さようなら、センター試験    センター試験の「功」と「罪」

さようなら、センター試験

この度廃止が決まったセンター試験への送別の辞を、不肖わたくし、共通一次試験世代のオバサンが述べさせていただきます。



実体経済がそれほど回復していないのにも拘らず、「経済は好転している、何故なら経済は気分だから」と言い募るアベノミクスとやらの影響なのでしょうか、今回のセンター試験の廃止も、センター試験の功罪をちゃんと議論することはしないで、「教育改革するなら、中味の是非よりも、気分」という如く「気分」だけで、センター試験の廃止が決められてしまったことは、誠に残念です、例え、老兵が消え行くようにいつかはセンター試験が廃止される運命だったとしても。

日本という国の大学入試の中核を担ってきたセンター試験とは、惜しむ声もなく廃止されるほどマズい試験であったかどうか。

私は、そうは思いません、マズかったのは試験そのものではなくその運用であったと思うからです。


センター試験の前身である共通一次試験が導入された時の謳い文句は、

・入試問題の難問・奇問の出題をなくす
・高校で普通に勉強していれば6割得点できるような、基礎的一般的達成度を測る
・「入試地獄」を緩和する


でした。
この当初の謳い文句がことごとく達成されていないのならば、「悪玉」扱いされても、惜しむ声もなく廃止されても仕方ありませんが、実際はどうだったのでしょうか。
嘗て各国立大学の教員が各大学の入試用に作成した入試問題には、「難問奇問」「重箱の隅を突つくような悪問」が少なくなく、それよりは大学入試センターで作られた問題の方が、遥かにマシ、という点については、共通一次試験は謳い文句通り、難問奇問は殆どないテストではなかったかと思います。
また、問題のレベルも、大学入試センターが作るだけあって、「高校での学習の範囲内」に収まっていました。
「入試地獄」とは懐かしい言葉ですが、今は見方によっては小学校お受験から「入試地獄」が始まっている子どももいますから、「受験戦争」状態が恒常化していて、果たして今が地獄なのか天国なのかわかりませんが。
しかし、共通一次試験が導入された1979年以降、大学入学者に占める現役の割合は確実に上がってきています。
(1985年の現役入学率61,9%、2007年の現役入学率約82,8% ※「現役入学率」=現役入学者数÷総入学者数 )*1
この流れは、センター試験の実施だけが理由とは思えませんが、とにかく数字の上では、確かに「入試地獄」は解消されているようです。




とすると、導入時の謳い文句は、なかなかどうして達成されていたんじゃないの!
悪いことばかりではなかった、ちゃんと「功」の部分はあったのです。
お疲れ!共通一次試験改めセンター試験

しかし、誰にも惜しまれないセンター試験
何故、そんなに悪玉扱いされるのか?

