大学入試に関する日経新聞の記事を読んで ③ 入試制度はどうあるべきか?

大学入試に関する日経新聞の記事を読んで ① 東大の「秋入学、春卒業」に関して

大学入試に関する日経新聞の記事を読んで ② リベラルアーツは日本の実情に合っているのか?



上記の①で、最初に挙げた日経新聞の記事の順番とは逆になってしまいましたが、最後に先週月曜日から木曜日まで4日間朝刊1面に載った「大学開国 第五部 入試は変わるか」について。

記事をまとめてみると

・一発勝負の入試は、現状小数点以下の争いになっており、問題である。
・20年前に始まったAO入試は、今「AO入試離れ」が起こっている。
・高い理念を高校教育で掲げても、結局は一発勝負の入試対応になってしまう。
アメリカのアドミッションオフィスによる入試では見られる「女性枠」や「スポーツ枠」「芸術枠」は日本では受け入れられていない。


ということでしょうか。

全ての論点に関して、その原因はただ一つ。日本人の感覚として「一発勝負が一番公平な入試である」ということが厳然としてあるからだと思います。試験当日運悪くインフルエンザで高熱が出ても「健康管理も入試のうち」と見なされ、受験番号をマークミスしても「それも受験のうち」。センター試験こそ追試がありますが、国立の二次試験でも私立の入試でも、どんな理由があれその年の入試を受けられなかったなら浪人するか他の大学を受験するしかないのです。誰にも可能性がある突発的な病気やミスさえ酌量を許さない、この信仰にも近い「一発勝負が一番公平な入試である」という考えはどこから出てきたのでしょうね。日本には「科挙」なんてなかったはずなのに。でも、「一発勝負、例外無し」のシステムが日本人に一番納得できるものだったからこそ、長年入試のメインの部分を占めてきたのだと思います。

日本人は情緒的な国民です。「同一条件下での一発勝負」という選抜方法でなければ、逆に様々な情緒的な理由で合否が決まってしまうのではないか、決めてしまうのではないか、と思ってしまうのです。。「母子家庭で頑張っているから」「親もまたその親も卒業生だから」「兄や姉も入学しているから落ちたら可哀想だから」「二浪していて崖っぷちで可哀想だから」「本学のためになるから(寄付金、スポーツ、芸術等々)」という理由で続々と入学者が決まりそうだと予感しているから(こういう理由で入学が決まっても良いと思いますが)、一発勝負に拘るのではないでしょうか?
こういう話を聞いたことがあります。ハーバード大学のアドミッションオフィスには、SATが高得点どころか満点でおまけに「ハイスクールで生徒会長してました」という生徒がわんさか出願してくるので、SATの点数では選別できない。では、どうやってSAT満点元生徒会長のキモチ悪い集団である生徒をふるいにかけるかと言うと、例えばその年にハーバードのオーケストラのコンサートマスターをしていた学生が卒業するので後釜が必要である、ということでSAT満点の学生の中から、バイオリンのコンクールで入賞した生徒を抜き出し、それでも数十人いたりすると、その中から今度は「女性」「マイノリティ」を選んでいく、といった方法を採るそうです。それと同じようなことが、フットボールや新聞部や、色々な分野で行われているのでしょう。日本人はこのような入試を受け入れることができるでしょうか?超優秀だけれども家庭の経済状態が悪い生徒には莫大な授業料全額をほぼ奨学金で賄えるようにする一方、きっちり満額授業料を払った上に寄付をしてくれる生徒も一定数入学させる。そういう選別が良いか悪いかは別にして、アメリカ人はそのシステムを受け入れているけれども、少なくとも今までの日本人は受け入れられなかったのです。「アドミッションオフィス」という「密室」によって行われる選抜よりも、「試験当日の一発勝負」に賭ける過当な競争のシステムの方を良しとして引き受けてきたのです。
一つには、前述したように自らが情緒的であるからこそ、「アドミッションオフィス」が「密室」になるのではないか、と疑心暗鬼にかられてしまうから、でしょう。もう一つには、受験戦争とか、その弊害とか言われても、塾や予備校の受験産業が隆盛を極めていることからわかるように、日本人は努力が好き、で、努力がそのまま分かり易く報われるシステムが好きなのです。日本人の努力好き、それは美点です。入学試験当日から逆算して計画を立て(今は専ら塾や予備校がこの作業をやってくれますが)、コツコツと段階的にタスクをこなして、ポケモンのように進化を重ね、そして試験当日に努力の結果を発揮する、というのが好きであり得意なんです。だからこそ、コンマ何点の差で入試に落ちても(そして開示でそれを知っても)、異議を申し立てたりする受験生はほぼ皆無なのです。


