AKB48峯岸みなみの「丸刈り謝罪」事件について  



AKB48峯岸みなみ(敬称略)の丸刈り謝罪に関して、それはもう沢山のブログや記事を読みました。


殆どの意見は、「気持ち悪い」「やらされているのかもしれないが、不快だ」というものでした。(以下、黄色斜字体は、この件に関する意見を私なりにまとめたもの)


逆に私が注目したのは、峯岸みなみを擁護するファン(と思われる)の意見でした。
「彼女が自主的に丸刈りにして謝罪している。やらされているわけではない。」
「『恋愛禁止』というルールを破ったのだから、AKBに残りたいのならば仕方ない。」
「恋愛を優先したいのならばAKBをやめればいいだけ。『残りたい』というのは彼女の意志」
「『気持ち悪い』とか『不快』ならば、動画を見なければよい。」
「これは、ファンと彼女の問題であり、ファンでもなくよくAKBのことを知らない人には関係ない。」
というものです。最近の若者によく聞かれるレトリック、事の本質を論じるのではなく、表面的な正論だけを論点にするレトリックだと思いました。


他にも、屈折したファンというか、
「『恋愛禁止』を売りにして商売をやっているのだから、そのセールスポイントを守るためならば別に構わないのでは?」
峯岸みなみ本人も、したたかに計算してやっていること」
NHKをはじめ国内外のメディアにまで報道されて、宣伝効果は抜群で、最初からそれを狙っていた。」
「とにかく話題を作ることが狙いだから、この件についてコメントすることがそもそもAKB48商法の手助けをしていることになるから黙殺すべき。」
という意見も読みました。これは、なかなか見るべきところは冷静に見ている意見だと思います。


そして、主に大人の論者が書いていた記事に顕著なのは、この事件を直近話題になっている事件、女子柔道の暴力問題、大阪桜宮高校の体罰問題と絡めて論じているものが多かったことです。また、AKB48の運営自体を「学校」というシステムやブラック企業になぞらえて論じているものもありました。

ファンにとっては「峯岸みなみと自分たちの問題」に見えるかもしれませんが、これだけの論議を起こすということは、事がこの事件だけではなく、今の日本の様々な状態に通底するものがあるからだということです。


私は丁度AKB48が結成されて売れ始めた頃に夫の駐在で海外にいたので、浦島太郎状態で帰国して初めてこのグループの存在を知りました。帰国して日本の話題に復帰するのに必死だった私は、ネットで色々とぐぐったのですが、浦島太郎の目で見ると、第一印象は「こんな酷いものが日本では許されているの!?」というものでした。私がショックを受けたAKBの曲のPVはこれです。

この曲のリリースは2007年ですから、先般AKB48を「卒業」した前田敦子(21歳)をはじめメンバーが今よりも6歳若い、まだ幼さの残る顔で歌って踊っています。この「制服が邪魔をする」というタイトルの曲のキャッチコピーは「お父さん、ごめんなさい」だそうで、これは作詞をした秋元康氏が何と言おうと、当時15歳の前田敦子や14歳の峯岸みなみに歌わせる歌では(本人たちが作詞したのでないのですから)ありませんよ。

思えば私自身がティーンエイジャーの頃、山口百恵が当時のアイドルだったのですが、彼女のファンにいい歳した大人のおじさんが多いということがよく理解出来ませんでした。「ひと夏の経験」というヒット曲の歌詞の意味も、「日本語としてはわかっているけれど、それが意味するものがわかっていない」状態でした。でも、大人のおじさんたちには、「あなたに女の子の一番大切なものを上げるわ。」という歌詞のダブルミーニング、アイドルに憧れるティーンエイジャーには見えない意味が簡単に読めたのでしょう。プロデュースした側はそれを意図していたと思います。2007年当時のAKB48のメンバーたちは、どこまで「制服が邪魔をする」の意味、大人(それもおじさん)がどう解釈するか(PVの最後にはコートを着た紳士が後ろ姿で登場します)、自分たちの意とは別のところで作詞者をはじめプロデュース側が曲にどういうメッセージを乗せているのか、ということをわかっていたのか?