それはあまりにも「罪」の部分が大きかったこと。
そしてその「罪」は試験そのものよりも運用の仕方にあった、と思うのですね。

その「罪」の部分を幾つか検証してみます。


第一の「罪」は、不肖わたくしが、再々指摘させて頂いているように、

・受験生は、「自己採点」で出願大学を決めなくてはならないシステム

であったことが、受験生に対しては侮辱的であり冒涜でありました。
共通一次試験導入以来、受験生は、刻苦勉励して受験した試験の正確な得点を知らされないまま、二次試験の出願をさせられていたのですから。
最後の最後まで、どうしてこれは改まらなかったのか?
日本の技術では、センター試験受験後、二次試験出願までに各受験生に正確な自分の得点を知らせることは不可能だったのか?
今回の第四次提言でも、「センター試験は、1点刻みの合否判定を助長している」と言いながら、受験生にとってはその大事な大事な「1点」にかかわる自己の得点を正確に知らしめることを、今まで何故しなかったのか?
安くはない受験料を払って申し込むのに(参考:センター試験5教科7科目受験料→18,000円 SAT→主要3科目$51、大学によっては2科目程度課されるsubject test は1科目あたり$13~24)、受験生はセンター試験受験後、二次試験の出願校を決めるにあたって、大学入試センターで採点された自分の点数を正確に知ることがないまま、「自己採点」のみを頼りに出願させられるシステムであったことが、最大の問題だった(もう過去形にしていいんですかね?)と思います。
結果、何が起こったか?
仮に「自己採点」が正確であったとしても、当の受験生にはわからない訳ですから、受験生は不安にかられます。
その不安につけこんだのが、予備校や塾の「自己採点集計サービス」です。
全く、国の将来を担う大事な大学入試の中に、予備校や塾のお商売を呼び込んでしまったのです、この「自己採点」のシステムは。
国を担う人材を育てる国立大学の入学試験において、私企業である予備校がかくも大きな存在感を持つようになったのは、この「自己採点」のシステムを存分に利用したからです。
しかもこれは、◯十年前に私が受験した共通一次試験の時と、全く変わっていません。
この◯十年の間に、情報処理の速度は飛躍的に進歩してはいないのでしょうか、大学入試センターのコンピューターの中では?
SATは受験後、約3週間で、受験生に得点がウェブ上で知らされます。
21世紀になっても、コンピューターではなく、未だに「人力」で採点が行われるフランスの大学入試バカロレアですが、受験者数はセンター試験の受験者数を越えますが、それでも、6月に最初の科目が始まって7月の中旬には試験結果が知らされるそうです。
それに引き換え、マークシート方式の1月半ばのセンター試験での自分の正確な得点を知るのは、二次試験も終わって、合格発表も終わって、そして年度が代わって大学生活/浪人生活が始まる4月の半ばになってから!なんですよ。
これは、真面目に勉強してセンター試験を受験する受験生に対する冒涜でなくて、何なのでしょう?
このリンク↓ は、この「自己採点」のシステムが実際どのように受験生に影響しているかを語っています。
悪夢の共通一次試験
この受験生は、自分のセンター試験の得点が何点か知らないまま、二次試験を出願しているのですが、こんな残酷なことってあるでしょうか。そしてこれは、この受験生のみならず、共通一次センター試験を受験した全員の受験生が蒙ってきたことなのです。
「技術立国」と名乗るのが恥ずかしくなるような国辱もののシステムでなくて何なのでしょう?
共通一次試験の時代から、センター試験終了に至るまで、これが何故改善されなかったのか。
新制度のテストでは是非、この弊を取り除いてほしいものです、この点に関しては、何一つ第四次提言では触れられてはいませんけど。


