楽観と悲観と  復興と原発事故に関して

今年の4月は例年より気温が低い日が多くて、そうでなくても「春爛漫」という気分になれなかった毎日だったのですが、時折、

東北の復興、日本の復興は大丈夫なんじゃない?

と根拠もなく楽観的に思えることがあります。いえ、根拠がない訳ではありません。寧ろ根拠なら有りすぎるほどで、それは

・消防隊員、警察官、そして自衛隊員が震災直後から現地で困難な救助活動を懸命に行っている姿*1

・やはり地震直後、“Operation “Tomodachi”(「トモダチ」作戦)として、いち早く支援に動いてくれた18000人のアメリカ軍兵士の姿*2

・そして海外から「日本はスゴい」という報道をされた被災者の人々の振る舞い。それは何かというと、「略奪が起こらなかった」「食べ物や水を貰うのにも整然と列を作って辛抱強く待つ」「避難している人たちが、騒いだりパニックにならずに秩序だって行動している」という、日本人ならばごく当たり前のことだったのですけど。ハリケーンカトリーナアメリカ南部を襲った時、「これがアメリカか?」という混乱の極みの避難所の映像を見たことがありますが*3、同じ避難民でもそれとは全く異なる「日本の避難民」を見た世界中の人々が驚き、それが称賛になったのだといいます。この大災害の直後ではあったのですが、日本人なら誰でも誇らしく感じたのではないでしょうか。

・何より、被災者の方々自身が、あれだけの災害に遭っていながら、取材のカメラに向かって「命が助かったからありがたい」「連絡がとれない遠くの親戚に無事と『心配しないで』と伝えたい」「ボランティアの炊き出しの温かいお味噌汁がありがたい」「またゼロから必ずやり直してみせる」と落ち着いて語る姿。避難所の中でも町内会や地域の人たちが助け合い、前向きに話し合っていること。「早く友達と遊びたい」「早く勉強したい」と話す子どもたちの顔。

・驚くべき早さで驚くべき金額が集まった募金。国民的宗教がある訳でない日本で、誰かがリーダーシップをとって募ったわけではないのに、瞬く間に集まった募金は、日本人それぞれが同じ思いだったのだと思います、そして時代の先端を行く企業のトップが何人も私財から巨額の募金をし、企業が得意分野を生かし、それぞれがそれぞれの工夫をして迅速にボランティアを始めたこと。

・また一般のボランティア活動も素早く素晴らしいものであったこと(現在進行中ですが)。津波によって滅茶滅茶になった家の中を片付けたり、ずっしり重く積もった泥をスコップで取り除いている高校生ボランティア。そしてこれが本当に「日本人ならでは」のきめの細かいボランティアの数々。理容師さんたちによる避難所での「無料で散髪」、お風呂もシャワーもない避難所での「足湯」のボランティア、被災者から洗濯物を預かって洗濯して返すボランティア、等々。これは「痒いところに手が届くサービス」「おもてなしの心」「お客様の立場にたって」という、ここ20年近く不況下での企業努力や日本人の価値観の積み重ねなしには(世界中どこに行ってもこんなサービスは平時でもありません!)あり得なかったことだと思います。


これだけ日本中の人々がそれぞれ「復興」に向けて動いているのを日々感じて、それで私は思ってしまうのです、

この日本人の力を集めれば、東北の復興、日本の復興は大丈夫なんじゃない?



ただ一点、




福島原発の事故さえなければ!





復興のための皆の頑張りをチャラ、否、マイナスにしてしまうような福島原発の事故がなければ!




とは思いませんか?「もし〜でなかったら?」という仮定は、所謂英文法の「仮定法過去」=現在の事実と反対のことを表す、ですけど。マグニチュード9を超える大地震と「1000年に一度の」津波に遭っても尚、これだけの力が集まっている日本なら、復興の財源も何とかなって、皆で助け合ってまた再び前の日本に戻れる、という楽観的気分がしてきませんか、


もし原発事故さえ起こってなければ!


