某事件について

SNSで出会う、ということ

被害者と加害者が出会ったのは、SNSfacebookだと言われています。
「『facebook』は実名だから安全」と言われていたのではなかったのか?
確かに、twitterだと書かれているプロフィールが真実なのか偽なのか、確かめる術はありません、「なりすまし」さえあるくらいですし。
相手のツィートを気が遠くなるほど遡り、プロフィールを裏付ける交友関係などで察するしかありません。
それだって、不確かなものです。
ツィートさえ、本人の本音なのか、twitter用に偽装された本音か、区別をつける術は、読み手にはありません。
でも「実名」で登録するfacebookでは、書かれていることは事実だと思い込まされていた部分が、誰にもあったのではないでしょうか。
「実名」でfacebookをやっていた加害者は、高卒フリーターであったのに、私立大学生だと名乗っていたそうです。
「実名」であっても、いくらでも経歴を詐称できること、facebookの「基本データ」のところに真実とは違う経歴を書くことは可能なのだと、facebookの全ユーザー、特に未成年者はわかっているのか?
大人なら、もしくは、判断力のある人間ならば、「友だち」のところをざざっと見れば、それが真実なのか、限りなく嘘くさいのか、わかると思います。
もし「基本データ」に「大学生」とあるのならば、「友だち」のところには、同じ大学の友人が並び、これは多分サークル関係なのかな、という面々が並び、大学は違うけれども年齢が一緒であるはずの高校時代の友人、またバイト先の友人らしい面々が並んでいなければなりません。
「写真」を見れば、大学のクラスでの飲み会(未成年はここでアルコール飲料飲んでいる写真は出しちゃいけない)かな、とか、それこそサークル旅行の写真とか、また家族や家庭が透けて見える写真があるはずです。
「基本データ」で偽りの経歴を書くことはできても、偽りの大学の友だちを揃えることやら、大学生活の偽装はできないと思うのが、大人の判断ですよね。
被害者はそれを見抜けなかった。
被害者本人だけの問題ではありません、彼女じゃなくて他の誰でも、たった18年にも満たない人生経験では、他人の悪意や邪悪な思惑を見抜くことはできないんですよ。
「偽のプロフィールを信じたのが馬鹿だ」と言うのならば、男女問わず彼女の年代の中でどれほどの割合が、偽のプロフィールを見破れるのでしょうか?
あなたの、ティーンエイジャーの娘や息子は見破れますか?
あなたが、今ティーンエイジャーだったとしたら、見破れますか?
男女問わずティーンエイジャーの半数以上が、書かれたプロフィールを「そうなんだ」と素直に信じ込むと思いますね。
だって、彼らはまだこの汚い世の中を知る前だから。
とすると、大人は今まで余りにもこの問題を等閑視してきたのではないでしょうか?
「この問題」とは、人類が初めて手に入れたSNSという新しいもの、便利なものだけれども使い方によっては計り知れない危険性も秘めているものを、子どもに野放しに開放してはいなかったでしょうか?
お酒や煙草は、健康に良くないことや依存症になることがわかっていますが、他方、リラックスするための一つの手段と見なす見方も尊重して、年齢制限がかかっています、「毒と思うのか、リラックスの手段と思うのか、判断できるのは大人になってからだ」ということでしょう。
車は、移動手段として画期的に便利なものであるけれども、運転時に必要とされる判断力や道路交通法を理解する能力が絶対的に必要なので、免許がなければ運転できませんし、免許取得にも年齢制限があります。
大人である私たちは、自分たちにとっても初めての玩具のようなSNSに夢中になっていて、それがティーンエイジャーに使いこなせるものなのか否か、ということに関して考えることを、後回し、見て見ぬ振り、にしてきたのでは?
大人でさえ、SNSで炎上して、人生が破滅している人はいくらでもいますしね。
今からでも遅くないことは、SNSに年齢制限をかけること、ではないでしょうか。
それは、21世紀の初頭のこの数年間で、新たに世の中に表れたSNSというものに関して、この時代を生きている大人としての責任なのでは?
でも、この汚い世の中、失礼、「子どもたちの未来のために」と莫大な税金を使うオリンピックを誘致するこの世の中は、その一方で、子どもやティーンエイジャーさえをも、SNSのユーザーとして、あらゆる商売に取り込むことをやめはしないでしょう。
サービスのユーザーを増やすためには、子どもやティーンエイジャーを取り込むしかないんですから。
失礼ながら、スマホどころかガラケーもPCも使わない大勢の高齢者をサービスユーザーに取り込める可能性がないですからね。
どのSNSも国境を超えてユーザーが存在するのですから、一国だけ年齢制限できるはずもない。
そもそもどうやって、どこに、SNSに年齢制限を設けさせるよう働きかけたらよいのかもわかりません。
ですから、これからも同じ悲劇は起きるかもしれません、否、必ず起きるでしょう。
寧ろ、今回の事件の詳細報道で、「実名が基本のfacebookでも、経歴は詐称できる、それに騙されるティーンエイジャーがいる」ということがわかってしまい、悪用するユーザーが現われることを懸念しています。




