることができるようになるというのは、日本でも荒唐無稽で言語道断なことではなく、既に中年男性が抱く夢なのではないでしょうか?
フランスの男性は、日本の男性に比べてフェミニストだと言われていても、「服従」の中で、彼らフランスの男性が、いとも簡単に一夫多妻を受け容れているのを見ると、日本の男性などは瞬殺でしょうね。
何より、この「服従」の書評や感想を書いている男性が、イスラム教の教義を基にした一夫多妻制や女性の権利の制限の描写に、全く危機感がないことが、私の一番の危機感です。
日本の女性が現在謳歌しているように見える自由、やっと手に入れたささやかな自由で不十分なこと極まりないのですが、それさえ本当はガラスのように儚く、ちょっとしたことで後退、もしくは煙のように無くなってしまうものなんじゃないか、と恐ろしくなりました。


服従」の中では、単に「フランスにイスラム政権が誕生」したことがゴールではないようです。
新大統領のアッベス氏は、まだ43歳。ケネディ大統領が大統領に就任した年齢です。
彼の壮大な目標は、ヨーロッパの軸を南にずらして、リビア、モロッコ、エジプト、更にシリアやトルコも加え、さながらローマ帝国の再興のようなヨーロッパに作り変え、自身はアウグストゥス皇帝ならぬ大ヨーロッパ初代大統領に就く、というもののようです。
前述のように、西の中華思想を持つフランス人は、この近年の政治・経済両面におけるドイツの台頭は面白くないことだったでしょう、二度と彼らと戦火を交えるつもりはなくとも。再び栄光のフランスの時代が来る可能性、それを人参のように鼻先にぶら下げられればフランス男は胸踊るはずです、ナポレオンの末裔ですからね。
そしてイスラム世界と親密な大ヨーロッパ帝国が完成した暁には、この一世紀の間大きな顔をしていたあの野蛮なアメリカさえ怖くなくなります。
これがフランス男の夢でなくて何なのでしょう。


以前に、帰ってきたヒトラーという、これはドイツにおける近未来小説の感想を書いたことがあります(「帰ってきたヒトラー」を読んで 雑感 この本がドイツでベストセラーとなった意味
この内容もそれなりにコワいものでした。しかし、この本が出版された時には、まだ今年の夏に起きた、ドイツに押し寄せる難民の問題はありませんでした。
2015年秋、もし今の時点で「帰ってきたヒトラー」を読んだとしたら?もしくは、作者が、この夏以降のドイツの状況も小説に組み入れていたら、もっともっと現実味を帯びた恐ろしいものになっていたに違いありません。

一方つい先日もイギリスが、嘗ての植民地であり、アヘン戦争を仕掛け香港を奪い取った、当の相手の中国の習近平主席を、王室の馬車とバッキンガム宮殿宿泊という破格の待遇で厚遇、人民元建て国債をロンドンで発行、更に原発まで中国に作ってもらうというニュースがありました。


フランス、ドイツ、イギリス(私はイギリスはヨーロッパではないと思っていますが)の、西欧世界が、政治的にも経済的にも文化的にも、もう崩れ去りつつあるのでしょうか?
西欧文明のアップデートをし損ねて、西欧の外の文明に対抗するどころか、飲み込むことさえ、もう叶わなくなっているのでしょうか、西欧世界は。


服従 Soumission」というタイトルに関して、小説の中では、O嬢の物語(「ポーリーヌ・レアージュ」という女性の筆名で、ジャーナリスト、ドミニク・オーリーが書いた)が言及されています。主人公フランソワに、改宗を迫るメフィストフェレスことルディジェの言葉はこうです。

O嬢の物語」にあるのは、服従です。人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前にこれだけの力を持って表明されたことがなかった。それがすべてを反転させる思想なのです。(中略)「O嬢の物語」に描かれているように、女性が男性に完全に服従すること、イスラームが目的としているように、人間が神に服従することの間には関係があるのです。(中略)コーランは、神を称える神秘主義的で偉大な詩そのものなのです。創造主への称賛と、その法への服従です。


ユイスマンスと同じ理由で、「O嬢の物語」のようなニッチな本は稀代のポルノとはいえ読んだ方は少ないのではないかと思いますが、私は18歳の誕生日に親友が「自分では本屋で書いにくいだろうから(アマゾンがない時代でした)、代わりに買ったよ。私もレジで『プレゼントです!』と大きな声で言って買ったけど。そして一足先に読ませてもらったからね。」と言って文庫をプレゼントしてくれたので既読です。しかし、「女性が男性に完全に服従すること」が「人間の絶対的幸福」であるとは、18歳当時も、そして何十年経った今でも、到底1mmも思えません。


最初に書いたように、この「服従」は、教養ある男性諸氏が読むとわくわくするような、フランス文学らしい思想や哲学的議論や文明論が盛り沢山の、非常に洗練された小説です。
その知的興奮に素直に入り込めません、少なくとも私は。


読後の気持ちの悪さをようやく飲み込みつつ、願うばかりです。
服従」の中のディストピアを、この目で見る日がどうか来ませんように。

 毎日新聞記者・須田桃子氏の「捏造の科学者」を読んでもSTAP細胞問題は見えてこない

前のエントリーで、駄本を3冊紹介したのですが、新年明けて読んだ今年第一冊目の本がこれまた駄本だったので、その残念さを改めて紹介します。
毎日新聞科学環境部の記者で、STAP細胞事件の記者会見でおなじみの(?)須田桃子氏による「捏造の科学者」

捏造の科学者 STAP細胞事件

捏造の科学者 STAP細胞事件


この本の帯には、黒地に黄色の文字で、

誰が、何を、いつ、なぜ、どのように捏造したのか?


と書かれていますが、この本には上記の「5W1H」ならぬ「4W1H」という新聞記者のイロハと言われるものなど、全く書かれていません。
それを期待してこの本を買うのなら、やめた方がいいですね。
この本に書かれているのは、

須田氏が、特ダネの記事を、いつの新聞・ウェブに、どのように書いたか。

という宣伝ですから。
ついでに、「他社(おもにNHK)にいつ、どのようにに特ダネを抜かれたか」、ということは書いてありますが。
この本を手に取る読者が一番知りたい、STAP細胞の捏造について「誰が、なぜ、どのように」ということに関しては、全く書かれていないのです。


科学者たちの不正を扱った名著「背信の科学者たち」

背信の科学者たち 論文捏造はなぜ繰り返されるのか?

背信の科学者たち 論文捏造はなぜ繰り返されるのか?

のタイトルをもじったかのようなこの本「捏造の科学者」(本家と違って「科学者」は単数のようですが)が先ず胡散臭いのは、ちょうど1年前のあの記者会見の時の3人の写真を表紙にしているところですかね。
あの輝かしい発表、派手な記者会見、マスコミや世間が飛びついた「世紀の発見」から1年。
たった1年しか経っていませんが、あの時脚光を浴びた若き科学者、「リケジョの星」小保方氏は、昨年の暮れ理研を退職。
満面の笑みで会見を仕切った笹井氏は、もうこの世にはいません。
それを思うと、どのような立場にあれこの写真を見る人は、複雑な思いを抱かざるをえないと思います。
それなのに、この二人に若山氏を加えた3人(1人は故人)が、手を重ねてポーズをとっている写真を「捏造の科学者」というタイトルである本の表紙に据える、という無神経な印象操作的なことをしておいて、「誰が、なぜ、どのように捏造したのか?」という問いに答えていないのは、ジャーナリストとして二重に卑怯な姿勢ではないでしょうか。
表紙や帯、そしてタイトルでは本の内容以上の意味合いを示唆して煽り、肝腎なことは思わせぶりな記述だけにとどめて安全地帯にとどまる、というのは、ジャーナリストの態度としてどうなのか?
っていうか、それがジャーナリストとしての須田氏の態度なのだと思いました。



この本には格段新しいことは書かれていません。
例の1年前の記者会見から始まって、昨年10月初めまでの一連の報道まで、をまとめたに過ぎません。
故に、昨年12月に記者会見が行われた、検証実験の結果についても、論文不正についての調査委員会の報告についても、全くフォローしておらず、極めて中途半端なものになっています。
なぜ、重要なこの二つの報告を取材してから本にまとめなかったのか、とても不思議です。
この問題を総括したものを書くとしたら絶対に外せないはずであり、それをせずにこのタイトルで本を書く須田氏のジャーナリストとしてのセンスがわかりません。
それらの結果(検証実験と調査委員会の最終報告)を踏まえずに書かれているので、この問題に関心があった人なら誰でもどこかで読んだことを単に時系列に並べただけのものになってしまっています。
寧ろ、新聞記者が書いたものにしては、時系列の整理が不十分だと感じました。
この本における「時系列」は、記者である須田氏自身の「時系列」になっています。
「いつ、こういう情報を得た」「いつ、こういう取材をした」「いつ、こういう記事を書いた」「いつ、こういう特ダネを書いた」「記者会見で私はこういう質問をした」という、ご自分の「時系列」です。
読者が求めているのは、「STAP細胞事件」そのものの時系列です。
その時系列は幾つかあります。
疑義が浮上してから全容解明までの解明の進捗の時系列、その間の理研や調査委員会の対応の時系列。
この時系列をわかりやすく読者に示すことが、先ずジャーナリストに求められることではないかと思うのですが、これらは、須田氏自身の取材や記事掲載の時系列に埋もれてしまっています。
また、解明された科学的事実を踏まえて、更にこの事件の真相、それこそ「誰が、何を、いつ、なぜ、どのように捏造したのか?」という読者の疑問に迫るためには、関係者の時系列を整理することが必須です。
小保方氏、笹井氏、若山氏、丹羽氏、バカンティ氏等、STAP細胞に関わった研究者の時系列、です。
その時系列を整理することによって、明らかになることがあると思うのです。
当初、バカンティ氏の下で実験していた小保方氏がアイディアを得て、小保方氏と若山氏の共著でまとめられ、欧米の科学雑誌数誌にリジェクトされた論文に、笹井氏や丹羽氏が加わり、主旨が変わり、追加の実験をし、遂にはネイチャーに採択された、という大きな時系列の中で、それこそ、「誰が、いつ、どこで、どのような役割を果たしていたのか?」ということに関しての個々の時系列の整理は、須田氏の書いたものには全くないと感じました。
この整理がないと、「どの時点で捏造が始まったのか?」ということが見えてこないのではないか、と思います。
最初の最初からフェイクだったのか、それとも外部からのプレッシャーによってある時捏造してしまったものなのか、大物共著者が加わり論文の主旨が変わったことが関係しているのか、科学雑誌への投稿が目的化してしまったからなのか、小保方氏をはじめ関係者のその時々の役割、研究環境を、時系列で俯瞰したもの、つまり、この本を手に取るような世間一般の人々ーー科学的素養は全くないけれどSTAP細胞問題には関心がある人々ーーが、最も知りたいことを、須田氏は示せていません。
これを行うことこそ、ジャーナリストの仕事ではないでしょうか。
ご自分の「取材日記」もしくは「特ダネ日記」ならば、少なくとも「捏造の科学者」というこの本のタイトルは改めるべきでしょう。



・・・とここまで書いたところで、アマゾンから日経サイエンス 3月号」

が届いて、特集の「STAP細胞の全貌」を読んだら、あまりにもわかりやすく、あまりにも素晴らしい記事なので、須田氏の「捏造の科学者」についてどーのこーの書くのが馬鹿らしくなるくらいなのです。
「幻想の細胞 判明した正体」「事実究明へ 科学者たちの360日」という二部構成の記事を、科学ライターの詫摩雅子氏と、日経サイエンス記者の古田彩氏が書いています。
須田氏の「捏造の科学者」に比べて、事件の経過と解明の経過がわかりやく時系列化されているだけでなく、図や表を効果的に用いて、素人の読者にも理解しやすいように、STAP細胞の正体とは何だったのか?」を説明しています。
古田氏も、今回の事件に関係する一連の記者会見では、「STAP細胞はあるんですか?」「小保方さんの今の様子を聞かせてください」と馬鹿みたいな質問を繰り返すテレビ局の男性記者とは違って、その都度専門的な鋭い質問をする女性記者であったのですが、この日経サイエンスの記事には、彼女が書いてきた個々の記事や会見での質問については全く書かれておらず、徹頭徹尾、科学的な解明の解説に終始しています。
そして、須田氏の本の最終章でもまだ科学的には曖昧で未解決な点が、日経サイエンスの記事では全てクリアになっていますからね。
須田氏が「捏造の科学者」を書き上げたのが11月の末で、それから明らかになったことについては書けなかった、というハンディがあるかもしれませんが、そんな中途半端な時期に本にまとめる、という決断をしたこと自体が、ジャーナリストとしてのセンスの欠如であるとも言えるので、STAP細胞事件の全容を理解するには、須田氏のこの本ではなく、是非とも日経サイエンスの記事を読むべきだと思いました。
特に、今まで小保方氏の肩を持っていた方々、「若い女性科学者」の世紀の発見に見た夢が捨てられなかった方々、小保方氏の会見での真摯(に見えた)な態度を見て同情していた方々、に是非読んでいただいて、「そもそもSTAP細胞はなかった」「『STAP細胞』とは2005年に作られたES細胞であった」という科学的事実を受け止めていただきたいと思います。




STAP細胞事件」については、日経サイエンスの記事が全てだと思うので、「捏造の科学者」に戻りますが、この本の内容で不満、疑問に思う点を最後に二つだけ挙げておきます。