・・・ということは、実際は原発事故のために、復興へ立ち上がろうとしている多くの人のやる気とそれを応援しようとしている多くの人の善意が足を引っ張られている、それもかなり、ということなのですが。
本当に思いませんか?実は地震津波」と「原発事故」は本来別物なんですよ!日本は今まで、明治以前の大きな地震も、関東大震災も、阪神大震災も克服してきて、今日の繁栄(3.11以前)があったわけですが。
菅総理大臣の

戦後の焼け野原から日本が復興したように、また今回の震災からも立ち上がろう

という、記者会見(4月12日)におけるスピーチ※もありましたが、関東大震災も戦後の焼け野原も、そして最近では阪神大震災においても、原発事故はなかった!のです、だから日本人が持つ「頑張り」だけで、復興できたのです。


※どうしてもここで突っ込みたいのですが、菅総理は「戦後の焼け野原」という言葉を誰に向かって言っているのか?1946年生まれの菅総理が「焼け野原」を見た記憶は当然無いとして、「焼け野原」を実際に見た世代は、はっきり言ってこれからの復興を担う世代ではないのです。どころか、高度成長期に原発を推進し、容認してきた世代、これからも年金だけは、今回の震災とは関係なしに受給される世代なのです。どう考えても、意味のないスピーチだったのではないかと思いました。



地震津波は、備える側の人間にも問題があったとはいえ、「天災」で致し方ないところもありますが、
もし今回原発事故が起こらなかったとしたら?
地震津波を耐え、電源を喪失することもなく、原子炉と使用済み燃料を確実に冷却し続けていられたとしたら?
水素爆発を起こして無惨な建屋の姿を全世界に晒すこともなく(1~4号基の建屋のあの映像を見れば、世界中の人が、"日本はcatastrophe"だと思って当然ですよ)、







放射性物質を空中にも海中にも放出することがなかったとしたら(何故日本から遠く離れたドイツ気象局がこういう分析*4を公表していて、我が国ではなされない?)?







もし地震津波だけならば、余震さえ収まれば、復興は、勿論困難を伴うことではあってもごくごく「シンプル」だったと思います、皆が助け合い、我慢して、頑張ればよいことですから、そしてそれは日本人にとっては、慣れ親しんだ振る舞いでもありますし。
そのうち、外国人観光客も沢山日本に戻ってきたでしょうし、「安全で美味しい農産物」ということをPRしてやっと海外に販路が開けかけていた日本産農産物は、今原発事故の影響で中国やインドをはじめとした国で輸入禁止やキャンセルの憂き目に遭っていますが、もし地震だけで原発事故がなければ同情や援助の気持ちが上乗せされて寧ろ輸出量が増えていたかもしれません。
原発のある地域だけでなく首都圏に住む妊婦さんや若い母親たちが、水や食べ物や空気の心配をして毎日を過ごす事も全くなかったでしょう。
地震の被害には遭っても津波の被害は免れた福島県の内陸部に住む子どもたちが、運動場や公園で遊べない異常な事態にはなっていなかったでしょう。
「節電」自体はよいことかもしれませんが、不況に追い打ちをかけるような計画停電や、高齢の方々が多い昨今、各駅でエレベーターは動いているけれどもエスカレーターは休止、とか、電気という文明の賜物は本来はそういった方々のためにあるのに、それが電力不足で損なわれることもなかったでしょう。
何より、福島県の人々が、地震津波以外でここまで(単に「フクシマ」という名前だけで)被害を蒙ることはなかったでしょう(本当は福島県の人々だけの問題ではなくて、福島県以外に住む日本人も、世界の中で見れば同じ事なのですが)。





