妊娠・出産・子育てのジェットコースターライフに愛を!


私がよく使う東横線はラッシュ時は勿論、一日中そこそこ混んでいて、先日午前10時過ぎに乗った時も、始発駅ではないので当然座れません。途中の駅でたまたま前に座っていた人が降りたので、座らせて頂いた私。しかし渋谷に近づくにつれて混雑がひどくなってきて自由が丘駅。特急・急行の待ち合わせをしない各停のせいか、どっと人が乗って来て、その人々をかき分けるようにして、女性が私の前に立ちました。サングラスをかけて(最近お日様がやたら眩しい)iPhoneをいじっていた怪しいおばさんの私ではありましたが、反射的に立ち上がって彼女に席を譲りました。何故なら、彼女が妊婦さんだったから。私の見立てだと6ヶ月〜7ヶ月というところでしょうか。お腹の膨らみがニットコートを通してもはっきりとわかる月数ということです。病院に検診に行くところなのか、ラッシュ時間をずらしてお仕事に向かうところなのか、単なるお買い物か友達とランチに行くのか、そんなことはどうでもよくて、揺れる電車内で立っているのは健康な妊婦であっても辛いということは体験的に知っているので。

さて。
過日*1朝日新聞の投書で思わず「何言ってるの、このおじさん!」と突っ込まざるをえない投書を発見しました(同時にこれを選ぶ朝日新聞のセンスがいつもながらわかりませんが)。投書の主は65歳の男性。奥様に付き添って月に一度都心の病院に郊外から通っているとか。始発駅で一本乗り過ごして奥様と座席に座っていたところ・・・(以下引用)

・・・やっと座れてほっとしていると、発車間際に若い女性が飛び乗ってきて、私の前に立った。
 私だったら次の電車を待って座って行くのにと思いながら目線を少し上げたら、前に抱えたハンドバッグに点けたマタニティーマークの位置を整えて私に見せるようにした。
 一瞬、席を譲ろうかと思ったが、介助が要る家内が隣におり、それは出来ない。私が立ちそうになりと分かると、彼女は立ち居値を隣へずらしたが、足を広げて居眠りしている高校生にはそのサインが分からない。しばらくして、さらに隣の中年サラリーマンが席を譲った。
 彼女は譲られるのに慣れた風でスッと座ったとたん、ハンドバッグからヘッドセットを取り出し、カラダでリズムをとりながら音楽を聴きだした。数駅して駆け降りていった。
 私はそんなに元気ならマークをちらつかせず、ひと電車待てばすむことなのに、人の善意を軽くみないでほしいと思った。

