「政権交代」した前回総選挙のボランティア経験から、今回の選挙について思うことなど


今から3年3ヶ月前、2009年8月末に行われた前回の衆議院選挙は、真夏の選挙でした。

もしあの夏が猛暑だった翌年2010年並みの暑さだったら、熱中症できっと選挙運動員死人が沢山出たことだと思います、本当に前年で良かったと思います。それでも真夏の選挙でしたから、各選挙事務所は一日中ギンギンに冷房を利かせて、街頭演説やらビラ配りから帰ってきた候補者をはじめボランティアや支持者の人々を迎えたのでしたが、それもこれも原発事故の前、節電の夏の前だったから出来たことでした。

というのは。
あの夏、縁あって私は某選挙事務所でボランティアをしておりました。信条に従って、というよりも知り合いのツテで頼まれて、ということだったのですが、私は選挙に大勝した民主党ではなしに、与党から滑り落ちた自民党の立候補者の事務所でボランティア、というよりは雑用一般をしつつ、選挙事務所の中からあの政権交代の選挙を見ることができたので、今振り返っているわけです。

あれは一種の熱病だった、と思います。民主党にせよ自民党にせよ、選挙運動期間中に有権者に懸命に政策を訴えた成果が「民主党大勝」という結果として出た、というものではなく、既に公示前に感染していたウィルスに日本中が集団発症して猖獗を極めたピークが投票日、という感がありました。

例えばビラ配り。選挙終盤になって猫の手も借りたい時期に、正に猫の手であった私ですが、それまでは事務所内で膨大な量のコピーをとったり、といった雑用をしていた私もかり出されて炎天下でビラ配りも致しました。よく駅前でティッシュを配っていたりしますが、貰ってもゴミになるだけなので受け取らないことに決めている私ではあるのですが、実際ビラ配りをして、受け取ってもらえないと正直ものすごく凹む、ということを体験して、今ではフレンドリーに受け取っているのですが、あの選挙の時は、自民党候補者のビラは受け取ってもらえないレベルではなく、こちらが自民党だとわかると私がビラを差し出してもその手を押しのけて歩き去られたり、不機嫌な顔で受け取ってすぐ先のゴミ箱にこれ見よがしに捨てられる、というような、信条のない私でも心が折れまくることばかりだったのです、あの夏は。敵意さえ感じることも再々でした。それどころか、「もう民主党に入れたから!」と勝ち誇ったように宣言されたこともありました(期日前投票だと思います)。決して、「ビラに書かれている政策を読んで判断しよう」という感じではありませんでしたね。
支援者に電話でお願い、というのもあります。選挙事務所には大量の名簿が持ち込まれます(猫の手であった私に、「どこから持ち込まれたのか」など聞かないでください)。大勢のボランティアが、その名簿を分担して記載されている番号に電話をかけて支持をお願いするのですが、普段セールスの電話がかかってくるとけんもほろろに切ってしまう私ですが、見ず知らずのお宅に電話をする、ということ自体が先ずかなりの精神力を要する作業であることを知りました。元々が支援者である方に電話をするので、「応援しています、頑張ってください!」と言われることも多いのですが、たまに自民党には絶対に入れない!」と電話を一方的に切られたりすると、これまた凹むのでありました。


要するに、あの選挙の時は、選挙公報などを熟読して「民主党マニフェストに賛成」というよりも、自民党が何を言おうが何を主張しようが、小泉政権から3人目の麻生首相の政策がどうであれ、自民党政権にお灸を据える」ということに、日本中が熱狂していたのではないか、国民が自らの力で自民党を政権党から引き摺り下ろすこと自体に快感を感じていたのではないか、と今になって思うのです。
だって、今はまさに攻守が転じただけの状況のように思えるからです。世論調査などでは、既に今回の選挙は「自民党大勝、民主党大敗」との予想が出ているようですが、「自民党政権の政策の方が良かった」(と言うならば、何故あの夏にそう思わなかったのか?)と信じるから自民党の支持が増えているのではなく、「『マニフェストに書かれた約束を破った』民主党は許せない!」から、なのではないでしょうか?2009年総選挙の時の民主党と、今の民主党を比べてみると、小沢氏のグループは離党し、政権交代時の鳩山首相も引退し、←このお二方がいるから民主党を敬遠していた私などから見ると、2009年の時よりは余程印象が良くなっているのですが。