第二の「罪」は、

共通一次試験導入と機を一にして、一期校二期校を廃して、大学の序列化を招いたこと

本来は、共通一次試験の導入の目的と、一期校二期校の廃止は、別物のはずでした。
共通一次試験という統一試験がなければ、一期校二期校の廃止は大学の序列化には繋がらなかったと思います。
統一試験の得点をコンピューター処理するということは、点数によっていとも簡単に序列化が可能であることを、共通一次導入時の文部官僚は予見できなかったのでしょうか?
それを見越して、共通一次試験だけを導入して、序列を二系統のまま置いておく、という知恵はなかったのでしょうかね。
世の中には、曖昧にしておく方が良いことがあります。
日本人の多くは、「ハーバード大学は、アメリカの東大」だと思っているかもしれませんが、アメリカ人にとっては、ハーバードとスタンフォードがどちらがいわゆる「偏差値」(←こんなものはアメリカ人は知らない)が高いかなんてわかっていません。
っていうか、College Boardというアメリカの大学入試の総合サイトのようなところでも、巧みにそういう比較ができないようになっています。
一方、東大と京大では、共通一次試験の得点で明らかに「東大>京大」という序列がついてしまいました。
他の旧帝大にしたって、嘗ては少なくとも大学入試の時点での、テストの得点による序列というものは存在しなくて、どこの大学の何学部はどこの大学の同じ学部よりも偏差値が高い、ということはわからないまま、曖昧でした、だって入学試験自体が別々だったのですから、全国統一模試のようなもので比較は可能でも、実際の試験ではその比較が有効かどうかは曖昧でした。
東北大学九州大学、どちらを選ぶのかは、受験生の思い入れで決まりました(今は学部ごとに偏差値の比較ができます)。
そして曖昧だからこそ、大学側にとっても、点数のレベルだけではなく、本当にその大学に入りたいという受験生を集めることができていたのでした。
ちょっと前にブームになっていた「道州制」という言葉がありますが、「道州制」にどんぴしゃりハマるかのように(中国四国に旧帝大がない一方、関西には京大と阪大の2大学がありますが)旧帝大というものがあって、この1979年の共通一次試験導入時に、これを利用する手もあったんじゃないかと、思ったりします。単に一期校・二期校を廃止するのではなく、大学教育から地方分散を行っていれば、東京に過度に一極集中している今とはまた世の中全体が違った姿になっていたかも、と思わされます、ブロック制にするとか、ブロック内の受験生には優先枠があるとか、まあそういうことには知恵が回らなかったのでしょうね、当時の関係者は。
一方で、一期校二期校廃止の影響をより深刻に受けたのは、嘗ての二期校グループのトップ大学と一期校グループの下位グループです。
嘗て一期校二期校システムの時には、一期校の下位大学と、二期校の上位大学とでは、どちらが「偏差値」が高いか曖昧でした。
下位であっても「一期校」というプライドが持て、二期校であっても上位校は高倍率を誇っていました。
それ故に、それぞれの大学に入学した学生は、その大学に誇りを持ち、更に将来に向かって希望が持てたのです。
それが今じゃ、予備校が作る偏差値表の中、序列の中に埋もれてしまっています。
「Fラン」という言葉が象徴しているように、入学した時に既に学生は全国立大学の中の自分の大学のランクを否応なく自覚させられ、序列は企業も知るところですから、その先待ち受ける就職活動でも大学のランクが影響することを既に知ってしまっているのです。
これは国立大学だけではありません。
国立大学を志望する受験生は、大抵の場合私立大学も受験しますから、私立大学もまた序列化の中に組み込まれてしまいました。
これは受験生、大学生にとって幸せなことだったかどうか。
大学にとっても、同じ程度の偏差値の学生だけが集まってくることになり、学生のダイバーシティが失われる結果を招いてしまったのではないか。
今となっては後知恵かもしれませんが、色々と方法はあったと思うのですね。
先ず、共通一次試験のみを導入し、その試験の性格(全受験生の得点を序列化できる)を見極めてから、一期校二期校を廃止・存続させるかを決めても良かったわけですし、地方分散を促すような別の枠組みを作って運用することもできました。
しかし、導入後30年間の間に行われた「手直し」と言えば、当初の無謀ともいえる「連続方式」(国立大学を1校しか受験できない)から、「分離分割方式」(前期・後期、更に少数ではあるものの中期を設け、数の上では「3回」受験できるというもの。殆どの定員は前期で埋まる上に、前期で合格し入学手続きをしたらば中期、後期はたとえ試験を受けても合格できない仕組み)への移行のみで、上述の「自己採点方式」同様、受験生のことを考えたより良い改良は、全く見られなかったのです。
センター試験が廃止された後、「到達度テスト」(仮称)というものが導入されるそうですが、テストそのものよりも、その運用の仕方こそが大事なのです。
「分離・分割方式」と呼ばれる現行の運用がそのまま残されるのであれば、それはこの二つ目の「罪」をそのまま受け継ぐことであり、「大学入試改革」の名に値するものではないと思います。



三つ目の「罪」は、

・私立大学の入試もセンター試験に一本化すべきだったのに、しなかったこと

大体、数の上では国立大学を遥かに凌駕する私立大学が、今でも基本個別の入試を行っている状態の中で、果たして、「センター試験は、日本の大学入試の統一試験です。」と言えるのか。
日本には事実上、大学入試の「統一試験」がない、という情けない状態なのです、実際。
もしセンター試験を、国立・私立を問わず、大学入試に必要な「統一試験」としていれば、それこそ今、各大学が躍起になっている留学生集めも簡単ではなかったでしょうか。
留学生にも科目を指定して、センター試験を受験してもらえば、留学生にとっても複数の日本の大学に出願できるメリットがあったはずなのに、現状はそうではありません。
確かに「センター試験利用」というのは、私立大学では「複数化する選抜方法の一つ」として増えてはいます。
しかし、センター試験の結果だけで合否を判定する選抜は、定員は少なく(従って高倍率)、如何にも「お飾り」であり、「入試の多様化」の一つとしての位置づけでしかないのが実態かと思われます。
慶應大学などは24年度からセンター利用を廃止してしまいましたし、早稲田大学でもセンター利用の募集定員は極めて少なく、余程の高得点の受験生でないと合格できません*2
だから受験生は、かすかな望みを持ってセンター利用枠に出願すると同時に、私立大学の一般入試も受験しなければならないわけで、受験料の負担もさることながら、センター試験対策と二次試験対策に加えて個々の大学の入試用に「慶應対策」「早稲田対策」の負担も背負わなくてはならないのです。
受験生にとっては国公立大学に関しては事実上、前期一回勝負で、募集定員も少なく倍率も高い中期、後期は「受かれば儲け物」。
共通一次試験導入前は、「一期校が不合格ならば二期校」という受験で、少なくとも浪人は免れ、また大学の序列が曖昧だったので合格した二期校にプライドをもって進学することもできました。
けれども、国公立大学の入試が事実上1校しか受験できないとすると(中期・後期は少ない定員と高倍率で「受かれば儲け物」なので)、経済的理由で国立大学への進学を望む受験生とて、この方式ならば、浪人したくなければ私立大学も受験せざるをえないことになります。
そして、国立大学に不合格になると、浪人を選ばずに、奨学金という名の学費ローンを借りて私立大学に進学する、という道を辿ることに(共通一次試験創成期はバブルの時代で、就職は楽勝、そして就職すれば問題なく奨学金が返済できる時代でした)。
早慶上智」「MARCH」「大日本帝国」と、私立大学が注目されるようになったのは、共通一次試験導入後の80年代でしたよね。
共通一次試験導入の意義から考えれば、私立大学も共通一次試験のシステムに参加することによって、毎年悪問・奇問を量産していた入試問題作成やら入試の実施という面倒くさい作業から解放され、研究や教育に資源を振り向けることができたはずなのに、何故それをしなかったのか?
それは何と言っても、個別に入学試験を実施した方が受験料が入るから、でしょうね。
2年ほど前のエントリーでも書いたのですが(慶應がセンター利用入試を廃止する前)、

