アイスランド火山噴火と東京カワイイTVと英語

アイスランドの火山噴火の影響でヨーロッパの空港が軒並み閉鎖されていたせいで(今日から発着再開?)、成田空港や関空に足止めされていた大勢の外国人旅行者がインタビューを受けていたのを、テレビのニュースで見た人も多いと思う。
私が見たインタビューは全て英語だった。インタビューする側(多分英語ができる日本人記者)が英語でインタビューしたので、それに英語で答えたものだろう。放送される時には字幕が下に出ていた。
その英語を少し注意して聴くと、どうもCNNとかの英語とは発音の感じが違うような気がしないだろうか?
アメリカ人が喋る賑やかな発音ではなく、「less 耳障り」というか。また喋り方も、若干たどたどしく、語彙も割にシンプル。多分これは「大陸」の人々が「外国語」として英語を話しているのである。それも多分、英語が「第一外国語」ですらなく、「第二外国語」として。
イギリスのヒースローも閉鎖されているから、中にはイギリス人も勿論いるだろうが、人数からいって、フランス人、ドイツ人、北欧の国々からの旅行者が、「英語」を喋っているのである、ツールとして。
この場合、「ネイティブ並みの発音」なんて必要だろうか? っていうか、彼らはそもそも殊更「ネイティブ並みの発音」(ヨーロッパ大陸ではそれは、「イギリス人のように喋る」という意味になるのだが)で喋ろうなどとは思いもしていないであろう。
これが世界(日本以外)での英語の使われ方ではないだろうか?


発音だけではない。
中年の夫婦が、空港ロビーの椅子で航空会社から配られた食料を食べているところをインタビューされていて、字幕には、
「(食料が支給されて) 嬉しいし有り難いと思っている。」
と出ていたのだが、本人が喋っていたのは、私でも聞き取れる単純なフレーズ、
「I 'm happy.」
これですよ。でも、これで十分彼女の気持ちを表している。
きっと彼女は「英語ネイティブ」ではないと思うのだが、旅行や観光に必要最低限のサバイバルイングリッシュだけでなく、「自分の言いたいことを簡単な英語で組み立てることができる。」のである。
外国人に限らず、「語学が堪能な人」というのは、簡単で基礎的な単語を組み合わせるのが上手な人である、ということを私はこれまで沢山見てきた。
学生時代既に英語フランス語がいわゆる「ぺらぺら」(コミュニケーションに困らない、という意味)だったクラスメートは、側で彼女が喋るのを聴いていると、実は彼女は難しい単語を使っている訳でもなく、英語でもフランス語でも、動詞なら、haveとかtakeとかmakeとか中学校初期レベルの動詞を上手く使い、また表現は前述のインタビューに答えていた外人観光客のように、日本語だと細かい描写になるところを、大意でくくって英語に落とし込んで結局は「相手に伝える」という、語学本来の目的を達成しているのである。
仕事で英語を使う人以外の日本人にとっても、ここまでのレベルで英語を使えればそれでいいのではないか?
ここまでのレベルは中学校3年間の英語学習で十分教えることができるはずだと思うのだが。