さてさて、手ぐすね引いて順序だてて、突っ込みたいと思います。
・先ず、ご自身が席を譲ることができないのは良いとして、それをマタニティーマークを見せた女性に何故言わないのでしょうか?この年代の男性(65歳)はシャイだから?シャイであることと、言うべきことを言わなければならないのを怠る、ということは別物だと思います。そしてそれを言うことによって隣に座っている「足を広げて居眠りしている高校生」にも気付かせることができたでしょうに。それをせずに後日新聞に投書なのですね。
・そしてこの方の文章には、きっと本人は気付いていないのかもしれませんが偏見が満ち満ちているのです。前述の
「足を広げて居眠りしている高校生」
に加えて
「譲られるのに慣れた風でスッと座った」
「駆け降りていった」
等々の表現にしてもそれは本人の感じ方、というか、思い込みでしかないかも、と思います。今の高校生は皆、リュックにせよスポーツバッグにせよ大きな鞄を持っているのですから、座る時にはそれを前に置くとどうしても「足を広げた」形になるのですよ。朝早くの電車に乗っているのなら、部活の朝練に行くところなのか、だとしたら誰しも経験あるでしょうがとかくその年頃の高校生は眠いものです。私なんてそういう高校生を見ても微笑ましささえ感じてしまうのですが、投書主はそうではないようです。そして、「譲られるのに慣れた風」というのはなんですか、これ?偏見でしかないですし、仮に「譲られるのに慣れている」のならば、それは、「日本も妊婦をいたわるよい世の中になったのだなあ」と喜ぶべきことなのですしね。そして、席を譲る側から見れば、譲った時に、「スッと座って」くれなければ逆に困る訳で。席を譲って、辞退されたりもじもじされるよりは、「スッと座って」くれる方が、譲った方は嬉しいものです。
・そして投書の主の露呈した本音だと思うのですが、席を譲られた若い妊婦さんが、「ハンドバッグからヘッドセットを取り出し、カラダでリズムをとりながら音楽を聴きだした」のが、気に食わないのですよ、結局は。譲ってもらったことに対する感謝を(とはいえ、譲ったのはあなたではない)全身で表して、妊婦であることを済まなそうに座っていれば満足なのでしょうか。「ヘッドセット」で音楽を聴くのは、考えてみれば電車の中では当たり前でしょう、「イヤホン」ならば腹が立たなかったのかもしれませんね、彼の場合。音楽だって胎教だったかもしれないし、胎教がバッハやモーツァルトでなくても、「カラダでリズムをとる」音楽でもいい訳だし(私の胎教は『米米クラブでしたから)、勿論、バッハやモーツァルトでも「カラダでリズム」をとってもいい訳です。彼は「自分が理解できないことは気に入らない」人でもあるのですね。
・この投書の最後の一文はそれこそ鉄槌を下したくなる一文で、「そんなに元気なら」とはなんですか、「そんなに元気なら」とは!元気で何が悪いのですか、妊娠中に「元気でない」ということは深刻なことです。妊婦が元気であることは、その妊婦が赤の他人であっても頗る喜ばしいことなのですよ。「ひと電車待てばすむことなのに」とのことですが、投書主も書いているように朝6時台の電車ならば、彼女は妊娠中も働いているのではないでしょうか。「ひと電車」待てない事情があったのだとは思い至らないのでしょうね。そして、極めつけは「人の善意を軽くみないでほしいと思った」の文言!投書主はこれっぽっちの「善意」も、この妊婦である若い女性に示してはいないのです。彼女から見れば、この投書主は
マタニティーマークを示したのにも拘らず無視した、『善意』のカケラもないおじさん」
ですよ。「病気の家内に付き添っているので、席は譲れないんですよ。」と一声「善意」の声をかければ、もしかしたら隣の席の「足をひろげて居眠りしている高校生」に聞こえて彼が目を覚まして譲ってくれることになったかもしれないのに、それもしなかったのですよ。本当に「善意」を示したのは、投書主ではなく「中年のサラリーマン」だったのです。(繰り返しますが)投書主はこれっぽっちの「善意」も、この若い女性に示してはいないのに、この文言。何かおかしくありません?恥を知って頂きたいものです、目上の方に申し上げるのもアレですが。


さて、この場をお借りして(?)、この妊婦の若い女性に席を譲った「中年のサラリーマン」の方に拍手と賞賛と愛♡を捧げたい!と思います。あなたとて、前夜は会社で遅くまで残業、そして早朝出勤で、「電車を一本やりすごして」座っていたのかもしれませんね。それなのに、マタニティーマークを見てなのか、くだんの若い女性が妊婦さんであることをわかってなのかは知りませんが、彼女に席を譲った行為は、それこそ「朝日新聞 『声』欄」にて称揚されてもおかしくありません!!!自分は何の「善意」も示していないのにも拘らず、恩着せがましいことを投書する輩もいる昨今ですから。

以前のエントリーで書いたことがあるのですが、
「赤ちゃん連れの母親」を手助けすることに関して、雑感
ドイツに暮らしていた時、全くレディーファーストではないドイツのいかにもアングロサクソン全開のおじさんが、頭をすっぽり黒いスカーフで覆った若いトルコ人(移民)女性の母親の乳母車を電車に乗せているのを(時にはおじさん数人が協力して)何度も目撃した、というか、それは当たり前の日常でした。
妊婦/赤ちゃん連れの母親は、無条件に保護されるべきである
ということが社会の隅々にまで浸透しているようでした。おじさんたちがやっているということは、それを日常的に見て育った息子世代も当然の如くやっておりそしてそれはそうやって受け継がれているのだと思いました。
日本で若者が妊婦や赤ちゃん連れの母親を助けないとしたら、それは彼らの父親がやらないからではないでしょうか。

