「民の緑のカーテン」と「節電」の真実


宮殿の高台から民のかまどの煙の立ち具合を見て、民が困窮しているかどうかを気にされたのは、中国の皇帝だったか、本邦のいにしえの天皇だったか忘れましたが、2011年夏の日本において、もし民の家が立ち並ぶあたりやマンション群などご覧になってみれば、去年までは一般家庭ではあまり見られなかった、節電のためのゴーヤやフウセンカズラなどの緑のカーテンが窓を覆っている家が其処彼処にあることに気付かれて、この国の民が如何に真面目に「節電」に取り組み、尚かつ園芸に秀でた民が市井のあちこちにいることに感涙されるのではないでしょうか。

私は皇帝ではありませんが、マンションの5階の東南の窓から見える向かい側のマンションでも、そして北側の窓から見える隣のマンションでも、緑がさわさわと窓を覆っている住戸がいくつも見えます、そういう我が家は私が園芸下手なのでやっていないのですが・・・。しかし、エアコンがない家に暮らしたドイツでの経験から学んだ知恵(?)*1で、陽射しが照りつける方向の窓は寧ろ開けずにきっちりと閉めてカーテンも閉めています、そのカーテンの色は偶然緑色なのですけど、これは「緑のカーテン」ではありませんね。


さて今年の暑さの変遷を振り返ってみると

①6月末〜7月初旬の猛暑
(「まだ6月でこの暑さ」と思うとそれだけでくらくらしましたが)

②台風マーゴン後の涼しく梅雨のようなお天気の7月中旬
(涼しさを素直に喜べなかった*2

③最高気温が30℃に届かない消化不良のような暑さの7月下旬〜8月上旬
(「梅雨明けしていないじゃん」というのは娘の言。「昔の夏はこれくらいの暑さだったかも」とは私の言)

④そしてやってきた更なる猛暑の8月中旬


あと10歳若ければ(?)最後の一文に「 ←今ここ 」と入れたいところですが、午後2時室温30℃(推定)の部屋の中、理性の最後の一片を出動させました・・・。

我が家は高齢者がいるわけでも小さな子どもがいるわけでもないので、エアコンは点けておらず、扇風機はそもそも買っていないのでありませんし。扇風機も、一時期売り切れ続出で、震災直後のミネラルウォーターやお米やガソリンを彷彿させましたが、我が家のように昼間私一人の家庭が貴重な扇風機を確保することもあるまいと思い、買いませんでした。それに扇風機って出して使っている時も、秋になって収納する時もスゴく場所をとるんですよ、あれ。それと今回の節電に関して
「エアコンと扇風機を同時に使って上手に節電」
というのがあったんですが、私にはどうしてもそれが理解できません。だって一番節電になるのは、
「エアコンも扇風機も使わない」
で、二番目が
「扇風機だけ使う」
で三番目が
「エアコンだけ使う」

「扇風機もエアコンも使う」
って最悪電気を使うと思うんですが、ネット上にのっている説明読んでもわからないんですけど!扇風機がじゃんじゃん売れて、電気屋さんやメーカーは儲かったであろう、ということだけはわかりましたが。

そしてエアコンを「節電」したら、冷蔵庫はコンセント抜くわけにはいかないので、次に節電するべきはテレビだと思うのですね。震災直後の春の甲子園に関しては、中止すべきという意見も含めて、テレビ局や新聞社の対応に関して多少なりとも議論があったのですが、何故今回の夏の甲子園に関してもっと議論が高まらなかったのでしょうか?・・・と「?」を付けるまでもなく、それは今までは日本国民気付いていなかったけれども原発事故の副産物のこれまた副産物のような形で見えてきた、「情報操作」「反対意見封じ込め」というヤツなんですかね。春の甲子園の後援新聞社よりも、夏の甲子園の後援新聞社の方が影響力大ですし・・・。ラジオじゃダメなんですかね、ダメなんでしょうね、営業的に。