子どもにスマホを与える、ということ

今年の1月に、アメリカの或る母親が13歳の息子にiPhoneを与える時に書いた「契約書」がネットに公開され(母親が自分で自分のブログに書いたからなのですが)、日本語にも翻訳され、話題になりました。
その時には、「母親が過保護である」「そこまで干渉する必要はない」「この母親は気持ち悪い」という意見も多く見られたのですが、今回の事件で、この「契約書」を思い出しましたよ。
被害者が、もしスマホを与えられていなかったら?と思いました。
与えられるにしても、あのアメリカの母親と同じように、親と契約書を結んでいれば、どうだったか。
被害者がスマホを持っていなくても、PCでfacebookには入れるから関係ない?
いいえ、PCとスマホでは、「手軽さ」が全く違います。
手元にいつもスマホがあり、facebookにも簡単にアクセスできたからこそ、憎むべき加害者とfacebook上で遭遇する可能性が高まったのでは?
そもそもスマホ以前の問題として、ザッカーバーグハーバード大学でのあの夜、facebookのアイディアを思いつかなかったら、今回の事件は絶対に起こらなかったでしょう。
facebookなくして、どうやって、お互いに何の接点もない、東京の高校生と、京都のフリーターが知り合えるのでしょうか?
facebookは素晴らしいですよ、昔の友人に再会できるし、遠くに離れている家族の近況がわかるし、従来は他人に知らせるまでもなかった自分の身の回りのことや個人的意見にも「いいね!」と共感してもらえる(ような気がする)。
でも、「facebook疲れ」というか、facebookが本来は意図も想定もしていなかった方向へ流れてしまうユーザーが大勢出て来ているのではないでしょうか?
それは、自分のことを簡単に語りすぎること、わたし/ぼくはこれをやった、これを食べた、誰と食べた、ここに行った、誰と行った、わたし/ぼくってこんな人間、こんなわたし/ぼくを見て!とばかりに、facebookに病的(従来比)にポストする人たちの方向です。
そういう病的に、偏執狂的に、わかりやすく言えば、「誰も頼んでいないのに」自分を語ってみせること、それを表す写真を頻繁に載せること、それを簡単にしたのは、スマホスマホスマホ!なんですよ。
スマホがなければ、もしPCからだけの接続でfacebookをやるのならば、「facebook疲れ」というものもなかったかもしれません。
スマホというものが世の中になくてPCからだけの接続ならば、全世界の全facebookユーザーの投稿は現在の10分の1?100分の1?もっと少なくなる?
被害者がスマホを持たず、例えばPCしかネットに接続できる手段がなければどうだったか?
PCでしか、SNSに接続できなかったらどうだったか?
あれだけ頻繁に自分の写真をブログに載せていたかどうか。
表のマスコミは報道できないような写真を撮って送っていたかどうか。
彼女が10年、いえ、5年早く生まれてきていれば、SNSスマホが世に出現する前に、ティーンエイジャー時代を終えられたことでしょう。
つまり、彼女だけが特別ではないのです。
世間知らずで、思慮が浅く、ワガママで親や先生や大人の言うことは聞かず、自己顕示欲が強い女の子なんて、今も昔もいくらでもいます。(白雪姫は毒リンゴを食べてしまいましたし、眠りの森の美女は触ってはいけない糸紡ぎの錘を触ってしまいました。)
でも、今まではそういう子たちの手には、恐ろしいスマホはなかったし、SNSもなかったのです。
無事に過ごせたのは、ただそれだけの理由です。
ちょと前までは、世間知らずで、思慮が浅く、ワガママで親や先生や大人の言うことは聞かず、自己顕示欲が強い女の子でも、危険で無防備なティーンエイジャーの時期を生き延びることができたのです、スマホがなかったから。