日本人が、「元々が情緒的な気質だからこそ、入試には潔癖とも言える公平さを求める」ということと「目標を設定して努力するのが好きで得意である」ということはそう簡単には変わらないと思うので、日本ではこれからも「試験当日一発勝負」形式の入試が「入試の王道」であり続けるのではないか、と私は思うのです。で、それはそれで良いと思いますし、簡単には変えられないでしょう。


しかし、「一発勝負」の試験にも究極のところで「密室」は存在しますよね。東大の入試の場合は、センター試験の点数を圧縮するので、「『コンマ何点』で落ちた」ということが開示でわかったりしますが、普通の入試でもボーダーラインには同点で何人も、場合によっては何十人も並ぶことは予想できます。同点の場合はどうするのか?
大昔予備校の国語の教師が言っていました。その教師は、国立大学の文学部を定年退官して予備校の講師をしていた方だったのですが、長年入試問題を作っていたとのことで、「ボーダーラインには同点で何十人も並ぶんやぞ。どうやって合格者を決めるかわかるか?内申書なんて見いへん。大体◯◯高校のオール5と△△高校のオール4(と実在する高校の名前を挙げた)、どっちが賢いねん。決められへんわ。何で決めるかゆうたら、『学校の名前』。歴史ある名門校の生徒を合格にする。名門校に行く意味はそこ。」とのたまいました。真偽のほどはともかく、実際はどうやっているのでしょうね?その教師が言った通り、高校間に格差があるのは事実ですから確かに内申書で判断出来ないでしょうし。やはり「学校の名前」?しかし「名門校」の顔ぶれも時代と共に変わります。往年の名門校が落ちぶれる一方、新しい名門校になる学校もあるわけで。それを世間に疎い大学の教官の「自分の若い頃の感覚」で決められたらたまりませんが、日本の「当日一発勝負」型の大学入試の願書は、受験生が個人的なことを記入するのは、名前と住所と生年月日とそれまでの経歴くらいで、アメリカのアドミッションオフィスに出す願書のようにエッセイとか、自分をアピールする欄とか全く無い訳ですから、大学側も「学校の名前」くらいしか判断する材料がないのも事実かも?と思ったり。このように点数至上で公平且つ透明であるはずの一発勝負入試でさえも、受験生には見えない「密室」はあるのです、受験生も親も世間もそれには気付かないフリをしてはいますが。
そもそも、「公平」と言われる「一発勝負の入試」以前に、背景に既に公平でない状況が生まれていることにも気付くべきでしょう。高度成長期のように受験生が塾や予備校に通うことなく皆が皆学校の授業と自学自習で受験勉強をしていて、一斉に「赤尾の豆単」とかを覚えていた時代と違って、今は親の経済状態に依って受験にかけられるお金の額も上下する時代であり、受験というゲームが始まる以前に大きなハンディが生まれているというのに、「完全に公平な一発勝負」というのはもう過去の幻想になっているのではないでしょうか。
長く続いた「一発勝負」信仰を急に変えることはできないでしょうから、これからもそれが入試の中心になるとしても、同時に大学側はゆるゆると他の入試方法を試行錯誤していくことも諦めることなく続けるべきだと思います。
何故なら、「一発勝負」入試を中心に据え続けるとしても、AO入試、推薦入試、帰国子女入試、スポーツ枠、女性枠、等々、他の選択肢も諦めずに大学側が試してみることによって、相対的に「一発勝負」入試に対する信仰も低下し、大学側はどのような選抜制度ならば欲しい学生を効率的にとれるかがわかってくるでしょうし、受験生側も「一発勝負」以外に自分に合った入試システムがあるかもしれないと少しだけ広い視野を持てるようになればよいのです。
先ずは、センター試験を複数回受験できるようにする、とか、センター試験を1回受験したら得点は3年間くらい有効にするとか、から始めてはどうでしょうか?それだけでも、受験生の思考は全く変わってくると思いますし、進路の選択の幅も広がると思いますが。


