山本太郎参議院議員が園遊会で天皇陛下に手紙を手渡したことから 雑感


山本太郎参議院議員が、10月31日に赤坂御苑で開かれた「秋の園遊会」において、天皇陛下に手紙を手渡したことで、各方面に物議を醸しています。


私もこのニュースを見て驚きはしましたが、その驚きは「私には、そういう発想(天皇陛下に一般国民から手紙を渡すことができる)がそもそもなかった」ことによるものです。
私の「常識」を超えていたので、私は驚きました。
「不敬の極み」「身の程知らず」「無礼千万」「つけるクスリがない馬鹿」という、山本議員に浴びせられたような形容詞は、全く思いつきませんでした。
私は、「皇后陛下東日本大震災の被災地を見舞われた折、津波に自宅を流され避難所で暮らす女性が、自宅跡に咲いていたという水仙を摘んで花束にして皇后陛下に手渡した」、というニュース*1を聞いた時の方が、ずっと驚きを覚えましたよ。

それは決して、その女性に対して、「不敬の極み」「身の程知らず」「無礼千万」「つけるクスリがない馬鹿」と感じた驚きではなく、寧ろその反対で、何もかも津波に流されてしまった女性の気持ちが詰まった水仙の花束を、皇后陛下が受け取られ、大事そうに胸元にお持ちだったことに、感激した驚きでした。


山本太郎参議院議員)と、花束を渡した被災者の女性は違う。」
と、おっしゃる向きも多いことと思います、はい、私も違うとは思います。
でも、
「どこが違うのか、説明せよ。」
と言われたら、言葉に窮してしまいます、説明できません。
「花束はよいけど、手紙はいけない。」
と言うのか、
「政治的意図がない花束はよいけど、政治的意図がある手紙はいけない。」
と言えばよいのか。
でも、そうすると、山本太郎氏本人がが反論していたように、

主権回復の日に天皇陛下や皇室の方が列席され天皇陛下バンザイと言った行為、五輪招致で皇室の方々に出席していただいたのも政治利用にあたるんじゃないか。

と言われてしまいそうですしね、しかも私もこれ ↑ の意見には賛成してしまう、という。


「驚いた」ということに限って言えば、私は、今回の山本議員の行動よりも、先ず7月の参議院選挙で彼が当選した時の方が余程ショックを受けましたし、余程驚きましたよ。
「立候補」までは、「売名行為」として、ありがちなことだと思っていました。
東京選挙区は、そういう方が他にも多々立候補されますから。
しかし、彼の当選には、本当に驚きました、まさか当選できるとは思っていなかったので(参考エントリー:祭りの後 「自民党完勝、民主党完敗」の参議院選挙@東京都選挙区について 雑感

今回の山本太郎議員の行動に関して、参議院議長山崎正昭氏は、

園遊会天皇陛下に手紙を渡した行動について「参院の品位を落とすものだ」と厳重注意し、今後は皇室行事への出席を認めないと伝えた。

とのことですが、山本太郎議員は、7月の第23回参議院選挙で、実に666,684票を獲得して東京選挙区で当選したのですが、対する山崎議長は、3年前の第22回参議院選挙ですが、福井県選挙区にて212,605票で当選なさっているんですね。
一票の格差はこの際さておいて、山本氏は実に山崎氏の3倍の数の有権者の支持を受けて当選した、参議院議員なのです。
つまり、東京には、彼を支持する有権者が、山崎氏の地元の福井県有権者数より多い、67万人近くもいるのです。
これは無視できるものではありません。
その支持者の殆どは、若者ではないかと思います。
前掲のエントリーにも書きましたが、7月の選挙期間に、私は偶然山本氏が演説しているところを通りかかったことがあります。
あの猛暑の中、かなりの人数の人々が、山本氏の演説に熱心に聞き入っていました、殆どがまだ若い若者でした。
私は思ったわけです、「演説を聞いているのと、投票行動は違うよね。」と。
しかし、結果は66万票余りを獲得しての当選。
学歴もなく、元官僚でも弁護士でも起業家でもなく、政党の支援もない候補者に、わざわざ投票所まで足を運んで投票する(東京選挙区の投票率53,51%)若者が、福井県の人口の8割強いる、というのはどういうことなのか、を考えなくてはいけないのではないでしょうか、「品位を落とす」とか言っている場合ではなく。

徒手空拳の若者でも、志を立て、皆が応援すれば、世の中を変えられる」

なんてことを、東京都だけで67万人もの若者が信じていることについて、年長者は考えてみなければならないのでは?