今や電車に乗れば、座っている人も立っている人もほぼ全員がスマホをいじっている光景は珍しくありません(除く、スマホを持たない年配の方)、特に若い世代は100%スマホが常に手にあります、まるでスマホが左手にくっついているかのように。
これは文明と技術力が進歩した輝かしい結果なのか、途轍もなく危険で異常なことなのか、私たちは考えたこともなかったのではないでしょうか。
反省をこめて振り返りますが、我が家では、当時としてはかなり早い時期に子どもにスマホを与えました。
息子が大学2年生、娘が高校2年生だったと思います。
息子は遠くで暮らしているので彼の日常は伺い知ることはできませんが、帰省してくる僅かの日数の間でさえ、絶えずスマホで情報をとり、友だちと連絡をとっていることはわかります。
身近にいる娘に関して言えば、決定的な影響は、他のことをやる時間がスマホに奪われる、ということです。
PCを立ち上げて調べるまでもないことでもスマホなら簡単に検索できるのでついつい検索してしまう、そのついでについつい他のサイトも見てしまう、てなことをやっていると、家にいる時間はどんどんスマホに消費されていきます。
一番影響を受けたのは、読書をしたり、のんびり何もしない時間、です。
読書に関しては息子も同様で、我が家の数少ない教育方針で、小さい時から息子にも娘にも本を読み聞かせ、図書館に通い、本好きの子どもたちであったはずなのに、二人とも読書量が激減しましたね、だって時間がないのですから。
PCだけの時代には、まだ通学時間などの移動時間とか空き時間には本を読んでいたわけですが、それも「とりあえずスマホ」に代わりました。
のんびりする時間、何にも邪魔されずに静かに過ごす時間も、今の時代には尚更とても大事だと思いますが、スマホがあれば、その時間さえ「とりあえずスマホ」になってしまうのですね。
「勉強している時には電源を切っている」と娘などは言っていましたが、人間です、しかもティーンエイジャー。
勉強が上手くいかない時、学校でむしゃくしゃすることがあって心が満たされていない時、親よりも友だちよりも格段に身近にスマホがあれば、手に取ってしまうのが自然でしょう。
そして、一旦手に取ってしまえば、電源を切るのはいつになることか、強い自制心がなければダラダラとスマホに身を任せてしまうのも自然でしょう、そういうものなのです、スマホは。
もし、自分がティーンエイジャーだったとしたら、必要な時だけ電源を入れ、用事が終わったらさっさと電源を切って、勉強なり読書なりを続けるでしょうか?
無理、ですよね。
それなのに、今、子どもたちに野放しに与えているのです。
一部には、子どもにスマホを与えることの是非に関して議論が起こっていますが、多くの親は大人は、知らぬふりをしているのが現状です。
私は、私が子どもの頃はSFの中のものだったような新しいデバイスが今現実になっていることに感動しますし、使いますし、これからも新しいものが出たらその技術の恩恵を試してみたいと思っています。
でも、今回のような事件が起こり、それについて少しばかり考えてみると、スマホを年端もいかない子どもに与えることは大人の責任としてどうなのか、と思ってしまいました。
文科省は、入試制度や英語教育やらを改革することに熱中しているようですが、小学生からスマホを持ちSNSに接続することが普通になった場合の弊害、というか、学習や人間関係に及ぼす影響について本気で調べて手を打ってほしいものです。
技術の成果を教育に生かすこと、例えば紙の教科書や問題集をやめてタブレットで最新の学習内容をわかりやすく教えることなどは早急に実施されるべきですが、スマホという危険なおもちゃが、家庭での学習時間や読書の習慣を奪い、人間関係で大きなストレスを子どもにもたらしつつあることを理解することが先決ではないでしょうか。