投書主の方に問いたいのは、
もし、早朝の電車でマタニティーマークをつけて立っているのが、
自分の娘だったら?
妻だったら?
妹や姉だったら?
そして誰にも席を譲ってもらえなかったり、譲られて座れば「譲られるのに慣れた風」と思われ、ヘッドセットで音楽を聴けば「人の善意を軽くみていて」態度が悪いと思われ、挙げ句の果てに新聞に投書されてしまったら、どう感じますか?
娘、妻、妹、姉に該当する女性の家族がいない場合でも、
母親だったら?
自分がお腹にいる時に自分の母親が、周囲から優しくして貰えなかったとしたら?
そんな寒々しい社会で自分を生もうとしてくれた母親のことを考えたら涙がでてきませんか?
そう思うと、全ての妊婦は無条件に保護されるべきなのだと思い至ってほしいものです。

そしていつもながら私の考えは飛ぶのですが、例えば戦争において、「敵国人であっても妊婦や赤ちゃんを抱いた母親でさえ、無条件に保護されるべきである」、というのは、間違っているでしょうか?各国の軍隊は、実際に戦闘になった場合そういう時にどう対処すべきか、規範とかそれに則った訓練とかあるのかどうか私にはわかりませんが、Wikileaksが暴露したイラクにおけるアメリカ軍の戦闘行動を見るまでもなく、アメリカ軍は、少なくともイラクにおける今のアメリカ軍は、あのように民間人に対する攻撃に抵抗がないなら「敵国人の妊婦や子供連れの母親」に対する攻撃にも抵抗がないように見えますが、他の国の軍隊や我が日本の自衛隊は、「敵国人の妊婦や幼子の母親」に対してどう対応することになっているのでしょうね。保護する?保護しない?同朋の若い妊婦に対してですら「善意」を示せないような例の投書主のような人が軍服を着て、どうして敵国人の妊婦や若い母親に対して人間として最低の思いやりも持つ事ができるだろうか、と考えてしまいます。

まあ、元の投書に戻って。
全国の妊婦の皆様、やりがいも喜びもあるけれども苦労もゴマンとある子育てという長い長い道を歩む決心をなさってその端緒についた皆様なのですから、世の中から無条件に保護されてよいのですよ。

私が年下の友人知人に、妊娠と子育ての比喩としてよく語るのは、



妊娠はジェットコースターの最初の部分、カキンカキンとゆっくりコースターが登っていく部分。期待と不安でいっぱい。出産はカキンカキンが終わるてっぺん。他人がジェットコースターに乗っているのはたくさん見て来たけれども、てっぺんに達した後、自分がどうなるか想像もつかない、てこと。何だか不安になってもジェットコースターからはもう降りられないのよ、発車してしまったから。「乗るんじゃなかった」「もう少し後で乗ればよかった」と思ってももう遅いの。
そして頂点に達した次の瞬間から、降下と上昇と急カーブ!夢中でわーわーきゃーきゃー、これが子育て。一瞬たりとも同じ地点に留まることなく、とにかく猛スピードで重力と遠心力にまかせて推進するだけ。後戻りはできないし、やり直しもできない。楽しくて叫んでいるのか、涙が出てくるのは何故なのか、考えている間もなく進み続けて。
そして突然、コースターは止まる、それは子育てが終わったということ。そうなのよ、子育ての終わりは突然やってきて、そしてもうコースターに乗ることはない・・・




比喩になっているでしょうか?
悲しい事実ですが、世間には妊婦さんや子育て中の母親に対して愛のない人も確かにいますが、一方で愛のある人も必ずいますから(投書の中の席を譲ってくれた「中年のサラリーマン」LOVE☆!)、どうぞオプティミスティックにジェットコースターライフを楽しんでくださいな!

*1:11月24日朝日新聞「声」欄"そこのけマタニティーマーク