秋元康という人は、「開成から東大へ行って、大蔵省の官僚になることを目指していたが、中学入試で開成中学に落ちてしまって・・・」と自分で語っているのですが、悪魔的に頭が良いというか、寧ろ開成に行って大蔵省あたりで暗躍してくれていた方が、日本社会全体への(悪)影響がなかったかもしれません、何故開成落ちたし。
秋元氏本人が嘗てプロデュースしたおニャン子クラブや本人も言及している高校野球(後述)に加えて、前述の学校や部活のシステム、ブラック企業や水商売の社員管理、ジャニーズや宝塚のシステム、全ての中で最も商売に適した形をいいとこ取りのつまみ食いのようにAKB48の中に取り込んでいます。ただ、その頭の良さは、創造的(クリエイティブ)な頭の良さ、というよりは、編集能力に長けているだけの頭の良さ、だと私は思います。つまり、アイドル産業に何か新しいものを生み出したというよりは、先行する企業やシステムなどの(商売的に)良いところをピックアップして繋げ合わせて編集して最適化してみせたのが、秋元氏の才能だと思います。


70年代のアイドルは殆どの場合(キャンディーズピンクレディーを除く)一人の少女が歌い、踊り(ダンスは今程重要ではなかった)、ドラマや映画で演じ、テレビのバラエティー番組でトークを見せていました。例えば、前述の山口百恵は、歌を歌うと同時に、「赤いシリーズ」のテレビドラマに出演し「伊豆の踊り子」その他の映画に出演し、生放送の歌番組に出てラジオ番組(←そういう時代でした)を担当する、という、八面六臂の殺人的スケジュールをこなしていたのです。しかしそれでは、タレント本人の体力や時間が限られてきますから、大人数で売り出す方が効率的、なのでしょう。育成のコストがほんの少し多めにかかろうとも、多方面に売り出せますし。それに、リスクも分散できます。一人のアイドルが病気になったり、恋愛したり、スキャンダルを起こしてしまうと、そのアイドルにまつわる企画全てが総崩れになりますし、キャラの分担も人数が多い方がファンのニーズに細かく応えられ、手堅く商売できます。何より大人数ということは、オーディションでメンバーを増やせますから、そのオーディション自体が宣伝にもなる。
そしてAKB48の構成が、A、K、Bとチーム制でそれぞれキャプテンがいるところは、まるで宝塚です。一人のアイドルならば、連日ライブを行うことは不可能ですが、このシステムではそれが可能です。嘗てのおニャン子クラブのオーディションは、それ自体が番組のメインだったのですが、応募した少女たちがいきなり水着姿でカメラの前で審査という名の品定めをされている状況を思い出します。もうこの時点で、「おニャン子に入りたくて応募したんだから、水着になっても当然。水着が嫌なら応募しなければよい。」という、今回の峯岸みなみの時と同じ理屈(「恋愛したいのならば、AKBやめればいい。」)という、歪んだ理屈がまかり通っていた気がします。
大人数、即ちリスク回避と「数打ちゃ当たる」方式は、ジャニーズにも似ています、表向きの「恋愛禁止」も。加えてジャニーズとの共通点は、ジャニーズのローティーンと思われるバックダンサーが踊りながらカメラに必死で媚の目線(鏡を見て研究したのでしょうか?)を送っているところ*1、なんですが、その痛ましさも「一生懸命」と言い換えられて、「夢に向かって頑張っている」高校野球と同列にされているこの不思議(秋元氏談:「AKBの面白さって、高校野球みたいなもんで、テクニックではなく、全力で走る・ヘッドスライディングするしかないんだから。」)。