まず一つ目。
今回疑惑の発端を開いたのは、「11jigen」という匿名のブロガーの記事であることは、ウォッチャーならば誰もが知っていることだと思うのですが、須田氏のこの本には、これだけ重要な役割を果たしたこのブログへの言及がありません(日経サイエンスにはある)。また、取材をしたという記述もありません、全て単に「ウェブ上で」という一言で済まされてしまっています。笹井氏には再三のメール取材を行っている(「笹井氏から受け取ったメールは約40通」だそうです)のですから、最低でもメール取材を11jigen氏へ行ってほしかったですね。
そして、この11jigen氏の告発がなければ、須田氏をはじめ既存のジャーナリズムは、2月中旬以降も小保方フィーバーの記事を書き続け、割烹着やムーミンやヴィヴィエンの指輪を番組で取り上げ続けていたであろうに、それに対する危機感が感じられません。


次に二つ目。
本文中には書かれていないのですが、本背表紙裏にある著者の経歴を見ると須田氏は、なんと小保方氏と同窓、同じ早稲田大学大学院理工学研究科のご出身です、但し物理学専攻でいらっしゃるようですが。
公平に書いておきますが、小保方氏の博士論文に対する早稲田大学の対応や会見については、須田氏は中立的に淡々と事実を書いています。

実質的に小保方氏の博士号は維持されることになり、早大の信頼回復は遠のいたと言えよう。

しかし、私は逆じゃないかと思うのです、「淡々と」では逆に不自然ではありませんか?
母校が、それもご自分が卒業した研究科が、「疑惑が指摘されている論文を以って、捏造を疑われている科学者に、博士号を授与している」のですから、卒業生として、怒り、憤り、母校の対応を激しく批判すべきではないのでしょうか?
新聞紙面では、「私は早稲田大学大学院理工学研究科出身」と名乗るのは適当でなくても、自分の名前で出す本には、卒業生だからこその感想があり、取材があるべきだと、私などは思うのですが。
小保方氏以外の博士論文についても疑惑が挙げられている常田聡研究室を、何故取材しないのか?
前掲の11jigen氏のブログによると、常田研究室だけではなく、早稲田大学大学院の他の研究室でも複数の博士論文に疑義が持ち上がっているのですから、これは小保方氏一人の問題ではなく、早稲田大学理工学研究科全体の問題である可能性も大なのですから、早稲田の卒業生としては、ここを突っ込んで取材すべきなのでは?
当初の小保方フィーバーの時には常田教授の記者会見を取材しているのに、論文に疑惑が持ち上がってからは何故取材しないのか?
早稲田大学の調査委員会の報告書について、この本では

常田教授が、小保方氏が草稿を示す直前の約2ヶ月間、個別に指導していなかったことなど、新たに判明した内容を大場あい記者が記事にまとめた。報告書は「適切な指導が行われていれば、博士号に価する論文を作成できた可能性があった。」と、常田教授らの責任を厳しく指摘。

と、これだけのあっけない記述です。
卒論でも修論でもなく、博士論文で「提出前2ヶ月間、個別指導がなかった」とは、一体どういうことなのか?
これについての、卒業生須田氏の見解、感想がないのは、逆に不自然ではないかと思います。
そもそも、かの有名な「陽性かくにん! よかった。」のノートの源流は、常田研究室の指導に行き着くのですよ。
若山氏も笹井氏も、博士号を持ちCDBで研究室を主宰しているような小保方氏のノートを覗いたり、「ノートを見せなさい」などとは言えない段階で小保方氏と実験していたのですが、この世で唯一小保方氏にノートの取り方を指導でき「ノートを見せなさい」と言えるのは常田氏だったんですから、何故須田氏は彼に取材しないのでしょうか?
更には、このような杜撰としか言いようがない論文指導の体制は、常田氏だけの問題なのか、早稲田大学大学院理工学研究科全体の問題なのか、常田氏の出身大学である東京大学にまで遡る問題なのか、について、是非早稲田の卒業生として取材していただきたいと思います、ここはそれ、慶応大学理工学部大学院でやはり物理を専攻された古田氏よりも、一層深い切り込みでお願いしたいところです。





この本の帯の見返しには、これまた黄色の太字で、

「このままの幕引きは科学ジャーナリズムの敗北だ」

と印刷されているのですが、この本のレベルではまさに「科学ジャーナリズムの敗北」でしょう。

科学は、科学の力で、「STAP細胞は存在しない」ことを証明しました。
しかし、「誰が、何を、いつ、何故、どのように捏造したのか?」ということは、科学は解明できていません。
ここからが、ジャーナリズムがその役割を果たすべきところなのではないでしょうか?

前述の「約40通」メール返信をして取材に応えた笹井氏をはじめとして、須田氏は、同様にメールで丹羽氏、相澤氏に取材し、若山氏や理研の幹部には直接取材をしていますが、肝腎の小保方氏へはメール取材も対面での取材も行えていないのです。

当初の過熱した取材、疑惑が持ち上がってからのストーカーじみた取材で、小保方氏がマスコミに不信感を抱いていることもあるでしょう。
マスコミよりも自分を守ってくれる弁護士を信頼せざるをえなかった、ということもあるでしょう。

しかし、本来ならば、ジャーナリストとして須田氏が小保方氏自身と向き合い、彼女自身を何度も取材し、信頼関係を築き本心を引き出し、この問題の真の核心に迫るべきなのではないでしょうか。
2005年に今回の事件とは無関係の科学者によって作成された細胞が、何故「STAP細胞」になってしまったのか、それを説明できるのは小保方氏しかいないのです。
彼女が口を噤んだままでは、真相は永遠に謎のままになってしまいます。
小保方氏が納得できる形での、説明する場、説明する環境を作り、そこに小保方氏に立ってもらうことは、ジャーナリストにしかできないのではないでしょうか。
12月の理研と調査委員会の最終報告書が出たあとでも、未だ小保方氏に同情し応援する人々が多いことに私などは驚いてしまうのですが、そういう人々がいることを小保方氏に伝え(毎日新聞にも小保方氏を応援するような投書が多数来ているのでは?)、そういう人々のためにも、本人の口から真実を話すべきだと、ジャーナリストなら伝えるべきではないでしょうか。
大学も大学院も同窓で、年もそんなに離れておらず、科学アカデミーの世界にも詳しい須田氏ならば、小保方氏を引っ張り出すジャーナリストに一番近い位置にいると、私は思います。
・・・まあ、その時、小保方氏と信頼関係を築く上で、この本「捏造の科学者」がネックになるかもしれませんが・・・。


そして、「科学ジャーナリズム」と言うのならば、STAP細胞について「誰が、何を、いつ、なぜ、どのように捏造したか?」が解明されただけで終わってはいけないと思います。
それは、端緒でしかありません。
早稲田大学をはじめとして大学における論文不正の実態、理研やその他研究機関の組織の問題、等々、科学ジャーナリズムが切り込むべき課題は山積しています。
CDBでのあの輝かしい記者会見からもう1年?まだ1年?
日本中を騒がせたSTAP細胞事件が、単に2014年の「出来事」で終わらないように、須田氏には、ジャーナリストとしての役割を期待しています。

年末年始に読んだ、駄本3冊 「その女アレックス」「33年目のなんとなく、クリスタル」「フランス人は10着しか服を持たない」

2014年〜2015年の年末年始、本なんか読んでる場合じゃない忙しい中、貴重な時間を割いて読んでしまい後悔している駄本を3冊紹介したいと思います。
年末年始じゃなくても、よほどおヒマな方以外には全くオススメできない本ばかりですが。


先ず1冊目は、「その女アレックス」(ピエール・ルメートル著 文春文庫)

その女アレックス (文春文庫)

その女アレックス (文春文庫)


1月11日の朝日新聞の読書欄「売れてる本」でも取り上げられていました。

確かに後半に読者を打ちのめすのは、過酷な真実だけでなく、この女性が心に秘めた壮絶な思いである。

と、評者の瀧井朝世氏は書いているのですが、こんなの信用したらダメですよ!

「売れているらしいから」「数々の賞を受賞している作品だから」と、安易に「購入する」をクリックしたり(←これは私)、書店で平積みにされているこの本の「逆転、慟哭、そして感動。今年最高の話題作! 第1位! 週刊文春ミステリーベスト10」という派手な赤い帯につられてふらふらとレジに持っていったりしないことを、心からご忠告申し上げます。
先ずは、Amazonのカスタマーレビューの、星1、星2の方のレビューをじっくり読んでからになさってください。
本の帯にある「逆転、慟哭、そして感動。」ですが、「逆転」はともかく、「慟哭」と「感動」はこの本を読了した感想としては全くありえないものだと、私は断言できます。

ミステリーなので(一応)、ネタバレは避けますが、この本は三部構成です。

第一部で、ヒロインは突然誘拐され酷い方法で監禁されます。絶望的な状況なのですが、ヒロインが脱出できるかどうか、感情移入してしまうのが読者の常でしょう。ましてや、「今年最高の話題作」なんですから。
第二部で、ヒロインの別の素顔が描かれます。この描写で、ヒロインへの感情移入はいとも簡単に断ち切られます。でも、本の表紙の裏に書いてある紹介では「物語は大逆転を繰り返し、最後に待ち受ける慟哭と驚愕へと突進するのだ。」とあるのですから、まだ期待は捨ててはいけないのでしょう。
第三部で、ヒロインの別の素顔のこれまた別の素顔が描かれます。しかし、これはここまで我慢して読み進めてきた手慣れた読者にとっては、「慟哭」でも「驚愕」でもましてや「感動」でもないものです。私の場合、ここまで忍耐強く読んできて、最後に思わず出た言葉は、「何これ!!!???」でした。

このメインのストーリーと共に、この誘拐事件を担当することになった警部の物語も並走するわけですが、ヒロインへの感情移入を諦めてこちらを辛抱強く読み進めても、これまた何の「感動」もありませんし、ヒロインの感情や状況との通底もありません。思わせぶりなだけで終わってしまいます。


そして。

「凄惨で汚らしい」
「下品」
「面白ければなんでもありのモラルハザードを招来しかねないこの様な手法」
「執拗なまでの汚い描写」
「そこまでの残酷さが必要な説得性がストーリー展開に全くない。」

↑ これは、Amazonの星1つのレビューからの引用です。
私が女性の読者だからでしょうか?
この「その女アレックス」は、私にとって「今年最高の話題作」どころか、激しい嫌悪感しか抱けません。
私は、同じフランスの作家、マンディアルグの諸作品、マルキ・ド・サドの作品、「O嬢の物語」が描く世界には抵抗がない読者ですが、「その女アレックス」のプロットや描写は、エロティシズムでもサディズムでもなく、作品と作者と出版社の、何か一線を越えた「下劣さ」しか感じません。
ヒロインのアレックスの背景が、多くの女性に共感できるものならいざ知らず、謎解き、種明かし(陳腐なオチです)は、極めて特殊な状況を根拠としています。
この本の様な描写も「表現の自由」だということは、理解しています、2015年1月7日を経た今、最もホットなトピックです。
しかし、この本が極めて下劣な本であると断言することも、表現の自由でしょう。
だからこそ、朝日新聞「売れている本」の欄での女性の評者、瀧井氏には失望しました。彼女の女性としての読後感を書いてほしかったですね、それは到底褒め言葉にはなりようがないと思うのですが。
この物語を男女逆転させ、アレックスを男性にして、同じ状況で誘拐されあの凄惨な状態で監禁された設定にして、オチも同じにしたとしたら、男性読者はどう感じるのか?を知りたいところです。

余談1: この本の帯の裏には、「読み終えた方へ:101ページ以降の展開は誰にも離さないでください。」と、さも意味深に書いてあるのですが、「101ページ」って第一部の中途半端な箇所なんですけど???この「101ページ」の意味がわかりません。

余談2: 我が家の年末の恒例行事、一泊温泉旅行(スマホ以外のタブレットやPCは禁止!)に、私が持参する本として選んだのがこの本でした・・・最悪!!!




