*ソチオリンピックの開会式を見て、4年後の平昌オリンピックと6年後の東京オリンピックを心配することなど

ソチオリンピックの開会式を見ていて、色々と感じるところがありました。

五輪の輪が、四輪になっていたことについてではありません。


「ロシアの歴史」を扱った壮大なあのアトラクション。
ソチオリンピックの開催を文字通り先頭に立って引っ張ってきた、プーチン皇帝、いえ大統領もさぞご満悦であったことでしょうし、会場やテレビ中継でこれを見たロシア国民も、さぞや「ロシア人」としての愛国心を掻きたてられたことでしょう。
1952年生まれというツァーリプーチン大統領は、前回ロシア(当時はソビエト連邦)で行われた1980年のモスクワオリンピック開催時には、28歳。
東西冷戦時代には、オリンピックが政治的に利用されるということもありました。
上述のモスクワオリンピックは、ソ連のアフガン侵攻に抗議して、西側諸国がボイコットしたので、ソ連としては面目丸つぶれ、なかなかに屈辱的なオリンピックだったと思います(その4年後のロスアンゼルスオリンピックでは逆に、アメリカのグレナダ侵攻に抗議した東側諸国のボイコットを主導して、きっちり借りを返していますけどね、ソ連)。
モスクワオリンピック当時、御歳28歳、既に立派なKGB職員であったプーチン大統領は、今回のソチオリンピック開会式のアトラクションによって、自身からも国民からも、西側諸国にボイコットされた惨めなモスクワオリンピックの記憶を、完全に拭い去ることに成功したのではないでしょうか。
2000年からロシアの最高権力の座に就き続けているプーチン大統領にとって、これは何としても成し遂げなくてはいけない最後の仕上げだったかもしれません。


一方。
国際情勢が絡んだ「オリンピックのボイコット」のような、そういう政治的利用はなくなったとはいえ、この近年は、また別の形が生まれてきているように思います。
オリンピックが、スポーツと平和の祭典というよりも、開催国のわかりやすい国威発揚の場として利用されている、というか、それもすごく内向きな形で、「我々はこういう素晴らしい歴史を持つ、誇るべき国民である」というアイデンティティを与える場、として使われているような気がします、特に開会式。
プーチン大統領の頭にあったのは、先住民族にも配慮したシドニーバンクーバーオリンピックの開会式アトラクションではなく、完璧なイングランド讃歌だったロンドンオリンピックのそれ、だったのだと思います。
英独仏と並んで、ロシアもヨーロッパの中の大国である、という対抗意識は強くあるでしょうし。
北京オリンピックでの、中国文明礼讃のアトラクションも脳裏にあったかもしれません。
というのも。
冷戦時代、西側で作られる映画や小説の中では、いつも「ソ連」や「ソ連人」は徹底的に悪役。
宇宙に最初に人類を送り、最新鋭の武器を持つ巨大な軍隊を誇る偉大なるソ連という国のイメージとは裏腹に、そこに暮らす庶民は、パンを買うにも行列、言論の自由は勿論、あらゆる人権を制限されている、一党独裁の悲惨な社会主義国家というイメージでした。
私なんか、ずっとそのイメージでしたね、「ロシア」ではなく「ソ連」という国が。
小学校高学年になって地図帳を開くと、世界地図のページを跨いでそこに現われる巨大な国は、ソ連!だった、という世代です。
極東の島国に住む子供さえ、「ソ連」というのは何か恐ろしい国である、と映画や小説や「アメリカ万歳!」の当時の世の中から刷り込まれていたわけですが、あながちそれは間違ってはいなかったようです、結果的には。
いくら宇宙開発で世界最先端を走ろうと、強大な軍隊を誇ろうと、それだけでは、ロシアの大地に暮らす国民は真に満たされてはいなかったのでしょう。
自分の国が独裁国家であったり、自国民から自由を奪っているような国家であるということは、どうやってもその自分の国に誇りを持てないように人間の心は作られているのではないか、と思うのです。
それがわかりやすい形で表れていたのが、オリンピック。
当時(東西冷戦時代)、ソ連を筆頭に東側諸国は国を挙げてスポーツ・エリートを養成し、オリンピックでは沢山メダルを獲得し、メダリストには生涯特別な年金が払われたり、優遇措置がとられたそうですが、東側の選手はインタビューを受けても表情のないロボットのように答えるのみ、そしてオリンピックが終わると、必ず何人かの選手が西側に亡命した、というニュースが報道されたものです(最近はとんと聞きませんね)。
競技で勝っても、メダルを獲得しても、国に帰ったら生活が保証されていても、それでも自国に誇りが持てなかったのでしょう、スポーツ・エリートのメダリストでさえ。
オリンピックというのは、それを利用して国威発揚を図った東側諸国の思惑とは裏腹に、そういう人間の心(=スポーツ・エリートでさえ、社会主義国家の自国に誇りを持てない)を国民の前にさらけ出してしまう結果になったのかもしれません。