ジャニーズの方がまだマシなのは、メンバーが恋愛も含めてスキャンダルを起こした時に、事務所が全力で守ってくれて、丸刈りにならずに済む事です、ついでにJリーガーや野球選手もスキャンダルで丸刈りにはなりません。
そして一旦売り出してしまって、各局のテレビ番組に出るようになれば、そうそうマスコミにも叩かれない(叩くと彼らなしでは成立しなくなっている種々の番組に出てもらえないから)こともジャニーズと同じ戦略ですし、時代の先端をいく大物クリエイターにPV制作を依頼すれば、話題を作るだけではなく彼らを味方につけることもできます。クリエイターにしてみれば、旬の素材を使って潤沢な予算で作品を作ることは、魅力的なことでしょうし。前掲の「制服が邪魔をする」のPVの他にも、最初に見た時には児童ポルノすれすれじゃないかと思ってしまった「ヘビーローテーション」のPVの監督は、かの蜷川実花氏ですが、

未成年のメンバーまで下着姿、特にセンターの大島優子(当時既に成人していたとはいえ)には本来は売春婦が着るような下着を着せて、撮っています。下着をイメージした衣装をステージで着てセンセーションを起こしたのは若き頃のマドンナでしたが、彼女は当然のことながらもう大人であり、「売春婦の下着を敢えてステージで着る」という演出上の効果を計算した上で着ているのですから、女性の私が見ても何の抵抗もありませんでしたが、innocentなAKB48のメンバーは、これは大人が見たら「売春婦と娼館を思わせるものである」ということすら、わかっていなかったのではないかと思います、お花やぬいぐるみや猫耳などカワイい小道具と泡風呂シーンも含めて、これは山口百恵の「ひと夏の経験」のダブルミーニングの数十倍の仕掛けです。彼女たちがそのダブルミーニングを理解していたかは大いに疑問です。っていうか、峯岸みなみ丸刈り頭を「ドイツ占領下でナチ協力者だった女性が、戦後丸刈りにされて引き回されたことを思い出して不快になった」と評している方が何人もいましたが、そもそも峯岸みなみ本人はそのような歴史の知識などなくて、無知のまま何も考えずに丸刈りにしたのだと思いますが、それと同じように、このPVでは他の少女たちも無知のまま下着姿になったり泡風呂シーンを撮られたのでしょう。蜷川実花氏は、メジャーデビュー以前からのAKB48ファンということですが、表現者としてこれだけ話題になる素材と潤沢な資金を使って自らの世界観を表現する仕事は、魅力的な仕事だったでしょう。私は蜷川実花氏の作品や世界観は好きですし、数年前には朝日新聞のコラムにも出た「蜷川家の家訓」というものをコピーして娘に持たせていたくらいです。しかし、作品ではなく、出演しているAKB48のメンバーと同世代の娘を持つ親の立場からすると、出演者である当人たちが演出の背後にどういうイメージがあるのかについて無知なまま、大人が見たらエロティックな想像をかき立てられる(しかもよりによって、売春婦と娼館!)、という作品は到底肯定できるものではありませんし、峯岸みなみ丸刈り謝罪映像と同様に、彼女たちが無邪気に元気に歌えば歌うほど、痛々しく哀れに見えて仕方ありません。逆に、蜷川実花氏に限らず、AKB48の衣装やダンスやPVを作っているクリエイターの立場からすると、表現者として当然と言えば当然ですが、それが児童ポルノすれすれ(私には一線を越えているように見えますが)であっても、自分の世界観を表す作品として満足できればそれで良かったわけで。クリエイターである彼/彼女はAKB48の少女達の親でも保護者でもないのですから、当然彼女たちの人生や生き方に責任をとる義務もないのです。
このPVも。

これは表面的には「健康的な女の子たちが、真夏の太陽の下、爽やかな水着姿で元気いっぱい踊っている」というように処理してあります。誰も「王様は裸だ!」と叫べないのと同様、「これって下着姿を思わせる白い水着で、貧相な体つきの女の子たちに下着姿で激しいダンスをさせている半ポルノも同然!」となかなか言えないような作りになっているのですよね。だって、実際同性の私が見てもはらはらしてしまい、あられもない姿で人工的に作ったかのような満面の笑顔、そして激しいダンスを踊る彼女たちが痛々しく見えてしまいます。
更にこのPVも。