2冊目は、「33年後のなんとなく、クリスタル」


分厚いけれど、中身スカスカ。
そんな予感は十分にしていたのですけど、その予感を確かめるため、そして、あの時代を生きた人間として「見届けねば!」という一種の義務感から、購入させて頂きました。

この「33年後」の体裁は、「由利」という女子大生モデルの一人称で語られた元祖「なんとなく、クリスタル」とは異なり、話者は「ヤスオ」という、筆者を思わせる(っていうかそのまんま)ちょっと前まで政治家もやっていた57歳の作家の男性に変わっています。
「元祖」で由利の恋人だった「淳一」という大学生のミュージシャンは、「33年後」では物語から追放され(ロスに移住、孫持ち)、それどころか、あろうことか、由利も、その他「元祖」に出てくる「江美子」や「直美」や「早苗」その他大勢も、実は程度の差こそあれ「ヤスオ」と仲良しだった、という驚きの設定になっており、オジサンの「いや〜、実はワシも昔はモテてね〜」の如くの見苦しい自慢っぷりです。
おまけにこのオジサンは、「ロッタ」という躾が全く出来ていないトイプードルを飼っているのですが、自分のことは「パパ」、妻のことは「ママ」という呼称で夫婦の会話をしています、「よしよし、ロッタ。いい子にしていてね。パパは少しお仕事するの。」(23ページのヤスオの台詞!)てな具合に。
この気持ち悪さは、この「33年後」全編にわたって見られるので、この手の会話が苦手な方には読み進めるのは苦行であろうと思います。

そして、ヤスオの語りで33年後の由利や江美子や早苗たち、年齢54歳近辺の紛う方なく中年女性の現在が描かれるのですが、これまた、「クリスタル」とは程遠いだけでなく、どれもこれもが薄っぺらいことこの上なし、なのです。
54歳ですよ、54歳!由利は独身のキャリアウーマン、江美子と早苗は子供が二人いる専業主婦、という、「元祖」から33年後、格差社会へと変貌した日本で今でも、経済的に至極恵まれた階層に属す彼女たちですが、都心の高齢化現象、市町村合併、地下鉄のバリアフリー、子宮頸がんワクチンなどの話題を巡る彼女たちの言説はいかにも薄っぺらく幼稚で、読んでいる方が恥ずかしくなるのですが、よく考えてみると、これはヤスオが作ったお話なので、薄っぺらく幼稚なのは彼女たちではなくヤスオなのだと思いました。
実際の50代の女性は、こんな薄っぺらではありません。一人一人がもっと凄味のある人生を送ってきていて、それに基づいた重みのある発言をするんですよ、それは若い女性には真似できないのですが、「33年後」の登場人物たちは、まるであの頃最強だった「女子大生」そのもの。
そして、彼女たちの近況に事かけて、これまた中年のオジサンであるヤスオの"記憶の円盤"とやらが回って、「ワシはこれもやった、あれもやった。」という自慢話が入るのが、本当にウザい。全然「クリスタル」なんかじゃないのです。
ヤスオに、年齢相応に大学生や高校生の息子・娘がいれば、こんなウザいオヤジの自慢話は彼らに瞬殺されて終わり!なんでしょうけど、トイプードルのロッタちゃんじゃねえ。

また、「元祖」では最先端のように見えた、ファッションやグルメの描写も、「33年後」では、食べログにも見劣りするレベルです。
「元祖」の構成では、本文よりも、斬新にして膨大な「註」が注目されたものですが、「33年後」も同じ構成をとっていながら、「註」の中身は最早二番煎じ以上の残念さでした。
思えば、「元祖」の方は、スカスカな文章は単に文章力がないだけなのか、それとも巧者が無駄を落として乾いた文体に仕上げた名文なのか、の判別がつきにくく、「もしかしたら、これは相当クールで現代的な文章なんじゃない?」と錯覚を起こさせるものであったのですが、「33年後」の冗長で贅肉たっぷりの文章を見ると、やはり江藤淳先生も誤読なさったのだと、改めて得心致しました。その江藤淳先生も、最晩年は奥様に先立たれ残念な最期を遂げられたことを思い出し、ヤスオ様の行く末も案じてしまいましたが。

それから、本の帯に寄せられたヤスオ、いえ田中康夫氏のお友達(?)の推薦文が、これまたポエムなんです。
浅田彰氏、斎藤美奈子氏、福岡伸一氏、山田詠美氏、等々の私が敬愛する方々が、それこそワインのボトル1本でも空けて理性を麻痺させてからじゃないととても書けないポエムで推薦していらっしゃいます。

「クリスタルボールの中で旋回する、私的な、また社会的な記憶の欠片。」(浅田氏)
田中康夫は何者にも増して、たえず言葉を紡ぐ人であり続けたのだ。」(福岡氏)
「33年の熟成期間を経て開くブーケが香る物語」(山田氏)


「クリスタル」どころか、頭痛しかしてきません。
同世代の義務感として読んだ「33年後」ですが、私としては、「44年後」(ヤスオ氏68歳)、「55年後」(ヤスオ氏79歳)、そして更なる後日譚を期待するしかありません。
今度こそ、「33年後」では描かれていない、クリスタルな老いや老後、そもそも大学を停学処分になった理由、そして艶福家のヤスオでありながら今回は全く触れられていない最初の夫人のことなど、枯れた境地で綴られるのではないか、と期待するから、です。





最後3冊目は、「フランス人は10着しか服を持たない」です。

フランス人は10着しか服を持たない~パリで学んだ“暮らしの質

フランス人は10着しか服を持たない~パリで学んだ“暮らしの質"を高める秘訣~

この本が駄本だという理由の第一は、この「フランス人は10着しか服を持たない」という日本語のタイトルが詐欺である!、ということですね。
原題は「Lessons from MADAME CHIC.」です、英語を習い始めた中学1年生に訳させても、こんな釣り同然のタイトルにはなりませんよね!
しかも、この日本語詐欺タイトルの主語の大きさ!「フランス人」ときましたからね、これだけで「怪しい」と気づくべきでした。
まあ、釣られる私が悪いのですけど。
書店で手に取って確かめずに、アマゾンでクリックしたのが悪いのですけど。
しかし、この本は、「売らんかな」の手法に長けた編集者がタイトルを意訳したというだけでは済まないのです。
意訳(のレベルを超えている)したタイトルが、本の内容と全く合致していません!
この本は、大いに看板に偽りあり、なのです。
p.63には、こうあります。

ワードローブは10着のコアアイテムを中心に構成される(2~3着なら多くても少なくてもかまわない)。この10着には上着類(コート、ジャケット、ブレザーなど)や、ドレス類(カクテルドレスイブニングドレス、昼用のドレスなど)や、アクセサリー(スカーフ、手袋、帽子、ストールなど)や、靴や、アンダーシャツ(Tシャツ、タンクトップ、キャミソールなど重ね着するものや、セーターやブレザーの下に着るもの)は含まない。 ※赤太字は引用者による


はあ?
読み間違いじゃありませんよね?文末は「含まない」ですよね?
全然「10着」じゃないじゃん?
しかも、シーズン外のものでしまっておくものは当然カウントしないわけで、じゃあ、何が「10着」なの?と思いますよね。
この「10着のコアアイテム」というのは、実は「フランス人」がやっていることではなく、この作者(実はアメリカ人!)が勝手にやっていることです。
作者が例示しているコアアイテムとは、単に今シーズン「旬」で頻繁に活躍しそうな服を10枚に限定しただけのものであり、前掲のように、この他に「上着類(コート、ジャケット、ブレザー含む)」「ドレス類」「アンダーシャツ(Tシャツ、タンクトップ含む)」は、何枚あってもお咎めなし、ということなんですね。

つまり、日本語のタイトルが途轍もない釣りであるだけでなく、内容と全く違うものなのです。

服が溢れるクローゼットに溜息をついて、何かの救済のようにこの本を手に取るとしたら、完全に裏切られてしまいます。


この本が駄本だという第二の理由は、これがアメリカ人の著者によるものである、というところです。

実はこれまでも、何冊もこの手の本を買って失敗しているのです、私。
「パリジェンヌ流〜〜」「パリ風オシャレの〜〜」という名前につられて買った本は数知れず。
オレオレ詐欺に何度も遭う高齢者の方を笑えません。
アマゾンで「パリジェンヌ」と検索しただけで、凄い量の本が出てくるところをみると、このジャンルは、私と同様オシャレに悩める乙女、おっと図々しいにもほどがありますね、オシャレに悩める中年女性の、癒し本として確立されているものなのかも。
まあ、「パリジェンヌ」「パリ」と付いている本を読んだからと言って、ファッションや生活が急にオシャレになるはずもないのですけどね。
しかし一方、確かに、これら「パリジェンヌ」本には、オシャレのヒントが全くないわけではありません。
有益な情報やアドバイスはあるのです、ただ、それが日本で、東京で通用するかどうか、が問題なだけで。
つまり、情報やアドバイスをフィルタリングする必要があるのです。
フィルタリングの方法には二つあって、

・本物のパリジェンヌが書いたもの(を翻訳したもの)を読んで、自分で「これは日本人でもできる、これはできない」と仕分けする
・日本人スタイリストやライターが何十回もパリに通い(中には住みついて)、彼女たちなりに日本人に合うものをフィルタリングして書いた本を読む

になると思います。
ところが、このタイトル詐欺の「フランス人は10着しか服を持たない」の著者は、ジェニファー・L・スコット氏という、カリフォルニア在住のアメリカ人です。
彼女が大学時代にパリにホームステイした時の経験を元にしたのが、この本なのです。

つまり、ファッションセンスでは褒められたものではないアメリカ人、
しかもカリフォルニア育ち、
しかも20歳になるかならないかの女子大生、
しかもたった1年のパリ滞在、
カリフォルニアに帰ってから「パリ出羽守」としてご活躍、
という著者によって書かれたものを、オシャレ偏差値では遥かに高い我々日本人が読んでどーする!ということなのです。


アメリカ人が、パリジェンヌのファッションや生活のノウハウをフィリタリング(実はあまりフィルタリングされていない)したものを、更に日本人である我々がもう一度フィルタリングしながら読むって???
そもそもアメリカ人の女子大生がたった1年間のパリ滞在で学んだことを本にしたものを、わざわざ日本人の我々が読む必要があるのでしょうか?
パリジェンヌに学びたければ彼女たちが書いた本を読んで直接学べばよいのですし、また、すでにスコット氏よりも遥かに高度なプロの目を持った日本人スタイリスト、ライターの方が日本人向けに書いたものもたくさんあるのですから。

カリフォルニアのパリ出羽守がファッションと暮らしについて書いてみた、というのがこの本です。


私がこの本を読んで興味をそそられたことは、オシャレのアドバイスなんかより、アメリカ人の節度なき食生活、です、以下引用。

カリフォルニアでは、わたしは一日中だらだらと間食をしていたから。クラッカーをつまんで、オレンジを食べて、しばらくしてクッキーを食べたら、こんどはヨールルト・・・・・。

パリで暮らす以前のわたしは、よくキッチンのカウンターの前に突っ立って、携帯電話を肩と耳のあいだに挟んだまま、いい加減な食事をしていた。もっとひどいときは、テレビを観ながら。いつの間にか食べ終わっても、食べた気がしなかったくらいだ。

でもじつは、パリで暮らす以前のわたしは、料理の盛りつけなんて、ほとんど気にしていなかった。

カリフォルニア育ちのわたしも、朝食が大事なことはわかっていたけれど、腹ごしらえができればいいと思っていた。だから朝食と言っても、ボウル一杯のシリアルかトースト1枚でおしまい。


だそうなんですよ。このアメリカ人のレベルと同じ読者にとっては、この本は有益かもしれませんが、大概の日本人女性は、この本の著者よりも遥かにダイエットや栄養学や料理の知識があるのではないでしょうか。


また、アメリカ人のオシャレレベル、というか、正確に言うと、カリフォルニアの女子大生である(あった)著者のオシャレレベルも驚くべきもので、これもこの本を読んで興味をそそられた部分ですね。
例えば、パリのホームステイ先にパジャマとしてこの著者が荷物に詰めたものが、「着古した白いスウェットパンツとTシャツ」で、スェットパンツは「ひざの部分に穴」が開いていて、Tシャツは「故郷の大学のTシャツ」で、著者はこれを着て、「貴族の末裔」であるホストファミリーの「アンティークの家具」が溢れるアパルトマンの中をうろうろ歩いているのですから、オシャレ以前のレベルです。



その後筆者は、パリのホームステイからアメリカに戻って、結婚し二児の母になり、「パリ出羽守」としてライフスタイルを売りにしたブログを開設しているようですが(←これも見ました、ビミョーです)、日本人読者の私としては、知っているようで知らないアメリカ人の赤裸々な食生活やファッション感覚を、是非この「フランス人は10着しか服をもたない」の作者であるジェニファー・L・スコット氏に書いていただき、編集者に素敵な日本語タイトルをつけていただきたいところです。

・・・今、初めてこの本のアマゾンのレビューを読んだら、賛否両論なのですが、私と同様、この本の欺瞞を綴っている方も多いので、日本女性の健全さを再確認して安心致しました。
その中で、思わず「座布団1枚!」と言いたくなったレビューを最後に紹介しておきます。

「10着しか持たないフランス人なら、こんな本は絶対買いません。先ずはこういう本を無視するところから始めてください。」



以上、年末年始に読んだ駄本3冊を紹介してみました。

今年2015年は、有意義な読書ができることを願ってやみません。

 大義なき総選挙が終わって、何事もなかったかのような師走の日々です。


安倍首相が、「アベノミクスを問う選挙」と言って解散した師走の総選挙が終わって、一週間が経ちました。

何事もなかったかのような、選挙などなかったような師走の日々が流れております。


2009年夏の政権交代の選挙の後は、「政治が変わる」という期待と空気に満ち満ちでいました。
自民党に投票した私ですら、その変化の兆しは日々感じたものです。
2年前の2012年、自民党が政権を取り戻し、安倍氏が二度目の総理大臣に返り咲いた選挙でも、選挙後は、「不景気が何とかなるかも」という期待が溢れていました。
思えば、やはり解散権を行使したことで批判された小泉首相の「郵政選挙」の後も、それなりに「これから政治は変わる」という期待感はありました。


それなのに、今回の選挙が終わって、この「何事もなかったかのような」日本の師走です。
期待もなければ、希望もない、選挙前の日常に戻っただけ。
これでは、選挙に行っても棄権しても同じだと若者が錯覚しても仕方ないでしょうね。


解散直後には、野党・マスコミから「選挙の大義について疑問が呈されましたが、選挙戦が進むにつれそれも立ち消えになり、皮肉なことに、選挙が終わってから、「この選挙に何か意味があったのか?」という現実が立ち現れてきています。


選挙をしてもしていなくても、来年の増税は延期、だったんです。
それによって、子育てや医療など社会保障を拡充する目的の施策は繰り延べになることは、決まっていました。
「来年再増税してもいいから、予定通り施策を実行してほしい」と切望している人にとって、投票先の選択肢はありませんでした、正確に言うと、誇大妄想的な公約をうたう共産党以外にはありませんでした。
また、「そもそも景気が完全に回復していない今年の春に3%の増税をするべきではなかった」と考える人にとっても、投票先の選択肢はありませんでした、安倍首相は、その部分への批判は巧みに選挙の争点からは外していましたし、対案を示すべき野党である民主党こそが、消費税の増税を決めた政権であるのですから他の選択肢たりえませんでした。