私は、アメリカのスーパーボウル(1月?2月?)やフランスのツール・ド・フランス(7月?)のように、甲子園が夏の風物詩として日本人の生活の中にある、ということは否定しませんし、それだけの歴史があると思います。しかし、今年の夏、もし日本中の家庭のテレビが必要最低限のニュースの時間以外全て消されることによって、例えば中小企業の工場が一律15%の節電をすることなく日中フル操業できるのならば、「テレビ消してもいい」「今年の甲子園はテレビで見なくてもいい」と思う人は、「民の緑のカーテンではありませんが、少なくないと思うのです。また大企業の工場でもこの夏は節電のため土日出勤となり、子どもを保育所に預けて働いている若い親御さんとか、工場の周りの商店・飲食店に皺寄せが来ているそうですが、それに関しても「昼間一般家庭ではテレビを切る」ことによっての節電で何とかならないのかと思ってしまいますね。更に「ピーク時一時間だけ冷蔵庫の電源も抜く」でもいいですよ、日本人ならば意識が高いのでやるんじゃないかと思います。午後2時から一時間だけ家電のスイッチを切るタイマー、なんてすぐに商品化されそうですけど。


とにかく、今年はテレビがついていない我が家では当然甲子園も見ていないのですが。
今日(9日)の朝日新聞の朝刊に、なでしこジャパンの澤選手が(「サムライジャパン」とは恥ずかしくて死んでも書けない私が「なでしこジャパン」と何の抵抗もなく書いてしまう!)、朝日新聞からして甲子園特設ページに「団結力」と題して一文を寄せています、そこからの引用:

不思議な感じがする。昔見たテレビの中の高校野球は、自分よりも年上の人がプレーするものだった。日本女子代表に選ばれるようになって今年で18年目。私が初めて代表入りしたころに生まれた子どもたちが、目の前でプレーしているなんて。

私もまさにこの気持ちですね。「年上の人」がプレーしていたのが、自分の同級生がプレーするようになり、年下になり、そして気がついたら自分の子どもと同い年の選手がプレーしており(だから選手のお母さんは私と同年代だったり更に若かったり)、そして下の子が大学生になってしまったら、何だか宙ぶらりんになってしまって・・・今度は自分の孫(!!!)の年になる選手を見る日がくるのでしょうか、くわばら、くわばら。
という訳で、テレビを点けて熱戦を応援するのは、今活躍中の選手の周りの人々、選手の家族や親戚や友達や先輩後輩や地域の人々にお任せすることに勝手にしまして、毎年甲子園の間はテレビの野球中継が夏のBGMのように流れていたのですが、今年は勿論電力消費のピーク時間とも重なるわけですし、テレビを消して、蝉時雨がマンションの谷間から聞こえる静かな夏の午後・・・と言いたいところですが、暑い〜〜〜!!!
今我が家で電気のメーターを回しているものは冷蔵庫だけだと思われます。PCは?このPCはノートブックなので、電源に繋がずバッテリーで動いています、膝の上に直接置くと、カイロ抱えているみたいに熱くなるので、膝にクッションを置いてその上にMacbookに乗っていただいておりますが。
もっと徹底しようと思うならば、「家中のコンセント全部抜く」とかやるのでしょうが、そこまで東京電力困っていないみたいですし、面倒くさがりの私ならコンセント抜くよりも「ブレーカーを冷蔵庫以外落とす」方が向いていると思いますが、まだそれはやっていません。