警察の対応が不十分であったか、ということ

事件が報道された直後、「警察の不手際」がこの手の事件のお約束のように言われました。
確かに、過去の類似の事件では、「警察の不手際」としか言いようがないことが原因で、被害者は命を落としました。
しかし、事件は一つ一つは別のものです。
今回は果たして、「不手際」と呼べるものであったのか?
当初、憶測を含めて警察の「不手際」と言われていたことが、時間が経つにつれて、実際の様子がわかってきました。
加害者がfacebookで経歴を偽っていたこと、上京直後にナイフを買っていたこと、警察が電話を入れた加害者のものとされた電話番号は実は友人のものであったこと、被害者に安否確認の電話を入れた時には既に加害者は被害者宅に潜んでいたこと、などは、犯人逮捕後にわかったことであり、これを把握していなかったことを、警察の「不手際」とか「落ち度」とか言えるのか。
報道でも出ていましたが、被害者から警察にストーカーの相談をした場合、先ず警察が加害者に事実を確認して、その上でストーカー行為が止まなければ「警告」がなされます。
この「警告」は、勿論「前科」にはなりませんが、警察に記録は残ります。
被害者の立場に立てば、記録が残ろうと自業自得、ですが、冷静に考えると慎重さも必要です。
私も娘がいますから、被害者の立場はものすごく理解できます。
酷い精神的苦痛を受け、身の危険を感じているのだから、本当ならばすぐにでも逮捕してほしいところで、記録が残る「警告」でさえ物足りないところだけれども、何かしてもらわないことには安心できないから、「警告」でも何でもしてほしい、と被害者側は思うのです。
でも、一方私には息子もいます。
男の子を持つお母さんたちと、以前話したことがあるのですが、こういう場合はどうなのでしょう?
男の子が誰か女の子を好きになって、付き合ったけど、一方的にフラれて、すぐには未練を断ち切れずに、何通かメールも送った、着信拒否された、気がついたら彼女の家の近くまで自転車で来てしまった、というような場合(以上はあくまでも仮の話です)、これを即座にストーカー認定されて、記録が残る「警告」をされてしまったとしたら?
女の子でも同様です。
ストーカーの加害者は男性ばかりではありません。
女の子がSNSで知り合った男の子を好きになった、自分を良くみせようと経歴や写真を偽った、付き合いかけたけれども一方的にフラれた、SNSもブロックされた、どうしても諦めきれずに彼が通う学校の校門で待ち伏せした、その前に駅前のコンビニでふらふらとカッターナイフを買ってしまった、というのは、記録が残る「警告」をされても仕方ない危険なストーカーになるんでしょうか?
痛ましい事件の後では、とかく警察の対応に批判が起きますが、上述のようなケースについても、記録が残る「警告」が簡単に出てしまうことは、果たして良いのか悪いのか。
更に、根本的なことを言うと、記録が残る「警告」が警察によって為されれば、加害者(とされる側)は、目が覚めて気持ちを整理することができるのでしょうか。
「恋愛」と「ストーカー行為」とは、断じて一線を引くべきものであると思います。
でも、それさえも難しい。
森見登美彦の「夜は短し歩けよ乙女」の主人公は、一目惚れをした乙女と「偶然の出会い」とするために、乙女を追いかけてあちこちに出没しますが、警察的にはこれはセーフなんでしょうか?
乙女が警察に相談に行き、警察が電話で確認しても止めなければ、「警告」されるのか?
「恋愛」と「ストーカー行為」の間に一線を引いたその上で、「恋愛」の範囲でも、やってはいけないこともあるでしょう。
しかし、「恋愛」の範囲であっても、頭が熱病状態になっている人間に、例えば、「記録に残る『警告』を受けたら、その後の人生において、就職や結婚の時に不利益になるかもしれない」という一種の「脅し」がどこまで通用するのか。
ましてや、「恋愛」の範囲を超えて、狂気じみた妄想の域に入っている人間には、全く抑止力にならないのではないでしょうか。
警察の「不手際」というものがあったとしたら、それは理性が効かない「ストーカー」という状態に陥っている人間に、警察が脅しをかければ従う、と信じていることかもしれません。
優秀な日本の警察であっても、それは出来ないことなのです、過去の例でも同様です。
寧ろ、過去の例から言えることは、「警告」や「安否確認」なんかじゃなくて、警察がやるべきことは、とにかく物理的に被害者を守ること、ただそれだけではないでしょうか。
加害者を思いとどまらせること、目を覚まさせること、更正させることを、警察ができると思う方が傲慢です。
死刑制度がある日本ですが、人を一人殺しても死刑にはならないのです、今回のように計画性、残忍性があろうとも。
そんな社会なのですから、警察がすべきことは、とにかく被害者を命の危険から守ることだと思います、被害者にとってはそれも今となっては虚しいことでしょうが。