さて、その原発事故ですが。
私は地震後3週間近く、テレビのニュースだけでは情報に飽き足らず、Ustreamに張り付いて、東京電力の会見と、原子力保安院の会見を殆どリアルタイムで見ていました。今も4基の原子炉の現状だけは毎日詳しくチェックしています。そのUstreamの中継で、マイクを握って国民に説明する東京電力関係者、原子力保安員の人々を沢山見ました、彼らの国民に対する説明の言葉も沢山聞きました。それぞれ家族もいる身だとは思いますが*5、なべて言えることは、
危機的状況の当事者でありながら、どうしてこの人たちは揃いも揃って「当事者意識」というものがないのだろう?
ということでした。ご当人方は、「真摯な説明」と言うかもしれませんが、私と同様に深夜Ustreamに張り付いている大勢の視聴者である国民が知りたいこと、については絶対にはっきりとは言わないのです。「後で責任問題になる言質はとらせない」という縛りが集団にかかっているのではないか、と疑わざるをえない、曖昧な表現「調べていないからはっきりとはお答えできない」「認識していない」「確認していない」等々なのですね。というのは、全く同じことについて国民に説明していた、NHKの水野解説委員と山崎記者の伝え方と比べてみれば一目瞭然です。このNHK科学文化部の二人は、私が知りたいことを簡潔に必要十分な形で報道してくれました。だけではなく、無駄な言葉はないものの、報道する側でありながら、このかつてない危機を、画面のこちら側の私たちと共有しているというか、視聴者と共に恐れ、心配し、だからこそ当事者である東京電力に最善の措置をとってほしい、という祈りのような気迫さえ感じさせる報道だったと思います。少なくとも彼らは、数多出てきた「原子力がご専門の◯◯大学教授」連のような、気休めのキレイごとは言いませんでしたから。

東京電力の会見に出てきた人たちは、会長、社長、副社長は勿論のこと、ホワイトボードの前で肩を寄せ合って座っていた人たちに至るまで、「エリート」だったと思います。私は「エリート」を否定するものではありません、寧ろ必要な存在だと思っています。でも、「エリート」だからこそ、自社の原発で事故が起こるという未曾有の時に、最低限「当事者意識」を持って説明し、リーダーはリーダーとして現場を引っ張って頂かないと!!!リーダーたるべき社長が事故からそう日が経たないうちにダウンして入院、というのは「想定外」とも言うべき失態中の失態ですよ。リーダーには、先ず「力強さ」「タフさ」が必要であることは自明のことですが、これが意味するのは、肉体的な「力強さ」「タフさ」を備えていることは当たり前で、それに加えて難局の舵取りをする精神的な「力強さ」であり「タフさ」が求められているということで、「ダウンして入院」というのは問題外です。
社長は22日に福島県庁を訪れて知事に謝罪した後、避難所を訪問して被災者に対して直接謝罪の言葉を述べ、土下座に近いことをした場面

もあったとのことですが、これもリーダー失格、ではないでしょうか?もっと早く行くべきだったか、ということでは全然なくて、私の意見は「リーダーたる社長は行くべきではなかった」「リーダーが土下座まがいのことをしている姿を社員に見せるべきではない」です。東電単独で37000人, 関係会社・協力会社の社員を含めれば100000人を超えるかもしれない、従業員、及びその家族の気持ちを考えたら、リーダーとしてとるべき行動であったかどうか?しかも社長一人では到底全部の避難所を回って、避難している人々全員の声を聞くことなど無理なのですから、そういうことは、6人もいる副社長以下役員(常務9人、取締役3人)に任せて、真に「当事者」のリーダーとしての行い方、振る舞い方があったと思うのですね、後知恵ですけど。
それは社長本人が、事故の当日でも翌日でもすぐに東京電力福島第一原子力発電所に駆けつけるべきであった、ということ。自らが線量計を持って、必要ならば白い防御服に長靴履いて、少しでも現場に近いところで事故の実態を把握すること。危険な作業に携わる社員、協力会社社員に対して、彼らがやることの意味と意義を伝えて、リーダーである社長自らが自らの言葉によって重大且つ危険な任務に就く社員を鼓舞すること。当然のことながら、彼らの待遇、装備、作業環境、休息の取り方についても把握し、十分報いる措置をとること。そしてそれを東京本店での対策会議に生かし、社員と政府と国民に自らが先頭に立って説明すること。だったんじゃないかと。避難所で土下座するのは、全てが収まった時か、辞任後にして頂きたいと思いました(もしかしたら、全てを放り出して辞任する心積もりなのでしょうか?)。福島原発地震の翌日駆けつけるべきなのは、全社員を引っ張る社長であって総理大臣ではないはずです。