さて。
この頭も朦朧とするような暑さの中、エアコンも点けずにさもストイックに生活している私ですが、夕方7時頃からリビングはエアコンがんがんに点けてますし、夜は途中でタイマー切れて暑くて目が覚めるのが嫌なのでタイマーもかけずにエアコン朝まで点けてます。これに関して私は何の罪悪感もないエピキュリアン(←たかが冷房如きで)です。寧ろ、今年の夏の最初の猛暑(上記①)の時に、お年寄りがエアコンを点けない部屋で熱中症で亡くなる事故が相次いだ時に、それは暑い日中にエアコンを点けていなくていきなりお亡くなりになったのではなく、夜間の長時間の高温と脱水症状によって翌日に亡くなっていらっしゃることが多いのですが、それなのにそういった報道の最後に
「部屋にはエアコンがありましたがスイッチは入っていませんでした」
と思わせぶりにコメントが入るのを腹立たしく思っていました。オフィスや工場で電気を使っていない夜は、各家庭に於いては昼間のピーク時ほど節電しなくてもよいのですから。そもそも、熱中症にかかる人々の中で、猛暑の屋外で活動していてかかった人数と、屋内で「エアコンを点けていなかったことによってかかってしまった」人数と、ちゃんと分けて数字が出ていません。その数字を出して「節電が原因」でエアコンが点いていなかったのか、元々エアコンがない困窮した世帯だったのか(それならば原因は「節電」ではない訳で)、エアコンはあっても認知症などで自分でスイッチを入れられなかったのか、という各々のケースを分けて示した上で言うのならばともかく、それは曖昧にしたまま、
原発を無くしてしまうとこれからもっと熱中症で亡くなるお年寄りが増える」
と言わんばかりの報道は酷いと思います。そんな報道をするくらいなら、
夜はエアコンがんがんに点けても非国民じゃない!
ということを何故はっきりと言わないのでしょう?振り込め詐欺に関してはあれだけ警告がなされているのに(それでも高額のお金を「息子」と信じる電話相手に振り込む人がいるのには正直驚きますが)、お金よりも大事な命に関して「夜間は今まで通り電気を使っても大丈夫」と何故積極的に周知させないのでしょう?まあ夏前に「節電キャンペーン」が始まった頃は、
原発がなくなったら、電気が足りなくなってこうして弱いお年寄りが死んでしまうのだ」
という、どこがやらせているのかは後に明々白々な間違った言質がまかり通っていた頃ですからね。これって各電力会社のやらせメールや原子力発電所説明会の会場の穴埋めよりも質が悪いですよね、お年寄りを口実に使っている分。
我々日本人が真面目な民であることを逆手にとって、
「どこまで節電が必要なのか?」
「何を我慢すれが何が得られるのか?」
ということを曖昧にしたままで「節電」を強要しているような気がしてなりません。

さて、この「節電」について以下の私の理解は間違っていますでしょうか?


私の理解その①:「電気が足りない」ことを心配しなくてはならないのは「ピーク時」のみ。大口使用者である工場も動いていない(電気を使っていない)夜中にちまちま節電しても何の役にも立たない。

ストイックに節電するのは「ピーク時」のみでいいのではないでしょうか?朝の満員電車も午前中のオフィスも夜の残業時も、各家庭での熱帯夜の冷房も、ここまで節電する必要があるのでしょうか?もし原発を全部止めることにしたらどれだけ電力が足りなくなってどれだけの節電が必要か、ということをちゃんと示してほしいです。今だって、「一律15%節電」というのは何の根拠があるのかわかりません。しかも東京電力原発17基のうち動いているのは僅かに3基なんですよ、そして更に昨日(8日)は東京電力から東北電力に二度に渡って電力を融通しているというではありませんか。この状態でこの猛暑のピーク時にブラックアウトせずになんとかやっていますよね。「原発がなければ電力が逼迫して今の暮らしができなくなる」という不安は作られたものだったのではないかと思ってしまいます。
勿論、今回の「節電」は私たち日本人の暮らし、もっと大袈裟にいうと文明を見直すという意味では本当に良い機会になったと思います、余りに大きな犠牲を払って気づかされたことですが。大体、去年までがクレージーだったのです、日本人。
去年などは特に「記録的猛暑」だったのに、サラリーマンは真夏でもスーツにネクタイ。それは「取引先に失礼である」という日本人独特の気配りからだったのですが、それにしても最高気温が35℃を超える日に、ビジネススーツの素材は大抵サマーウール、ウールって羊毛ですよね、ウールのスーツに長袖のワイシャツ(「半袖だと軽い感じになっていやだ」と夫は言っていましたが)で会社に行って仕事するものですから、電車もオフィスもサラリーマンが集うお店も皆ぎんぎんに冷房。同じオフィスで働く女子社員は猛暑の夏に「冷え性で体調不良になるという状態。
奥様方も負けてはいませんでした。デパートのお買い物でもレストランのランチでも、いくらデコルテを出したお召し物を身にまとっても「羽織りもの」は必携。中には「膝掛け」を持参する方も。塾や予備校で勉強する受験生も皆真夏に長袖のパーカーを持参。
それが今年は、「クール・ビズ」を遥かに超えて「スーパー・クールビズ」ですよ。あの「ワイシャツは夏でも長袖」党だった夫が、やっと日本の夏の気温に合った服装であるポロシャツにチノパンで出勤しています、大事な相手に会う時には、空気を読んで「ノーネクタイでスーツ」という「クール・ビズ」にドレスアップ(?)して出勤する、典型的日本のサラリーマンですが。
そして今年はデパートでもレストランでも確かに室温は上がっていて、「身体が冷えきってしまった」ということはなくなって、やっとマトモになったとは言えるでしょう。