大学 一般入試受験料 センター利用入試受験料
早稲田大学 35,000円 20,000円*1
慶応大学 35,000円*2 19,000円

※1 文化構想学部は 30,000円
※2 医学部は60,000円

受験料が、余りにも高額だとは思われませんでしょうか?
不思議なことに、早慶に限らず私立大学の受験料は皆こんなものです。
「センター利用入試」の方が受験料安くなっていますが、これこそ暴利を貪っているのですよ。
国立、私立関係なく、センター試験の結果を各大学が大学入試センターに請求する時に払う金額は、受験生一人あたりたったの「570円」なんですよ*3!それに人件費、事務費等を上乗せしたとしても、「センター利用入試受験料」が20,000円、19,000円とはね!
そんな暴利を貪っていながら、私立大学にとっては「一般入試」の受験料を払って受験してくれるお客さまの方が余程有り難いのですから、一般入試はやめられない、センター試験利用入試の定員は増やしたくない、ということなのでしょう。
受験生の立場に立って言うと、そもそもセンター試験を受けるために受験生は、

3 教科以上を受験する場合 18,000 円
2 教科以下を受験する場合 12,000 円

の受験料を払っているわけなんですけどね。
受験生にとっては受験勉強が一元化され、受験料を何校も払わなくてもよい、統一入試のシステムが望まれたわけですが、結局私立大学にとっては、そういう受験生の立場よりも、とにかく大量の受験生を集めて受験料収入を集めることが何より大事であったから、センター試験の全面利用を最後までやらなかったのではないか、と思います。
センター試験を全面的に入試に取り入れることによって、大学の序列化に組み込まれてしまうことを、私立大学は恐れた」とも言われています。
でも、現実の結果はどうでしょうか。序列化を免れるどころか、どっぷり組み込まれているように見えます。
早慶の上位学部に限って言えば、センター利用入試であろうが一般入試であろうが、入学してきた学生の中には「東大落ち」「一橋落ち」「東工大落ち」が溢れているではありませんか。
彼らを「◯◯落ち」ではなく、最初から第一志望の大学として惹き付ける策は、私立の名門早慶にもなかったのか?
もし、センター試験利用で合格した学生上位100人は授業料免除、奨学金として生活費も給付、という制度があったとしたら、首都圏だけでなく日本中から優秀な学生が集まるのでは?
その分、父親や祖父が慶應、早稲田出身で自分の母校に子どもや孫を通わせたいと思っている家庭には、枠を作って今よりもうんと高い授業料を払ってもらえばいいのです、私立なんだから。
アメリカでも、ハーバードやイェールに合格しながら、リベラル・アーツ系の大学の奨学金付き合格を選ぶ学生も少なくないですよね。
ちなみに、「アメリカの大学のアドミッション・オフィス」がやっているのは、そういうことですよ。収入が低い家庭の超優秀な子どもが全額奨学金付きで入学を許される一方で、伝説的に優秀だった父親(パパ・ブッシュ)の息子である、伝説的に出来が悪かった息子(ジョージ・ブッシュ)が何故名門Yale大学に入れたのか、それは「レガシー」枠だったと思われます。