追記:今日(4月25日)、安藤警察庁長官福島県双葉町原発から僅か4,5km地点)を捜索する警察官らを視察し、彼らを激励していました(救助・捜索にあたる現場を視察するのはこれが初めてではないらしいです)。警察官は勿論、安藤長官も防護服に身を包んでの活動でした。

行方不明者のご家族のご心情を察すれば、警察は全力を挙げて捜索をしなければならない。どうか強い使命感を持って、日本警察を代表して捜索に励んでほしい。

とは、厳しい任務に就く警官への激励の言葉です。
また同行の記者に対しては、

手つかずの状態の5キロ圏内の光景を見ると全く言葉が出ない。

と語っていました。これこそが組織のリーダーの在るべき姿ではないかと思ったことでした。



リーダーが不在なのが、当事者である東京電力だけではなくて、日本政府においても、というところが、日本の真のcatastopheなのですけど。



3月11日地震のあった午後、私はNHK参議院予算委員会の中継を見るともなく見ていました。まさにその時に、例の今ではすっかり聞き慣れてしまった
緊急地震速報」の警報音が鳴り響き、その後すぐにあの長い長い横揺れが始まったのでしたが、先週の月曜日(18日)にも、参議院予算委員会が中継されていました。菅総理大臣をはじめとして全閣僚(プラス参考人として東電の清水社長)が出席していたのですが、改めて


こういう面子(失礼、閣僚の方々のことです)が、今この危機的状況の日本のリーダーだとしたら、余りにも寒々しく余りにも残念である

という景色と、答弁でした。

国民がこの政権を選んだ(2009年夏)のですけどね。そして、地震当日と同じく(その時答弁していた、「パチンコ店を経営する在日韓国人から献金を受けていた問題」は地震と共にうやむやになったのですが・・・前原前外務大臣は辞任したのに。)、我らが日本国総理大臣である菅直人氏が答弁に立っていたのですが・・・。
嘗て、小泉総理大臣(当時)に論戦を挑んでいた頃や、最近では麻生総理大臣(当時)に同じく予算委員会で粘着的に質問していた頃の菅氏の方が、余程生彩を放っていたと思います、質問した内容がそのまま自身にブーメランのように返ってくることが多い方(「(年金)未納三兄弟」等々)なのですけどね。これが同じ人物かと疑ってしまうような、紋切り型の答弁、自分のレトリックではなくペーパーを読み上げるだけの答弁なのです。言葉遣いまで官僚的になってしまっていて、私自身は支持しない政党の支持しない総理大臣であっても、なにがしかの悲しさを感じてしまうのです。「日本のリーダー」、特に今この非常時においての「国のリーダー」としての信頼感も湧いてこなければ、何よりご本人から何の気概も迫力も感じられないからです。総理大臣の地位、とは、熱気に溢れていた嘗ての「学生運動家、市民運動家」(Wikipediaによる)を、かくも俗物に変えてしまうものなのでしょうか?国民の大半が「政府は原発事故の情報を隠蔽している」と疑っている当の総理大臣である菅氏は、薬害エイズ問題の時に「情報公開」の必要性を叫んで厚生省(当時)が隠していたファイルを出させて国民から喝采された厚生大臣と同じ人物なのでしょうか?