安倍首相は、昨年の初秋、集中点検会合というものを開いて、各界の有識者に、2014年春の3%増税について意見を聞きました。
消費増税の集中点検会合、有識者の7割が増税賛成〜誰が賛成?(参加者の賛否一覧) ハフィントンポスト
正確に言うと、委員の73%(60人中44人)が増税に賛成だった一方、浜田宏一イェール大学名誉教授、本田悦朗内閣官房参与、岩田一政日本経済研究センター理事長をはじめとして、「2014年4月3%増税」に反対する委員は17%(60名中10名)いたのですが、安倍首相は予定通りの増税に踏み切りました。


つい先月、同じく来年の消費税増税に関して行われた集中点検会合では、今度は委員の67%(45人中30人)が増税に賛成という意見を表明したのですが、その最終日午前中に第5回目の会合が開かれた午後、安倍首相は記者会見を開いて、さっさと増税延期を決めてしまいました。午前中の会議の議事要旨が内閣府のサイトにアップされたのは一週間後ですが、安倍首相は最終日の委員の意見など目を通すつもりもなく、増税延期を決めていたのでしょう。去年の秋と同じく、浜田宏一イェール大学名誉教授、本田悦朗内閣官房参与、 片岡剛士三菱UFJリサーチ&コンサルティング主任研究員、等22%(45名中10名)の方々は反対意見でした。



去年の集中点検会合では、アベノミクスのブレーンとも言われた浜田宏一イェール大学名誉教授らの「増税は延期すべき」という反対意見は聞かずに増税を決行し、
今年の集中点検会合では、(「どのツラ下げて」と私などは思いますが)、同じ浜田名誉教授らの唱える反対意見を取り入れて増税を延期した、
のですね、安倍首相は。
去年の集中点検会合は、既に増税は決まっていて、パフォーマンス、またはセレモニー的なものであったようですが、今回の集中点検会合も同様で、前述のように、5回開かれたこの会合の最終日、午前中に「経済・産業」をテーマにした会合が開かれたその午後、安倍首相は会見して、さっさと「消費増税延期・衆議院解散」を発表しました、午前中の会議の議事録さえまだアップされていないタイミングでしたから、今年の集中点検会合もまた、単なるセレモニーだったのでしょう。練りに練った資料を提出して持論を述べられた皆様には、本当にご苦労なことでした、特に増税に賛成された多数派である67%の方々にとっては、無力感だけが残ったのではないでしょうか。


本当に、「この道しかない」であったのか?
選挙の大義はあったのか?


そして、不可思議なのは、11月の集中点検会合で、来年の再増税に賛成した大多数の有識者の委員の方々です。
増税に賛成した方々の論拠は、「増税をして、社会保障の不安をなくすことが最優先」であったと思います。
それを安倍首相は否定したわけです、彼らの意見を採り入れなかった。
であるならば、有識者の方々は、自民党を応援したり、自民党に投票したはずはないですよね???
しかし、結果は自民党圧勝。しかもおまけに、今更「軽減税率の導入」を掲げる公明党も躍進、という悪夢。
本来ならば民主党は、有識者の大部分が賛成した「今痛みを伴っても増税し、先ずは社会保障を安定させる」という軸で選挙を戦うべきであったのに、曖昧な戦い方をしたのですから、勝利が望めるはずもありません。
唯一、これまた悪夢のように共産党が大躍進しました、「消費税を今すぐ廃止」という政党に投票する層があれほどいるとは!!!共産党が政権を担うことなどありえないどころか、野党第一党になる可能性さえないこの時代にこの政党に投票するということは、議席は獲得しても、結局は投票した一票は死に票になるということなのに。



結局のところ選挙が終わって、立ち見えてきたのは、実は「アベノミクス」「消費税再増税延期」などは今回の選挙の争点ではなかった、ということではないでしょうか。
今回の選挙は、紛れもなく「大義なき選挙」であり、勝つことがわかっている選挙で勝利に酔うためだけのものであったのです、安倍首相が。
それだけではなく、皮肉なことに、この選挙を経て「信任を得たもの」として行われることは、選挙に関係なく決まっていた「再増税延期」ではなく、実は安倍首相が巧みに争点から逸らした憲法改正であったり、靖国神社への再参拝、TPP締結、集団的自衛権行使の法制化、教育改革になることでしょう、少子高齢化対策やら年金問題やらは再増税が延期になったことで後回しにされて。


一週間前の投票日、昼過ぎに行った投票所で、投票に来ている方々のあまりの高齢者率におののいた私ですが、勇気を振り絞って書いた「かいえだ」という一票は(東京1区です)、見事に死に票となりました\(^o^)/
投票率は戦後最低の52,66%。
どんな言を弄しても、今回の選挙は大義なき選挙であり、それを許したのは、安倍首相におもねて「この道」以外の選択肢を提案さえしない自民党の政治家及び国民に選択肢を示すことができない野党の責任であるだけでなく、何を恐れるのかこの選挙の本当の争点に切り込まなかったマスコミ、多数意見であるのに無視された増税賛成の有識者の方々の振る舞いにも責任があり、年金も医療費もエネルギー問題も全て「逃げ切りの世代」の方々の投票行動、同時に選挙を棄権した若い世代の責任、つまり国民全体の責任です。

いつか「この道」が間違っていることが明らかになって、もう引き返すことも出来ず奈落の底に転がり落ちるだけの日々が来ても、「国民は騙されていた」とだけは決して言えない、今回の選挙結果だと思いました。

 「この道しかない」という政党に投票すべきなのでしょうか?


奇しくも、昨日12月8日は73年前に日本軍が真珠湾を攻撃した日ですが、あの戦争も、「ABCD包囲網によってジリ貧になるくらいなら、『この道しかない』」ということで始められた戦争でした。

解散前、絶対安定多数を猶に超える295議席を有していた最大与党が「この道しかない」というこんな前のめりのキャッチフレーズを使うことに驚きますが、嘗ては「様々な意見の持ち主がいて自由闊達に議論ができるのが自民党」と言っていたのではなかったのでしょうか。自民党内には、最早「他の道=alternatives」を示す気概のある政治家はいないのでしょうか。


このタイミングでの解散・総選挙の大義を問う声が多くありましたが、、それは解散後の安倍氏の会見によると、

消費税の引き上げを18カ月延期すべきであるということ、そして平成29年4月には確実に10%へ消費税を引き上げるということについて、そして、私たちが進めてきた経済政策、成長戦略をさらに前に進めていくべきかどうかについて、国民の皆様の判断を仰ぎたいと思います。

私たちが進めている経済政策が間違っているのか、正しいのか。本当にほかに選択肢があるのかどうか。この選挙戦の論戦を通じて明らかにしてまいります。そして、国民の皆様の声を伺いたいと思います。

だそうなんですが。
本当に「この道しかない」のか?
「この道しかない」なんてことは、どんな世界にもありません。
バイパスや獣道でなくても、同じ目的地へ導く道は一つではありません。
経済にド素人のオバサンが幾つか書いてみましょうか。

1)今年の春の増税を見送るべきだった、という道
 →そうすれば、せっかく回復の兆しを見せていた景気が腰折れになることもなかったでしょう。

2) 今年の春の増税を3%でなく、1%かせめて2%にしておくべきだった、という道
 →そうすれば、駆け込み需要の反動も3%上げて8%にした現実ほど酷くなかったことでしょう。

3) 来年春の増税を見送るのではなく、予定通りに10%に上げる、という道
 →そうすれば、今すぐ対策を打つべき少子化対策や介護問題に取り組む財源を確保できるでしょう。

4) (これは極論ですが)今年の春に10%に上げてしまうべきだった、という道
 →そうすれば、駆け込み需要もその反動の乱高下も一度きりで済むだけでなく、社会保障の財源を早めに確保でき、安定的に社会保障の拡充ができたでしょう。


既に幾つかの他の道もあったわけです。
為政者は「道は一つではない」と謙虚に認めた上で、どの道をとるべきかを国民に示すべきであるのに、安倍氏の手法は、「この道しかない」と先に決めつけた上で、借り物の理論武装をとるのが常です。
そして、彼の理論はわかりやすく破綻しており、

アベノミクス(と書くのも恥ずかしい)が成功しているのなら、来年春の増税を見送ることはないわけで、来年春の増税を見送るということは、アベノミクスが失敗していることを認めるものである

アベノミクスが成功していると強弁するのなら、反対論を押し切ってでも来年の春、予定通りに増税して、社会保障費の財源を確保すべきである

どちらにしても、既に安倍氏自らが失敗を認めているのも同然なのではないでしょうか。



安倍氏は幹事長や官房長官として小泉元総理のパフォーマンスを身近で見ていて、あの郵政選挙の熱狂を夢見ているのかもしれません。
あの郵政解散大義なき選挙と言われましたが、それがまだマシであったと思える今回の選挙の大義のなさ。
安倍氏が大好きな国際会議で同席してきた各国の首脳も、安倍氏の行動は理解できないものだと思います。
ライバルSPDとの連立を余儀なくされているメルケル首相、同じく保守党だけでは過半数がとれず自由党と戦後初の連立内閣で政権を執っているキャメロン首相、社会党は単独で過半数に近い議席を持ちながら現在史上最低の支持率に喘ぐオランド大統領、そして先月中間選挙民主党が敗北してレームダック状態が懸念されるオバマ大統領、彼らの中で誰一人として、衆議院では単独安定多数、参議院でも連立与党で過半数を占めている政権の長である安倍氏の解散を理解する首脳はいないでしょう。
それでも、この選挙に大義はあるのか。



世論調査では、自民党が圧勝との予測が出ています。
「この道しかない」という言葉よりも、「景気回復」という言葉に国民は一番望みを託しているのだと思います。
特定秘密保護法案に反対であっても、集団的自衛権行使の閣議決定に反対であっても、靖国神社参拝に反対であっても、原発再稼働に反対であっても、先ず目の前の優先事項は、明日の自分のお財布です。
給与や年金に、国民がこれほど不安を抱いている時代が嘗てあったでしょうか。
「年金は100年安心」と高らかに与党(自民党公明党)が言っていたのは、たった10年前のことです。
「生涯非正規」「ワーキングプア」「子どもの貧困率」「老後破産」「貧困老人」・・・これらの言葉も10年前にはまだありませんでした。
だから、今日本国民の大多数が、選挙で投票するにあたって一番重要視するのが「景気回復」であるのは当然ですし、だからこその自民党圧勝という選挙結果の予測でしょう。
しかし。
この国民の支持が選挙の後、どう利用されるか、想像がつきませんか?
国民は、「景気回復」を恃んで自民党に投票しても、議会において圧倒的多数を得た自民党政権は、「国民から信任を頂いたから」と、他の政策も思うがままに進めることができるのです。
2年前、2012年暮れの選挙がそうではなかったでしょうか。
あの時も安倍氏は「景気回復」を前面に出して勝利したのですが、実際、景気が回復する前に、憲法改正やら靖国神社参拝やら原発再稼働やらが出て来たのではなかったでしょうか(私は憲法改正には賛成ですが)。



私は2009年の政権交代選挙、民主党が圧勝したあの夏の選挙においても自民党に投票しました。っていうか、それまでずっと自民党に投票していたのです。
しかし、安倍氏の人格、政策共に全く支持できるものではなく、どうしても今回の選挙で自民党に投票する気になれません。
2009年の時には、胡散臭く見えた民主党ですが(実際、胡散臭い方々もたくさんいますが)、最低ラインのところでマシに見えてきたほどです。彼らは、党首が靖国神社に参拝したり、なし崩し的に原発を再稼働したりはしないでしょうから。
今回の選挙で不思議なのは、辞任した松島みどり元法務大臣小渕優子元経産大臣が自民党から公認候補として立候補していることです、そしてそれをマスコミが大きく取り上げないこと、です。
松島氏に関しては「大臣を辞職するのは仕方ないとして議員を辞職するまでのことではない」ということだったのでしょうが、何と言っても松島氏は法務大臣の職にありました。その彼女が、わかっていて公職選挙法に明白に違反する(「それは団扇ではない、討議資料である」と言い張ったことでわかります)行いをしたことが問題なのであり、公認するにあたって自民党の中では議論はなかったのでしょうか?なかったんでしょうね。
小渕氏に至っては、東京地検が捜査中じゃないんですか?それでも公認するのが、自民党なんでしょうか?なんでしょうね。



「この道しかない」というキャッチフレーズも、多分安倍氏本人ではなく、世耕氏やスピーチライターの面々が考えたことなのではないかと思いますが、元々は、TINA(イギリスの元首相マーガレット・サッチャー氏の口癖の、There is no alternative. の頭文字)なんでしょう。
安倍氏(というより安倍氏のスピーチライター)は今までもあちこちのスピーチでこのTINAを愛用していますが、TINAで押し進めたサッチャー氏の政策が今どういう評価を受けているか、という事に関しては、スルーです。
否、安倍氏はTINAと口では言っていても、日和って増税を延期してしまうのですから、もし「鉄の女」サッチャー氏が存命なら「鉄の信念がないのなら私の口癖を使う資格はない」と一刀両断されてしまうのではないでしょうか。