その他、普通の有権者よりはほんの少しだけ近い距離で前回の選挙を見た経験からいくつか雑感。

12月4日の公示以降、テレビでも政見放送が流されていますが、テレビでは本当の候補者の姿はわからないのではないか、と思います。政見放送ではどの候補も、取ってつけたようなポーズやぎこちないジェスチャーなど(「ただ喋るだけでじゃなくて、アクションを入れてください。」と言われているのでしょうが)が目立って、投票したくなるどころか、黙ってテレビを消したくなるような有様ですが、政治家の真骨頂は実は街頭演説にあるのではないかと思います。ボランティアをしていた時に、何人もの国会議員の方の演説を生で聞きました。皆様、揃いも揃って演説が上手い!国会中継などでは、腕組みして居眠りしているような方でも、はたまた昼行灯のように見える方でも、群衆の前でマイクを握ると、現職国会議員の場合、例外無く皆様全身火の玉のような演説ですからね。ルックスや頭髪の有無など関係ありません。流石選挙を勝ち抜いた現職の国会議員、何党の候補者であっても群衆の心を虜にしてしまうのです。一方、新人や落選を繰り返している候補者の方々の演説は、前述の現職国会議員と聞きくらべると正直「足を止めて聞き入る」レベルでは到底ないわけで、選挙での当落の決め手はここにあるのではないかとさえ、思えます。人前で喋ることが多いであろう、例えば大企業の経営者、大学の先生でも、政治家先生方のあの演説のレベルとは全然違うと思います。あの火の玉演説ができるパワー、とにかくも政治への熱意がなければ、政治家にはなれないわけで、という意味で街頭演説は、候補者本人のパワーを体感できるものなのです。
しかし。
問題山積みの今の日本では、選挙で訴えることも多様化、複雑化しています。ところが、街頭演説とは、政策を丁寧に論理的に説明するには、全く向かないのです。集まった群衆の年齢構成や男女比は街宣車の上や壇上から見下ろしてぱっと見て判断できるかもしれませんが、眺め回しただけではわからない群衆の知的レベル、職業 などなど、どのあたりを念頭において喋ればいいのか、それはとても難しいのです。「自民党をぶっ壊す」「国民の生活が第一」「日本を取り戻す」などなど、キーワードを連呼して群衆に刷り込むことが、一番効果的だったりするのです。つまり、本来「演説が上手い」ということは、「演説の内容が素晴らしくそれを訴えるやり方も上手い」、ということでしたが、ここに来て問題だと思うのは、内容と訴え方が分離して、演説の内容よりも、演説のやり方が上手いか下手か、が「演説が上手い/下手」の全てになってしまっていることです。
別の言い方をすると、今の時代(特に小泉政権郵政選挙以来)の街頭演説とは、、アジってなんぼ、というか、群衆を惹き付けてなんぼ、になっているのではないか、極論すると、全般的な内容が立派な演説でも演説自体が下手だと人々は足も止めず、部分部分でキャッチーなフレーズがあれば、内容の整合性はどうあれ、人々は足を止めて演説を聞くのです。しかもアジテーションもキャッチフレーズも、「守る」よりも「攻撃する」方がボルテージは上がる、群衆にウケる、のです。例えば選挙の時の公約を100%実行する政権などあり得ないわけですから、次の選挙の時は「公約不履行」ということを攻撃されることは必定で、ということは、この傾向が続く限り、「守り」の与党は不利、「攻撃」の野党は有利で、選挙の度に与野党逆転が続くのではないでしょうか?っていうか、これが良くも悪くも「二大政党制」の本質かもしれませんが。