今回はモスクワオリンピックの時とは違って、ロシアは既に社会主義国家ではなく、(一応)民主主義国家のようですし、世界のどの国からもボイコットされたり(一応)後ろ指さされる国ではなくなっていますから、それを更にわかりやすく国民に自覚してもらうには、今回のソチオリンピックは絶好のタイミングであり、アトラクションは絶好の場であったと言えます、ついでに、メドベージェフ氏ではなく、プーチン皇帝の治世下で。
ロンドンオリンピックのアトラクションは、イングランド讃歌とはいえ、ぎりぎり政治臭を排して、文化や産業の発達にフォーカスしたものでしたが、今回のソチのアトラクションは、ピョートル大帝のイメージが大きく使われ、スターリンこそ登場しませんでしたが社会主義国家であった頃のイメージも使われていました、あくまでも美しく、ですが。
文化と政治はきれいに切り離せるものではないですから、仕方がないことかもしれませんが、少なくともこのアトラクションの責任者、演出家は、プーチン皇帝が喜ぶもの、ロシア国民が今求めているもの、を差し出してみせたことは確かだと思います。
専制政治だったピョートル大帝も、(スターリンこそ出てきませんでしたが)共産主義国家であったソ連時代のことも、全て偉大なるロシアの美しく輝かしい歴史であり、その先にれっきとした民主主義国家ロシア国民である自分たちがいる、という、プーチン大統領とロシア国民が求めているイメージを。
そのイメージをロシア人全体が共有できたのですから、五輪の輪の一つが開かない、などということは、取るに足らない些事であったことでしょう。

(往年のソ連ならば、責任者は間違いなくシベリア送りだったかも)




で、思ってしまったのです。
4年後に韓国で開催される冬のオリンピック、平昌オリンピックでは、どんなテーマのアトラクションになるのか?
韓国の国民は、何を求めているのか?
またまた6年後の東京オリンピックでは?
6年後の日本人は、自分たちのイメージがどうあってほしいと考えているのか?

両方とも、あまり想像してみたくありませんね、今の状態では。

今から4年後、平昌オリンピックのアトラクション、それはきっと韓国の人々の誇りを表すものになることが予想されますが、それがどういうものであったとしても、多くの日本人が最低でも隣国の文化に敬意を払う姿勢を保って冷静に観られるように、と、私は思いますし、そして今度は6年後の東京オリンピックのアトラクションもまた、韓国からだけでなく中国からも、歓迎されるものであってほしい、日本国内だけで内輪に盛り上がる自己満足であってほしくない、と、私は思います。
特に、隣国の文化や人々を貶める日本の大人たちの言葉や行為は、決して子供たちに見せたくない、と、私は願います。
しかし、目下の現状を見るに、それはなかなか悲観的です。
たった2年の間隔を挟んで、韓国と日本でオリンピックが開かれる、というのは運命のいたずら、運命が日本人に突きつけた課題かもしれません。




個人対個人であっても、信頼関係を築くのには時間がかかる一方、喧嘩別れするのは一瞬です。ましてや、仲直りには最初に良い関係を築いた時にかかった以上に時間がかかります。
国と国では、もっともっと長い時間がかかるでしょう、外交だけではなく、それぞれの国民の関係が良い方向に向かうには。
今すぐに、両国の首脳レベルで、信頼関係構築へ向けて歩み出したとしても、4年後の隣国の冬季オリンピックに間にあうのか?6年後の東京オリンピックに間にあうのか?


東京都知事選挙で、田母神候補が61万票を集めたこと、出口調査では、20代では当選した舛添氏に次ぐ支持を集めていること。
この結果だけを見て、これからの様々な選挙において、政治家は、当選するために、もっと右寄りの言葉を使うようになるでしょう。
若者の票を得るために、隣国を非難する勇ましい言葉を使うようになるでしょう、元幕僚長の真似をして。
その結果、ますます、世の中の軸が右にズレることになるでしょう。
そして、そんな状態のまま、4年後の平昌オリンピックや6年後の東京オリンピックを迎えようとするのか?
そういう方向へ国民を導くことは、日本の政治家として正しいことなのか?



・・・とまあ、ソチオリンピックの開会式を見た後、都知事選挙の結果もあったりして、つらつら考えていると憂鬱になってきたわけです。
で、選挙や政治や外交はこの際置いておいて、一つだけ言えるのは、

平昌オリンピックに対する日本と日本人の態度が、そのまま東京オリンピックに対する韓国と韓国人の態度に跳ね返ってくる

という、当たり前のことです。
東京オリンピックを成功させたいと、日本人の誰もが思っているはず、だとしたら、なのですが。