駅の照明もそうでした。もう3ヶ月ほど前に京大の佐藤卓巳教授が日経新聞に書いていたのですが(以下引用)

先月、新幹線で東京に着いたとき、節電中の駅構内で思わずつぶやいた。東京駅がまるでヨーロッパのようだ、と。高度経済成長を終えた社会の首都にしては、これまでの照明こそ過剰だったのではないか。薄明かりの中で静かに流れる人の波に文明の輝きに欠けていた文化の温もりを感じたような気がした。

とありました。本当にその通りで、ヨーロッパの鉄道の駅はどこでも、例えばベルリンのツォー(動物園)駅でも、パリ北駅でも、ミラノ中央駅でもマンチェスターのヴィクトリア駅も(私は「イギリスはヨーロッパではない」と思っているのですが一応)、照明はもっともっと少なく、日本の感覚だと「薄暗い」と感じるほどです。「あ、この駅明るい」と感じる駅でも、それはびっしり並べられた蛍光灯(佐藤教授の言を借りると「文化の温もりに欠ける」ものですが)によってもたらされているのではなく、高い天井から降り注ぐ自然光を利用したものであったりするのです。とすると、前述の、高齢者が節電のせいで熱中症になって云々というのと同様、駅が暗くなったことで
「電気が足りなくなって駅構内の節電が続くと、目が不自由な人が安心して駅を歩けない」
という言質も、障害者の方を利用していて「原発がないことによる電力不足」の不安を煽っていて本当に胸が悪くなるのですが、問題なのは「電気が足りない」」ことではなく、駅の設計上の問題(自然光を利用することを考えていなかった設計ミス)であり、また「蛍光灯をあかあかと点ければよい」ということではなく、「目が不自由な人を安全に誘導するシステム」の問題なのだと思いますけどね。

本来の日本の気候に合ったドレスコードにして、冷房の設定温度を上げ、また新興国ばりの蛍光灯ぎんぎんの照明をやめて「陰影礼賛」谷崎潤一郎のこれを今読み返すことは意味がありそうです)的な美意識を持った照明の駅や公共施設に変えて、それで原発数基分の電力に相当するのならば、今年だけでなく来年もその先も民は喜んでやるのではないでしょうか。第二の「福島」を起こさないためならば。


そうして全体の電力需要を押さえた上で、「ピーク時」だけクリアすればよいのでしょう?例えば、お年寄りや赤ちゃんのいる家庭は最高気温が30℃を超える日は原則一日中エアコンを点けていて構わないけれども、もしどうしても「節電」に協力したいと思って下さるなら「ピーク時」の一時間だけエアコンを切ってもらって「ピーク時」が過ぎればエアコンを点けても大丈夫です、と周知する、とか、その他の家庭では冷蔵庫以外の家電は「ピーク時」だけは切ってください(テレビの消費電力が大きいと思うので)、とか。扇風機を買わせて「節電」よりずっといいと思いますけど。子どもたちにも、その「ピーク時」だけは、テレビもゲームもやめて、のんびりお昼寝するとか本を読むとかするようにさせる、勿論「何故そうしなければならないのか」ということを子どもにちゃんと説明することが大事ですが、それはいい機会だとも思いますね。

「ピーク時」だけが問題である、という私の理解が大間違いだったとしたら、上に書いたことは全て撤回させて頂きますが、本当のところどうなんでしょう?




