日本と日本人に必要な外国語は英語だけではない。

夫を襲ったアジアの悲劇!
その原因は日本の教育政策と国家戦略(の愚策)。

夫が先日、中国から来た中国人6人と、商談→会食をしたのだそうだ。
その中国人たちは中国の或る地方の、大きな、というか、巨大な、と言っていい企業集団の幹部であり、全員大学卒。ところがその中で最年少の米国留学の経験がある女性一人だけが、英語を喋り残りの5人は英語ができない。
対する日本側は3人のうち、英語ができるのが1人。そこに商社の中国語通訳の社員が入って、長時間の交渉がスタートしたらしい。
気が狂いそうな程もどかしい交渉だった、
という。先ず商社の通訳を除いた当事者同士の間で、コミュニケーションとれるのが(それも英語で!)一人ずつしかいない、のだから。
数学上の組み合わせでは、中国人6人×日本人3人÷2=9通り、の一対一の会話があり得るはずなのに!
残りの人間は、通訳を介してしか話をすることが出来ず、しかも途中で交渉の重要なポイントに来たときでさえ、本来ならば話を聞かれたくない商社の通訳を介してでしか話せない、という事態に陥ってしまったという。
おまけに、こういう状況で矢鱈交渉に時間がかかった末、セットしてあった(珍しく?中国側から「イタリア料理がいい」とリクエストがあった由)都内某高級イタリアンレストランでの会食では、話が全く弾まず(そりゃ共通言語がないのだから当然)、夫いわく、
「あんなにお通夜みたいなイタリア料理は初めてだ。」
とのことで、一同黙って下を向いて黙々とナイフとフォークを動かしたそうだ。


何故、こういうことが起こるのだろう?

日本人も中国人ももっと英語を学ぶべきなのだろうか?
そうして、アジア人同士が英語で会話するのだろうか?

それはちょっと、いやかなり残念ではないだろうか?
以前書いたことがあるが*1私はドイツで知り合った韓国人の友人とは、何とドイツ語で会話していた。それも頗る残念な話である。その韓国人の女性は「ハングル専用法(漢字教育の廃止)」の世代で、簡単な漢字すら教わっていなくて、
漢字という高度な文字を言語に持つ中国の周辺諸国同士
なのに、お互いに「漢字で筆談」すらできないのである。私はこれを是非やってみたかった気がする。
この経験から思うことは、隣国韓国のこと故お節介を承知でいうと、国家として
韓国が漢字を廃止したのは愚策
であったのではないか、ということである。ハングルだけでは、抽象的思考を表すことが難しい(らしい)。まあ、もし今日本語が平仮名だけだと、とてもじゃないけれども、現在のように哲学だの文学だのは表せなかっただろうし、マンガやアニメだってこれだけの豊かな表現を獲得できていたか、というと怪しいものだ。
しかし、逆に考えると、公教育の中で
日本が中国語を教えないというのも同じくらい愚策
ではないだろうか?
英語だけを「第一外国語」として税金で国民ほぼ全員に教える教育は、ふと気がついてみると戦後に始まったのである。戦前の旧制中学では、英語、フランス語、ドイツ語、という選択肢はあった(それもどうか?と思うが)。つまり「第一外国語は英語のみ」というのは、アメリカ占領時代からなのである。それにも気がつかず、未だに敗戦国そのままに戦勝国の言語だけを学校で教える、というのは如何なものか?
リスク分散、善隣外交、安全保障、文化交流
どの視点から言っても、英語だけでなく、中国語も学校で正式に「第一外国語」として教えるべきなのだ。
(更に選択肢として、アラビア語、韓国語、ロシア語も加えるべきというのが私の主張なのだが。)

中国語が英語に代わって「世界共通語」になる、という予想もある。
中国語が世界共通語になる条件ーRailsで行こう!
この時代にそんなにはっきりと英語→中国語に代わるような単純な図式は生まれないのではないか、と私は思うわけで。「世界共通語」だから、というだけでなく、日本の(文字通り)立ち位置的に、近隣諸国の言語を学ぶべき、と思うのである。
小学校から英語を教えることなんてやめて(←これもまた愚策なのであるが)、中学校からの「第一外国語」の選択肢を増やしてほしい。
そして、国家として考えても、「英語ができる日本人」、も大事だし或る一定数必要だけれども、同じく「中国語ができる日本人」、アラビア語ができる日本人」、等々も大事である、ということは誰が考えても了解されることではないだろうか?


これ以上、アジアの悲劇、を繰り返してはいけないし、お通夜のようなイタリアンレストランでのディナーもあってはならないのである。