単なる「うちわ」の問題ではない、蓮舫氏と松島みどり法務大臣の国会質疑応答

10月7日に行われた参議院予算委員会での質疑応答。


このYoutubeの動画のコメントを見ても、「くだらない」「貴重な時間と経費を掛けて行う議題では無い」「どうでもいい」というコメントが殆どなのですが、それは事の本質を理解していない上でのコメントではないか、と思います。

一般の方は蓮舫議員と松島法務大臣のやりとりの意味をよくわかっていないのではないか、と思われるので、市井のオバサンである私が簡単に解説してみます。

「何故、市井のオバサンごときが解説できるのか?」ということですが、それは2009年夏の総選挙時に選挙事務所でボランティアをして、生まれて初めて知ったことが、まさに今回の「うちわ問題」だからです。
その知識がなければ、あの「うちわを巡るやり取り」の意味もわからず、すぐ挙げられていた「蓮舫議員もうちわを配っていた、ブーメランw」というネットの報道を見て、「何だ、そんなことか。」「くだらない」で、私も済ましていたと思います。

さて、問題の「うちわ」ですが、蓮舫氏が過去の選挙期間中に配ったというのがこちら ↓

しかし、この蓮舫氏のうちわと、

松島氏のうちわは、全く違うものである、ということを説明します。


思えば、四半世紀前。
今度上場することになったリクルートの江副会長(当時)が、未公開株を政治家に配っていたことが発覚し、戦後最大の贈収賄事件となりました。
この事件の後、「金権政治打破」「政治改革」「クリーンな選挙」という流れになり、小選挙区制、政党助成金制度、閣僚の資産公開という制度が誕生したのと同時に、公職選挙法も改正されました。
まあ、平たく言うと、「お金をかければかけるほど当選しやすくなる当時の現状を変え、制限をつけて公平な選挙にする」ということなんでしょう。
最近の選挙で候補者が訴えるのは、「景気」や「年金」や「少子化」ですが、「金権政治打破」がテーマだった当時は、「クリーンである」という、政治家として当たり前ではあることが立派な政策の一つであったのです。
っていうか、それでやっと「欧米並み」になったというか、それ以前の選挙の状況は、今のアジアやアフリカの国々の選挙の状態を笑えないくらいのものでした。
政治家が、フェアに選挙を戦って議員になる、というのは当然のことです。
(私は、そもそも「世襲議員」はフェアではないと思いますが、それはここではおいておいて)


で、問題の「うちわ」のみに絞っていうと、蓮舫氏の「うちわ」は、選挙期間中に配られたものです。
その証拠に、「証紙」というものが貼ってあります。

この「証紙」は、選挙期間中に候補者が配布する「ビラ」の枚数を制限するために、各選挙管理委員会が立候補を届け出た候補者に決められた枚数を配布します。
公示日には、どこの選挙事務所でも猫の手まで総動員してこの証紙を「ビラ」に貼付けます。
この証紙貼りの作業は公示日のただでさえ忙しい中、大変面倒くさく人手を要するものですが、こうやって枚数を制限することで、候補者がフェアに戦えるようにしているわけですね。
選挙期間中、候補者は、この「証紙」を貼った「ビラ」のみを配布することができます。
この「ビラ」には厚さの規程はないため「うちわ」型の「ビラ」を配布することは可能です。
「うちわ」型であっても、紙の「ビラ」と同じと見なされているのです。
つまり、蓮舫氏の写真の「うちわ」型の「ビラ」は完全に合法です。



一方、松島大臣の、「討議資料」という「うちわのように見えるかもしれないもの」(松島大臣による)は、どうか?

実は、私もボランティアするまで知らなかったのですが、選挙期間中でない場合、本来は「ビラ」頒布は禁止!なのです。しかし、

政治活動のためにする演説会、講演会、研修会等の 集会の会場において、 演説会等の開催中に使用さ れる文書・図画
「知っておきたい選挙のはなし」東京都・区市町村選挙管理委員会


は例外的に認められています。なので、「討議資料」とか「後援会資料」と「ビラ」のどこかに入れておくと法律的にはOKのようです。
つまり、逆に言うと、「討議資料」と「ビラ」に入れておけば、何かの折に集まった選挙区の有権者に配ることは可能、という、公選法を改正した趣旨は骨抜きになっているようにも見えますが、実際「ビラ」なり「文書」なりなくしては政治活動できませんので、認められているようです。
だから、どの政治家も選挙期間外、自分の活動やら政策やらを文書にしたこの手の「討議資料」=「ビラ」は配っています。
大きな会合だけでなく、ミニ集会とか、地域の支持者を集めての会とかで。
参議院予算委員会の場にいた国会議員全員が、「討議資料」という「ビラ」は、こういう形で選挙期間外に配っていると思います。

