開催地決定前に書き留めておきます、「2020年オリンピック東京招致には反対である」と。



結果を知ってからの後だしジャンケンにならないように、先に言っておきます。


私は2020年夏のオリンピック及びパラリンピック東京招致に反対です。
いつの間にか、大勢(たいせい)に背く意見が表明し辛くなっているようなので、小心者の私としてはネットの片隅に書くしかないのですが、一応、反対の理由を書き留めておきたいと思います。
長いです、とても。





・そもそも「オリンピックの東京招致」を言い出したのは、前都知事石原慎太郎だと記憶しています。都民、国民が切望して、それが大きな流れとなっての招致ではなかったわけです。
2016年に向けての招致活動は、莫大な費用をかけましたが、2回目の投票で敗退し最終投票には残れず、ブエノスアイレスマドリッドに破れました。
勇ましいことを口にしていた石原氏は、招致失敗の責任をとるどころか、「敗退したのはブエノスアイレスが裏工作をしたからだ」という暴言を吐き、石原氏お好みの「日本男児」としてはあるまじき残念な振る舞いを見せました。
今回の招致も、もしまだ石原氏が都知事であったなら、東京への招致は先ず無理だったことでしょう。
本来ならば2015年までだった任期を全うせずに石原氏が都知事を辞任したのは、招致委員会にとっては何にも勝る朗報だったと思います。
2016年への招致活動が失敗に終わった後、石原氏は今度は「尖閣を買い取る」と言い出し、そして現都知事であり、今回のオリンピック招致の先頭に立っている猪瀬直樹副知事(当時)の発案で、「東京都尖閣諸島寄付金」を募集し、実に12億円余の浄財を集めたことは、石原氏と猪瀬氏にとってはどうだかわかりませんが、私の記憶には新しいところです。あの12億円はどうなったのでしょう?
石原氏が都知事選で挙げた公約としては、新銀行東京(失敗)、米軍横田基地返還(失敗)、銀行税(失敗)、ディーゼル車排ガス規制(CO2削減という世界的流れからは逆行)、首都機能移転反対(東日本大震災を思えば、先見の明がないことは明らか)、というものが思い出されますが、ここにオリンピック招致、が入ることに、私は強烈な違和感を抱いてしまうのです。
オリンピック招致は、一政治家の選挙用の「公約」に使われていいものでしょうか?
開催地は、立候補した都市がどれだけ努力しても、他の都市との比較で選ばれるわけですから、選挙の「公約」とは馴染まないものです。現に、(他の「公約」不履行もそうですが)2016年の招致に失敗した時にも、石原氏は「『公約』を果たせなかった」とは一言も言ってはいないのですから。
都民や国民主導ではなく、選挙の「公約」から始まった「オリンピック招致」には、そもそも賛同できません。
そりゃどこの国も都市も、オリンピック招致を色々な意味で利用していることでしょう。
しかし、政治家が選挙のために「オリンピック招致」を「公約」にすることは、オリンピックへの冒涜だと思います。
もし招致に失敗したらば他の頓挫した政策と同じ列に加えられるだけですし、もし招致に成功したらば半沢直樹ではありませんが「手柄は上司が独り占め」で、失敗した他の政策を覆い隠すものにされるだけですし、どちらにしてもオリンピックというものを弄んでいるとしか思えません。