日経新聞の記事にもあるように、慶應SFCが日本で初めて導入したと言われるAO入試ですが、20年経ってSFC以外の大学では退潮気味のようです。それはAOで入学した学生が、大学側の期待を下回る結果しか出さなかったからだそうです。ということは取りも直さず「アドミッションオフィス」が機能していなかった、平たく言えば「見る目がなかった」だけなのではないかと思いますが、理由はそれだけではないでしょう。私見ですが、これはAO入試に原因があるのではなく、AO入試と同じように、普通の受験シーズンよりも半年くらい先に合格が決まる推薦入試で入学した学生の学力が、「一発勝負」入試で入学した学生よりも低いと言われているのと同じ原因ではないでしょうか?AOで出願できるくらい特別な才能があったあり課外活動をしていたり、推薦基準を満たすために定期テストを手抜きすることなく捨て科目を作ることなく頑張ってきた高校生が、人間の心理として、高3の11月に念願かなってAOやら推薦で大学の合格が決まったら、その後3月の卒業まで睡眠時間削って勉強を続けるでしょうか?2月〜3月に行われる一般入試の受験生も、受験が終わったら春休みを解放感の中で過ごすのです、遊んで当然でしょう。そこで問われるのは、AOや推薦で入学半年前に合格が決まった生徒に対して大学での勉強にどうモチベーションを持続させるか、という大学側の手腕であるわけです。片や、特別な才能もなく「当日一発勝負」に賭けるしかない受験生は、「入試を突破して合格する」というモチベーションの下、冬期講習、直前講習と予備校や塾に通い詰めなんですよ。その間に既にAOや推薦で合格した生徒とのいわゆる点数上の「学力」の差ができるのは当たり前。それを見越してのAO入試であり、推薦入試だと思いますけど。寧ろAOや推薦で入学したポテンシャルのある学生を生かせていないのは大学側に問題があるのでは?と思わされます。結局合格から入学までの約半年間、彼らの能力を育てるシステムがないだけなのです(・・・これって東大の「秋入学」の半年の「ギャップターム」とやらの末期の姿になる気がしますが。)。ですから、その点をもう一度整えた上で、制度としてのAO入試は、日本の入試に導入されて漸く20年経ってやっと認知してもらえるところまで来たのですから、大学側もここで踏ん張ってこれからも存続してほしいものです。


九州大学理学部数学科が断念した「女性枠」については、時代的に少し早すぎた、ということではないかと思います。今は認知されなくてもこれで諦めてほしくありません。10年後、いえ5年後にはまた世間の見方も変わるのではないかと思いますので、再びチャレンジしてほしいところです。入試の時点での点数だけを尺度にして「女性だからと言って枠を作って優遇するのは『逆差別』だ!」という今現在の批判には、「長い目で見て、女性の研究者・教育者を育てることこそが、共に学び研究する男性研究者・教育者の視点を広げ、全体的な研究のレベルを上げ、そして新たに優秀な受験生を呼び込むことになる。」と反論し、コンセンサスを作って頂きたいですね。
「スポーツ枠」は「推薦」という形も含めて私立大学ではそこそこ成功しているのではないかと思います。国立大学でも導入すればよいと思いますけどね。東大が野球で、京大がアメフトで、「スポーツ枠」で学生を入学させたら、一番わかりやすい意識改革になるのではないでしょうか。東大野球部が東京六大学リーグで優勝し、京大アメフト部が甲子園ボウルで優勝すれば、在校生は勿論卒業生も共に欣喜雀躍、言を弄さずとも「スポーツ枠」を認めるでしょうし、何より、「一発勝負」入試で入学する学生だけでなく多様な才能を持った学生を入学させること、いわゆるdiversityは大学に必要不可欠であることが世間的に認知されるのではないかと思うのです。この日経新聞の連載の中でも、開成高校の校長先生の言葉として紹介されていますが、「公平でないかもしれないが、目的が正しければ公正だと考える。」という考え方が、受験生や世間から認められるように、大学側が努力することが求められていると言えます。


高度成長期には機能した日本の厳しい受験戦争ですが、21世紀になってそれが機能しなくなっているのです。今の受験生は高校生活を犠牲にした上で高度成長期よりも遥かに長い期間膨大な量の「受験勉強」を強いられ、受験産業はありとあらゆる情報と手段を提供しているのにもかかわらず、大学側から見れば欲しい学生が入学してこない、というのは、日本という国としても壮大な悲劇ですし、誰もが報われないシステムなのです。
この連載の最後もこう締めくくられています。

受験戦争が厳しいこともあり、日本人は入試に極端なほどの潔癖さを求める。だが、公平性を意識しすぎると、一見客観的な点数への依存が強まり、永遠に入試は変わらない。大学に国際標準を求めるのであれば、社会の入試観も変わらざるを得ない。

大学が試行錯誤しながら改革を模索しているのですから、そこに子供を送り出す親の方も、自分が受験した頃の経験や入試観に捕われることなく、新たな視点でこの問題を考えるべきではないか、と考えさせられました。