徒手空拳の若者でも、『頑張れば』世の中を変えられる」というのは、勿論素晴らしい理想です。
しかし、オバサン年代の私から言わせると、それは余りにも、浅く、短絡ではないかと思います。
民主主義の社会であるからこそ、民主的手続きというものがあり、革新を恐れてはいけないけれども尊重すべき伝統もあり、自身の主張が100%
通らない場合(←それが普通なのですが)はどうやって他の主張の人々と歩み寄るか、ということ、世の中はもっと、深く、長い思考の下にあるのだ、ということが、山本議員、と彼を支持する若者には了解されていないのではないか、と思うのです。

山本議員の今回の行動をニュースで知った時、私の頭に浮かんだのは、「『畏れ』を知らない」という言葉でした。彼を批判している人々も、色々な文脈で批判していますが、突き詰めると、山本氏が(例え、大量の票を得て当選した国会議員であれ)、「畏れを知らない行動」に走ったことを非難しているのではないかと思います。
「畏れ」とは何か?
自然の恵みや自然の脅威に対する「畏れ」
時を経て伝えられてきた「伝統」に対する「畏れ」
学んでも学んでも学びきれない「知」への「畏れ」
自分の命と他人の命への「畏れ」
世の中の人々がそれぞれ業(なりわい)に励んで社会を支えていることへの「畏れ」
等々、と言ったらよいでしょうか、そういうことがどこかで欠落しているのではないか、と思うのです。
38歳という本来ならば「いい大人」であるはずの山本氏はともかく、彼に投票した(であろう)多くの若者にも同じく「畏れ」が欠落しているとしたら、それは彼らの責任ではなく、教えてこなかった大人の責任ではないのか?
だとしたら、特定の宗教に帰依する人口が極めて少ない日本で、宗教とは関係なく子どもに正しく「畏れ」を教えるとはどーしたら?


とあれこれ、「一人長屋の熊さん八っつぁん状態」で世の中に思いめぐらせていたところ、

道徳、教科に格上げ案
文部科学省の「道徳教育の充実に関する懇談会」は11日、小中学校の道徳を教科に格上げする報告案をまとめた。(朝日新聞 11月12日)


はあ〜、っていう感じですよ。
「教科化する」ということは、
・検定教科書を使う
・評価を行う
ということらしいですが、私自身の記憶を辿ってみると、学校における「道徳」の授業とは、

・「道徳」の時間ほど、退屈で死にそうな時間はなかった。
・副読本(←『教科』でないから「教科書」ではなかったらしい)は、よくぞこれだけ集めてきた!と思えるほどの、詰まらない、退屈で、偽善的な逸話や偉人伝のオンパレード
・先生が生徒に副読本を朗読させ、エピソードの終わりに必ずある『あなたが◯◯だったら、どうしましたか?」という質問を生徒に投げるのだけれども、積極的に答える生徒は皆無。先生に指されて答える答は、勿論「答えることを期待されている答」。

でしたね。
そもそも「畏れ」とかも含めて、学校の「教科」で教えられることではない、と私は思います。
「教科化すれば、教えられる」と思っているのならば、それこそ大人の思い上がりも甚だしい。
幼い頃から、習い事に勉強に受験にゲームにSNSに忙しい子どもたちに、立ち止まって考えさせる機会が必要なことはわかります。
でも、それは週に1時間の「道徳」という教科で、検定教科書を使って教えられるものではないのでは?

決まりきった価値観を押し付けるのではなく、「考えさせる場」「議論する場」なら、まだ理解できます。
だとすると、「評価」は馴染まないことは明白です。
何より、「道徳」の時間が無駄どころか害悪ですらあると思うのは、日本の学校の「クラス」という閉鎖空間にある同調圧力の中では、「他人と違う意見を言う」どころか、「自分の意見を言う」ことすら、「カッコつけちゃって」「ウザい」と認識されている雰囲気の中で偽善的に「道徳」の授業が行われること、なのではないでしょうか?
現行の「道徳」の時間でも、自分から手を挙げて意見を言うなんてもってのほか、先生に指されて何か意見を言わざるをえなくなった場合ですら「期待されている答」を棒読みすることが、クラス内の処世術としては一番無難である、という学校の状況なんじゃないでしょうか?
そもそもずっとこの「同調圧力」が異常に強い状況が教室内で続いているからこそ、イジメもなくならないし、不登校も減らないんじゃないんですか?
教室内だけではなく、部活で生徒が先生や先輩から体罰を受けていても他の部員が誰も声を上げないのは、この「同調圧力」が原因であるのに、それが満ち満ちている「クラス」の中で、「道徳」の授業やったって、議論させたって無意味ですよ。
また、「道徳」が「教科」になったことで生徒を「評価」しなければならなくなった担任の先生が、一クラス30人分、「記述」で「評価」するって、先生にとっては、きょうびの膨大な雑事に加えて大変な手間だと思いますけど。
これだけの無益なことをやるって、誰のためなんでしょう?生徒?「評価」を目にする親?
無意味どころか、壮大な茶番です。
「道徳」の時間を、習い事に勉強に受験にゲームにSNSに忙しくて本を読む暇さえない生徒のために、「読書」の時間にした方が、どれだけマシか。