・2016年招致の時の「開催のビジョン」になくて、今回の「開催のビジョン」にあるもの、それは東日本大震災からの復興」です。
あの未曾有の震災から2年半が過ぎ、「復興」「被災地」という言葉が日常的に聞かれることは少なくなりました、そして「絆」という言葉も。
確かに、2009年のIOC総会で招致が失敗した後の2011年3月に、あの震災は起こりました。
その震災からの「復興」を、大会招致のビジョンに入れることに、私は強烈な違和感を抱きます。
何故なら、完全に「復興」したのならばともかく、「復興」はまだ道半ばであり、それなのにオリンピックの招致のビジョンにそれを加えるというのは、どういうことなのでしょう?
震災が起こったのは、2020年の開催地に再度立候補することを表明した2009年の後の2011年です。
後付けの理由が見え見えなのに、それを「開催のビジョン」に入れるのは、余りにも恥ずかしく、余りにも被災地や被災地の方々に失礼なことだと思います。
まだ「復興」していないのに「復興」という言葉を掲げて利用する浅ましさ。
そういう理由を掲げる人たちは、対外的にはどう言うのか知りませんが、国内向けには「オリンピックを東京で開催することで被災地に元気を届けたい」とか言うんですよね。
かねがね思っているのですが、「元気」って、お届けしたり、貰ったり、上げたり、等々、やり取りできるものなんですか?
人と人との間で、思いが通じることがあるとして、しかしそれを安易に「元気のやり取り」におとしめてほしくありません、それはもっと深くてもっと永くてもっと静かなものだと思うので。
そして被災地的には、オリンピックが東京で開かれることにメリットはあるのでしょうか?
もし2020年東京開催が決まったら、オリンピックのための建設資材や重機や建設作業に従事する人たちは、皆東京にかき集められるでしょう。ビジョンとは逆に「復興」はお預けになるやもしれません。
被災地の方々の中でどれくらいの人が、実際に東京の競技場で「生の感動」を味わうのでしょうか?他の地方の人々と同様、殆ど99%
の人々は、テレビで観戦でしょう、それはマドリッドでもイスタンブールで開催されても同じです。
被災地の「復興」にとっては真に重要なこれからの7年間、オリンピックの東京開催に、国民の目が向いてしまってよいのか?
被災地に何のメリットもないのに、「「開催のビジョン」に「東日本大震災からの復興」を掲げた「東京招致」には共感することはできません。





・そして、未だ終息どころか、汚染水事故が泥沼化している福島の原発
今日現在(9月6日)の報道では、IOCの総会にブエノスアイレスに乗り込んだ東京招致委員会のメンバーに対して、各国記者団から「汚染水漏れ事故」についての質問が集中したとか。
それに対して、竹田JOC理事長が、「福島は東京から250キロ離れており、皆さんが想像する危険性は東京にない」と答えたことが報道されています。
ネット上ではこの発言を問題視する意見が多く見られるのに、何故テレビや新聞等のマスコミは、「東京招致へ期待高まる」一色の報道なのか、不思議で溜まりません、今に始まったことではありませんが。
貯水タンク一つ満足に設置できない事実、漏れた汚染水を何と原始的に「土嚢」で堰き止めているという衝撃の映像、汚染水が地下水に達し、海にも流れ出ていることは事実であるのに、それを問題視もせず直近まで放置していた日本政府、というものが、世界に晒されることこそが国辱ものです。
現時点では、まだ1本の使用済み核燃料もプールから取り出されておらず、溶解した核燃料もそのまま、です。
今年の6月に発表された「廃炉工程表」を見ると、今年の末には4号機の使用済み核燃料の取り出しが始まるとのことですが、タンクの設置すら杜撰なミスを連発する東電が仮に一つのミスもなくその難事業をやり遂げたとして(そうでなくては困るのですが)、2020年もしオリンピックが東京で開催されるなら丁度その頃、東京から250キロも離れた福島では、『溶解した核燃料を取り出す』という最も危険な工程が始まるのでは?そんな中、たとえ「福島から250キロ離れている」とはいえ、東京でオリンピックを開催したいというのは、フツーの感覚ではとても理解できません。
東京招致委員会がIOCに提出したプランによると、東京に招致された場合、オリンピックは2020年7月24日(金)〜8月9日(日)の期間開催されるそうです。
何故にこの猛暑の時期に?今日までの記録で、今年の東京は、一日の最高気温が35度以上の猛暑日12日、同じく30度以上の真夏日52日、一日の平均気温(『平均』ですよ!)が30度以上の日19日、だったんですよ!2020年が今年並の暑い年ならどうするのでしょう?
気温35度の中で最高のパフォーマンスを期待されるアスリートのコンディションも気になるところながら。
私自身、最近のエントリーで無邪気に何度か書いているのですが、「何故、今年は『節電』の掛け声がとんと聞かれなかったのか?」「去年までは夏の間毎日報道されていた『電力使用量ピーク予想』というものが、何故今年は流れなかったのか?」ということに関して、「『節電、節電』と大きな声を上げると、オリンピック招致に差し支えるから、今年は「節電」はスルーだった」ということがあったからなのでは?というのは勘ぐり過ぎでしょうか?
だって、東京電力管内では原発は全て止まり、火力発電所がフル稼働して電気を供給している状態が今であるわけなのですが、2020年の夏の盛り、今年のような猛暑だったとしたら、本当に電力は足りるのか?「じゃあ、原発再稼働でOK」ということに、もう布石が打ってあるからこその、今年のヤル気がない「節電」だったのでしょうかね。
原発事故直後は、国内では放射能に汚染された食品は出荷停止になり、また「風評被害」というものも多くありましたが、2年半経って今の日本では、過度に神経質になる人は少なくなりました。しかし、一方では、未だに「福島」や東北の県を限定して、日本からの食品の輸入を停止している国や、産地証明書及び放射性物質検査証明書がなければ輸入を禁じている国はたくさんあります*1。少なくとも、諸国民からはこのように思われているのです。これらの国に対して、「東京の水も食べ物も安全である」と説明できないとしたら、そもそも250キロ離れていようが関係ありません。
「震災からの復興」をビジョンに掲げつつ、「東京は福島から遠く、安全である」という、矛盾し且つ恥ずべき姿勢が、私には許せません。





