「赤ちゃん連れの母親」を手助けすることに関して、雑感


蜷川実花さんのツイート

寝てる息子とバギーで出かけてたんだけど 駅で階段しかなくて。15キロの息子だっこしてバギー持って階段。つーかそこのヒマそうな男子!手伝ってよ。なんでこんなに助けてくんないかなーーー??ちょっとびっくり。
http://twitter.com/ninagawamika/status/25011092105

蜷川実花さんのツイートからわかった日本をまとめてみました、で読みました。
更にこれにまつわるyuhka-unoさんのご意見
他人に親切にして失敗するのが恐い日本人
も読ませていただいたのですけれど、私とは少し観点が違う気がして、改めて自分の経験から、
「赤ちゃん連れの母親を手助けする」というのはどういうことか?
を考えてみました。


ドイツで見た光景

はっきり言ってドイツでは移民のトルコ人を差別・蔑視する空気が表面上はともかく確かに存在しています。「えっ、この人がこんなこと言う?」というような教養もあり温厚な人物が、マジでトルコ人蔑視の言葉を吐くのを何度も聞きました(聞いている私もトルコ人と同じく東洋人なのですけどね)。でも、例えば市電の駅に、頭にイスラムの黒いショールを巻いた若い母親が乳母車を引いて立っていたとして、電車が来たら、彼女は必ず間違いなく、周りの誰かが手助けしてくれて、彼女自身は何もしなくても、乳母車は周囲の男性(複数のこともあり)によって車内に持ち上げられる、のです。勿論、彼女自身から周りに助けを「お願い」する必要なんてない。ちなみに周りにいるのが、アーリア人全開のドイツ人のおじさん、おにいさん、であっても、ですよ。


また別のケース@地下鉄のホーム
今度はいかにもお金持ちそうなドイツ人の若い母親。Gucciの大きなバッグを下のカゴに突っ込んだ頑丈そうなベビーカー(ドイツのものは皆そうなのですが)の車輪に片足を乗せてストッパー代わりにして、左手のエビアンのボトルを飲みながら、右手に持ったペーパーバックを読んでいる。しかもドイツ人にありがちな(?)かなりの大柄の女性(推定身長175cm以上)。どこやらの東洋の国のミソジニー君たちが最もキライなタイプの超エラそーな母親かもしれない彼女なのですけれども、電車が来たら、周りのドイツ人男性は当然の如くそのベビーカーを車内に持ち上げて入れてあげていました、相変わらず彼女の態度はデカイままでしたけどね。


「赤ちゃん連れの母親」は無条件に保護されるべきである、
という共通認識が日本にないというだけなのだと思います、それが良いとか悪いとか、ではなく(←ここ強調)。
決して私は「諸外国(例えばドイツ)ではこうだけど、日本ではそうじゃないのでダメだ」と、ありがちな例を持ち出してありがちに言っているわけではなく、それこそかのドイツのおじさんも、子連れの女性をジェントルマンシップで手助けはする一方で、他のシチュエーションではドイツ人のおじさんたち全然レディーファーストじゃないのであって、エレベーターでもどこかの国のオヤジと同じくどんどん我れ先に乗り込むし、後から来る女性のためにドアを押さえておいてくれる、なんてこともないので、私はドイツで彼らの後ろから歩いていて何度戻ってくるドアにぶつかりそうになったことでしょう!ただとにかく「赤ちゃん連れの母親は無条件に保護されるべきである」というこの一点については社会全体の共通の意識があるのだと思います。
そのように或る社会において「赤ちゃん連れの母親は無条件に保護されるべきである」という共通の認識が本当にあるのならば、「気に入らない相手だから手助けしない」「態度がデカイ女だから手助けしない」「他人に親切にして失敗したくないから手助けしない」というような「条件付き」で「赤ちゃん連れの母親」を助ける/助けない、ということはないはずです。ですから、 蜷川実花さんのツイートからわかった日本をまとめてみましたのブックマークのコメントを見ていると、「手助けしない言い訳」のオンパレードなのですけど、これはとりも直さず日本には「赤ちゃん連れの母親は無条件に保護されるべきである」という共通認識がないことを表しているのであって、それならばこの日本いおいてはごく当たり前の反応だと思います。それが良いとか悪いとかではなく、とにかく「赤ちゃん連れの母親は無条件に保護されるべきである」という共通認識はない、のです。