少々脱線しますが、私がいつも呆れてしまうのは、こじれにこじれた日中関係について、安倍氏は「いつでも対話のドアは開いている」と自己陶酔気味に語ることです。それならば、相手に対する外交的儀礼というものはどうなっているのか?と。
昨年の暮れ、12月26日に安倍氏靖国神社に参拝したわけですが、この日は毛沢東の誕生日、しかも生誕120周年でした。わかっていてこの日に参拝したのなら、「対話のドアは開いている」どころか、とても挑発的な行いですし、認識していなかったのなら途轍もない無知であり、外交を行う資格はありません。
(ついでに、アメリカでは12月25日でクリスマス当日にお騒がせしたことになります)
また先月のAPECが北京で開催されるにあたって中国を訪問することになった安倍氏が、「中国は、地球儀を俯瞰する外交をしている私にとって50番目の訪問国」と誇らしげに語っているのも、本当に外交を行う資格があるのか、聞いている国民である私の方が恥ずかしくなりましたよ。今、世界中を見渡して(地球儀を俯瞰してみて)、どこの国の首脳が、中国に向かって「あなたの国は50番目の訪問国」と言うのか?
各国首脳とホスト役の習氏がそれぞれの会談の前に報道陣に向けて握手する場面では、当然の如く、日本だけ、日本の安倍氏に対してだけ、背景には日本の国旗もなく、目さえ合わさず、安倍氏の「お会いできて嬉しい」という言葉も無視、という中国側の冷たい対応でした。
しかもその場面で私が又しても呆れたのは、安倍氏のネクタイの色、です。

黄色のネクタイ! 外務省はチェックしなかったんでしょうか?いやいや、「どんとらふ、しゃら〜っぷ!」の外務省ですからチェック機能なかったんでしょうが、きょうび、取り立てて中国の歴史や文化に詳しくなくても、「黄色」が中国で意味するものくらい知っていますよ。元々は、黄色は皇帝の色であり皇帝以外が黄色の装束を身につけることが禁じられていた・・・のようなことは、歴史オタじゃなくても知っていることでしょうし、また中国に旅行したり仕事で行ったことがある人ならば、今の中国では、真逆の意味、日本語で言うと「ピンク映画」とかの「ピンク」に相当する色が「黄色」だということも、知っているでしょう。
なのに、黄色のネクタイ!そりゃ、習氏の顔色は変わりますよ。国家主席でなくても、こんな教養が欠如した無礼者とは金輪際友好的になれるはずがないと思います。



本筋から離れましたが、「この道しかない」と安倍氏が言い募る経済政策ですが、今どの政党が政権についても第一に取り組むことは、経済政策であり、社会保障であることは変わりないわけで、その意味では、安倍氏の「景気回復、この道しかない」というのは正しいかもしれません。
寧ろ、逆説的なのは、いくら解散した当の本人が「アベノミクスを問う選挙だ!」と言い張っても、選挙の結果次第で大きく変わるのは、経済政策や社会保障ではなく、外交だったり、安全保障だったり、憲法問題だったり、エネルギー政策という、安倍氏が巧みに争点から外していることに関してだと思うのです。
となると、有権者が第一に考えなくてはならないのは、実は「景気回復」ではなく、その他の論点でではないでしょうか。
その他の論点こそ、自民党及び公明党が安定多数、絶対安定多数をとるかとらないかで、大きく変わるのです。
となると、候補者が誰であっても、政党がどこであっても、苦渋の選択をせざるをえなくなります。
私は2012年の選挙で、目をつぶって「かいえだ」と書きました(東京1区に住んでます)。
夫はその選挙では、「オートマティスム=自動書記」で「やまだ」と書いたそうですが、今回は心を無にして「かいえだ」と書くそうです(海外企業のM&Aを仕事にしているので、この円安に怒り心頭)。
「人物本位」というのは、中選挙区制時代の過去の遺物と自分に言い聞かせています。
自民党が、安倍氏や麻生氏等を一掃して、元の「自由闊達な議論が出来る政党」に戻れば、また選択肢として考えたいと思いますが、「この道しかない」という硬直した視野狭窄の政党に、今の時点で投票する気はありません。



選挙結果の予測通りになれば、今年も2012年のように寒々しい気持ちで年の暮れを迎えることになるでしょう。
景気を良くしてもらって明日の財布が少しでも潤うようにと願って国民の大多数が支持した安倍政権によって為された施策の中で、2012年からの2年間に単なる「気分」以外に実質何か良いことがあったのかどうか、考えると鬱々たる気持ちになりますが、それでも今年一年無事で過ごせただけ有り難いと思わなければならない今の日本ではないでしょうか。

めいろまこと谷本真由美氏は、AO入試を批判していますが、では大学付属校はどうなのか?


慶応大学法学部の学生青木大和氏が、小4を詐称したサイトを作って即バレした余波といいますか、青木氏が代表のNPOやら、青木氏が慶応大学をA0入試で受験するにあたってお世話になっていた「AO義塾」とやらの予備校の代表の「ポエム」やら、次々と芋づる式に話題が提供され、今朝起きてみたら、元経産官僚の宇佐見氏のこれまた「ポエム」が燃えていて、そして「AO入試」に対する批判が沸騰しておりました。



AO入試偏重は技術立国の自殺であり階層を固定する 谷本真由美Wirelesswire News

日本のAO入試はなぜ上手くいかないのか:人類応援ブログ 小山晃弘


いつもながら、谷本氏ことめいろま氏の書いていらっしゃることには、ものすごい偏向があると思うのですが、先ず、アメリカのAO入試と日本のAO入試は全く違うものです、っていうか、アメリカの入試は全てがAO入試です。
一般入試、推薦入試、AO入試と受験生に選択肢がある日本と違って、アメリカでは全ての高校生が、このAO(アドミッション・オフィス)入試を受けるしかないのです。
つまり、貧乏だろうが裕福だろうが、「せっせと勉強は頑張れるけども、しゃべるが下手だったり、シャイだったり、体が弱い学生」だろうが「馴れ合いやリーダーシップを発揮する事や、ご立派な非営利活動を自慢する」学生であろうが、このAO試験を受けるわけです。
そして、めいろま氏が一言も触れていなくて、小山氏のブログに詳しくかかれていることですが、このアメリカのAO入試のベースは、あくまでもSATという統一試験の成績です。
この試験は、センター試験と違って数回受験可能であり、センター試験よりも遥かに受験料が安く(貧しい家の子は免除)、受験後数ヶ月先にしか受験生本人に自分の成績が通知されないセンター試験と違ってわずか2週間後に成績がウェブ上でわかる、という試験です。
College Boardという、アメリカの高校生が大学探しをするサイトでは、SATの点数が重要なファクターになっています。
SATの点数がある一定のレベルに達していないと、そもそも親がお金をかけて短期留学やボランティアに行かせたりしても、全くお話になりません。
めいろま氏の書きようだと、まるで成績関係なしに、お金をかけて短期留学やボランティアをやった受験生が楽勝のように書かれていますが、それは全く違います。
先ずはSATの点数ありき、なんです。
SATは、日本の高校生が塾や予備校の「センター対策講座」に高1や高2から高い授業料払って行くのと違って(アメリカには予備校や塾ないし)、数少ない対策本や問題集を買って勉強するか、せいぜい高校でやってくれるSAT対策の講座に1度か2度行く程度しか、具体的な対策はありません。Critical readingもWritingもMathも、「努力」よりも生まれつきの「頭の良さ」に依るから、少なくともアメリカ人はそう考えているから、です。変なところで諦めがよいというのか、日本人と違って「努力すればするほど点数が上がる」という幻想を持っていないのです。
難関大学で課されるSATの科目別テストも、学校の勉強が最大の受験勉強になっており、家庭の経済力によって点数が上下するとも思えません。
ハーバードやイェールには、このSATのReasoning test のスコアが満点の2400点の超優秀な高校生が何百人も出願するそうです。いくら親のお金でボランティアや短期留学していても、SATの点数が1600点あたりだと、出願するだけ無駄です。
で、2400点辺りのスコア群に固まった受験生の中から、入学者を選ぶ作業をするのが、AO(アドミッション・オフィス)なのです。
アメリカの大学のAOが目指していることは、シンプルです、"如何に大学の力を最大化するか”、ということに尽きます。
最大化とは、一人でも多く優秀な学生を入学させること、スポーツや音楽に秀でた学生を入学させて大学のチームやオーケストラのレベルをあげること、ジェンダーエスニックのバランスをとりダイバーシティをはかること、などでしょうか。
勿論、その2400点付近で団子になっている大勢の受験生の中から、留学やボランティアをした学生ばかりを採るはずもありません。
また優秀な学生を獲得することに関しては、ここではアメリカ人的な猛禽類の本性を発揮して貪欲です。優秀であれば、学費プラス生活費タダで入学させます、能力的にはビミョーだけれど正規の学費をフルに払えてプラス寄付までもしれくれそうな裕福な学生(例えば、ブッシュ元アメリカ大統領のような)を入学させるのとバランスをとって。


この動画は勿論宣伝です、でも彼女だけが宣伝用に奨学金を貰えているわけではなく、Need-Basedの奨学金で、貧しい家の子どもでも、ハーバードのような難関有名大学に入学できます、否、有名大学であればあるほど、奨学金が充実しており、貧しい家の優秀な子どもを受け容れるキャパが大きいのです。そして彼らは、卒業時に借金を抱えなくてもいいシステムになっています。
それだけではありません。
私は去年、機会があってアメリカのアイビーリーグのとある大学の学生寮を訪れる機会があったのですが、その立派さといったら!各寮に、ハリーポッターの映画に出てくるような天井の高い食堂があり、日本の小学校の教室二つ三つ分くらいの学生専用の「談話室」に革張りのソファーが幾つもとグランドピアノがおかれ、図書室(大学の図書館とは別に各寮の図書室)もオーク材の本棚にちょっとした町や村の図書館規模の本が並び、パソコンが10台くらいだ〜っと並び、ぶつぶつと独り言を言いながら勉強する学生のために個室の自習室のドアが並び、そして地下には学生専用のダンススタジオとジムがある、という環境でした。
この、日本の大学がひっくり返っても学生に提供できない素晴らしい環境の中で、前掲の動画の彼女、父親が庭師、母親がハウス・キーパーの貧困家庭の彼女は勉強し、生活するのでしょう。この環境の中で、エリートとしての社交の仕方や振舞い方も同時に学んでいくのだと思います。

アメリカンドリームは大昔に死んでしまいました。

と、めいろま氏は言いますが、どうしてどうして、アメリカンドリームはまだ、辛うじてしぶとく残っているのではないでしょうか。
動画の彼女が、貧困家庭からハーバードに入学できたように、酷な言い方ですが、めいろま氏のお友達である「貧しいメキシコ移民の二世やフィリピン移民の一世」の学生にも、チャンスだけは公平に開かれています。
それを書かずに、軍隊に入った話だけを書くのは公平ではないのでは?
翻って、日本の片田舎の貧しい天才少年・秀才少女が、親が一銭も学費・生活費を出すことなく、尚かつ卒業時に借金を抱えることなく、東大や京大、早慶の大学に進学することができるでしょうか?
日本の方が、余程、経済的に裕福かそうでないかで子どもの進路選択が制限される社会だと思います。



で、名前はアメリカと同じ「AO入試」ですがまるで違う日本のAO入試について考えてみます。
そもそも、センター試験よりも、一般入試よりも、そして指定校などの推薦入試よりも早い時期(大抵は高3の夏休み)に始まるこの入試に、「AO入試」という紛らわしい名前を付けた、慶応大学湘南藤沢キャンパス(以下「SFC」)に、責任があります。
今は殆ど聞かれなくなってしまった、「一芸入試」の方がよほどぴったりだったのに。
一般入試は1点を争うペーパーテスト、推薦入試も「内申点何点以上」という、点数という尺度がありますが、SFCが打ち出したこの入試は、


筆記試験や技能試験などの試験結果による一面的、画一的な能力評価ではなく、中学校卒業後から出願に至るまでの全期間にわたって獲得した学業ならびに学業以外の諸成果を筆記試験によらず書類選考と面接によって多面的、総合的に評価し入学者を選考するもの
慶応義塾大学 入試制度


という、「多面的、総合的」って何?というものでした。
昨日、今日と、ネットではAO入試は叩かれまくっていますが、当時は、「画期的な新しい入試」「暗記や詰め込み勉強重視からの解放」と、極めて好意的に迎えられていた記憶があります。
それが、何故、ここまで残念な入試制度になってしまったのか?
上記の小山氏のブログにも、理由が分析されていますが、それに加えて、

・SATの点数が前提のアメリカのAO入試と違って、日本の場合は、統一試験にあたるセンター試験の実施は1月、受験生に結果が知らされるのは卒業してから(!)という全く使えない仕様であり、統一試験の成績を日本のAO入試に組み込めなかったこと
・たいていは11月に行われる推薦入試(内申点重視)とは入試の性格を分けるために、選考基準を曖昧な基準にしかできなかったこと

結果、成績や能力を表す客観的数字である、センター試験の点数や学校の成績とは関係がないところで判断される試験になってしまっていたのです。

だからこそ、「AO義塾」というお笑いのような塾商売が成立しえていたのでしょう。

ただ、SFCだけではなく、慶応本体も、早稲田も、その他私大、国立大学までもが、このAO入試に追随し、同じような入試を行い、学生を入学させ、卒業させてきたのです。
それは何故かと言うと、それは「青田刈り」、つまり出来るだけ早く、少しでもマシな学生を確保するため、です。


しかし、何か見落としてはいないでしょうか?
大学の付属校って、壮大な「青田刈り」ではないのでしょうか?