・今、隣国である中国、韓国、北朝鮮との関係は最悪です。
思えば1988年ソウルオリンピックの時、当時は「韓流」という言葉もなければましてや「嫌韓」という言葉もなく、「キムチ」がまだ「朝鮮漬け」と言われていた頃ですが、「漢江の奇跡」と呼ばれた発展を遂げた隣国の首都での五輪を、驚きと期待を以てテレビで見たのを覚えています。
記憶に新しい2008年の北京オリンピックの時も、欧米諸国が開催地の時とは違う、アジア的な演出や意匠に親近感を抱くと同時に、凄まじい勢いで成長しつつあるこの隣国が、そう遠くない先に超大国になる予感も感じました、いい意味で。
しかし今、もし2020年に東京でオリンピックが開催されるとして、隣国である中国、韓国、北朝鮮の人々は、好意的にそれを捉えてくれるでしょうか?祝ってもらえるのでしょうか?彼らはどういう気持ちでテレビの画面を見るのでしょうか?
日本人が素晴らしいオリンピックを開催し、自国での開催に熱狂したとして、それを隣国の人々に喜んでもらえないとしたら、それは日本にとっても、隣国にとっても、そしてオリンピックにとっても不幸なことではないでしょうか?
そもそも、長い間「棚上げ」にされていた尖閣問題に火をつけたのは石原前都知事ですが、彼のように隣国に対する尊敬や尊重という気持ちの全くない政治家が、「世界の発展、国際理解、平和に共存すること」というオリンピズムを掲げたオリンピックを招致すること自体が笑止です。それに加えて今回は、「アラブの国はお互いに喧嘩ばかりしている」と言った猪瀬都知事や、「(ナチスの)手口学んだらどうかね。」と麻生財務大臣が、頼まれもしないのに余計な援護射撃をした上に、安倍総理大臣も未だに隣国とは首脳会談さえ持てていない状況であるのに、ここで日本がオリンピックを開催することは、一時的に景気がよくなるとかそんな低次元なことではなしに、本当の意味で国益にかなうのか、とても疑問です。