ここで、「一人長屋の熊さん八っつぁん状態」の私の頭に浮かんだのが、最近の

全国の有名ホテル・デパートが手を染めていた、偽装メニュー・食品表示問題 
JR北海道による、安全に関わるレールの計測検査の数値改竄
みずほ銀行の、反社会勢力への融資問題

です。
偽善的な検定教科書よりも、こういった身近な問題を、是非とも「道徳」の時間に考えさせたらどうでしょうね。
「嘘をついてはいけない」「間違ったことを友だちがしていたら、注意すべきである」「悪い友だちの誘いに乗ってはいけない」
と日頃言っている大人が、どうして、バナメイ海老を芝海老と偽り、人命に関わる事故に繋がる検査結果を改竄していても内部告発もなく、反社会的勢力にお金を貸しているのか、これ以上ないほどの格好の教材ではありませんか。
検定教科書なんて必要ありません。
そして、同調圧力が限界まで高まっている閉鎖的空間である「クラス」内で討論(それもたった45分授業内で)させても、駄目なんですよ。
「勉強以外で大事なことを子どもに教えなくてはいけない」「深く物事を考え、自分の意見を発表できるようになってほしい」と本気で考えているのならば、クラスだけでなく学校の枠も取っ払って、市内や区内の学校や地域にある大学やらも、そして親もまた巻き込んで、子どもたちが本当の意味で「自分が考えた意見を、同調圧力がない場で発表できる」システムを作って、長期の休みや休日に集中的に議論や討論を行い、それを単位にすればいいじゃないですか、当然「評価」なんてなしで。
・・・と私なぞでも思いつくような当たり前のことを言っても、そんな「先ず理念ありきで、それを実現するために何をすればいいのかを考えて作り上げる」ということは、この国はしないので、「『道徳』を教科化して、検定教科書を作って、先生に評価させる」だけで、政治家も官僚も審議会やら懇談会のメンバーも「やった」つもりになるんでしょう、そして何も変わらない・・・。

っていうか、政府の審議会だの懇談会こそ、そこでは強力な同調圧力が働いているんじゃ?委員の方々、本当に自分自身のご意見を発言されているのでしょうか?大物委員や座長の思惑に沿って、しゃんしゃん、じゃないでしょうね、まさか。





冒頭の山本太郎参議院議員の言動に戻りますが、もう私などには理解できないというか、「天皇陛下に手紙を手渡し」というだけでも十分驚いた上に、その後の記者会見で、彼の口から、

陛下の御宸襟を悩ませることになってしまった。
山本太郎氏「67万人と約束したので辞めない」 会見で議員辞職を否定(発言全文) ハフィントンポスト


という言葉が飛び出すに至っては、この「御宸襟」という時代錯誤な単語がいつ、どこで彼の頭にインプットされたのか(中核派のおじさんたちからではないことは確か)、私の想像力が遥かに及ばないことです(ハフィントンポストさえも、最初は「親近」と漢字変換していたようなのに)。
しかし、山本氏に限らず、この危ういバランス、というか、アンバランスが、今の若者にはあるのではないでしょうか。
これだけ自由で豊かな国に生まれて、ハイテク製品に囲まれている彼らが、どこか満ち足りることなく何か心に拠り所を求めていて、それが靖国神社へ参拝に行く若者となったり(彼らは果たしてA級戦犯が合祀されて以来、彼らが山本太郎氏と同様に親近感を抱いている天皇陛下が参拝していらっしゃらない、という事実を知っているのか)、サッカーの試合の前に歌手が歌う「君が代」に真剣に唱和する彼らが、その同じ自国を誇りに思う気持ちが歪んだ形となって隣国を貶める言質に与したり、というようなアンバランスに至っている現実を、大人は直視しなければならないのではないか、と思います。
そういう危ういバランスの上に彼らを立たせているのは、他でもない、大人です。
「道徳」の授業は、大人にこそ必要なのではないか。
かつて自分たちが小学生や中学生の頃「道徳」という授業があったはずなのに、「同調圧力」の下、正しくないこと、「畏れ」を忘れたことを長年平気で行ってきたのですから。
何の役にも立たなかった「道徳」の授業のどこがマズかったのか、子どもや若者に「日本人として在るべき姿」はどういうものだと教えるのか、先ずは大人自身が問い直すことから、でしょうか。