確かに以前からフットワークは軽い、というか、まさに「軽い」のですけど、加えてそれを演出しているところもあるような、例えばO157騒動の時も記者会見でカイワレ大根のサラダを食べてみせたり、吉野家のカウンターで牛丼を食べてみせたり





党代表を辞任した後お遍路さんをやってみせたり。

こういったいわゆる「パフォーマンス」の「形」がお好きなのかもしれませんが、「形」と言えば基本中の基本、「国家のリーダーである総理大臣」としての見てくれの「形」にもっとこだわってほしいものです。この時代、目で見える「形」は大事ですし、その「形」の中に「本質」があったりするので。例えば、「野党のリーダー」ならまだしも、「国家のリーダー」というのは、未曾有の災害と危機に国家が瀕している時に、というか瀕している時でも、否、瀕している時だからこそ、作業服のような青いジャンパーで記者会見をしたり、その格好で後先考えずに事故直後の原発に出かけたりしてはいけないのです、というか、これ(青いジャンパーで原発視察)こそが、お得意のパフォーマンスでしかなく、それは国家のリーダーとしては相応しくないことなのですけど。
知事や市長、町長、村長のように、自治体の最前線にいる方は、自然青ジャンパーでも茶ジャンパーでも訳わかんない緑のジャンパーでも




構わないと思います。





でも一国のリーダーの青のジャンパー姿は頂けません。例えば、現在の世界各国の首脳、オバマ大統領でもキャメロン英首相でもサルコジ仏大統領でもベルルスコーニ伊首相(まだ首相やっているんですね!この方)、誰でもよいので、あの青いジャンパーを着たところをイメージしてみてくださいな(私の脳内では、何故かプーチン露首相がイメージされて、プーチン首相in 青いジャンパー。それはそれでコワい)。品格と信頼度の下がりっぷり、は国益を損ねるなんてものではないくらい大きくありませんか?長身185cm(推定)のオバマ大統領でさえ短足に見え、彼の知性を吹き消すだけでなく、「アメリカ」という国に対する信頼も急降下させてしまう青いジャンパーですし、家柄抜群イートン校→オックスフォード大学出身の高貴な面立ちのキャメロン英首相がお召しになっても、どう見ても階級を4つか5つ下に格下げされてしまう見栄えというだけでなく、「とうとうイギリスも来るところまできたのね」と思わせるものなのですね、他の方々は尚更ではないでしょうか?つまり国民のリーダーとしての品格と信頼感は即ち国益に繋がる訳で、緊急時でもそれを計算できないことが問題なのです、この青いジャンパー、特に上下で着た場合。







閣僚も皆、着て/着せられていますよね。皆、これを着ないと有権者に後で非難されるかもしれないので、我慢して着ている感じありあり、特に蓮舫大臣。


「形」というか「構え」は重要です。特に画像も動画も世界中に瞬時に配信され、永久にクラウドの中に残るこの時代は。
私が菅首相なら、というのもおこがましいので、菅首相のスタイリスト兼アドバイザーなら(それも更にありえない仮定ですが)、青ジャンパーではなく以下のような「非常時における国家のリーダー」としての格好、特に奇をてらったものではありませんが、を勧めます。


濃紺若しくは鉄紺のスーツ(勿論政治家先生がお好きな派手なストライプではなく、無地)、白いワイシャツ、そして地震津波で亡くなった方に対する喪の気持ちを表すために、黒のネクタイ、



ですね。インテル・ミラノでプレーする長友選手が喪章をつけてプレーしていたように。






そうして日本のリーダーとしてやるべきことは、何のための国務大臣なのかを考えて(陣容が貧相であることは仕方ないのですが)、自らが任命した大臣にそれぞれの仕事をさせてそれを統括することであり、もう一つ国家のリーダーの重要な役目は、日本を代表して、世界に向けて説明すると同時に、危機的状況の中にあるからこそ最大限日本の国益を守ることでは?と思うのですね。