首都圏以外の方には、よく理解できないかもしれませんが、実は、早慶、及びMARCHに入るには、高校で付属校に入るのが一番簡単なのです。
お受験、即ち小学校受験で、幼稚舎(幼稚園ではありません)や、早稲田実業小学校に入るのは、それはそれは大変です。
中学もそこそこ大変です。普通部(教習所ではありません)や中等部にSFC早稲田実業や早稲田学院(中等部ができました)、MARCHの付属中学など、どこも高偏差値の中学への合格を目指して、小学校低学年から首都圏の小学生は塾通いをします。
大学は、全国から、早慶MARCHを目指して受験生が集まります。
一方、首都圏の高校受験においては、先ず、中学受験で既に私立中学に行った優秀層がごっそり抜けています。
そして、全国区ではなく、首都圏だけの戦いになります。
更に、公立中学の進路指導では先ず都立高校・県立高校への入学を中心に行われますから、早慶やMARCHの付属校とはいえ、お受験や中学受験、大学受験にくらべて、相対的に入りやすいのです。
ちなみに慶応義塾高校募集370名、志木高校230名、女子高100名、早稲田高等学院360名、早稲田本庄270名、これだけではありません、明治大学付属、青山学院大学付属、中央大学付属、法政大学付属、どこも募集が何百人単位の人数です。
(小学校、中学校から上がってきた生徒がいるので、各高校の一学年の数はもっと多い)
しかも、これらの大学付属高校は、入試が全て3教科!

2015年受験 予測偏差値 SAPIX中学部

都立高校、県立高校が5教科であるところに比べて、かなりラクな入試です。
つまり、首都圏に住んでいて、高校で早慶MARCHに入るということは、中学受験で優秀層がごっそり抜けた集団において、都立や県立の名門校の5教科受験を目指す層ともバッティングせず、おまけに義務教育の範囲の英・数・国だけで、慶応大学、早稲田大学、MARCH大学への切符を手に入れられるのです。

これは大学側から見れば壮大な青田刈り、付属高受験生にとっては、緩く美味しい受験、と言わずして、何というのでしょう?


めいろま氏は、AO入試を「技術立国の自殺であり階層を固定する」と批判していますが、「技術立国の自殺」という大問題以前に、早慶MARCHの大学のレベルを欧米並みに上げるとしたら、真っ先にやるべきことは、付属高校の廃止、最低でも付属高校の高校での募集の廃止ではないでしょうか。
世界の大学ランキング上位の学校で、「義務教育レベルの英語・数学・国語の試験」の緩いフィルターしか通り抜けていない学生が入学者の何割もいるような大学ってあるでしょうか?
めいろま氏自身、前掲のSAPIXの偏差値表に掲載されている大学付属校(女子校)のご出身で、一般受験ではなくいわゆる「エスカレーター式」で大学に入学された方です。
地方から、早慶MARCHの大学を目指して一般受験する受験生は、めいろま氏風に言うと、

地方の実家はお金がないので、首都圏にある早慶MARCHにラクな高校受験で入学して、「大学入学の予約金」でもあり「保険料」でもある私立高校の高い学費を3年間も払ってもらうこともできません。高校時代に海外に行くこともできませんでした。懸命に勉強して、国語、英語、社会か数学選択の一般受験で入学してからも、裕福な自宅通学の付属高上がりの学生と比べて、バイトを幾つもしないと東京での生活はやっていけません。大学の制度で留学したくても、お金の問題だけでなく、様々な情報を持っていて準備もできる付属高上がりの学生とは勝負になりません。一線に並んで大学に入学したように見えて、地方から大学に入った学生は、入学時での学力では付属高組に勝っていても、その後の学生生活ではいつも惨めな差を感じるしかありません。

ということにはならないでしょうか。彼らから見ると、めいろま氏はさぞ恵まれた学生だと思うことでしょう。


詰め込み教育の一般入試で入学した学生に比べて、緩い入試システムで入学した学生が口先だけで能力レベルが低いことが、ひいては「技術立国の自殺」に繋がるという、めいろま氏のトンデモ論理によると、エスカレーター式の付属高校からの大学入学システムは、AO入試に負けず劣らず「技術立国の自殺」では?

私はAO入試を肯定するものではありませんが、ラクな付属高校への入試を経て大学に入学する学生をよしとするのなら、付属高校への入学が不可能な地方の学生やら、首都圏の学生でも早慶MARCHの指定校推薦がない公立高校の学生が、一般入試にさきがけてAO入試にトライするのを責めるべきではない、と思います、何故なら、付属高校からのエスカレーター式入学制度と同様に、AO入試の制度があるのですから。

都内の私立大学、就中、早慶MARCHが、文科省から競争的予算を獲得するためにグローバル化に懸命なことは理解できます。一方で、大学を経営する上において学生数を確保するため、なりふり構わず青田刈りもしなければならない台所事情も理解できます。けれども、グローバル化と言うなら、世界大学ランキングのようなものの上位を目指すのなら、付属高上がりの生徒が学生の何割をも占める、という状態では無理でしょう。世界の有名大学で、そんな付属校を持った大学はありません。付属校のシステムは今更廃止はできないと言うのなら、グローバル化、先日話題になった用語で言うと、「G大学」は諦めて、「L大学」つまり「東京ローカル大学」に方向転換すべきではないでしょうか。


そもそもAO入試批判が何故か「技術立国の自殺」という飛躍した方向へ迷走しているめいろま氏の文章ですが、この数年彼女が書いたものを読んできて(メルマガ購読しています♡)違和感があったことが、やっと理解できました。
めいろま氏にとっては、いつも自分が正義、正確に言うと自分が辿ってきた道が正義、なのです。
ところが一方、彼女はラディカルとも言える発言をバシバシしている方なのですが、時々彼女の正義とポジションが齟齬をきたしているのです。
つい先日も、めいろま氏が、女子校を肯定しているのを読んで、意外に感じたのですが(だって、めいろま氏なら、女子校や男子校を粉砕しそうじゃないですか)、

あくまでも、めいろま氏個人の狭い体験だけを正義とする発言ですよね。
自分自身の経験は素晴らしかったとしても、本当にリベラルな世界を目指すのなら、共学の中で女子が男子と同等に振る舞える環境を作るにはどうすればよいのかについて発言するべきで、女子校をあと10年?20年?生き延びさせても問題の解決にはならないのでは?
「技術立国の自殺」という飛躍は、多分にめいろま氏のお父様への思いがあるのでしょう。
エンジニアとして長く企業で活躍された方だと、著書だったかブログだったかtweetで読んだ記憶があります。
ただ、そこにも、個人的思いとは別な考察が必要だと思うのです。
不肖私の父も、めいろま氏のお父上より一回りくらいは年上だと思いますが、まさにめいろま氏が書いているように、

外国製品を入手し、それを分解し、外国語の仕様書を解読し、これより良いものを作ってやるぞと真夜中まで研究や実験に励む人でありました。また、コネも何もお金もないが、外国に飛び込んで一生懸命ものを売ってくる人々でありました。政治やマスコミとは無縁でありました。そんなものは仕事や技術には関係ないからです。


こういう世代の人でした。1ドルが360円だった時代に、新製品を持ってアメリカの大学やメーカーを回るわけですが、今なら飛行機で移動してホテルに泊まるのは当たり前ですが、日本の大企業から派遣されていても、移動はなるべくレンタカー、泊まるのはモーテル。レストランで食事をするのではなく、スーパーマーケットで食料を調達して、その物量の圧倒的な量に驚き、「こんな国と戦争したなんて!」と呆れたそうです。「ネイティブ教師の英会話」なんて望むべくもなかった学生時代、豆単を隅から隅まで暗記した英語力を駆使して、ジャパニーズイングリッシュで交渉し、商談をまとめたのです。メーカーのエンジニアも、商社マンも皆、その時代はそんな感じだったのだと思います。

そういう先人を尊敬するのはいいとして。
でも、彼ら、その当時のジャパニーズ・ビジネスマーンに欠けていたことは、ボランティアの精神だったり、公共の福祉だったり、社会活動の意識だったり、ではなかったでしょうか。
ウチの父など、町内会は勿論、政治には全く関心などありませんでした。
また日本国内では「阿吽の呼吸」で決まることが、日本を一歩出ると「プレゼンして主張」しなければどうにもならないこと、製品は素晴らしくても商談が下手だったり売り方がマズいと商売にならないこと、それも日本が経済大国になるに連れてわかってきたことではないでしょうか。
彼らには、プレゼン能力もなければ、人を説得したり、という交渉技術もなかったのです。
そうして、バブルを経て、日本もようやく「衣食足りて礼節を知る」状態にたどり着いた時、その猛烈時代のジャパニーズ・ビジネスマーンに足りなかったことが、日本の社会に求められるようになり、それが教育の中身にも反映された、ということなのでは?

今の若い人は、羨ましいほど何の衒いもなく、「社会に貢献したい」「貧しい国の開発を手助けしたい」「世界の平和に貢献したい」と言うんですよね。理系の人でもそうですよ、「障碍者や高齢者の生活を助ける技術を開発したい」とか言うんです。
これは、ゼニにしか関心がない「エコノミック・アニマル」(←懐かしい)とも呼ばれた昔のジャパニーズ・ビジネスマーンには、決して見いだすことができなかった志です。
この若者の意識は、認めるべきであり、育てるべきものではないでしょうか。
大学生と大学院生の子ども(文系と理系)を持つ私などから見ると、「理系」の成果が目に見えなかった昔と違って今の時代、学生でスマホのアプリを作ったり、プログラムコンテストで入賞したりする理系の学生は尊敬と憧れの的ですし(今回見事過ぎる「小4が作ったサイト」を製作してしまった渦中の人、Tehu氏もそうですね)、そんな技術者の彼らがいる限り、「技術立国の自殺」ということにはならないと思います。

で、当然のことですが、AO入試と「技術立国の自殺」は何の関係もないことで、一般入試で入学した学生にも優秀な人とそうでない人がいるように、また、付属女子高上がりで大学に入学した学生でもアメリカの大学院に入学して国際機関で働いて海外に住みながら日本のネット上でオピニオン・リーダーになっている方もいる、のと同じように、AO入試で入学した学生の中にも「日本国がより豊かになる様、世の中に還元する様な能力を持った人」(めいろま氏)も必ずいるのではないでしょうか?皆が皆、青木大和氏のような学生ではないと思いますよ、AOの制度には疑問がありますが。

ワタクシは個人的には口べただが技術が好きだったり、自分を実力以上に語らない、不器用で朴訥とした人が、楽しく働けて妥当な報酬を得られる世の中になるべきだと思っております。


最後の最後にのけぞってしまったのですが、この ↑ 上の発言は、本当にめいろま氏なんでしょうか?!
彼女が最近揶揄していた、オタサーの姫の発言かと思いましたよ!
日頃、男女問わず専門知識と技術の習得が大事なこと、ハンパな英語では海外では通用しないこと、主張するべきことはきっちり主張すること、などを力強く説いている、泣く子も黙るめいろま氏とは別人のようです。

また、めいろま氏が盛んに秋波を送っているタイプというのが、

家は貧乏だが、勉強が好きで、せっせと真面目に働く地味な青年達

不器用で真面目な人々

口べた   自分を実力以上に語らない、不器用で朴訥とした人

ですが、これって、先日亡くなった、健サンこと、高倉健ですか?


ネット上で影響力が強い方の発言であり、めいろま氏の発言の60%は納得してしまうものであるだけに、時折垣間見える個人的経験のみを根拠にした発言は大変残念だと思いました。

 超がっかり!! 小室淑恵氏著「子育てがプラスを産む『逆転』仕事術 産休・復帰・両立、すべてが不安なあなたへ」を読んで

私は、Kindleで読みました。


子育てが終わろうとしている世代の私がこの本を手に取ったのは、これから社会に出て行く息子と娘が、どういう生き方をしていくべきなのか、親として参考にしたかったからです。
けれども、この本を読み進めるに従って、何やら寒々しいというか、モノクロの気持ちになってきて、最後まで読んでそっとページを閉じました。
とても、「参考になる」ものではなく、いささか絶望的な気持ちにさえなりました。




著者小室淑恵氏は、国会でのプレゼンや、TEDでの活躍、NHKの夜遅い時間のニュース番組でのコメンテーターやらで、よく知られていると思いますが、「才色兼備」という言葉は、この方のためにあるような女性です。
日本女子大卒業後、資生堂に入社。6年後の2006年に退社と同時に起業(株式会社「ワーク・ライフバランス」)。
この会社は創業以来「営業の電話」をしたことが一度もないそうです、つまり黙っていてもお客の方から問い合わせがあって仕事を受注し続けているのです、そのクライアントの数900社!見事に時流に乗ったビジネス展開をしています。
プライベートでは、経産省の官僚と結婚し、男の子二人の母親、という、「才色兼備」にどんな言葉を重ねたら、小室淑恵氏を表すのに相応しいのかわからないほどのマルチでスーパーな方です。
また、プレゼンの映像や、テレビでのコメントからにじみ出てくるのは、小室氏の人柄の素晴らしさです。
美人でありながら飾らないキャラ、それでいて言葉遣いや仕草には品格があります。
よどみなく滑らかに落ち着いた声で自説を説く彼女を見て、「この人とお友達になりたい」「この人みたいになりたい」と女性ならば思うでしょうし、男性なら尚更好感を抱かずにはいられない、小室氏の佇まいです。
まあ、私もそういった彼女の雰囲気に乗せられて、この本を買って読んでみようと思ったわけですが、彼女のビジュアルや人柄を抜きにして、字面だけで虚心坦懐に内容を読むと、いやいやどうして、絶望の書ではないかと思いました。


一言で言うと、小室氏が提唱するライフスタイルは、何もかも兼ね備えた、器用で万能な一部のごく限られた人のみに可能なもの、なのです。
コンサルタントである彼女が打ち出すものは、
1) 女子力に依存した単なる小手先のライフハックであり、一方
2) 企業側に都合がよい提案ばかりであり、更には
3) 少子化や女性の活躍の根本的解決にはなっていない、ものではないかと思います。

1) 女子力に依存した単なる小手先のライフハックではないのか?