で。
ツイートした蜷川実花さん、もし彼女が「赤ちゃん連れの母親は無条件に保護されるべきである」ということが共通認識として社会にあるような国に日本をしたいと思っているとしたら(私もそうなるとよいと心から思う一人ですが)、彼女が出来ることは、「そこのヒマそうな男子」に呼びかけることではないのでは?と私は思うのです。きっとその「ヒマそうな男子」はそれまでの人生において「赤ちゃん連れの母親」を手助けするオトナをただの一度も見たこともないだろうし、手助けすべきだと教わったことも考えたこともないでしょうから。呼びかけられて素直に手伝ってくれる男子もいるかもしれませんが、人生初めての経験(「バギー持ち上げるのを手伝ってくれる?」と見ず知らずの女性から頼まれる事)にビビる男子の方が多いような気がします。それにストレスを感じるくらいなら、日本を「赤ちゃん連れの母親は無条件に保護されるべきである」という意識の国に確実にする方法が他に二つ(私見による)あると思います。

その①
ご自身の息子を「いかなる場合でも赤ちゃん連れの母親を手助けするようなオトコに育てる」

その②
自分の子育てが終わったら、若い子育て中の母親たちを助ける

だと思うのですね。
①は単純です。一人一人の母親が、それぞれの息子をそう育てれば、早ければ数十年後、世の中は「赤ちゃん連れの母親」を助けてくれる若者ばかりの国になり、若い母親にとって住みやすい日本になっていることは間違いないでしょう、それまで日本という国が存続していれば、ですけどね。
名付けて、
産めよ増やせよ「赤ちゃん連れの女性を手助けする」ニッポン男児増産計画!

しかし。
②に関してなのですが、実は事は日本男児だけの問題ではなくて、実は母親と同性であるはずの女性側も問題もあると思います。話は大きく迂回しますが、大昔の私の体験談を書きます。