それから選挙事務所の下っ端ボランティアの目で見ても世襲」はフェアではないと思いましたね。安倍総裁をはじめ自民党世襲議員の方々が何と言おうと、世襲はやはり圧倒的に有利、なんです。「地盤・看板・鞄」とは良く言ったものです。これらを築き上げるのは、それは大変なのです。例え党から公認を貰ったとしても、世襲でない候補者は、秘書をはじめスタッフの人選から始まって、事務所をどこに置くか、備品はどこから借りてくるか、ボランティアはどうやって集めるか、等々そういった小さなことから始まる膨大な問題をゼロから決めていかなくてはなりません。新人候補だと、マニュアルもなければ前例もないので、いちいち大変なのです。世襲の方々は、それら全てに関して親が長年作り上げたシステムの中にすっぽり入ればよいのですからね。更にそれに加えて、本来はこれまた長い年月をかけなければ作れない「地盤・看板・鞄」というものまでを、見事な完成品として(それもバージョンアップされて)相続できるのですから。政治家の資質は、親が国会議員であろうがなかろうが関係ないわけですから、世襲の方でも(「でも」というのは適切ではないかもしれませんが)立派な国会議員が存在する、ということは否定しませんが、でも政治家としてのスタート時点で、「世襲」というのは如何にも有利、見過ごしてよいレベルを超えたアドバンテージを持っていることは事実だと思います。自民党には是非党則で「世襲の場合は、親の選挙区、比例ブロック以外の選挙区から立候補する」ということを決めてほしいものです、世襲でなく自力で国会議員になった同じ自民党員から「フェアじゃない」という批判がよく出ないものだと不思議なくらいです。



公示日の選挙事務所は、戦国時代の合戦前はこんな感じだったのかと思うような、「出陣」(何故選挙は「戦争」のボキャブラリーで語られるかも理解しましたが)を前にして、一種の高揚感で満たされます。「必勝」鉢巻き、ダルマ、まさにお祭りのように心地よいアナクロなお約束事で溢れています。党首や幹事長、派閥の大物の名前付きの墨で黒々と書かれた「必勝祈願」という激励の色紙が、事務所の壁一面に貼られます(やはり大物は達筆です)。同じ党に属する近隣の選挙区の候補者からも、その「必勝祈願」の色紙は送られてくるわけですが(ていうか、送り合いっこしている)、実は同志である近隣の選挙区の候補者こそ、小選挙区で落選して比例で復活をする場合の最大の「ライバル=敵」になるわけで、同党でありながら、近隣の候補者のことはあまり良くは言われません。ましてや、惜敗率で負けたりしたなら尚更。まあ前回の選挙では自民党小選挙区ではボロ負けで、大物でさえ比例復活でやっと、という感じでしたからね。それから他にボランティアをして知ったことでは、選挙になると何故か「あそこの票は私がとりまとめてやる」とか「◯◯さんをよく知っているから紹介してやる」という、「やるやる」オジサンが選挙事務所に何人もやってきて、若い女子大生のボランティアが出したお茶をすすりながら、何もしないで油を売っていること、ですか(はっきり言って邪魔)。不思議にオジサンばかりなのです、この人たち普段何やっているのか?仕事はどうしているのか?不思議でしたね。ボランティアにおしかけてくださるオバサンは、口も出しますが、気も利くしよく働きますから、やるやるオジサンとは全然違います。そして、「やるやる」オジサンの中で白眉なのが、地方議会の議員さんたち。市/区議会議員さんとか、県/都議会議員さんたちです。それぞれ自分の後援会の人たちを集めて集会を開き、立候補者を紹介してくれるわけですが、自分もしっかりマイクを握って「私が如何にこの候補者から頼りにされているか、私がどれだけこの候補者に恩義を売っているか」を上から目線で滔々と喋ったりするんですから。まあ、地方議会の議員さんが、国会議員に対して威張れるのもこういう時(選挙)の時しかないのでしょうから、同情に耐えませんが。しかも彼ら同士が、地方議会選挙ではライバルなわけですから、仲が悪いっていうか、同じ党なのにお互いが陰口言い合ってるんですよ。
前述の「世襲」の話に戻りますが、選挙にまつわるこういう全てのことに関して、世襲候補は出来上がっている環境の中にすっぽり入ればいいのですから、本当にラクだと思いますよ、特に人間関係に関して。けれども反面、ゼロから人間関係を作っていく醍醐味というか、おべんちゃらや打算や裏切りやらの中にも築かれていく信頼とか無償の献身とかを自分で経験することなく、するっとお手軽に国会議員になるのは、可哀想なのかもしれませんけどね。


来週は投票日。
選挙運動はこれから一週間が「最後の追い込み」でしょう。真夏の選挙も大変でしたが、真冬の選挙も大変だと思います。暴風雨/雪にみまわれている北国の選挙を支えているボランティアの方々に思いを馳せつつ。