小室氏がこの本の中で書いている、ワーク・ライフバランスの実践ですが、そのためには先ず、女性自身がつわりの時期から、全方位的に気配り気遣い根回しが要求されるタスクを色々とこなさねばならないようです。
例えば、妊娠を職場に伝えるにしても、

一般的には、自分の妊娠の様子を職場のスケジュールに書き込んだり、メールで送ったりすることにためらいを感じることが多いと思います。そんなときは、あなたの味方になってくれる人を作りましょう。どちらかと言うと、「世話焼き」タイプで、情報発信力の強い人がいいでしょう。ランチに誘って、現在の体調のこと、産休に入る時期や育休後の復帰予定時期などについて話しておきます。


と小室氏は提案しているのですが、この「世話焼き」で「情報発信力が強い人」ってもしかしていわゆるお局様のことでしょうか?お局様から職場の人に向かって、自分の体調や産前産後のスケジュールの情報発信をしてもらうって、リスクが高すぎるとしか思えません。
また、小室氏はこうも言っています。

未婚の女性社員には、戦略的に対応しておいたほうがいいかもしれません。(中略)ランチにでも誘って、「知ってる?妊娠すると、何故かフライドポテトが食べたくなるんだよ」「妊娠してから毎日のようにトマトを食べ続けているの」など妊娠中の面白いエピソードを話し、妊娠・出産を身近に感じてもらいましょう。


「妊娠したらフライドポテトが食べたくなる」というエピソードに感激したり、それで妊娠・出産を身近に感じてくれる、初々しい未婚の女性社員がいるかどうかは別にして、何が「戦略的」なのか、私にはさっぱりわかりません。しかも、未婚の「女性」社員ではなく、未婚の「男性」社員に対しては、「戦略」は必要ないのでしょうか?結局は、職場の女性の人間関係の中で上手く立ち回ることに帰される、ということなんでしょうか?

事程左様に、妊娠・出産して復職しようと考えている女性に、個人的な気配りや気遣いや根回しを(過度に)要求するのが、小室氏流なのでは?と思ってしまいます。

ちなみに、私が以前勤めていた会社の先輩は、休職中に自分宛てに届いた郵便物がきちんと転送されるよう、滞在先の住所を書き、十分な料金の切手を貼った大きな封筒を休業期間の月数分、用意していました。


↑ これなんか、その典型ですが、産休・育休をとる女性はここまで涙ぐましい気配りしないといけないんでしょうか?
郵便物の転送くらい、会社が会社の経費と人手でやるべきことなんじゃないのでしょうか?
しかも、重要なのは、気配り気遣い根回しをする能力と、本来の仕事を遂行する能力は別、という視点が抜けています。

また、育休中に職場の上司へメールすることに関しても、小室氏流だと細かい気配りが必要なようです。
先ずは「上司がせっかくの近況報告を転送」しやすいように、

転送しやすいのは、子どもの写真を添付した近況。職場の様子を気遣いつつ、仕事の復帰に関して前向きな様子がわかる文面です。定期的に写真が転送されると誰でも、成長を見守る気持ちになれるものです。ただ、単なる子どもの自慢に思われないように、ぴかぴかにかわいい写真よりは、不思議なポーズで寝ている写真や、口のまわりにいっぱいにご飯をくっつけているおちゃめな写真など、少しコミカルな写真を選びましょう。


だそうなんですよ!!!
職場には、秘かに不妊治療をしている女性社員とか、女性本人でなくとも、妻や姉妹や娘が不妊治療をしている男性社員がいるかもしれない、という気配りは全くないようですが。
で、無神経に(いや、戦略的?)子どもの写真を出すなら出すで、ストレートに一番可愛いと思う写真を出せばいいじゃありませんか。それが、わざと作為的に、「少しコミカルな写真」を選ぶですって???
そこまでの捩じれた気配りがないと、マトモに復職できないのですか?
この部分を読んで、私はのけぞってしまい、小室氏に対する評価ががた落ちした瞬間でもありました。
思えば、小室氏が国会でプレゼンした時の映像を見て、嫌な予感はしていたんですよね。プレゼン資料の最初の自己紹介のところに、小室氏のご長男(当時5歳とのこと)の写真を載せ、居並ぶ議員を前に、「あまりにも可愛い写真で驚かれたかと思います」とジョーク(なのか?)を言っているのを見て、「この人、大丈夫?」と思ったのですが、こういう「外した」ところが小室氏の魅力なのだと無理に納得したのですが、それは間違いだったようです・・・。この国会の場で、息子の写真をプレゼン資料に入れる、というのも「戦略」なのでしょうかね。


常軌を逸しているとしか思えない小室氏流アドバイスとして、育休から職場復帰する直前のアドバイスがあります。
小室氏は、職場復帰前に「できれば職場を2回訪ねましょう。」と言います、まあそこまでは良いとして。

1回目は、復帰予定の2ヶ月前、部会などで全員が揃っている日のランチの時間に子連れで職場を訪ねます。あえて母親っぽいカジュアルな服を着て、ビジュアル的にも「私、母親になったんですよ」という印象を持ってもらいつつ、子どもの顔を見せておきます。(中略)このときは、内勤の人だけでなく外出から戻って来た人や出張して2~3日後に出社してきた人もちゃんと手にとれるくらい、多めにお菓子を用意するといいでしょう。


私が、2回目にのけぞったのは、この上の箇所を読んだ時です、「多めにお菓子を用意するといいでしょう」って、いやしくもコンサルタントの言葉でしょうか?小学生のお楽しみ会じゃないんですよ。目眩がしてしまいます。言うまでもなく、「多めにお菓子を用意する」能力と、仕事の能力及び意欲とは、何の関係もありませんよね。
しかも、怒りを感じるのは、この1度目の職場訪問には、敢えて「子連れで」行くわけですよね。片道一時間かかろうが、暑かろうが寒かろうが、子どもの体調がイマイチであろうが、都心のオフィスにベビーカー押して行くわけです、「私、母親になったんです」という印象を植え付け、復帰後周囲が、「子どもがいることを忘れて悪気なく残業を頼んでしまう」のを予防するために、子どもを使うっていうことです。
子どもは、職場復帰後上手く物事を進めるための、プレゼンの道具なんでしょうか?
わざと「母親っぽいカジュアルな服」を着て?
私はこういう戦略的な方というのか、作為的な方とは、お友達にはなりたくありませんね。
こういう方は、2回目の職場訪問はこうするそうですよ ↓

2回目は、復帰するまで1ヶ月を切った部会の日に。今度はあらかじめ美容室に行っておき、当日は子どもを預けてビシッとスーツでキメて、明日にでも復帰できるという雰囲気で会社に向かいましょう。


何から何まで、「戦略的」で気配り気遣い根回しに満ちた行動をとることが、小室氏流では求められるのです。


公平に言っておきますが、小室氏は、産休・育休で職場を不在にする女性が、担当している仕事を「見える化」したり、メールでのコミュニケーションの取り方を定型化したり、引き継ぎを工夫することに関しても、有意義な提案を幾つもしています(多分に、気配り気遣い根回しに溢れたものですが)。

区別しなくてはならないのは、妊娠・出産して職場復帰を望む女性の働き方に関するものなのか、それともそれとは関係のない単なる「職場の効率化」としてのものなのか?ということです。

小室氏ご本人もしばしば言及されていますが、休職からの復帰という選択をする社員は、妊娠・出産の場合だけでなく、今は介護という問題もありますし、メンタルな病で職場を離れなくてはならない社員、またインフルエンザや感染症で職場に出勤できない社員もいるでしょう。
小室氏が提案する様々な業務効率化は、それら全てに関係してくるものです。
そう考えると、妊娠・出産して職場復帰を望む女性のみが、個人的な気配りや気遣いの産物として提案、実行するものではなく、部署全体、会社全体で行うべきものではないのか、と素朴に疑問に思います。
女子力が試される気配り気遣い根回しなどは、むしろ極力排したものでないといけません。
寧ろ、そういう女子力高い気配りや気遣い根回しに欠ける女性でも、妊娠・出産して職場復帰できるような環境を作ることが、求められているのではないでしょうか。
おっさん、失礼、中高年男性社員が介護で休職する場合であっても、メンタルな病気で休職する場合であっても、同じようにスムーズに職場復帰できる環境を作らなくてはならないんですよ。
小室氏は、介護やメンタルな病気で休職・復帰する男性社員にも、同様のライフハックを勧めるのでしょうか?
介護で休職する社員が、上司へのメールに、老いた親の「口のまわりにいっぱいにご飯をくっつけているおちゃめな写真」を添付するとか?
メンタルな病気で休職していた社員が、復帰2ヶ月前にはフリーターのようなカジュアルな格好で職場を訪問し(持って行くお菓子は多めにね)、復帰1ヶ月前にはビシッとスーツで職場訪問し、「もう私はいつでも働けますよ」とアピールするようにとか?
彼らにそういうライフハックを提案しないのと同様に、妊娠・出産して職場に復帰したいと望んでいる女子社員にも、つまらない不毛なライフハックを勧めてはいけません。
様々な事情で一時的に職場を離れる社員、その事情が妊娠や育児であっても介護であっても自身の病であっても、彼ら社員が、復帰したい時に、スムーズに復帰できるシステムを提案してこその、ワーク・ライフバランスのコンサルタントを名乗れるのではないか、と思います。


そして、「ライフハック」にも達していないアドバイスも、小室氏はしています。

母子手帳を貰うと同時に、夫と『保活』スタート」


小室氏が勧めるこれ ↑ なども、コンサルタントになっていない一例です。
これって、従来の、産休に入ってからの保活と比べて、一種のフライングですよね。
フライングを勧めることは、コンサルタントではありません。
色々なシーンで、「抜け駆け」というか、この「フライング」で自分だけ有利に何かを手に入れる方法をとりがちな、「女子力高い」方っていますよね。でも、これってフェアな行いなんでしょうか?
しかも小室氏のこの著作を読んで、皆がこれを真似して同じようにフライングをするようになったら、つまり、都内に住む妊婦が全員「母子手帳を貰うと同時に、夫と『保活』スタート」し始めたら、フライングによるメリットは全くなくなるわけで、結局は元の木阿弥なのではないでしょうか?
加えて、ここで小室氏が言っていることに再び仰天してしまうのですが、

(役所で)説明を聞いた後は、「おかげさまで貴重な情報が聞けて本当に助かりました。どうもありがとうございました」と感謝の気持ちを必ず伝えてください。役所の人は面と向かって感謝される経験はあまりないので、良い関係を築くためにも大切なことです。

「『どうもありがとうございました』と感謝の気持ちを必ず伝えてください。」というご挨拶の指導です!
相手は幼稚園児じゃないんですよね、大人の女性、社会人の女性なんですよね?ご挨拶の指導まで必要なんでしょうか?

3回くらい訪ねるとこちらを覚えてくれて、次に訪ねた時には「新しい書類ができたわよ」と声をかけてくれるようになります。

読者に対するご挨拶の指導よりも気になるのは、役所に対する視線です。
小室氏は、役所の窓口の職員が「ありがとうございました」の一言で窓口に来た人に対して厚遇するとみくびっているのでしょうか、それとも役所を馬鹿にしているのでしょうか。言うまでもなく、役所の職員は、窓口に来た人がどんな人であっても差別することなく対応するというのが常識でしょうし、実際昨今窓口でキレている人にも側で見ている方が頭が下がる程丁寧な対応を役所の職員の方はしていると思いますけどね。このライフハックを真に受けた読者が役所の窓口に出向いた時、「ありがとうございました」と言ったから特別待遇を受けられると勘違いしないことを願います。

寧ろ、小室氏が、気配り気遣い根回しに溢れた色々なライフハックを提示することによって、「それをして当たり前」という流れになることを危惧します。
気配り気遣い根回しができない人、例えば職場復帰前の訪問にお菓子の手土産がない人は「多めのお菓子を用意」した人よりも厳しい状況におかれるのか?
それはおかしな話(←洒落ではありません)よね?


前述したように、休職中上司に送るメールに、上司以外の同僚にも転送されることを見越して、子どもの「コミカルな写真」を戦略的に添付することを勧める小室氏ですが、その写真を見て辛い思いをする人もいることには思いが至らないのかもしれませんが、それと同様に、小室氏の提言というかライフハックは、全ての能力・条件が兼ね備わった人でないと実際に行動に移せないのではないかと思います、勿論小室氏は、全ての能力・条件が兼ね備わったスーパーな女性であるのですが。だからこそ、小室氏ほど、気配りの能力や体力や環境に恵まれていない女性に対する配慮に欠けるというか、そういう女性にとってこの本は「取り扱い注意」、であると思います。


例えば、つわりが酷い人は、産休前にしておいた方がよいこととして小室氏が勧めるタスクを殆どできないかもしれません。お局様や未婚の女性社員と無理してランチしても中座してトイレに駆け込んで吐いてしまったり、業務も引き継ぎがやっと、とても「仕事の見える化」「朝メール・夜メール」「休職中の郵便物を送ってもらいやすいように『十分な料金の切手』を貼って住所を書いた封筒を何枚も用意」したりできないまま、産休に突入してしまった人は、小室氏のこの本を読んで、「これもできなかった」「あれもできなかった」と、逆にしなくてもいい後悔や自信喪失に陥らないでしょうか?