親子関係、について

亡くなった被害者は、加害者との交際の事実は両親に話していたようです。
父親は、加害者に直接「娘につきまとうのをやめてくれ」と申し入れているそうですし、警察へは両親と被害者本人で相談に行ったそうです。
ストーキングがかなりのレベルまで達していたから、ということもありますが、少なくとも被害者と両親の間にコミュニケーションはあったということです。
この報道を読んで、変な言い方ですが、私は少しだけほっとしました。
何故なら、娘の同世代の女の子で、付き合っている彼氏のことを親に言わない子は沢山いるからです。
それこそ友だちも公認、嘗てはmixi、今はfacebookに彼氏とのプリクラ写真も載せている子のお母様が、「ウチの娘は、恋愛には興味ないみたいで、彼氏はいないのよ。」と言っているのを、何人も聞きました。
ましてや父親なんかは、蚊帳の外の外の外の宇宙の果て、でしょう。
でも、被害者は無邪気だったのか、親には絶対的信頼を寄せていたのか(どんな場合でも自分のことを受け容れ守ってくれる)、母親だけではなく、父親にも話していたのですね。
それだけが、この事件の僅かな救いにみえました。
事件が起こるまで、親は一切を知らず、事件が起こってから全てを知る、という方がどれだけ残酷なことか。
被害者を非難するような報道も色々とされていますが、親御さんだけは、例え被害者を擁護する最後の二人になっても、徹底的に亡くなった被害者の側に立って、受け容れてあげてほしいと思います。
被害者は最後まで、両親だけを頼りにしていたのですから。

驚いたことには、加害者も事件を起こした直後、加害者自身の母親にメールしていると、報道されていました。
加害者の母親が出したコメントによると、加害者の母親は、加害者が被害者と交際していたことも、今年になって交際を断られたことも、そしてその後もまだ被害者に対して未練を持っていたことも、知っていたようです。
加害者側のことですから、「これが救いだ」などとは言いませんが、息子を持つ日本の母親で、20歳過ぎた息子とこのようなことまでコミュニケーションをとっている母親がどれだけいるのか。
知っていながら息子を諌めることも止めることもしなかったのは、例え加害者が20歳を過ぎていようが関係なく、「母親としての責任放棄」として断じて責められるべきだと思います。
事件が起こって後悔するくらいだったら、折角息子が話してくれていたのだから、母親としてできる手だては何かあったはずです。
しかし、息子がストーカーになっていることを知らなければ、未然に事件を防ぐこともできないわけです。
では、日本の文化的には馴染まない、「息子と『彼女』の話をすること」というものが自然になされるようにするには、どうしたらよいのか?
それは、ずっと小さい頃からの、親子の間の人間関係から作っていくしかない、と思い至ります。
幼稚園の頃だとまだ、「クラスで好きな女の子いるの?」と聞けば、ためらいなく教えてくれるでしょう。
その頃の親子関係を続けなくてはいけない、ということなら、それはなかなかに大変なことです。
お尻叩いて塾に行かせることの、何百倍もの大変さです。
前述の、アメリカで息子に「13歳の息子へ 新しいiPhoneと使用契約書」を書いたJanellさんですが、その「契約書」の内容の中には、以下の条項がありました。

・他の人にあなたの大事な所の写真を送ったり、貰ったりしては行けません。笑わないで。あなたの高知能でもそういうことがしたくなる時期がやってきます。とてもリスキーなことだし、あなたの青春時代・大学時代・社会人時代を壊してしまう可能性だってあるのよ。よくない考えです。インターネットはあなたより巨大で強いのよ。これほどの規模のものを消すのは難しいし、風評を消すのも尚更難しい。

・写真やビデオを膨大に撮らないこと。すべてを収録する必要はありません。人生経験を肌身で体験してください。すべてはあなたの記憶に収録されます。

今読み返すと、これは「過保護」でも何でもなく、親として至極当然なことを息子に言っていたのだと思います。
勿論、これは「13歳の娘」にも伝えるべきことですが。
13歳の息子に伝えなくてはならないのは、iPhoneに関することだけではありません。
女の子を好きになるということはどういうことなのか、恋愛は一方的な気持ちだけではどうにもならないということ、仮に失恋したとしてもまた素敵な女の子が絶対に現われる!ということを伝えなくては。
幼稚園卒園から7年後、13歳の息子に、幼稚園の時に聞いていたように、「好きな女の子いる?」と、日本の母は聞けるでしょうか。
13歳まで頑張って、そういう何でも言い合える親子関係を作っても、まだまだその先、困難な道が待ち構えています。
でも、そこで逃げてしまったらいけないのだと思います。
家族の中ですら、お互いに干渉しないことが一番ラク、親の側は見たくないものは見ない、子どもの側は見せたくないものは見せない、という状況は、気がついたら間違った方向に進んでいる子どもを未然に引き戻すことさえできなくなるということを、常に頭に入れておかなければならないのだと思いました。
我が家の子どもたちは幸いなことに成人していますが、もし私が、今10歳になったばかりの子どもを持つ母親ならば、これからこの世の中で生きて行かねばならない子どもたちのこれからを思って、震えてしまうでしょう。
何と大変な時代なのでしょうか。