エロティックなものだけが問題なのではありません。未成年の少女達が迷彩服に身を包んで、ジャングルのようなところを抜けて行くシーンがあるのですが、きっと彼女たちは「迷彩服」が意味するところのものは何もわからないまま、「かっこいいじゃん!」くらいのノリで、言われるままに撮ったのでしょう。彼女たちが、「迷彩服」の意味というか十代のアジアの顔した少女たちがそれを着ているのを見た人がどういうことを連想するか、それのメッセージを理解し、それでも敢えての「迷彩服」ならば全然構わないのですが、そうではないと思います、本来は彼女たちに誰か大人が教えなきゃいけないところを、教えないまま演出として撮ったのだと思います。

彼女たちが犠牲者であるとは言いません。当時人数は少なくても成人しているメンバーもいたわけですし、未成年のメンバーには当然の如く保護者がいるのですから。しかし、問題なのは、彼女たちのうち一人でも、「こんな演出はいやだ」「こんな歌詞はいやだ」「裸同然の格好でダンスしたくない」と思っても、現実として、「私はやりたくありません」と言える環境であるかどうか、なのです。「イヤなら辞めればいい」という論理。それはまさしく、今回の問題の底に流れているものと同じであり、多くの人々が奇しくも、高校の運動部の体罰問題や、女子柔道の監督の暴力と結びつけたのが偶然ではない、ということなのです。


前述したAKB48の、過去のアイドル商売としての美味しいとこ取りのシステムだけではなく、そのメンバーたちの置かれている環境こそが問題なのです。
秋元氏自身が健全で爽やかとされている「高校野球」に例えておきながら、AKBという集団の内部での立ち位置は、守備やバッティングの上手さのような歌やダンスの実力ではなく水商売の「お客様に指名された数」にも似た「投票数」(投票の権利はCDを買わないと得られない)によって決まり、メンバーたちが自発的に内部で熾烈な競争をする(少しでも上位になりたいメンバーの心理を利用)ブラック企業のような仕組み。一つでも上位に選抜されれば、ティーンエイジャーのメンバーにも分かりやすいご褒美が待っているのですから、その中にいる以上常に競争するしかない、という過酷な状況。集団の心理として、その過酷な競争の中で血のにじむような思いをして得たポジションはどんな犠牲を払っても手放したくない、何故ならそれまでの苦労が水の泡になり、他のメンバーに自らの既得権を目に見える形で奪われてしまうから、というものになることは容易に想像できますよね。前掲のPVの中の、娼婦まがいの下着姿も、下着と見まがう水着姿での激しいダンスも、迷彩服も、「やりたくない」と言えば外されて他のメンバーに代わられるだけ。「イヤなら辞めればいい」という建前はあっても、当人たちにとって実はそんなことは不可能なのです。これは、大阪の桜宮高校で自殺した高校生に対して、「キャプテンがイヤなら辞めればいい。バスケ部を退部すればいい。」というのと同じであり、女子柔道ナショナルチームに選抜された優秀な選手が選抜されたが故に逃れられない環境の中で暴力を受けていたのと同じなのではないでしょうか?

ですから、峯岸みなみ一人の問題にしても、丸刈りにしたことについて、彼女が過去数年にわたって身をおいていたAKB48という特殊な環境を理解することなく論じることはできません。AKBにとどまるためならば彼女に限らずメンバーはどんなことでもしかねない、ということを理解し、そしてその中での「自発的」丸刈り謝罪であったということを先ず理解しなければいけないのです。


峯岸みなみは、未成年ではなく成年であり、本人が考えて謝罪をして責任をとっているのだから、それでよいのではないか?」という意見もありましたが、成年と言っても彼女は1992年11月生まれで、二十歳になってからまだほんの2ヶ月ちょっと、つい先月成人式を迎えたばかりです。