松島大臣のケースは、それとは違います。

選挙期間外に、「ビラ」とは言えない有価物(うちわ1本の値段は、紙とは大きく異なります)に、「経済産業副大臣 衆議院議員」と印刷して、演説会ではなく不特定多数の有権者が集まる場である「盆踊り」の会場で配ったわけです。
これは、蓮舫氏が指摘しているように、公職選挙法の199条の3に違反しています。

第199条の3 公職の候補者又は公職の候補者となろうとする者(公職にある者を含む。)がその役職員又は構成員である会社その他の法人又は団体は、当該選挙区(選挙区がないときは選挙の行われる区域)内にある者に対し、いかなる名義をもつてするを問わず、これらの者の氏名を表示し又はこれらの者の氏名が類推されるような方法で寄附をしてはならない。ただし、政党その他の政治団体又はその支部に対し寄附をする場合は、この限りでない。





(踊る人々の背中に、松島氏が配布した「経済産業副大臣 衆議院議員 松島みどり」と書かれたうちわが・・・)

蓮舫氏の「うちわ」のように、選挙期間中に配られる「うちわ」型の「ビラ」は、大きさの制限があることもありますが、出来るだけ安く済ませるために、持ち手がない円形のもの、せいぜい穴が空いているものです。

しかし、今回の松島大臣の持ち手もついた立派な「うちわ」は、円形のものに比べてお金もかかっています、何より、盆踊りの会場で「紙」(こちらの方がはるかに安い)に印刷された「討議資料」を配るのではなく、盆踊りにマッチした持ち手がついた「うちわ」(選挙期間中に配られる安い円形のものでなく)を配った、というのは、その効果も考えて企画された立派な「寄付」と言えるでしょう。

寧ろ、「うちわに見えるかもしれないもの」に「討議資料」とわざわざ書いてあるということは(普通、うちわにそんなこと書きません)、「討議資料」と書いてあれば言い逃れができると(実際はできませんが)と考えていたと考えられることから、悪質だと言えます。

つまり、松島大臣及び彼女の事務所が行ったことは、

「本当はアウトなのがわかっていて、敢えて『うちわ』という盆踊りで歓迎される『有価物』に、本人の似顔絵と肩書きを一面に大きく入れて配った、裏面に『討議資料』というアリバイにならないアリバイを配して。」


ということなのです。
だから、松島大臣は予算委員会で、「『討議資料』である」「有価物ではない」と、苦しく言い張ったのです。
もっとも、前掲の動画の10:30あたりで、松島大臣は「このうちわは〜」とついぽろりと言ってしまっていますが・・・。


しかも、松島大臣は、落選を交えながらも当選4回の代議士です、昨日今日、選挙をやったばかりの新人とは違うのです。
選挙期間中には、前述のように証紙を貼った「うちわ」型「ビラ」が合法であることも勿論熟知していて、それとの混同さえ計算していたのかもしれません。
だって、私のようなたった1回選挙のボランティアをやった人間でも知っていることを、秘書をはじめ事務所の人間が知らないはずないですから。

予算委員会の場に出席していた閣僚全員、そして議員全員も、「選挙期間外に、『うちわ』に自分の名前と役職を書いて配ったらアウトだろう」ということは、完全に了解していると思います。
高市総務大臣や安部総理の歯切れが悪いのは、当然内閣の一員である松島大臣を庇っているのだろうと思いますが、その他の議員で歯切れが悪い人は、その人もこれに類することをやっているから、としか思えませんね。


当選4回の代議士、しかも当時は経済産業副大臣、今は法務大臣である松島みどり氏が、当選1回の議員でも了解していることを知らばっくれて、「うちわに見えるかもしれないけれど、うちわではなく討議資料だ。」と言っているのは、大変見苦しい、嘆かわしいことです。
リクルート事件を機に、日本の選挙がまがいなりにもやっとルールに則って行われてきた流れをぶち壊すものです、しかも現職の法務大臣が。

しかし、それよりも危惧するのは、事の本質を理解せず、表面だけ見て、「『うちわ』みたいな下らないことばかり質問するな!」とか、「蓮舫だって、うちわ配ってた!」とかの思考停止する方がいる一方、「松島法務大臣が配った『うちわ』にヤフオクで高値がついているから、『有価物』だ!」というレベルに貶めている方の発言をネットで見かけることです。
新聞では、更にもう話題にもなっていません、これほど重要なことなのに。


民主党政権時代の政治家としての蓮舫氏、について、私は全く賛同するものではありません、正直言えば、好きじゃないタイプの方です。
でも、今回の件については、蓮舫氏の主張は正論ですし、有権者はこれを見過ごしてはならないのではないか、と思うのです。

世の中が加速度的に複雑になり、判断をしなければならない問題も同じく加速度的に増えた結果、本当に大事な問題もネットの上を流れていく娯楽のように扱われ、話題性がなくなれば忘れられていくこと、また、「悪役」と「ヒーロー」が完全に色分けされ、一度「悪役」のイメージを冠されてしまうと正論を言っても世間がそれを受け付けなくなっていること、を危惧するものです。