「後味が悪い」なんていう言葉ではすまないほどの、衝撃的な事件でした。
全く関係のない立場にいる人間である私でさえ、何かものすごい精神的ダメージを蒙りました。
スマホSNSやネットが世の中に表れてからこの10年くらいの間、積もりに積もった世の中の、最低最悪の醜い部分がまとめて白日の下に晒された感じです。
上に書いたことだけではありません。
加害者は高校を卒業して3年経っているのに無職(アルバイター)ですが、それはこの時代には何の不思議もないことのようです。
一昔前ならば聞かれたであろう、「その歳でちゃんと職を持っていないからそんなことをしでかすのだ」というようなオヤジ的意見さえもう聞かれません。
加害者の母親が外国人らしいということでの、読むに耐えない人種差別的発言。
マスコミが表向きには「女性を活用する時代」とか言いながら、本当は根深い女性蔑視。
絶壁に立たされていた被害者、そして加害者、取り返しがつかない失敗をした被害者と加害者を、親以外で精神的に救済するもの、例えば宗教とか、コミュニティとか、がもうこの日本にはないという現実。
(加害者は人一人の命を奪っているのに、今の法律では死刑になることなく15年もしたら釈放になるらしいのですが、彼の心を救済に行く僧侶なり神父なり牧師なり、または責任もって彼を引き受ける親戚のおじさんなりはいないのが、この時代です)
大人でさえ押し潰されそうなこの状況の中、子どもたちやティーンエイジャーはこの事件をどう受け取ったのか。
子どもたちにも、ティーンエイジャーにも、目も耳も、ネットも、そしてスマホもあります。
大人と同じように、いいえ、大人以上にこの事件に関する情報は、子どもにもティーンエイジャーにも入っていることでしょう。
それでも大人が、この事件に関して口を噤んでいるとしたら、彼らはそれをどう受け取るでしょうか。



被害者にはとても酷な言い方になりますが、現実に起こったこの事件を、今の世の中全体に対する戒め、とするしかないのではないかと思います。
被害者によく似た、無邪気で大切に育てられた、世間知らずのティーンエイジャーの女の子が、無事にこの世の中を生きていけるように、親は、この事件を元にして話さねばなりません、「あなたにも起こる可能性があること」だと。
男の子には、人を好きになることは悪いことではないけれど、恋愛は自分の思い通りにはいかないこともある、だからと言って卑劣な真似をして相手を苦しめることは男として人間として最低である、苦しい時には誰かを頼ってもいい、親も常に側にいる、と理解させねばなりません。


被害者はナイフで刺されて命を落としましたが、本当の意味で彼女が終わりを迎えたのは、加害者が動画や写真をネットにばらまいた日だったかもしれません。
被害者は予想できていたかは今となってはわかりませんが、それらがネットでばらまかれた瞬間、彼女の女優としての未来も、半年後に始まるはずだった楽しい大学生活も、現実的には潰えてしまっていたのです。
自分が犯した過去の過ちとはいえ、あのあどけない笑顔の被害者に、これからの人生、決して消されることのないその過ちを背負って生きていくことができたのか、と思うと、「生きていればこそ」という綺麗事は余りにもむごくて、とても私には言えません。
ネットなどない時代ならば、どこか遠くの外国の、どこか遠くの町でひっそりと暮らせたかもしれませんが、この時代ではとてもそんなことはかないません。
彼女が今いる場所が、無邪気であっても、過ち多き罪深い人間であっても、赦され、心安らかに、静かに過ごせる場所であることを願うばかりです。
ご冥福をお祈りします。



このエントリーに関しては、コメントはご遠慮させて頂きます。
議論するつもりはありません。
ネットの海で偶然このエントリーを読んでくださった方だけが読んでくださればよいと、検索されそうな固有名詞は全て避けたつもりですが、もしお気づきの点があればご指摘ください、公開はできませんが。