産後もそうです。イギリスの故ダイアナ妃やキャサリン妃のように、出産して24時間後にはメークして髪の毛もセットして素敵なワンピース姿で赤ちゃんを抱っこして退院する方もいれば、産後なかなか自分の体調も戻らず、赤ちゃんのお世話や家事をするのも大変な方もいます。
「里帰り出産」をせず、また敢えて両方の実家とは距離をおいて、夫を頼りにして産後の育児・家事をこなし、はたまた育休中にスキルのブラッシュアップをするために、通信講座を受講したり子連れ留学をしたり、というのは、様々な条件に恵まれた人しかできないことです。
先ず自分自身が、産後の体力の回復が早く、親の助けを借りなくても育児・家事ができる能力があり、夫が育休をとってくれるのは当たり前で尚かつ夫の家事能力も高く、そして何より、子どももトラブルなく健康に生まれ育っている、という、実は稀に見る恵まれた条件の中でしか実現しないプランを小室氏は勧めます。


つわりが酷かったり、産後なかなか体力が回復しない女性、
夫が育休を取りづらい職種、職業で育児・家事分担を期待できない女性、
子どもが低体重で生まれたり、生後すぐに何かトラブルが見つかったり、アレルギーがあったり特別なケアが子どもに必要な女性、

そういう場合でも、本人に職場復帰の強い意志があれば復帰できるシステム、こそが、今求められているわけで、万能のスーパーウーマンが、気配り気遣い根回ししまくってやっと職場復帰ができるようなアイディアを並べても、意味がありません。
本当の意味で、働き続けたい女性を応援するのならば、「里帰り出産」も実家との連携プレーもとても有効な選択肢の一つとして提示するべきではないかと思います。確かに、双方の実家を頼らず、夫と二人で育児・家事をこなすことは理想です、ご立派です。しかし、自分と夫とそれぞれ色々な状況にあって、どうしても二人では回らない場合、実家に頼ることが「負け」のようになるのは、如何なものでしょうか。自分の人生の美学(実家に頼らず、夫と自分で全てこなす)を優先するあまり、余裕がなくなったり小室氏流には動いてくれない夫を責めることになったり、そして何より子ども(子どもも千差万別です)にとって何が一番よいのか?を考慮することさえ憚られてしまうような、一種独善的な小室氏の主張に、疑問を感じます。



2) 企業側に都合がよい提案ばかり、ではないのか?

クライアントの数が900社、という小室氏の会社ですが、実際、昨今の「女性が輝く社会」のご時世も相俟って小室氏に講演を依頼しても何ヶ月も待たなくてはならないそうです。
某金融機関に勤める愚弟が申しますには、今年になってから彼は管理職として一日に最低10回は「ダイバーシティ」という言葉を使っているそうです。それほど企業は現政権におもねるのに必死ということですが、また管理職の研修として小室氏の講演も聞いたそうなのですが、今社を挙げて、「役員・管理職に上げられそうな女性社員」を血眼になって探しているのだそうです。ところが、これから役員になる年次の女性社員というと、総合職一期生から五期生あたりなのですが、そもそもとっくに会社を辞めてしまっている、管理職でさえそもそも人数不足。それは、妊娠・出産しても働き続ける女性社員を会社が育ててこなかったから、に尽きるのですが、今から種を撒き、出た芽を育て、花を咲かせる、という発想は現在の経営陣には希薄で、取締役は、外部から女性が入ってもらって社外取締役で数合わせ、女性管理職はかろうじて辞めずに残っている総合職の女性社員(殆どが、未婚か既婚でも子どもはいない)を片っ端から管理職にして数合わせ、という方法しかない、という状況は、どこの企業も似たり寄ったりかもしれません。

そんな中で、小室氏の主張は企業にはとても受け容れやすいものです。

男性社会のおじさんマインドに凝り固まっている男性管理職社員側を教育しなくても、産休・育休をとって職場復帰する女性社員側がちゃんと自ら様々な気配り気遣い根回しを駆使して、職場に波風と混乱を起こすことなく行動してくれるというのですから。
企業がちゃんとしたシステムを作らずとも、妊娠・出産で休職する女性自らが、様々な気配り気遣い根回しで、彼女が抜ける職場のダメージを最小限に押さえてくれるというのですから。
管理する側が、そういう気配り気遣い根回しをする女性と、しない女性とを差別化することも可能でしょう、但し、何度も言いますが、小手先の女子力溢れたライフハックを駆使する能力と、仕事そのものを遂行する能力とは別物です。
また、

会社からの早期復帰要請には応えたいという意志を示す。

ことを、小室氏は「逆転の常識」で提言しています。会社は今まで、育児休暇という働く者に与えられた権利を尊重し、休暇の間の復帰要請は出しにくいものであったのに、小室氏はその箍を外してくれているわけです。
会社側の都合で早期復帰を打診したとしても、それを肯定的に捉えてくれて、都合良く復帰してくれるかもしれませんね。
また育休期間が終わりに近づいても認可保育園が決まらない場合、会社側からはさすがに、「じゃ、認可保育園にこだわらずに認可外とかベビーシッターとかに子ども預けて復帰してよ。」などとは、絶対に言えないところですが、小室氏は同じく「逆転の常識」で、

預け先の選択肢を広げ、予定通りの復帰を目指す。

認可保育園がベストとは限らない。0歳児なら小規模保育も視野に。


と、勧めています。会社に代わって、言いにくいことを言ってくれているのです。
同様に、

現職復帰にこだわるより、新しい働き方を模索する

という、これまた小室氏が「逆転の常識」で提言しているように、育休中の女性社員を配置転換してもそれを企業側に都合良く「気持ちを切り替えて前向きに」考えてくれて文句を言わずに会社側の意に沿って働いてくれる女性社員には、数年後に遠隔地への転勤の辞令を出しても、自らが気配り気遣い根回しをして家族を残してでも赴任してくれるかもしれません。
育休中の配置転換について抗議の一つもしないことが、会社の思惑に唯々諾々と従うことが、「逆転の常識」なんでしょうか。
おまけに育休の間にも、

産休・育休をスキルのブラッシュアップ期間に据える。

と、スキルアップや資格の取得や子連れ留学を勧め、「企業に求められる人材になる」ことを目指すべきだと、まるで小室氏は企業の代弁者であるかのように言います。
何より、ワーク・ライフバランスの名のもと、定時退社・残業なし、しかも業務は今まで通り、を全社員が目指してくれるとは、会社にとってこれほど有り難いことがあるでしょうか?
残業代削減、という手をつけにくい経営課題を、美しく解決してくれる小室氏の主張は、コンサルタント料を払っても余りある有り難いものであるはずです。


一方、自らの体調の回復や夫の仕事の状況やら子どもの様子を睨みながら、働く者の権利として取得できる期間いっぱい育児休暇を取ろうと考えている女性社員は、「早期復帰要請」に応じられない時、どういう立場になるでしょうか?
子どもを預けるのなら様々な条件を考慮して「この認可保育園!」と決めていた女性社員は、園を選んだ条件のどこを妥協すべきなのでしょうか?
当然の権利として取得しているはずの育児休暇に後ろめたい気持ちを抱いたり、会社の意に沿って早期復帰をする同僚に引け目を感じたりはしないでしょうか?
自分や子どもの体調には個人差があるのは当たり前なのにそれを責め、小室氏が推奨する「2度の育児休暇」を取れない夫を責め、小室氏が勧める「あなたの実家や会社から近すぎる場所には住まない」を実践したがために負担増になってそれを捌けない自分を責め、ということにはならないでしょうか?
勿論、会社はそんなこと、知ったこっちゃありません。
この「会社は、一人一人の社員の人生の選択、家族の在り方なんて知ったこっちゃない」ということを、冷静に理解しておかなくてはならないと思うのです。
当然のことですが、会社は、「ワーク・ライフバランスに配慮した会社」「女性が輝ける会社」という世間的評価が欲しいだけであり、それが残業代削減というおまけ付きなら笑いが止まらず、そして経営に最適化した人材を選別するのみ、です。
そんな会社のために自分と家族のライフスタイルを、どこまで譲り渡すのか?
会社の都合のために、自分と家族の生活をどこまで妥協させるのか?
それを冷静に認識する方向に持っていくのが、社員の立場に立ったコンサルタントだと思うのですが、小室氏の色々な提言は、「ワーク・ライフバランス」という看板故に一見働く女性側にあるように見えますが、実は会社側の視点ではないか?と感じられるのです。



3) 少子化や女性の活躍の根本的解決にはなっていないのではないか?

専業主婦を妻に持つ愚弟が、にわか「ダイバーシティ」信者になって、管理職に登用できる部下の女性をかき集めることに腐心していることは前述しましたが、少子化対策と女性活躍の根本的解決には、そんな小手先の数合わせではなく、あらゆる面での「ダイバーシティ」が欠かせないと思うのです。
小室氏の主張に沿うとして、子ども一人を産むにあたって夫は2回の育休をとるべきであるのなら、子ども二人の場合は4回になります。
人口を維持するには、全ての女性がざっくり2人出産しなくてはならないのですが、生涯未婚率が高まり、既婚でも子どもを持たない女性がいることを考慮すると、産む人は3人以上生まないと少子化は止められません。そこで小室氏流を実践すると、夫は6回育休をとることになります。
私は「夫は外で仕事をするべきだ」などというバイアスは全く持っていませんが、現実に企業社会の中で男性社員が「6回育休をとる」ということが一切評価には影響しない、とは思えません、900社のクライアントを持つ小室氏には、是非この点(「6回育休をとっても評価を下げない」)を企業に働きかけていただきたいものですが・・・。
評価云々以前に、企業において非現実的な前提ではないかと思います。
また女性が子どもを2人以上生み育てることに意欲満々でも、夫の職種が「育休4回」(子ども2人の場合)が無理なケースも多々あるでしょう。
小室氏流を実践して共働きの夫婦が、妻は職場に気を遣いまくって、夫は育休をやっと2回とって、夫婦2人だけで子育てしてそれで一人しか子どもを生まない・育てない、つまり一人っ子家族を作るだけなら、少子化は止まらないんですよ。
つまり、この本にある小室氏流のワーク・ライフバランスは、少子化の解消には寄与しないのです。
夫か妻の実家と近居もしくは同居して、2人、3人、4人と働きならが子どもを生み育てる夫婦、どちらかが専業主婦/夫を選択して(期間限定でも)夫婦だけで2人、3人、4人と育てる夫婦、がいないと、人口は減る一方です。
その一方で、男性、女性に関係なく、スタートアップで起業して20代30代、結婚もせず子どもも持たずにがむしゃらに働く人がいてもいいではありませんか。
今、とかく「結婚もして子どももいて仕事でも輝いている」女性ばかりが注目されていますが、幕の内弁当みたいに全部揃っていないといけないんでしょうか?
独身で素晴らしい仕事をしている女性は「輝いている」と言ってはいけないのでしょうか?
出産・子育てよりも仕事を選択する女性も認めるのが、真の「ダイバーシティ」ではないのでしょうか。
(ついでに、結婚しない男性についてもそうです)





私が小室氏のこの本を読んでいて、違和感があるのは、まあ上に挙げたような点です。


そして、小室氏のモデル通りのワーク・ライフバランスを実践するには、素晴らしい超人のような夫が必要不可欠です。
その夫は、妊娠がわかった直後平日の昼間に一緒に役所に出向いて保育園の問い合わせをしてくれなければなりませんし、里帰り出産しない妻のために「産後すぐ」「妻の復帰直後」に2回の育休をとってくれ、妻が搾乳しておいたおっぱいで夜中の授乳は引き受け、離乳食作りや毎日の朝食作りは勿論こなしてくれる夫であり、「家事」を公平にポイント制にしても、「そんな幼稚なポイント制なんてやってられっか!」などとは言わずに素直に妻と同じだけ家事の負担をしてくれる夫でなくてはなりません。
あっ、何より大事なのは、夫の職業が、定時で帰りやすい、男性が育休をとっても表立ってはダメージにならない会社、職場のものであることです。医者や研究者や起業したばかりの実業家は夫としては小室氏のワーク・ライフバランスに向かないでしょうし、企業であっても、IT企業や金融なら、先ず無理でしょう。

生まれてくる子どもも、ここまで母親が、「戦略的に」ワーク・ライフバランスを考えているのですから、人一倍よく熱を出す子ども、すぐにお腹がゆるくなる子ども、アトピーの子ども、人見知りが激しい子どもは、母親の戦略の足を引っ張ってしまうことでしょう。


全部の条件が整わない人にとっては、この本は「絶望の書」です。

ウチの2人の子どもたち自身が小室氏流を実践するためのこれら全ての条件を満たし、彼らの人生の伴侶もこれまた全ての条件を満たし、な〜んてことは先ずありえませんが、仮にそんな奇跡が起こったとしても、それで送る人生が常に気配り気遣い根回しを必要とし(←ウチの子どもたちは先ずこれが無理!)、常に何かに追い立てられているようなものだとしたら(←これも不器用な彼らには無理!)、それは幸せと言えるのか?


現政権の政策らしきもの(本当に「政策」なのか?)、企業側の論理には、極めて都合のよい小室氏の論の建て付けです。
これから出産・育児を迎える女性が、これは単に労務管理コンサルタントの宣伝本(多分に企業寄りの)であることを理解してほしいものです。
これに惑わされて自分と伴侶と子どもの本当の幸せを見据える目が曇ることがないように、自分の人生を自分と家族のために生きるという、当たり前のことを忘れることがないようにと、願います。