・1964年の東京オリンピックに合わせて造られたものが、今途轍もない負担、負債となっています。
その代表的なものは、首都高速道路。安全性は勿論、利便性さえ考えられずに、ましてや景観など全く顧みられる事なく、ただ「造る」ことだけを目的に突貫工事で造られた結果、醜悪な老朽化を呈しています。
「高速」と銘打ちながら、最高速度たったの50kmとか60kmで世界に冠たるTOYOTAやHONDAの車を走らせ、急カーブはあるわ出口が右だったり左だったり、おまけに橋脚はド素人の目で見てもコンクリートボロボロ、同じく高速道路が橋脚ごと倒壊した阪神大震災はどこか遠い国の話かと思うほどの、年中日常的に渋滞している首都高なのですが。
2020年のオリンピックを東京に招致したところで、これらの老朽化した首都高を全面的に造り直すことは、時間的にも予算的にも到底無理なことはわかります。問題は、今回も同じように、オリンピックに向けての浅知恵で同様のものを造って、それが更に都民や国民の負債になるかもしれない、ということです。抜本的補修にしても全面的作り直しにしても待ったなしの首都高だって、仮に招致が決まれば、間に合わせの応急処置に留まることは確かでしょう。
都心の飯田橋江戸川橋あたりを歩いていると、首都高の橋脚が倒れてこないかという身の危険を感じると同時に、「もしかしたら、ここには別の街の姿があったのでは?」「江戸の時代から縦横無尽に流れていた川や運河を活かした、別の美しい東京の町並みがあったのでは?」と思わされます。
都知事がリーダーシップをとって、都民がそれに従えば、歴史的景観に配慮する教養もなく、環境に対する知識もない人間が造ったとしか思えない、川を死の川にした上に高速道路の橋脚が建っているこの醜悪な都市の町並みを変えることは、今からでも可能です。韓国のソウルでは、それが実現しました。川を覆って造ったものの老朽化した高速道路を撤去し、元の川を復元し、川辺に市民の憩いの場を作り、生態系までを復活させた例があります、リーダーシップをとったのは、去年突如竹島に上陸して、日本人には頗る評判の悪い李明博元韓国大統領ですが。
また、1964年のオリンピック開催に伴う道路整備のために都電の多くが撤去されました。
都電はそのままにして、駐車帯やら自転車専用レーンやら街路樹やらに配慮して計画的に両側のスペースを広げた道路建設、という真っ当な方法もありましたが、「日本の高度成長期を担ったのは俺たちだ!」と誇った方々の頭にはそのような基本的な都市計画のビジョンなどないまま、安易に都電を撤去して一時的に道幅を広げました、道が広がったのも束の間、自動車の台数増加の方がすぐにその空間を埋めることになり、都内は今も慢性渋滞です。
それから50年経って急速な高齢化が日本の他のどこよりも、否、世界でも例がないスピードで進んでいる東京ですが、前都知事の石原氏も現都知事の猪瀬氏も都バスなどにはお乗りにならないのかと思いますが、高齢者の方々が、都電に代わって走るようになった都バスに乗っているのを見ると、本当に難儀をしていらっしゃいます。
高齢者だけではなく、話題の(?)ベビーカーや車椅子もそうです。低床のバスでさえ乗り降りが先ず大変そうですし、やっと乗ってもバスですから、発進や停車の時には、バランスをとるのさえ大変そうです。「優先座席」なんてとてもとても足りません。
一方、都内で唯一残っている都電荒川線に乗る機会が時々あるのですが、都電は高齢者やベビーカーや車椅子には、バスに比べて余程乗り降りがしやすく、便利な乗り物だと、今更にして思わされます。
もし、都内の大きな通りにまだ都電が残っていて、二両連結くらいで緩やかに走り、車道は二車線もしくは三車線の外にちゃんと駐停車専用車線があり、街路樹のある歩道とは別に自転車専用帯があるような、東京の街であったら、どんなに住みやすいことでしょうか。高齢者やベビーカーや車椅子の人は、地下に降りなくても、他人の手を借りなくても、フラットなホームから都電に乗り降りでき、自転車で通勤・通学したい人も危険な車道を縫って走ることもなければ歩行者を蹴散らして止むなく歩道を走ることもないのです。
皮肉なことに、今東京に住んでいて、「地下鉄は階段の上り下りができないしエスカレーターも列の流れに乗れなくて怖いから乗れない、エレベーターも場所がわからないから(スマホ持ってないから)乗れない」、という高齢者の方々は、50年前は、古臭い都電の撤去を喜び、計画性なく造られた地下鉄に乗ることも全く苦ではなかった世代の方々なのですね。
もし2020年のオリンピックが東京に招致されたとしても、今度はその間違いを起こしてはいけません、とは言うものの、もうどこから手をつければいいのか途方にくれるほど、東京の都市計画は滅茶苦茶ですが。
ブエノスアイレスに向かう途上ニューヨークに立ち寄った猪瀬都知事は、蛙を思わせる緑色のTシャツでニューヨークのど真ん中にある広大なセントラルパークでジョギングなんかしていましたが、翻って東京の都心でジョギング出来る場所として一番人気である皇居周辺を走る「皇居ラン」を猪瀬氏がしたことがあるかどうか知りませんが、あの尋常でない混雑ぶりと、皇居の緑に目を奪われて錯覚してしまいますが、所詮皇居の緑は「借景」であり、それを除いたら、狭い歩道をお互い肩をぶつけながら、歩行者を蹴散らして走らなければならないという、情けないジョギングコースであることを、都知事としてどれだけ理解しているのか?
都知事として、真に都民に奉仕するのならば、一炊の夢のような、若しくは、マッチが灯っている間だけ輝く幻のような、「オリンピックの東京開催」ではなく、何をすべきなのか、を考えて頂きたいと切に望みます。




結果が出る前に書いておこうと思い、急いで書きました。

プレゼンテーションに駆り出され、アスリート精神に則って全力で東京招致のために頑張っていらっしゃる現役の選手の方々には、ただただ頭が下がるばかりですが、早くこの狂騒から解放されて、本来の生活に戻られますよう、お祈りしております。