渋谷駅のハチ公口から山手線のホームに上がる階段でのこと。今と殆ど変わっていないと思いますが当時(20年前以上)はエレベーターやエスカレーターなんて駅にはなかったのですが、私が階段のところまで来た時、まさにガイジンの女性が左脇に赤ん坊を抱え右手に大きなバッグと折り畳んだバギーを抱えて、その短くはない階段を上がろうとしているところでした。周りには勿論背広姿の男性(日本男児)も大勢階段を上り下りしていたし、女性(大和撫子)もたくさんいました。そうなんです、私のように女性だって手助けできるはずなのです。だけど、周囲にいた大和撫子は日本男児同様誰一人彼女を手助けしようとはしなかったのでした、私を含めて。正直「どうしたらいいのか、わからなかった」というのが実際のところでしたけどね、幼稚な言い訳です。私自身、「赤ちゃん連れの母親は無条件に(ガイジンであっても)保護されるべきである」ということを、それまで一度も習ったこともなければ実例を見たこともなかったし、何より日本の社会でそういう雰囲気を感じたことがなかったから、というのは又しても言い訳になるでしょうか。そのガイジンの母親は両手に子どもと荷物&バギーを抱えたまま階段を登りきって、何事もなかったかのようにバギーを開いて赤ちゃんを乗せてホームを押していきました。で。私は猛烈に自分を恥じました。「自分を」です。外国で赤ちゃん連れて暮らしていて、誰も(男性女性を問わず)助けてくれないなんて、この国は一体どんな国なのか、住んでいてあの人は悲しくならないかしら?それを目の前で見ていて何もしなかった自分は何なのだろう?と自己嫌悪の嵐でした。それ以来今までずっと、私はバギーを押している女性がいたら、それが電車の乗り降りでも階段の上り下りでもドアを持ってあげておくことであれ、絶対に手伝うことにしています。もうあの二度と自己嫌悪を味わいたくないからなのですが。だから、逆に私が二人の子どもの子育て期間に、階段や電車やドアの入り口で誰かに助けてもらった経験がただの一度もないことは、余りストレスにはなりませんでした。だって何しろあのガイジンの女性は異国の日本でこの「赤ちゃん連れの女性が全く保護されない」状況を自力で切り抜けていたのですから、ニッポンジンの私は何のこれしき、っていう心境だったでしょうか。
そしてこれは私の友人の体験なのですが、彼女は或る時、1歳と3歳の子どもを連れて京王線沿線から東京を横断して浦安まで学生時代の友人宅を訪問しました。10年以上ぶりの再会だったそうです。行きはラッシュの時間を外して出かけたので、友人宅に着いたのは昼前。帰りもラッシュの時間を外して早目に出るつもりだったそうなのですが、話も弾んでまた子どもがいるといざ出発しようとしてもやれオムツややれトイレやらで余計に時間もかかって、新宿駅に着いた時には運悪く夕方のラッシュの時間に入ってしまっっていたそうです。疲れて眠ってしまった1歳児を抱っこしたまま、彼女は座るために1台電車をやり過ごしましたが、いざ乗るつもりの電車のドアが開いた時、3歳の子の手を引きバギーを持っていたため一瞬の隙を突かれて(?)出遅れてしまい、バギーを置くために座ろうとしてた端っこの席を後から乗りこんできた中年女性二人組に占領されてしまったそうです。仕方ないのでドアの近くにバギーを置いて赤ちゃんを抱っこし、かなり疲れている3歳児の手を引いて立ったそうなのですが・・・。「何が辛かったかと言って、10キロ以上ある下の子を抱っこして手が痺れてきたことよりも、目の前の椅子に座っているおばさん二人組のおしゃべりだったのよ。」とのこと。
曰く、
近頃の若い母親は紙オムツでラクをしてどこでも子どもを連れて遊びにいけるから羨ましい」
私たちが若かった頃には、母親は『遊びに行こう』なんて考えもしなかった」
「今の若い母親に連れ回される子どもが可哀想
・・・というのを延々と新宿と聖蹟桜ヶ丘の間でやられたのが、腹が立つより悲しかった、とのことでしたね。ホント!「子どもが可哀想」というのならば席くらい譲ってくれてもいいのに!実は彼女は数年前に、見つかった時には既に手遅れの乳癌で亡くなったのですけどね。先日やはり電車の中で幼児とバギーに乗せた赤ちゃん連れた若いママを見かけたときには、彼女のことが頭をよぎってしまいました、勿論今や堂々たる「子育て終わりかけのオバサン」である私は、「電車におけるバギーの乗り降りを当然の如く手伝う」アングロサクソンだかアーリア人か知りませんがそういうガイジンのオヤジや男子同様、その親子が電車を降りる時にバギーを抱える手助けをしたのでした。自らを恥じないため、という嘗て大昔に渋谷駅で感じた(やっとここで前述のエピソードに繋がった訳ですが)エゴな理由ではありますけれど。
つまり、私も含めて同性である女性だって「赤ちゃん連れの母親」を手助けすることはできる訳ですし、子育ての経験がある女性なら尚更「赤ちゃん連れの母親」の大変さを理解できるはずなのに、何故かわかりませんが同性の女性の方が「赤ちゃん連れの母親」フレンドリーではないのですね。どころか
「赤ちゃんを連れて出かけているあなたの自己責任(出た〜!!)でしょ。」
という目に見えない空気があるからこそ、しかもその空気は同性から、特に人生の先輩であるオバサンたちから発せられているからこそ、いつまで経っても赤ちゃん連れの母親にとっては寒々しい世の中が続いているのではないでしょうか?
蜷川さんが遭遇した状況は、私が20年前以上渋谷駅で出会った状況と変わっていないのですが、「つーかそこのヒマそうな男子」(蜷川さんのツイートから引用)たちだけではなく、彼らよりもずっと力がありそうな(?)オバサンや女子(「おばさんは『女子』じゃないの?」と突っ込まないでください)もオジサンや男子と同じく「赤ちゃん連れの母親」を助けるべき立場にいるのではないか、と私は思う訳で、そしてそれを蜷川さんご自身、何万人もフォロワーがいる蜷川さんだからこそ気付いて欲しかった、と思うのです。「つーかそこのヒマそうな男子」というフレーズがこの問題に関しては非常にマズかったと思います。これで「赤ちゃん連れの母親」に手を貸さない言い訳が日本男児にはますます出来てしまった気もしますしね。蜷川さんが望んでいらっしゃる社会と逆方向に行ってしまったかもしれません。有名な蜷川家の家訓をプリントアウトして娘に渡している私にとって、それは聊か残念なことだと思ったのでした。