アドミッション・オフィス入試というのは、本来は、単に「一芸入試」をするところでも、高校時代の特別な活動を評価するところでもなく、如何にして一人でも多くの優秀な生徒を入学させるか、を理念をもって行うところなのです。
日本の私立大学は、長年このアドミッション・オフィス入試というものに正面から取り組んでこなかったのです。
それは、ただ大量の受験生を集めて莫大な受験料をかき集め、安くはないけど頑張れば払えなくもない、江戸時代の年貢のような授業料を取ったり、附属高・系列高を作って、スポイルされた学生を確保する方がずっと簡単だったから、です。
それが、大学世界ランキングで慶應も早稲田も残念な結果になっていることに結びついてはいないでしょうか。
大学の世界ランキングで上位の大学で、先ず「附属高」とかから入学者を大量にとっている大学なんてあるでしょうか?
まあ、これもレガシーと言えばレガシーですけど、今の状況を続けるのならば、世界ランキング上位は諦めるしかないですね。





で、センター試験廃止後は、基礎レベルと発展レベルに分かれた「達成度テスト」(仮称)になるそうですが、ニュースや新聞ではなく、教育再生実行会議という、メンバーを見ると、とても「教育」という国家百年の計を論ずるメンバーにしては迫力不足ではないかと思うのですが、このびみょーなメンバー構成の機関が出した提言そのものを見ると、結局はこの「達成度テスト」も、センター試験と同様、国立大学は二次試験で個別に試験ができるようですし、私立大学には強制されてはおらず、全く元の木阿弥どころか、「基礎レベルと発展レベル」に分かれて意味わからんというか、単に複雑になっただけではないかと思います。

そんなことなら、センター試験は当面このまま残して、運用をこれからの時代に合ったもの、在るべき社会を目指すものに変えてから後、試験そのものをいじればよいことなんじゃないかと思います。
試験そのものと、運用とは全く別のものです。
バカロレアにしてもAレベルにしてもアビトゥアにしてもSATにしても、それぞれ、高等教育を受ける学生を選抜する試験として、「こうあるべきである」という国としての理念があります。翻って、日本国のそれが、基礎レベルと発展レベルに分かれた「達成度テスト」である、というのなら、それはそれでいいでしょう。
しかし、その試験が、私立大学の入試には実質使われず、国立大学を序列化するもので、トップの大学に合格して入学できた者以外は、皆、入学前から「◯◯落ち」「Fラン」と屈託を抱かなくてはならないような運用がされるのならば、そもそも試験を変える意義ってあるでしょうか。
また、東大のみに優秀な学生が集まり、その優秀な東大生といえども、ハーバードやイェール並みの学生寮があるわけでもなく、満員電車に揺られて通学する、という情けない環境なのですし、「入試制度を変える」というのならば、受験生、大学生の立場に立って、在るべき大学環境を作るためには、入試制度をどう運用すればよいのか、を考えてほしいと思います。


実は、先日、生「下村文科大臣」をお見かけしました。
言うまでもなく、下村大臣は、共通一次試験以前の世代であり、共通一次試験についてもセンター試験についても、どれだけのご見識があるのか、甚だ疑問なのですが。
SP一人連れて某大学の近くを歩いていらっしゃったのですが、周りの大勢の大学生が、誰一人として「現職の文科大臣が歩いている」ことに気付かなくて(ガタイのよいSPの方が目立っていたかも)、気付いたのは、「会うとわかっていれば、山本太郎ばりに、私もお手紙を渡して直訴すればよかったかなぁ〜〜」と後悔している、共通一次世代のオバサンこと、私だけのようでした。

*1:http://univ.howtolearn.biz/gakuji/gakuji_10.html

*2:参考:「これまで説明してきたように、各私立大学はさまざまな入試方式を採用していますが、その内容については大学によって異なります。しかも一般入試以外の入試方式は募集定員が少なく高倍率になりやすいため、容易に合格できるわけではありません。 私立大学受験の際は、あくまで募集定員が多い一般入試(主に3教科型)を念頭において受験対策を行い、自分の学習状況や受験計画 に合わせて合格チャンス拡大のために他の方式を活用するよう心がけましょう。」「親としてこれだけは知っておきたい大学入試の基礎知識 東進予備校」より

*3:https://www.google.com/url?q=http://www.dnc.ac.jp/modules/file/index.php%3Fpage%3Dvisit%26cid%3D76%26lid%3D866&sa=U&ei=kZh9UoqZL8iQrQflz4H4Bg&ved=0CAgQFjAA&client=internal-uds-cse&usg=AFQjCNGi0IMwDGBEMjqjF-5Pm3-ezstu-w