青いジャンパー&ズボンで記者会見に出たり早足で歩き回る姿を世界中に見せることではなく、沈着冷静なリーダーとして、それを表す「成り」をして(ドレスコード的に)、直接世界に向けて(英語でならベターですが)、地震津波原発事故について語ること

ではないかと。震災のニュースにばかり張り付いている間に、中東情勢がもうフォローできないほど複雑になっているようなのですが、こんな時でもちゃんと日本は国際的にコミットしているのでしょうか?日本の外交は今機能しているのでしょうか・・・・・。

リーダー不在がcatastropheというのは。
被災地の復興、ということだけならば、東電の社長がどんな人物だろうと、総理大臣がリーダーの資質に欠けようと、民間の人々の力、「今皆が一つになって助け合おう」という国民の力だけで、何とかなりそう、というか、リーダー不在でも(今までもそうだったかもしれませんし)復興へ向けた流れは変わらない気がするのです、

原発事故さえなかったら!

でも福島の原発事故は、何度目覚めても夢ではない現実です。この現実を乗り越えるには、日本にとっては不幸なことに、リーダーの存在が不可欠ではないでしょうか?しかし当のリーダーは・・・。


アジア大陸の東の端に位置する島国にこの国を作った先祖は、その「位置」こそが太平洋プレートや断層を必然的に伴うものであることも知らずに、日本という国の悠久の弥栄を信じてやまなかったことでしょうが、今21世紀になってその島国に住む私たちは「地震と共に生きるしかない」ことをやっと自覚しはじめているのですが、それに被さるように「原発事故」の試練を受けています。その試練が余りにも重く余りにも先行き希望がなさ過ぎて、つい言っても仕方ないとは思いつつ、

もし地震津波だけで、原発事故がなければ、全然事態は違ったのに!

と考えてしまう私です。
更に考えたくない仮定をしてみると、

この福島第一原子力発電所の4基だけでなく、万が一(もしかしたらもっと高い確率で)他の原発で同様の事故が起こったとしたら?地震津波、もしくは地震と台風、のような、今は「想定外」とされている災害のコンビネーション、もしくは、人災で起こることは、十分「想定」できます)
そしてその時の電力会社のリーダー、国のリーダーが今回と同じことをやったとしたら?

冒頭に書いた、「日本は大丈夫だと思える根拠」すら、今度は吹っ飛んでしまうでしょう。そして本当に「国が亡ぶ」ことでしょう。
・・・という悲観的気分と。


一方で、今まで「そんな非現実的なこと!」と一顧だにされなかった「脱・原発」の考え方が、もの凄い早さで見直されていること。日本人は、誰も声を上げないで、誰も正しいことを言わないで、誰も方向を変える勇気がなく、今の状態をこのまま続けて、ハーメルンの笛吹き男に導かれて川で溺れ死ぬネズミのようになると思いきや、何だかスゴい変革の力が湧いてきているような、ここから価値観が歴史的に変わっていくのではないか、そんな感覚もあるのです、楽観でしょうか。

楽観的な気分と悲観的な気分と新しい楽観的な気分が交差する今日この頃。

*1:一部の政党からは未だに「違憲」とされている自衛隊員たちの献身的救助活動を、「一部の政党」とその支持者はどう見ているのでしょうか?

*2:この「Tomodachi」というネーミングから日本の若い世代が何を連想するか、オバマ大統領の秘書官はブリーフィングしたのでしょうか?管内閣の閣僚は誰一人わかっていないと思いますが。

*3:略奪は当たり前、避難所内でのレイプ、所構わぬ排泄、警官の職務放棄(略奪に加わる)、避難民を銃で脅して秩序を保とうとする軍隊、等々

*4:http://www.dwd.de/bvbw/appmanager/bvbw/dwdwwwDesktop?_nfpb=true&_windowLabel=T178400415551302522764483&_state=maximized&_pageLabel=dwdwww_start

*5:http://twitpic.com/4ns08g/full