(お祓いを受ける時も、記念写真の並び方にも「序列」があるのが丸わかり。峯岸みなみも含めてメンバーが個別のインタビューに答える様が何と幼いことか。そして私が名前と顔がわかるメンバーは、峯岸みなみ指原莉乃というスキャンダルコンビの二人だけだったのは、運営側から見れば思うつぼでしょうか?)
同じように今年成人式を迎えた娘を持つ私が、この事件に関して最初に娘に言ったことは、
「この丸刈りの娘の姿、峯岸みなみのお母さんが見たら、悲しい気持ちになると思うわよ。」
ということでした。全国で今年娘が成人式を迎えた母親は私同様、皆同じ気持ちになるのではないでしょうか?つい二週間前、この日の為に伸ばしていた長い髪の毛を結い上げて、振り袖を着た娘の姿を見て、「よくぞここまで育ってくれた」と感慨を抱いたばかりだったのではないかと思いますが、その髪の毛をあんな形で剃り上げられた姿を見せられたら?でも口には出さなかったのですが私には内心、こういう気持ちもありました、
「娘のこういう姿をYoutubeで全世界に晒されて、峯岸みなみの親は何故怒らないのか?」
という疑問。しかし保護者である親でさえ、娘を守ろうにも手出しができないようになっているAKB48のシステムなのです。前述のように本人でさえ、AKB48というシステムの中に見えない形でがんじがらめにされているのですから、親がたとえ未成年の保護者であった期間でも、既に何も言えない(未成年の娘が下着姿のPVを撮られようが) 状態だったのでしょう。そして、これさえも秋元氏の計算の中にあるとしたら?
AKB48に娘を入れている親でなくても、親なら誰しも娘が「夢を叶えるために頑張りたい」と言ったら応援します。学業そっちのけのハードスケジュールであっても、キワドい歌詞やダンスであっても、未成年なのに性的な匂いのするグラビアやPVであっても、娘の気持ちに沿おうとすればするほど、看過せざるを得ないでしょう、そしてその結果が「丸刈り謝罪」に至るのであっても、もうその時には手遅れなのです。

穿った見方をすれば、今回の「丸刈り謝罪」は、それを行った峯岸みなみ本人の目的は十分に達成したと言えます、それどころか、今朝のNHKの「ニュース深読み」で小野恵アナウンサーがいみじくも言っていましたが、「はっきり言って今まで峯岸さんという方を知らなかったが、今回の事件でしっかりインプットされました。」というように、宣伝費ゼロで世界的な抜群の知名度というおまけ付きで。
私が想像するのはこうです、彼女峯岸みなみにとってはAKBが全て、なのです、悲しいほどに。例え初期メンバーでありながら総選挙の順位も知名度も低くセンターどころかいつも三列目で踊らなければならない微妙なポジションであっても。AKBから離れることなど想像できなかった彼女にとって、過去には恋愛やスキャンダルが原因で辞めさせられたり移動させられたりしたメンバーもいたのですから、恋愛禁止の暗黙のルールを破って週刊誌ネタになった1月31日は、彼女にとって「AKB48を辞めさせられるかもしれない」「博多か名古屋かジャカルタに飛ばされるかもしれない」という恐怖を抱かされた人生最大の危機の一日だったことでしょう。彼女が本能的にとった「丸刈り」という行動、そしてその姿で謝罪会見を動画で配信、というのは、その危機を乗り越えるということにおいては結果的に最適最高の方法でした。少なくとも、辞めさせられたり移動させられる前に彼女が行動を起こしたところが、成功の大きなポイントです。丸刈り謝罪の動画がここまでの話題になった今、彼女に対して新たな処分が行われることもなく、寧ろ「峯岸みなみ」という一人のメンバーだけでなくAKB48全体の大きな宣伝になった今、彼女にはボーナスが与えられてもよいほどAKB48(の商法)に貢献したのですから、もう彼女は何の不安もなくAKB48に所属していられます。涙の丸刈り謝罪の動画の後、初期メンバーと撮ったというダブルピースで笑顔の写真も出ていて、「本当に反省していないのでは?」という声も上がっていましたが、あのダブルピースは心底安堵したダブルピースではなかったかと思います。