・私の理解その②:放射能被害を受けている人々への賠償を、東電にしっかりやって貰うためには、「東電憎し」であるかのように電気料金を切り詰めるのではなく、寧ろ電力供給量ぎりぎりまで(ブラックアウトしない一歩手前まで)電気を使ってあげて電気料金を東電に払ってあげるべきなのではないか?

東電の賠償スキームがどうであれ、東電には放射能被害を受けている被害者に対して十分に賠償して貰わなければなりません。更に一方で、一度破綻させて「新生・東京電力」であれ、今のまま生き延びた形であれ、これからも首都圏の電力供給を担うのは東京電力という会社なのであり、その会社に対して「親の仇」みたいに電気料金を払うのを渋るというのは、何か違うと思うのです。東電は資産を売却しているようですが、当たり前のことですが、資産の売却は一度きりで売ってしまえば次はないわけで、この先何十年かかるかわからない賠償、原発事故の対応に関して、原資は私たちが払う電気料金しかないのではないでしょうか。また、原発事故が起こったからこそ、優秀な未来の原子力技術者にこれからも東京電力の社員として働いてもらいたいわけで、東京電力には企業として踏ん張ってもらうしかありません。つまり普通に生活している中で電気を使ってその電気の料金を払うのは当然であり、その電気料金に、原発事故の補償のための費用、原発廃炉のための費用、海外からの燃料調達の費用、そして優秀な人材を集めるための費用が上乗せされていても、電力界社が各個人では選べない今のシステムでは(←これを変えてほしいと願いますが)、払うしかないでしょう、否、電気の受益者として払う義務があるのではないかと思います。だから、テレビ局の街頭インタビューなんかで、
「電気料金値上げは困る/許せない/払いたくない」
東京電力には一切お金を払いたくない」
という意見を見ると、驚いてしまいます。しかし或るインタビューで子連れの若い女性が、
原発を全部止めると、試算では一家庭あたり2500円電気料金が上がりますけどどう思いますか?」
という、インタビューアーが見え見えの予想される答(「それは許せません/困ります」等)を期待して投げかけた質問に対して、
「今放射能汚染で福島の方々がこんなに困っているのを見ると、原発事故が起こらない安心料と思えば、一ヶ月2500円は高くないと思う」
と返していたのには拍手を送りましたが。






3.11以降、余りに多くの「今まで経験したことがない事象」が起こってしまい、一つを咀嚼する前に次のことが起こるので、私たち個人の対応一つ一つにどんな意味があるのか、何を目的にやっているのか、わからなくなります。放射能に対する対応はちょっとおいておいて、「節電」のみに絞って考えれば、

「節電」は何のためにやっているのでしょうか?

政府が「節電」というから、とにかく「節電」に熱中していたりしないでしょうか?

今までの電気をふんだんに使っていた暮らしを反省して節電するのでしょうか?

自分の「電気の無駄遣い分」を「節電」して、福島原発が事故で供給できなくなっている分の電気をまかない、その分を鉄道や公共機関の電力を確保したり、工場を動かしたり、というより大事な目的のために使ってもらうためなのでしょうか?

「節電」の効果によって、「原発がなくても(今東電の原発で動いているのは17基中僅かに3基)、この社会はやっていける」ことを証明するためなのでしょうか?


こうやって書いてくると、
「今まで原発を推進してきて、これからも原発は必要だと思っている人々」にとっては、民の節電がこの夏成功するのは、あまり歓迎すべきことではない、
というのがわかってきます。彼らにとっては、電気が足りなくなり、民が不安を募らせ、「やっぱり原発が必要」となってくれることこそ、理想の環境でしょう。だからこその、熱中症報道であり、何の議論もない甲子園のテレビ中継であり、夜間や早朝の電気の使い惜しみ、なのでは?・・・とは、朦朧とする暑さの中ですら、見えてきたことかもしれません。



もうすぐ辞めるという管総理大臣も、与党の一員でありながら現内閣を支持しなかったり放り出したりする未来の総理大臣候補者も、政争に明け暮れていないで、いやしくも政治家ならば、永田町のビルの中にいたらならば絶対に見られない「民の緑のカーテンを、炎暑の太陽の下に立ってその目で実際に見てほしい、・・・と思う、来週はもう終戦の日