それに比べて。
日本の英語教育の悲しくなるような実例を日曜日の夜、テレビで見た。
NHKの「東京カワイイTV」。
「パリコレ・デビューした山口真弥クン」(東京カワイイTV番組ロケスポット)
かいつまんで説明すると、彼は原宿ストリートファッション界では有名(らしい)なデザイナーであり、彼自身のファッションも雑誌やテレビで紹介される若者で、以前にやはり同番組の企画で、パリで開いたファッションショーに出品したところ、カステルバジャック(バブルの頃を知っている人間には懐かしいブランド)本人から「個人的に特に熱いラブコールを贈られる」(本人のブログのプロフィールの文章そのまま引用。そのつもりがなくても誤解されそうな表現?)。で、本人がその気になって(「パリのカステルバジャックのもとで働く」という意味であって他の意味はない模様)資金をため、パリに渡り、カステルバジャックのメゾンにデザイナー本人に会いに行くところが、NHKの企画なのか、取材なのかはわからないが、放送されたのである。
前置きはこれくらいにして、山口クン本人がホテルなのかアパルトマンなのか、自分の部屋から会いに行くためのアポイントをとるべく、電話するのだが。すぐに相手が出て、いきなり英語だった。この時点で私はこれは、事前に打ち合わせがあったのだと思った。パリのレストランであれホテルであれ、観光客相手のところですら、誰からかかってきたかわからない電話に出る時に、絶対に英語なんかでは出ない、フランス語に決まっている!日本でどこかに電話していきなり英語で出るところはないだろう。それが相手がすぐに電話口に英語で出てきて、しかも山口クンが
「I am Shinya Yamaguchi. 」
と言った途端に、
「あなたのことは聞いています。◯日の◯時はどうですか?」(字幕)
とすぐに向こうが英語で対応してくれたのである。普通、こんなことはありえない。
ところが、向こうが確認をとっているのに対して、山口クンは、
「I go,OK?」
とだけ言ったのである、助動詞willを使えば!とは言わないけれども、
「Thank you.」くらい、「See you!」くらいは言ってもいいのでは?
結局、彼はカステルバジャック本人のところに行っても、何せ英語で(カステルバジャック自身は、例によって「大陸」の英語を話してくれていた)コミュニケーションが全くとれないのだから、本人いわく「赤ん坊同然」で、ビザ取得が難しいのを口実に体よく断られてしまうのだ(私もドイツで「文盲」体験しているので*1彼の悔しさはよくわかる!)。
そりゃ、雇う側にとっては当然だと思う。いくら才能があっても、コミュニケーションとれない人間を雇うほど、どの世界も甘くはない。
また、日本人が持ちがちな、
「とにかく現地に行けば、言葉は何とかなる。」
「自然に口をついて、英語が出てくる。」
ということは絶対にない。
山口クン彼は沢山の人に才能を認められた日本の若者である。
これは、彼に中高時代英語を教えた教師たちの責任問題、と断罪したい。
日本の高度な教育システムを以てして、何故せめて前述の空港でのガイジンのオバサンのレベルくらいの、シンプルな単語と語彙を使って、けれども最低限自分の言いたいことを文章に落とし込めるくらいの英語(本当はパリではフランス語力であるべきなのだけど)を教えることができなかったのだろうか?
そのレベルさえ身に付いていれば、山口クンだってパリで働くことが出来たかもしれないし、そこで初めて、実地の英語でレベルも上がるだろうし、フランス語にも繋がるというのに。「I go,OK?」からでは、余りにも先が見えない。
以上のことは放送されたことであるし、本人がブログ*2でも書いているのだから、本人的にも納得しているのだと思うけれども。



私はかねてより、英語は単なるツールだから、日本人一億あげて「第一外国語」は「英語」、としなくても、近隣諸国の言葉である、中国語や韓国語、ロシア語やアラビア語も「第一外国語」として、中高で教えるべきだと主張しているのだが、仮にそのような理想的語学教育が実現されたとしても、「パリを目指す」山口クンのような学徒は、「英語」を選ぶだろう。だとしたら、
「英語」教育を二つに分けて教える、というのはどうだろうか?

一つは従来通り文法もしっかりやってボキャブラリーも高いレベルを要求し、大学に進学した後専門的な文章を読むのに困らない英語力を身につけることを目指すもの。その中で勿論、サバイバルのコミュニケーションだけでなく、専門的なことに関しても自分が言いたいことを英語で言えるだけの会話力も目指す、但し「アメリカ人ネイティブ並みの発音」は理想ではあるが必須ではない。


もう一つは大学に進学しないで社会に出る生徒のための英語で、文法は最低限必要なことだけ。でも逆にその最低限の文法は使いこなせるようにする。実際、英語が苦手生徒が躓く、
「現在進行形」だの「現在完了」だのは必要ないかもしれない。大体、フランス語にもドイツ語にも、それに該当するものがないのだから、なくても大丈夫!?それよりも、基本単語で自分が言いたいことを言える訓練を徹底的にする。但し「アメリカ人ネイティブ並みの発音」などと言わずに、それこそ、フィリピン人であろうが、シンガポール人であろうが、はたまたフィンランド人でもオランダ人でも、何人でもいいから
英語を英語で教えることができる外国人教師に習うこと。日本人相手だと、「何とか英語で伝える」という切羽詰まった感が生まれないから。


若者が内向きになって外国に興味を抱かなくなっているとはいっても、世界に通じる才能を持ち、世界に出て行きたい、と願う若者は、この山口クンだけではないだろう。
彼らを阻むものがせめて、言語、でないことを願う。
「ネイティブ並みの発音」よりも、その言語でコミュニケーションできること、がどれだけ大事か、を改めて思ったことであった。