若い女の子には酷であるお約束「恋愛禁止」というタブーを犯してスキャンダルを起こしてしまっても、峯岸みなみにとってはAKB48こそが居場所であり、AKB48から離れてしまったらアイデンティティが失われてしまうという危機感を抱いたからこそ、AKBに残るというただ一つの目的のために必死に死に物狂いで考えて行動した彼女の立場に立って考えれば、今回の対応(丸刈り謝罪)は、確かに成功したと言えます。
この問題は、それが全て、それで終わり、なのでしょうか?
彼女が考えていたことは、「AKB48に残る」という彼女的には至上命題だったことを除くと、せいぜいファンを繋ぎ止めることまで、だったのではないかと思います。
親が悲しむこと、ファン以外の世間の多くの良識ある人々が眉をひそめここまでの大騒動になるであろうことさえ、考えが至ってなかったでしょう。
今や「国民的アイドル」AKB48には、小学生や幼稚園生のファンもいて、「将来アイドルになりたい」という夢を持っているかもしれない幼い子どもたちもこの動画を見るであろうことなど、念頭にはなかったでしょう。
ましてや、動画で配信されるということは、全世界の人々に向かって発信されるということ、そして一旦配信されたものは運営が配信を停止しても未来永劫残るものである、将来の伴侶も将来の自分の子どももネットをぐぐればこの「丸刈り」の映像を見られてしまう、ということは想像もしていなかったでしょう。
この彼女の、無邪気とも言える無知。「成人した大人である本人の決断なのだから、本人の責任」なんて私は言えません。10代の殆どの時間をAKB48の中で生きてきた彼女が「AKBで夢を追い続けるために」自分で考え抜いた結論が「丸刈り謝罪」という常識を逸脱したものになったことが、悲劇だと思うからです。

願わくば、峯岸みなみでなくても、AKB48のメンバーが皆口々に語る「夢を叶えるためにAKB48にいる」というその「夢」とやらが、人生における貴重な10代を犠牲にしただけのものであってほしいところですが、過去において一世を風靡したアイドルたちの末路を思い浮かべると、なかなか悲観的にならざるをえません。



すこぶる次元が違うことなのですが、最近インドで女性がバスの中で集団から性的暴力を受ける事件がありましたし、その前にはパキスタンで15歳の少女が女性の教育の機会を求める旨のブログを書いたことでタリバーンから襲撃されるという事件がありました。いつも思うのですが、加害者たちには、母親や姉妹や娘はいないのか?と思ってしまいます。乗客の女性が赤の他人ならば、バスの運転手も車掌も乗客も一緒になって暴行を加え、自分とは何の関わりもない少女ならば、宗教的信念(妄信)に基づいて銃を向ける彼らも、対象が母親であり姉妹でありとりわけ自分の娘ならば、そんな非道な所業には怒り悲しむことでしょう。秋元氏は現在一女の父だということですが、幼いその娘が12歳なり13歳なりになった時に、今のAKB48に歌わせているような歌詞の歌を、水着や下着姿での激しいダンスをしながら歌わせるでしょうか?カワイい装飾でくるみつつ、大人(特に男性)が見たらエロティックなものを連想する仕掛け、そしてその中にいる以上、無邪気・無知のままただ競争することを強いられる仕掛けの中に、娘を投じるでしょうか?娘が自ら「丸刈り」になったら、ならざるをえないところまで追いつめる仕掛けになっていたとしたら、彼はどう感じるのでしょうか?秋元氏のみならず、AKB48のビジネスに関わっている全ての大人、そしてそれを消費している大人、傍観している大人も皆同様に、「峯岸みなみが自分の娘なら、あの『丸刈り』映像を許せたか?」と考えてみることが必要だと思います。



この事件から日が経つに連れて、報道や意見は少なくなりました。しかし、これがやがて忘れられてしまうかのような錯覚を持たせることは、本人のみならずティーンエイジャーの少女たちや若い女性にとって良いのかどうか?このまま何も変わらないこと、更に悪いことには、これが悪しき前例にならないことを祈るのみです。